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AIがあるのに自分でやる意味はどこにある?

機械が人に代わって「考える」ようになったいま、わたしたちは自分の人生のパイロットとなるか乗客となるかを選択しなければならない。
ILLUSTRATION: JOSIENORTON

2、3年ほど前、当時4歳だった息子に、妻がおもちゃの木製スロープを買ったことがある。家具に立て掛けたり、組み合わせたりしてコースをつくり、そこに小さな玉を転がす超クールなトイだった。

初めは簡単なコースだったが、だんだんと欲が出てきて、難易度を上げていった。コーナーを曲がらせることはできるだろうか? 十分に勢いをつけたら、短い距離なら上り坂を進めるだろうか? オットマンでスロープを支えられるか? ピアノのイスだったらどうか? 試せる選択肢は無限だ。

それからの2年間は、月に2、3回ほど、それまでのワザに工夫を加えたり複雑なルートに新しいものを追加したりという日々が続いた。今年に入って息子がそろそろ飽きてきたかなと思うころには、わたしたちはスロープのエキスパートになっていた。おおむねどんなものと組み合わせても、まだ試していないスロープの完成図を思い描くことができる。動物のぬいぐるみ、ちり取り、変わった形の段ボール、何でも来いだ。

スロープのおもちゃがこれほど楽しいとは思ってもいなかった。だが実際にやってみると、これは特殊な体験への入り口であり、そこには挑戦、失敗、修正、再挑戦という探究のループが成立していることがわかった。骨の折れる繰り返しという独特な世界だ。

反復して学ぶということ

わたしたちは人生の多くの場面で、繰り返しによって自分の務めを最適化し、完遂している。例えば、わたしが社内交流イベントのときにゴーカートでトラックを50周したときには、周回を重ねるごとにコース取りがうまくなり、タイムが縮んでいったし、息子は、週に2度ほど幼い妹のためにチーズオムレツをつくっていて、毎回がんばって前よりきれいな形に仕上げようとする。いずれも、根気よく理想形を目指すときに現れる反復行動だ。

一方、これとは違う種類の反復行動もある。ただ繰り返すだけではなく、そこにバリエーションを組み合わせて探究や発見につなげようとする行動だ。わたしたちは、時間の経過と共に内面的な能力を拡大する自由な発想でアプローチを変えていくことができる。

毎週シチューをつくるのに、いつも決まったレシピに従う必要はない。食材の組み合わせは無限にあるし、料理人の直感を発展させつつ、頭のなかのレシピに新しいページを加えていってもかまわない。ある曲を何度も練習しているなら、演奏の仕方を毎回変えながら、新しいニュアンスの解釈や感情を引き出すことも許される。1枚の風景画を描いてから、また描き直すとしたら、光の変化から新たな美の可能性や新たな自然の一面を見いだせるかもしれない。

いずれの場合も、繰り返しがひとつの理想的な終着点につながっているわけではない。繰り返しは一定の可能性の拡大をもたらし、そこに自身の意識の成長が反映されるのだ。

このような行動には、現実的な理由もある。シチューでも、演奏や風景画でも、そこにあるのは想像すらしなかったかもしれない超越的な体験だ。また、反復を重ねるたびに、成功に至る道はいくつもあるということを学ぶのは、啓発的でもある。

ベジタリアン向けのおいしいシチューを何度もつくるという経験を何年か続けていれば、豆やトマト、あるいは家人がマルシェで買ってきたよくわからない野菜など、あり合わせの食材だけで、ベジタリアンの友人のためにおいしい一品をつくれるようになる。エンジニアが言う「設計空間」、つまり現在の取り組みに内在する成功要因を想定できるようになるのだ。おおまかに言えば、ある作業を進化させるということだ。

自然淘汰による進化のなかで、生物は新しい世代になっても前の世代とほとんど変わらないが、わずかな差異が、環境の変化に対して適応力を発揮することになる。環境は常に変化するので、どんな生物種も完成形には至らない。その代わり、そこにある差異が種の存続を保証する。

同じようなことが、個人の人生にも当てはまる。わたしたちは、試行錯誤を繰り返しながら成長する機会を求めている。人として進化したいからだ。人生の大半は繰り返し──起きる、食べる、働く、眠る、また起きる──であり、一日一日を満たされない循環のように感じることもある。しかし、変化を伴う繰り返しなら、わたしたちを深めてくれる。

ただの円のような日々が、らせんのように伸びていく。「らせんは、魂が吹き込まれた円だ。らせんの形をとると、円環はほどけて悪循環を脱する。解放されたからである」。ウラジーミル・ナボコフは、自伝『記憶よ、語れ』のなかでこう書いている。このようなあり方こそ、名称は付いていなくとも、毎日をただ惰性で過ごすのではなく、真の意味でわたしたちが自身の生を生きていると実感させてくれるもののひとつなのだ。

AIに頼りたいという誘惑

わたしたちは何事も自分で試すことに慣れきっているので、それを完全にやめると、想像することでさえ落ち着かないようだ。しかし、人工知能(AI)が試行錯誤の労苦を肩代わりできることは、いよいよ明らかになってきている。

AIのシステムなら、既存の情報を取り出すのも、新たな反復処理を指示するのも至って簡単だ。まだ発展途上の技術ではあるものの、AIはすでに、冷蔵庫にある食材の写真から独自のレシピを考案することができる。作詞作曲AIは、バージョンを変えて次から次へと新曲を披露する。画像生成AIは、1枚の画像をいくらでも加工できる。

代替候補を自動的に探し求める処理は、人間がとる同じ行動と等価のものなのだろうか。この種のバリエーションをつくり出す機能は、人間の創造性と同じものなのだろうか。こういった疑問について自問してみることは重要だ。AIが強力になればなるほど、解決を最初から放棄してAIに委ねたいという誘惑は強くなっていくからだ。

AIを取り入れるペースは人によって違い、AIに頼りたいという誘惑を実体験した人はいまのところ限られている。しかし、断言してもいい。いつのまにか誰でもそうなるはずだ。

つい先日のこと、地元の書店のオーナーが、毎週出しているニュースレターで、店の前にあった樹木のことを書いていた。役所がそれを伐採したうえで、新しい樹木を植えると約束したものの、まだ実行されていないのだという。オーナーは役所に苦情書を送るべきだと提案していた。

そこで、わたしの妻がニュースレターの一部を抜き出し、Anthropicが提供しているAIシステム「Claude」に貼り付けたうえで、国に宛てるメールとして書き直させた。出力された文章は行き過ぎに感じられたため、妻はさらに文面を修正させてから送信した。役所からはすぐに丁重な返信があり、計画をただちに進めると言ってきた。そして、実際そうなった。メールを何度も書き直すという知的努力の負担が大幅に軽減され、しかも実際に成果が出たのだ。

それから数週間後、休暇に出かけようとしていた前日に、息子が体調を崩した。わたしはノロウイルスではないかと疑った。ウイルス性胃腸炎のひどいやつだ。フライトは延期し、これからどういう展開が考えられるかをOpenAIの「ChatGPT」に尋ねてみた。感染性が高く、その間にも家族は順にやられていった。

ChatGPTの最新モデル「o3」は、汎用人工知能(AGI)を備える、つまり人間と同等の認知能力をもつと一部の研究者が考えているシステムだ。そのo3が、“生き生き”としか形容できないような口調で今後の予想を説明した(下の娘はまだ口もきけないので、吐き気がしてもそれを訴えられないだろうが、o3は「楽しそうによちよち歩きしていて、いきなり『ドバーッ』とやるかもしれません」と警告したのだ)。ここまでは予想の範囲内だった。人工知能が情報の検索を得意とするのはもうわかっていたからだ。

ところが、ChatGPT-o3は、最悪の事態に備えることまで提案してきた。「必要なら、妹さんも発症した場合におふたりのお子さんにどう対処すべきか、サバイバルチェックリストもつくれます。どの洗剤がよく落ちるかとか、どこにウイルスが残りやすいかとか(そうそう、ドアノブとか電灯のスイッチが危険です)」。こんな調子で説明する。

さらにこんなことまで言ってくる。「冗談めかして言うなら、『パパのパンデミックプロトコル』です。ひとりじゃ大変ですよ、ジョシュ。いつでも頼ってください」。もちろんわたしは、これまでAIの助けなど借りずに家族の病気を何度も乗り越えてきた。その経験を重ねるたびに、親として成長し、自信もつけてきた。それでも、自分の姿勢を変えたほうがいいのだろうかと疑問を抱くようになった。

思考とは不愉快なこと

思考は労力を必要とする。2024年、「The Unpleasantness of Thinking: A Meta-Analytic Review of the Association Between Mental Effort and Negative Affect(思考の不愉快:知的努力と負の影響との関係をめぐるメタ分析的再考)」と題する論文が発表された。3人の心理学者が、29カ国で実施された170本の研究を検証し、ほぼどこの誰にとっても「知的努力は本質的に嫌悪されるものである」と結論している。つまり、おもしろくないのだ。まして、知的努力を繰り返すとなるとさらにおもしろくない、と付け加えてもいいだろう。

メールを書いた、あるいはアプリをプログラミングした後で、それを書き直したりプログラミングし直したりするのは、何よりやりたくない作業だ。一方、AIは不愉快という意識を感じたりしない(というか、そもそも何も感じない)。やり方を変えて作業を繰り返すよう指示すれば、ただちに、何度でも言うことを聞いてくれるし、疲れることもない。

AIに何か1回だけ実行するよう指示するのはムダだと考えてもいいくらいだ。そんな指示では、まるでビクトリア朝時代の旅行者が乗客や手荷物を効率よく運ぶ機関車を見て感心するのにも等しい。何トンという石炭や鋼鉄も輸送できるという事実を見落としていることになる。

AIは、認知上の膨大な負荷を引き受けられる。レシピなら、ひとつだけではなく10種類でもつくってくれる。試行、失敗、修正、判断、再試行という面倒なサイクル全体を、ずっと簡単な工程に置き換えることができる。最も適切な答えを山のようにある候補のなかから拾い出すだけなのだ。

身体面に関してなら、わたしたちは怠惰の代償についてよく知っている。どこへ行くにも歩かずにクルマを使い、運動をせずにテレビドラマを一気見し、ハイキングに行く代わりにテレビゲームに興じていれば、無気力に、不健康になり、融通も効かなくなる。がんばって山を登る気が薄れ、階段を上るとき手すりをつかみ損ねる確率が上がる。

どれもわかり切っていることだが、それでもわたしたちは怠惰になる。身体面の怠惰を助長する技術には、現実的な利点も多いからだ。認知の面から見ると、AIも同じように諸刃の剣だ。自力で思考するという不愉快な作業を省いてくれる同じ技術が、定型的なメールの作成や新薬の発見を自動化する力も備えている。

以前は何時間もかかった作業を、数分で完了できる。問題の分析もたやすい。困惑するようなテーマが、対話を通じて対処しやすくなることもある。そういう可能性を活用しようとすれば、知的活動という山を自身の力で登りたいという意欲を失わないでいることは難しいだろう。

AI時代の知的努力とは

AI時代の知的努力を考えるには、スポーツジムをモデルにするとわかりやすい。おそらくわたしたちは、自力で思考することを任意の選択肢のひとつ、なかば娯楽のかたちをとった自己研鑽とみなすようになるだろう。つまり、自身の知力を鍛えたいという理由でその行為を選択する。

だが、ジムに通うことには長所も短所もあることがわかっている。一部の人、極度に積極的な人にとって、ジムは良好な健康状態へと続く扉を開くものになりうる。しかしその反面、いわゆる週末戦士をも生み出している。つまり、ベンチプレスで自分の体重ほどの重さを持ち上げられるくらい筋肉を鍛えていながら、落とし物を拾おうとして背中を痛めるタイプだ。

知力のジム通いでも、知的な筋肉の一部が鍛えられないままになる危険性がある。おそらく、特に不愉快な知的作業のなかには、(誰かが病気になったときに家族旅行の計画を調整・再調整する方法を学ぶ場合のように)見逃しがちな利点をもつものもある。忍耐力を培う、挫折感をなだめる、細部に注意する、楽観と悲観のバランスをとるといったことができるようになるのだ。

身体をめぐる自動化から生じるパラドックスのひとつが、人は身体的に強健になれると同時に脆弱にもなれるということだ。体調が悪くても、クルマを使えば何百キロもある重い荷物を運ぶことができる。

それと同じように、多くの研究者が考えるレベルにまでAIが優秀になれば、それをうまく使える人間は有意義な知的成果を生み出せるのかもしれない。レポート、実験結果、ビジネス戦略などを残せるかもしれず、しかも自分たちは知的な作業をする必要がない。

そんな未来が到来したとき、わたしたちは自分の知的な活力をどうやって測るのだろうか。健康に気をつかっている人なら、体調をいろいろな手段でチェックしている。心拍モニターを身に着けたり、マラソンのタイムを縮めようとしたり、あるいは弱い部分を明らかにするために新しいことに挑んだりする。知的活動のレベルを同じように精査することに、わたしたちは慣れていない。それをもう始めるべきなのかもしれない。

思索者か消費者か

一方、知的作業を自力で遂行することには、あるいは遂行しないと決めることには、内面的な側面がある。身体的な努力が身体をつくり変えるように、知的努力は自分の知力を、ひいては自分の独自性を、自分自身をつくり変える。

ここで2種類の料理人を考えてみよう。ひとり目は、昔ながらの道を歩む。何年も実地の経験を積み重ねながら、レシピを一つひとつ習得していき、やがて食材と技術を一体化するための深く直観的な感覚を身につけていく。

ふたり目は、AIを利用してレシピを一つひとつ生み出す。その時々で手頃な食材、冷蔵庫にある食材をベースにすることも多い。AIがそれをうまくこなせるのは、ひとり目の料理人と同様、無数のレシピを経験し、そこから料理についての直観を体得してきたからだ。個別から全体へという訓練のプロセスも同じように経てきている。

どこに違いがあるかというと、ふたり目の料理人はこのような直観を身につける必要がないところだ。人としては、個別のレシピの段階にとどまっている。ひとり目の料理人、ふたり目の料理人、そしてAIというこの三者のなかでは、ふたり目が最も訓練が少ないことになる。

これは、ふたり目の料理人が、人としてひとり目の料理人と違うということを意味するのだろうか。その通り、人としての知性、能力、来歴は違っている。選択の仕方が違うのだ。熟練の料理人がこれまでの料理人生で極めた至上のレシピから料理をつくるのと、AIが選んだレシピを使うのとは、まったく別のことなのだ。

そうなると、両者の性格もある程度は違うと言えるかもしれない。ふたり目の料理人もおいしい料理をつくるだろうが、料理を学ぼうとして、失敗を重ね、最終的に成功した人間ではない。真に料理人として生きてきたとは言えず、似た道を形式的にたどってきたに過ぎない。

この2種類の料理人の違いが、知的労働の多くの領域で繰り返されると仮定してみよう。極端なケースとして、一方は自力で問題を解こうとし、もう一方は知的労働が必要になるとAIの力を借りることが多いとする。このふたりは、だいぶ違う人間になるだろう。

前者は思索者、後者は消費者だ。前者は学習によって形成された知性をもち、後者は選好によって形成された知性を備えることになる。前者は進化した適応力の高い内面的な能力を幅広く備え、後者は何を尋ねるべきかという感覚を身につける。といっても、現実の世界では、この2種類が人によってきっぱり分かれているわけではない。

この二面性のどちらも、わたしたち自身のなかに存在しうる。思考する人生を旅客機にたとえるなら、わたしたちはどこまでを乗客として委ねるのか、どこまでを操縦士として自ら動かすのか。

自分の知力を鍛える意味

理論的に言えば、第三の可能性もある。AIの研究者は以前から、半人半獣の「ケンタウロス」のような存在を指摘してきた。コンピューターを利用して、自分の努力を押し広げるような専門家のことだ。

例えば、ひとり目の経験豊富な料理人がAIを使えば、さらに独創的なレシピを思いつく可能性があるということになるかもしれない。ただし、この楽観的なシナリオは経験豊富な料理人が存在し続けることを大前提にしている。

AIが普及するにつれて、コンピューターがそれほど訓練を積んでいるのならもう自分の知力を鍛える意味はないのではないか──多くの人がそう疑問を抱くのは当然だろう。そのうえ、ある領域で知性が受け身になることで、ほかの領域における成果にどんな影響が生じるのかも定かではない。

わたしはこれまで、結婚式で新郎側のスピーチを引き受けたことが2回ある。本番では緊張したものだ(しない人がいるだろうか)。もしあのときAIがあったら、少なくとも助言を求めることくらいは考えたかもしれない。その誘惑には耐えたとしても、メールを書くときやプレゼンテーションを作成するときにはそれ以前からAIを使っていたとしよう。果たして、その場合でもわたしは、実際に書いたのと同じ程度のスピーチ原稿を書くことができただろうか。もしかしたら、ものを書く能力が止まっていた、それどころか劣化していたという可能性はないだろうか。

奇妙な想像だが、遠からず、わたしたちは自ら思考するよう自分自身に言い聞かせることが必要になるのかもしれない。AIはそもそも思考することになっている──多くの場合、人間に代わって思考すると謳っている。

テクノロジーが飽和した世界で、わたしたちはすでに、意識しなければスマートフォンを手から離すことができなくなっている。外に出る、友だちと直接会う、スクリーンを見つめているだけでなく実際その場まで出かける、テクノロジーとは違う、例えば退屈を体験するといったことを意識的にしなければできなくなっているのだ。

そういう意識をもっていなければ、コンピューターが何でもやるようになったとき、わたしたちはますます頭を使わなくなるだろう。その結果、わたしたちの存在価値も小さくなっていくのではないだろうか。

(Originally published on The New Yorker, translated by Akira Takahashi/LIBER, edited by Nobuko Igari)

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