教育ジャーナリストのおおたとしまささんが上梓した最新刊『21世紀の「男の子」の親たちへ』(祥伝社)。開成・灘・麻布に始まり、栄光学園、海城、芝、修道、巣鴨、東大寺、桐朋、武蔵といった名門男子校の教師たち16人より聞いた様々なアドバイスを、おおたさんの経験を通して分析し、まとめた一冊だ。
本書より抜粋して紹介する「今」大切な男子教育。第1回は反抗期について、第2回は失敗の大切さについてお伝えした。第3回の最終回は親も学校もとまどいがちな「性教育」についてお伝えする。
第1回「開成・灘ら名門男子校教師の提言『くそばばあ』と言われたらこう答えよ」はこちら
第2回「開成・灘ら名門校教師たちが警告『朝、親は子どもを起こしてはいけない』」はこちら
「勘違い性教育」は早期英才教育と同じ
2018年には世界中で「#Metoo」のムーブメントが盛り上がりました。ハリウッドの大物プロデューサーが、自分の立場を利用して女優たちに性的関係を強要していたことが明るみになったことが発端です。
日本でも官僚や政治家あるいは教員らによるセクハラ事件が頻繁に報道されています。被害女性の心中は想像するに余りあるものがありますし、そのような輩には、同じ男性として強い憤りを覚えます。一方で、「分別の付かない年頃でもあるまいし……」と嘆きたくなるような情けない気持ちも湧いてきます。
「子供たちにもっと具体的な性教育が必要」という声もこのところ大きくなっていますが、子供たちの前に、大人たちにこそ性教育が必要な状況だといえるのではないでしょうか。そもそも子供たちに性について本当に大事なことを語る資格のある大人が、どれだけいるというのでしょうか。
性教育とは、単に性行為の方法や避妊の方法を教えることではないはずです。なんでもオープンに話せばいいという問題でも、早ければいいというものでもありません。子供の発達には段階があり、発達とともに感受性が増します。そのときどきの感受性にあわせたコミュニケーションが必要です。発達段階を無視した性教育は、早期幼児教育と変わりません。
たとえば「りんご」の色、形、重さ、手触り、香り、味、そもそもどんな木にどんな季節にどんなふうに実るものなのかなどの〝実感〟なしに「りんご」という言葉だけを覚えさせることは大人の自己満足にすぎませんよね。
表面的なセックスの知識では伝わらない
同様に、性がひとの愛と尊厳とに深く関わる問題であり、秘めればこそ尊いものでもあり、かといって恥ずかしいものではなく、むしろ神聖な概念であることを、実感と信念とをもって伝えなければ、本当の性教育とはいえません。
しかも性とは、そもそも言語化できないものの最たるものですから、テキストや言葉で伝えきれるものでもないと思います。時間をかけて少しずつ、子供の血と肉に染み込ませていくしかありません。
アメリカの心理学者が著した『パッショネイト・マリッジ』という書籍に次のような一節が出てきます。
子ども達に性欲とエロティシズムの相互作用を示すことができなければ、どうやって年齢と成熟が性的に有利に作用することを伝えればいいのだろうか?
子ども達に初体験を遅らせてもらいたければ、セックスがどんな存在になり得るかを子ども達が理解する助けになるような、意味深い理由を説明しなければならない。
セックスにはテクニック以上のものが含まれていること─それによってどんどん進展してゆくものだということ─を示さなければならない。
(中略)
子ども達にこう言える親は、ほとんどいない。「お父さんとお母さんは、もう二十年もセックスし続けてる。でも、やっと上手くできるようになったばかりだ。長い時間がかかるのだよ。慌てることはない」多くの人は、性的な最盛期に到達しない。到達する人も、四十歳、五十歳、六十歳台になるまでは到達できない。本当に意味深いセックスは、生理的な反射作用よりも、人間的な成熟度によってもたらされる。
このことをつゆとも理解していない大人が、表面的にセックスについての知識だけを語っても、おそらく子供たちの心には何も響かないでしょう。
アダルトビデオの性は本当の性か?
かつてであれば「エロ本」や「エロビデオ」というメディアでしか触れることのできなかった「コマーシャルセックス(商業化された性)」に、現在はスマホで簡単に触れることができてしまいます。
それが本当の性とはまるで違うものであることを、説得力をもって伝えることができますか?実際に面と向かって言葉で伝えるかどうかは別として、少なくともそう言える実感と信念をもっていますか?
桐朋中学校・高等学校の数学教師・荒井嘉夫先生は、例年高3の通常の授業の枠組みのなかで、頃合いを見計らって生徒たちにある雑談をしかけます。「アダルトビデオのなかのセックスが、本当のセックスだと思うか?」と問いかけるのです。男性の屈折した妄想によって過激に演出された世界を映像化したアダルトビデオを見て、それがセックスだと勘違いしてしまう男子生徒が多いことから、もう 20 年以上前に始めた十八番の雑談です。
荒井先生が教育専門誌に寄稿した記事から、一部を引用します。
たとえば、好きな女の子に告白するとき、ラブレターを書くときには、いくら言葉を刻んで記しても想いを十分には表現できないものです。しかし、心を込めて言葉を綴った文章は、言葉で伝えられることを伝えるのと同時に、言葉では伝えられないことも伝えてくれます。身体に触れるというのも、直接は触れることのできない心に触れるということでもあります。そっと、やさしく触れ合う。ぎゅっと抱き合う。その繊細さ、感受性が大切だと思います。こんな話を、具体的な例とともに語っていきます。言葉で、身体で、心で、語り合い、触れ合い、コミュニケーションし、愛する。
理想的過ぎるかもしれませんが、そういう話も必要だと思っています。
生徒の「セックス観」がどのように形成されていくのかは、人と人との繋がりを考えるとき、とても重要なことだと思っています。それは、人を「愛する」ということと深く結びついています。さらに、そのことは、自分がどう「生きる」かということについて、心の奥の基盤になっていると思います。そのことを時代はないがしろにしているのではないでしょうか。
セックスを正当化するわけでもなく、汚らわしいものとして排除するのでもなく、愛や生きることと結びつけて話します。セックスがセックスという行為だけでは完結しないということを考えさせます。セックスがいかに根源的で神秘的で高潔な人間活動であるかを説いているのです。
世界で一番好きな人とセックスをしたい
記事には続きがあります。生徒たちからの感想が掲載されているのです。一部を引用します。
先生はこうもおっしゃいました。「心と心は直接触れ合うことができない。だから、お互いに、言葉と言葉で触れ合い、身体と身体で触れ合う。セックスもね」これも、やはりセックスは延長線上にあることを示していると思います。好きで好きでたまらない人と理解し合いたい、お互いに愛し合っていることを伝えたい。(中略)やはり、自分は世界で一番好きな人とセックスをしたい。
この話を聞いたときに、私は強い感銘を受けました。自分がいつか最愛のひとに捧げるセックスという行為が、好奇心や錯誤からやすやすと汚されてはならないという意識を、思春期の男の子たちに感じてもらうことは大変意義深いと思いました。ただし、この雑談は高3向けで、荒井先生の感覚では、中3や高1では早すぎるのだそうです。
このような性教育を行なうには、その前提として、大人たちが人間的な成熟に伴う性的深化を経験していなければなりません。しかし残念ながら、大人であってもセクハラをするひとやパートナーとの性に向き合えないひとには、そのような信念も実感もないのでしょう。子供たちの性の乱れを危惧するのなら、少なくとも大人が自分の胸に手を当ててみる必要があります。
大人が自分たちの性と向き合うことなく、コンビニの有害図書を排除したり、インターネット上の性的表現に制限をかけてみたところで、効果は限定的でしょう。
(注:先生の所属先は話を伺った当時のものです)
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