「勉強できるからフェミニスト」ではなく
私は有名人ではないので、単刀直入に自己紹介から始めます。
私はいわゆる「ロスジェネ」世代で、大学院(哲学専攻)を出たものの正規職員の仕事に就くことができず、ほぼほぼ女性の非正規労働者として今まで過ごして参りました。労働賃金で生活を賄えない分は、時には生活保護を利用しながらも、働きながら生きてきました。
そのような立場から、女性の労働問題や貧困問題について語り、時には任意団体のネットワークや、NGOなどの運動団体に関わりながら行動してきました。そしてそのような自分の思いや活動をまとめた『ぼそぼそ声のフェミニズム』(作品社)という本を今年5月に出版しました。
「フェミニスト」とは特段資格が必要なものでもないので、「私はフェミニストである」と自分が名乗ればフェミニストです。というわけで、私は自分のことをぬけぬけとフェミニストと名乗っています。自分のことをフェミニストだと思っているし、自称している、そんな人間です。
私がなぜ自分をフェミニストだと思っているかというと、割と小さな頃から「女だからこうすべき」とか「女はバカにしていい」とか、「女は可愛くないといけない」といった考え方や言説に対して「なぜ? 違うんじゃない?」と疑問に思っていたから、という、ただそれだけの理由です。
ですから、フェミニズムを大学で勉強したからとか、ジェンダーの専門家だからとかいう理由ではまるでありません。
ちなみに初めてフェミニズム、さらにジェンダーという言葉を知ったのは、かつて不登校だった高校生時代に、神奈川県・江ノ島にあった女性センターで、当時お茶の水女子大にいた江原由美子さんの「フェミニズム講座」を、主婦に混じって聞きに行ったというのがきっかけでした。
フェミニズムとの出会いが不登校の時期だった私の場合、例えば自分が勉強ができたり、仕事ができるからという根拠で、「女をバカにしてもいい」という言説に対して「違う!」と言ってきたわけではありません。
「たとえ自分が〈鈍臭くてバカ〉であっても、それは〈女だからバカだ〉というのとは全然違う。私はそもそも見た感じがいわゆる女らしくもなく、〈ブサイク〉だ。だけど人間は〈バカ〉で〈ブサイク〉であろうと、誰でも最低限の尊重が必要だ」
という意味あいにおける「フェミニスト」なのです。
「性差別意識」は誰にでもあるから
とはいえ肝心なのは、そのように「フェミニスト」と自称する私の主張とその生き様が、実際に何を生み出すかですし、「フェミニズム」という思想にただの一つの瑕疵もないとも思っていません。フェミニズムは、私にとっては生きていく糧であり、それゆえに批判も疑問も全力で投げかけてきた、そういう存在なのです。
例えばフェミニストの中には『フェミニズムはみんなのもの』(”Feminism for everybody”)という本を書いたベル・フックスという女性がいます。
彼女はいわゆる「黒人」、アフリカ系のアメリカ人です。彼女は従来のフェミニズムが白人中流階級の女性中心であったことを批判し、フェミニズムはそのような白人女性だけではなく、性差別と闘う全ての人のものであることを説きます。
そして、男性への怒りを表出することだけがフェミニズムではなく、女性の側や、自分自身の意識の中にも巣食う性差別意識と闘うのがフェミニズムであると語ります。フックスは、フェミニストとなって一番最初の具体的な闘いの相手は自分の母親であったことをカミングアウトしています。
そういえば私自身、「フェミニズム」を具体的に知る前の10代半ば、街で知らない男性から声をかけられ写真を撮られそうになった(あるいは撮られたのか……そのあたりの記憶は曖昧なのです)後に、母親にその話をしたところ、
「お前に隙があるからいけないのだ」
とひどく怒られたことがあります。
思えば、その私に声をかけた男性が一番おかしいのですが、同時に私に「隙がある」と責めた母親の行為は、今考えると二次加害に等しいものです。
私は母親のことを嫌いではありません。しかし、その男性に怒るのではなく、私を怒った母親の声色は、今でもはっきり覚えています。
フェミニストになるということは、その男性に対して怒ると同時に、性別を問わず、そのような二次加害に追い込む存在に対しても疑問を投げ込む力を持つことなのだ、とフックスを読んだ時に学びました。
「強くて優秀」じゃなくても
そのような観点から、私がフェミニズムに対して抱いてきた疑問、提出してきた批判とは、どのようなものかお話ししたく思います。
そもそも私のような「非正規労働者のフェミニスト」という存在自体、あまりメジャーではありません。
私の初めての単著『ぼそぼそ声のフェミニズム』を、私の尊敬する斎藤美奈子さんが、「朝日新聞」書評欄で「今まで読んだ中で覇気のなさでは1、2を争う」と評してくださいました。
私は改めて「覇気」という言葉を早速辞書で調べてみました。「覇気がある」とは、
(2)野心がある。
という意味、なのだそうです。
みなさんが思う「フェミニスト」は、どんなイメージでしょうか? ハキハキしていて、野心がある人でしょうか。それこそ、
「勉強ができて、大学卒で、仕事もできて、弁が立つ女性」とか、
「夫婦共働きを実践していたり、事実婚で夫婦別姓を主張したりする女性」や、
「フェミニズムを大学で研究している女性」
といったところでしょうか。
もちろん、それは全くの間違いではありません。確かにそのような立場のフェミニストも存在します。特に日本では1980年代以降、学者やキャリアウーマンとしてフェミニズムを主張する女性が目立ってきましたから、その印象は思い込みではないでしょう。
しかし、それゆえにでしょうか。フェミニストであることに資格なんて必要ないにもかかわらず、自分のことを「フェミニストだ」と宣言することには、まだまだ大変なハードルがあるように思えてなりません。
「フェミニストじゃないけど…」と言う理由
単純に、フェミニズムやフェミニストに対して敵愾心を持っている人がいるから、というだけでもないのです。むしろインターネットなどでは、性差別をおかしいと語る人、セクハラへの嫌悪を語る人が増えています。
しかし多くの人は、「自分はフェミニストではないけれど……」とか「フェミニズムを勉強したことはないけれど……」といった前置きをつけて恐る恐る話すのです。
先ほど私は「フェミニスト」と名乗るのに特段の資格はない、という話をしました。しかし実際には、
「フェミニストでなければ、性差別やセクハラについて語ってはいけない」
そして、
「自分のキャリアを確立し、積極的に社会参加していなければ、フェミニストと名乗ってはいけない」
「学問としてフェミニズムに触れた経験がないと、フェミニストと名乗ってはいけない」
という圧力が存在してしまっているのです。
一体なぜ、そしてどこから、そのような圧力が生まれてきたのか。それこそが、私が抱いている「フェミニズムへの疑問」とも言えるかもしれません。
フェミニズムやジェンダーを学問的に修めた「大学卒の女性」のみをフェミニストとして捉えるならば、あるいは、そのような女性だけが「フェミニスト」と名乗ることができると私たちが思わされているならば、それは結局、「フェミニズムは特別な階層の女性だけのものである」と言っているに等しくなります。
私は、そのような状態に疑問を突きつけたい。
一流大学を出ているとか、一流企業にいるとか、あるいは何か起業をしているわけでもない人、この社会の中で政府が期待するような「活躍」をしているわけでもない人、フェミニズムという言葉さえ聞いたことがない人は、フェミニズムの提起してきた問題に無縁なのか? 否、そんなわけがありません。
公共空間における痴漢、レイプなどの性暴力や、家庭内でのドメスティックバイオレンス、家族内あるいは職場内での性別役割分業、性別によって明らかに賃金格差が存在している現状、夫婦別姓の問題、家族内でなぜ姑と妻が「男性」をめぐって対立させられるのか……これらに無縁な立場の女性が、果たしているでしょうか?
「都会偏重フェミニズム」の限界
ウーマンリブ、そしてフェミニズムが問題提起してきたこれらの出来事は、それこそあらゆる女性が一度ならずともぶつかってきた問題です。
しかし、その前に考えたいことがあります。どうしてそもそも「フェミニスト=大学卒の女性」というイメージがあるのでしょうか。もっと言えば、中流以上の階級であったり、都市近郊に住む女性のイメージがあるのは、なぜなのでしょうか。
それはまず、これまでの世の中では、女性に対して「突出してはならない」という規範がものすごく強かったからこそ、男性と伍して、競争を勝ち抜く「突出する女性」をアピールする必要があったからではないか、と私は考えます。少なくとも、そのような「突出を許さない」規範の存在を見逃してはならないと思います。
いまだに企業の管理職や経営層に女性が少ない、あるいは先日の東京医大の入試不正事件のように、こっそりと男性に高下駄をはかせるような採点・採用基準が存在しているといった具合に、日本社会には女性の「突出」を許さない状況があります。
しかし、こうした文脈からは漏れてしまうような、「非大卒のフェミニスト」、「地方在住のフェミニスト」、「いわゆる中流階級ではないフェミニスト」などがいても、全くおかしくはないはずです。と言いますか、実際にはこうした「フェミニスト」も存在しているのに、しかしその「イメージ」が、恐ろしいほど乏しいのです(もちろん、「突出する女性」がよくないという意味ではありません)。
私は高校生のときに女性センターで初めてフェミニズムに触れた、という話を先ほどしましたが、このことを知ったある知人が、
「10代で江原由美子さんの講座に出席していたなんて、都会の子は違うな」
という感想を伝えてくれたことがありました。それこそ、その当時は自分が都会に住んでいるという条件やその特権に気づくことができなかったのですが、自分が「都会」に住んでいることで、そのような「知」としてのフェミニズムに触れやすかったことに、指摘を受けて初めて気づかされました。
そういう地域差や階層差、情報や環境の格差を考えず、都会があたかも「標準」であるように語っていくとしたら、それこそフェミニズムは「都会の人のもの」で終わり、社会を変えるという意味でも、貧弱な力しか持ちえないでしょう。
地味でもいいから、考え続ける
「田舎」と呼ばれる地域のしがらみや人間関係は女性にとってしんどいから、都会に出てよかった、という言説もあります。そしてそれは、女性が自由に生きていくための便法として仕方がないところもあります。しかし、それゆえに「フェミニズムの実践のためには、都会で生きることが前提」となってしまうのは、ズレがあるのではないでしょうか。
ところで、私は今年の5月より『翔んで埼玉』で話題の県の住民となりました。今ここに住みながら、東京でイベントなどを開くより、この「彩の国」で何ができるかを考えるのが今の私の楽しみの一つです。その実践をどのように行っていくかを、またいろいろな形で表現していけたらと思っています。
それこそ「地方自治って何?」とか「地域から政治に関わるってどういうこと?」といったテーマを、場合によっては女性(性自認が女性の方)同士で、ぼちぼち話せるような場所を作りたいと考えています。
私自身は、労働問題や貧困の問題に関わる際に、政治や制度の変革だけでなく、自分の感じていることや疑問を話せる場所をどうやったら作り出せるか考えてきました。そのような場所が都会に偏っているのであれば、今住んでいる場所で何がやれるかを、地味でもいいから考えることが、都会偏重ではないフェミニズムの可能性を作り出していくことにつながると考えています。
みなさんも、「地域で実践できるフェミニズム」「大学以外の場所でのフェミニズム」のアイデアを、考えてみませんか。また、すでになにか実践していることがあれば、ぜひ教えてください。
私にとってのフェミニズムは、自分の知識や経験を開陳することだけでなく、それを分かち合い、いろんな立場の人が活かせるようにすることです。本稿が、そのような知識や知恵や実践を共有するきっかけになれば、これほど嬉しいことはありません。