2024/4/28 9:44
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神武天皇って宮崎から熊襲とかの反乱分子討伐して、本州にいって反乱分子討伐してったわけですよね なんで三重で天照祀ってるんですか? 三重って蝦夷とか熊襲とかの強かった民族に分類されてない 別に対して強くなかった名無しの民族の一つで別に天皇と関係なくない?
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2024/4/30 11:33(編集あり)
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2024/5/5 5:15
神武に対して五瀬命が日向の国の高千穂から西へ向かうことをやめた時に「”葦原中国”を治めるには東に向かうことが良い」と五瀬命が答えたらしいです。日向の国の西方向の内陸で熊襲に対して戦闘中だったかどうかは不明ですが、九州には熊襲が居るのでなので、戦闘繰り返されていたとしても不思議ではありません。神武は畿内では橿原に向かったらしいですね。ところで神武の軍は熊野を経て伊勢の国の国境である錦浦(丹敷浦)まで進んでいることから、故に伊勢の国の国内には入っていないようですが……。それから『先代旧事本紀』の第10巻「国造本紀」の記述から、伊勢津彦が出雲建子命の別名をもつのは、その出自に拠るものであり、つまり伊勢の国の支配者たちは、実は出雲の国がルーツだったらしいです。こいつらは元々は神武と何の関係も有りませんでした。
2024/5/4 9:12
当時はまだ不破の関(関ヶ原)より東は化外の地で異国のイメージだったから伊勢が国の一番東という感覚だったんだと思う。 東端の伊勢から太陽が昇り、天を西征し、西端の日向に沈む世界観。日向に沈んだ太陽は夜に神武天皇と同じ動きで地を東征し、また朝に伊勢から昇る。 だから伊勢に太陽神。 日向が西端なのは、やはり薩摩隼人や熊襲がいる土地は異国のイメージだったから。
2024/5/2 11:35
神武天皇伝説は8世紀に藤原氏の立ち位置でかかれていますので、ほんとうの歴史とはかなり違うはずです。 実際には神武天皇の長男のタギシミミは、腹違いの弟達に殺されて、日向族は滅ぼされています。 かなり後の時代にヤマトタケルによって熊襲の党首が闇討ちにされています。熊襲は、大陸から来た勢力で古い方の秦氏です。 神武天皇が本州に行って反乱分子を討伐したと言うよりは、畿内の出雲勢力の内乱の隙を突いたかんじですが、畿内側の相続権を持つ姫と政略結婚出来たことにより、即位しています。漁夫の利ですね。ただ、武力での畿内の制圧は失敗し、祭祀の違いから畿内を追い出されています。 日向側の子供長男タギシミミが、腹違いの畿内側の三男に殺されて、その時日向族は滅ぼされました。 三重の伊勢に天照を祀ったのは、まったくの違う時代に垂仁天皇の皇女倭姫命が、八咫鏡を転々と移動させて最後に伊勢にたどり着きやっとそこで落ち着いたエピソードが有名です。 なので、神武天皇はの時代はまだ鏡の祭祀のスタイルが確立しておらず、九州勢力の崇神天皇時代に、鏡の祭祀で、再び畿内にリベンジ戦を挑み勝利し、それから銅鐸や銅矛祭祀から銅鏡の祭祀に変わっています。 神武天皇と、伊勢神宮はあまり関係ないかもしれません。
kodaiさん
2024/5/1 9:32
>神武天皇って宮崎から熊襲とかの反乱分子討伐して、本州にいって反乱分子討伐してったわけですよね なんで三重で天照祀ってるんですか? 三重って蝦夷とか熊襲とかの強かった民族に分類されてない 別に対して強くなかった名無しの民族の一つで別に天皇と関係なくない? 神武天皇は想像架空伝説上の人物と証明されているものですので、 あなたの思うがままの想像で何ら問題は無いという事です。 従って、ご自由に、という事ですね。 もしも、歴史的事実で実在などと公言流布するのであれば、 実在証明たる物証が絶対的必要と言う事ですね。 尚、 信教信仰等の心の中での神様などとするならば、当然、自由が認められていますので何ら否定するものではありません。 あなたが、あなた自身が神であると信仰信心し思っていたとしても、 何人たりとも否定はできませんからね。
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