「嫌いなものは嫌い」と言える気持ち
幕末志士は面白いなぁ。
きっとASDなんて人々は、インドアの一人遊びが好きな人が多いんじゃないかと勝手に思ってる。改めて書いたことは無かったけど、僕も当然の様にその通りで、子供の頃からずっとテレビゲームをし続けてるし、漫画やアニメなんかもよく見る。ゲーム好きの挙句には、冒頭みたいな動画投稿者も色々見てたりして、そのことはきっと間違いなく、惰性でも流行への便乗でもない、僕の主体的な嗜好で、喜びだ。
だけど、僕にはどうしても、認められないある事実がある。
冒頭で引用した動画は、ゲーム実況動画を投稿している「幕末志士」のもので、投稿者の高校時代を話題にしたラジオ動画だ。投稿者自身が面白いと、こんなゲームでない動画も見漁ってしまう訳だけど、投稿者はその中でこんな話題を上げている。
「もう『オタクグループには入らんぞ』みたいな感じで行っちゃったから、どのグループにも入れず孤立したんだね。強がっちゃったモンだから」
"強がり"。
投稿者は、自分は強がりで友達作りの機会を逃した。自分の本心に素直になれれば、自分に似た趣味の仲間と楽しく過ごすことが出来たはずだと、そう考えている様だ。
僕の高校時代もまた、当然の様に、誰も友達を作れなかった。それはたくさんの挫折を経験したからこそだったのだけど、この動画の様に、「グループに属する」だとか、「妥協して友達を選ぶ」だとか、そういうことの失敗ではなかったと考えている。
小中学の時、同級生にオタクがいた。僕は仲良くも何ともなかったし、多分同じクラスになったことすら無かった気がする。それでもそいつがオタクだと認識できるほど、そいつの振る舞いは人目を引いた。そしてそいつが気に入っていたらしいアニメが「らきすた」とかいうものだった。
僕はその「らきすた」が嫌いだった。「萌え」と説明すればいいのか、「らきすた」はそういう「萌え」ジャンルのアニメらしい。そしてなんとなくアニメを気にしながら暮らしている中で、なんとなく意識の端に入ってくる「らきすた」の要素の一つ一つが、僕にはいちいち不快だった。絵柄だとか、キャラだとか、その口調だとか、なんなら声さえもだとか。とことん趣味に合いそうもないと、嫌厭しきっていた。それに加えて、そのファンだとかいうのがあの目障りな同級生だということも、「らきすた」への不快感を深めさせた。
そもそも、僕はそいつが趣味以前の問題として、関わりたくない嫌な奴だと感じていた。振る舞いが目立つということは、人目を憚る慎ましさがないということでもあり、そいつの身勝手な人間性の賜物だと思っていた。そしてそいつの語る日常の言葉さえ、いちいち共感も歩み寄りも出来ない、自分と違う世界に生きていると思わせるものだった。僕はおそらく、そいつと「らきすた」の間に、根底に共通する精神があると感じていたのだと思う。
「らきすた」はそいつみたいなのの方を向いてるのだろうし、だからこそそいつは「らきすた」にのめり込んだのだろうし、僕は一層「らきすた」を嫌ったのだろう。そしてきっとそれだけでなく、その時点で、僕はそいつの同類の人間と、「らきすた」の同類のアニメに対する嫌悪感を築いていた。
ある日、文化祭か何かの行事で、クラスごとに創作ダンスを披露することになった。振り付けも使う曲も、生徒が自主的に決めることになっていた。発表は数分にわたるので、曲は色々なもののサビなどを部分的に集めて、繋ぎ合わせて使うことになった。
そして別のクラスの発表の時、その中で「らきすた」のテーマソングが使われるパートがあった。実際、その時はそれが「らきすた」の曲なんだかの知識は曖昧だった気がするけど、少なくとも、その時の僕が、「らきすた」と関係あろうがなかろうが、「なんだこの気持ち悪い意味不明な曲は」と思ったことは確かだ。ある程度、「らきすた」という存在そのものへの不快感に折り合いをつけられる様になったはずの今でも、あの曲だけは全く無理だ。聞くに耐えない。
せっかくなので、掲載してみる。
しかし、そう感じたのは僕だけなのか。あのクラスのみんなは嫌じゃないのか。何故あんな曲が採用されたのか。その時の僕の疑問は、自分と同じクラスにはいない、しかし同級生だったはずの「奴」の存在を思い出し、自ずと答えが出ていた。
別のクラスのことで、真相は知る由もない。だが、あんなものを何十人といるクラスの円満な合意形成で採用したはずがない、あのオタクとその一味が自分たちの趣味を押し付けて、拒否する理由がないだけの同級生達に消極的に同意させただけに違いない。そんなことが想像されて、僕はその不快な音の塊と共に、そのことが深く記憶された。
ある分類に属す個人の全てが、その分類の際立った例に類する訳がないことは、単なる当然だ。しかし、その分類自体に、際立った例に準う傾向があることもまた、当然のことだった。
「オタク」などという言葉で括られる分類の中心には、あの狂った悪趣味な連中がいて、その端くれには、それに自分の嗜好を準えさせて平気でいられる様な、自己の欠けた連中ばかり。この界隈で同好の士を探すなんて、掃き溜めに鶴を探す様なものだ。そんな風に思えては、同好の士なんていう繋がりを求めたくもなくなっていった。
もののついでとして、自分の知る限り、「この種類」の極地にあると感じている曲も示しておきたい。映像含めて、本気でヤバいと思ったやつ。
これを「いいもの」として認識する。それが奴らの価値観だと言うんだ。無茶を言うな。
アニメにも色々な趣味があるだろうに、何故その中でよりにもよって、この界隈の中心にあるのはこんなものなんだ。
「なんでそんな全部が全部女じゃなきゃ気が済まない訳?」
「装飾品なのにファッション性度外視って何が有り難いの?」
「人生に二度目があると思ってる様な奴に、二度目の人生送る価値なんてある訳無いと思うんだけど」
「道楽に耽ってきただけの人間が、何を学んだつもりでいやがる」
奴らの嗜好を横目に、自分に浮かんだ言葉を凝縮したものは、どれもこれも閉口と辟易に満ちたものばかりだった。
それこそ、冒頭の動画内で言及されている「Kanon」だの「機動戦艦ナデシコ」だの、てんで食指が動かない。好きな配信者とさえ趣味が合わないなんてことも、もう僕にとってはただの日常だった。
強がって、高望みをして、出来ることをせず、何も得られなかったんじゃない。僕は、奴らと友達になることなんか、始めから出来なかったんだと思う。
そして僕が奴らを容れないのは、単に趣味の不一致というだけでなく、その思考回路や思想信条の不一致からでもある。
僕はオタク共の中に「専門家ごっこ」とか「有識者ごっこ」と蔑称してやまない連中がいる。これについては、また時間をかけてまとめたいところなので、詳述は避けておこう。その「専門家ごっこ」共とは何のことか、ごく簡単に表すなら、「何の実績もないのに目だけは肥えてる」「噂を頼りに業界を語る」「結局は部外者なので、個別の事柄にも一般論しか展開できない」とかになる。とにかく、素人の分際で偉そうに語る連中とは、思考回路の次元で共感が出来ないと思った。
極めつけには、奴らの度々吐くおぞましい定型句。
「三次元は糞」「これだから三次元は」
これにはもう身の毛のよだつ思いだ。打ち込むのもおぞましい。
現実の美しさもわからない様な連中、もはや同じ人間と見なす価値すらない有象無象の類だ。不倶戴天の敵。せいぜい黙ってその平らな天だけ仰いでろ化け物共。
…と、奴らを思って筆に任せれば、出るわ出るわ罵詈雑言の嵐。なんかもう、理性とか自制とか効かず、感情が暴走状態になる。自分は全体的に厭人の傾向があると思ってるとはいえ、やっぱり奴らほど相容れないと感じる連中はいない。
ふう。今回、僕が何が言いたくて長々と書いてるかって、それにはいくつかある。まずは自分がゲームやアニメが好きだと説明しつつ、オタクとかいう連中には馴染めないということ。
僕は常々、自分の性癖について、「自分という一人がいるからには、世界にもどの程度かの同じ人も存在するのは間違いないはずだ」ということを考えている。人の性癖は人の普遍性に根ざしている、という確信の様な持論があって、その下に仮定した、オタクに馴染めない見過ごされた人々に、たったひとりなんてことは無いよ、と伝えたいと思った。
また、今後も僕のページはゲームやらの話題は多いですぜ、という宣言はしといた方がいいと思って。
あとは、単純に愚痴。自分の嫌いなものについての鬱憤を、まとまった形で表現したいという気持ち。さらにそこから広げたい話としては、「嫌いなものは嫌いだ」と言うことは、「好きなものは好きだ」と言うのと同じだけ、自分らしさにとって大事だということだ。僕の様なASDには、きっととりわけそうだろうと思う。
冒頭の動画投稿者は「自分は強がりで友達を作れなかった」と考えている様だったけども、実際にそれが本心とは限らないと思う。僕が色々な相談口に掛かる中で、何となく形作られた認識のひとつが、「自分は多くの他人よりも、自分自身の心理に意識を向けるのが得意らしい」ということだった。これは僕にとって、「多くの他人は自分自身に対して、間違った結論を出しやすいらしい」という認識に繋がった。
自己と他者の区別の失敗。他者への早まった共感。何々という他人の考えを聞いて、それが自分にも当てはまる、と勘違いしてしまうことだって、至極ありふれたことだという訳だ。そして人間の本心が、推論以外不可能な存在である以上、どんなに自分と向かい合った人だろうと、その錯誤に陥る可能性は存在し続けている。
今回は、この動画投稿者の考えと僕の考えが違っていたから、その錯誤の可能性を思ったのであって、別に根拠なんてないし、それをはっきりさせたかった訳でもない。ただ、世の中にはきっと、「自分自身の嗜好」を把握出来ず他人に迎合していて、そのせいで本心から、自分らしさを他人と共有出来ずにいる人が存在するんじゃないかと思う。これも先の、確信の様な持論からだ。
どうしたって好きになれないものがあるなら、間違いなくそれも自分らしさで、他人と共有出来るもののひとつだ。そしてその思いが強ければ、「共有したいもの」や「共有すべきもの」になるだろう。それは人の孤独を解消し、ひいては、より大きな悲しみに落ちることすら免れさせうる。
孤独な僕は、誰に届くかなんて二の次に、自分にとってのそれを書き表したかった。その点で言えば、あのおぞましい定型句でさえ、誰かにとって、揺るぎなく重要な「どうしたって好きになれないもの」の表れかもしれない。
そして、多くそれらは単なる毛嫌いと区別されずにいる気がする。人が自分らしさに気付ける可能性が、そのせいでひとつ失われてしまうとすれば、惜しいことだ。
「どこでもいつも誰とでも、笑顔でなんかいられない」
僕は何かにつけて、ブルーハーツの言葉を思い起こす。今思い起こされたのは、この一節だった。
人間は、時にどうしたって嫌いなものがある。それを理解していない世の中には、皆が好きなものを嫌いになっちゃいけないなんて世の中には、間違った方法論や解決策しか生み出しえないだろう。


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