第六話 光陰矢の如し
第六話 光陰矢の如し
玄慈は体を糠袋でこすって、汚れを落とす。
山での暮らしは清潔な身なりが重要だった――というのは、
異臭を察した獣は逃げる。それはつまり、自分たちを脅かすものの匂いがしているからだ。ひとだって、異臭を嗅げば身を引き締め、警戒するだろう。それと同じことだ。
変に香を焚きしめるのも獣が避ける原因だが、かといって、不潔な異臭を纏うのもよろしくない。
自然との付き合いは何事も中庸が大切であると、父の和真は語る。
その日、玄慈は鍛錬のためと息巻く山舞姫、志郎兵衛とともに、夜明けから昼八つまでひたすら駆けた。和真が珍しく山道を先導してくれた。
和真は息子たちが待ってくれと言っても無視し、ずいずい進んでいく。おいていかれてはたまらないと、玄慈らは這々の体で家までついて歩いてきた。
こと、獣狩の修行となると、普段の温厚さはどこへやら、和真は本来の種族である鬼の性質を垣間見せる。
ときに、無体とすら言える修行も行った。
あるときのことである。
修復した修練場で、和真は仕掛け弓に弦を張り直していた。
大型のものから、小型の小獣用のもの、無慮五十はあろう。
「これから仕掛け弓から矢を射かける。すべて避けろ。言っておくが、鉄の鏃はもったいないから使わん。代わりに削って尖らせた
四方八方から迫る木矢を避け、打ち払い、落とし、ときには枝を手繰って防ぎ、あるいは沢に飛び込んで逃れた。
安心したそばから、今度は和真自身が矢を打つ。ときに彼の弓は必中である。
避けられると思っても、
羽根を舐めて矢をつがえたら、確実に曲がる矢だ。
こうなると避けるという考えは捨てるしかなく、叩き落とす、あるいは防ぐしかない。
玄慈は曲がる矢を察したら、カラクリ手甲で手近な遮蔽物を掴み寄せて、それで防いだ。
可能ならば叩き落とすが、大抵、いやなところをついて回避不能の曲射を行うのだ。
そうした鍛錬で負った怪我、生傷は毎日増える。
だが、それは己が日々強くなる成長の証でもある。
獣狩にとって、傷は日々を生き延びた経験、そのしるしだ。
言うまでもない、これはあくまで修行。まだまだ玄慈は、見習いである――。
玄慈が修行を始めて二年。
矢玉避けの修練、その印可を受ける最後の修行であった。
ガゴゴゴッ、と大量の仕掛け弓が動いた。
時間差で矢の弾幕埋め合わせる巧術。
嫌な攻撃である。
それを、まず玄慈は体を左右に振って避けられるものを避ける。その間に周囲の地形を再度把握、左のカラクリ手甲を振るい縄を飛ばして、がっちりと木柵の横木を掴む。
巻き上げる――体が木柵へと突っ込んでいった。
矢玉を避けつつ、直撃するものだけを右手の山刀で落とし、身を捻って真正面から迫る石玉をかわした。
背後でドドッ、トトッ、ドンッと矢と岩石が激突する虚しい音が響く。
玄慈は横木に衝突するすんでのところで縄を自切した。
さっと中空に身を躍らせて、天地逆さの視界の中、右手にある木の幹を思いっきり蹴った。
その木に、大矢がどすりと刺さる。
(父上、容赦ないな!)
いつになく、である。
それも無理からぬこと。この修練には印可をかけている。
父親としての和真には認めてやりたい――そういう気持ちが大きいだろう。しかし獣狩としては別。安々と、危険な仕事を任せられんといういっそ偏屈な思いが渦巻いていることだろう。
玄慈は土の上を転がった。
大矢が迫る。
玄慈はぱっと体を開いて、ムササビのように宙に待った。腹の三寸下を大矢がかする。
その大矢の箆を蹴りつけて加速。
一歩目で風を掴み、二歩目で地面を砕かん程の踏み込み。
前進しつつ、体を限界まで前傾させた。的を小さく畳んで、迫る三射目の大矢を避ける。
二年――玄慈は苛烈な修行を経てきた。
――二年、己に問うてきた。
いったい、玄慈という自分は――男でも女でもない、曖昧な
✿
「押さえてろよ、その気持ち悪いやつ」
「んだよ、生意気な割に、ちゃんとお乳はついてんだな」
玄慈が十四歳の頃。
手習い
玄慈はやめろ、と怒鳴って振り払おうとしたが、「や」と声を荒げたときには、顔面をぶん殴られていた。
なぜ、自分たちとちがうというだけで、こいつらはここまで攻撃的になれるのだろう?
――これは後の玄慈の行動を規定する思想原理ともなるのだが――このときの暴行を行ったのは、皆人間だった。妖怪は一人もいない。
「うわっ」
玄慈のふんどしを引っ剥がした男が、吐き気をこらえるような顔をした。
「ほんとに両方ついてんな」
「け、けど、これはこれで。なあ、いいだろ、わかんねえって、ほら」
「ああ、
こいつら――。
「やめろっ、何を――くそがぁああっ!」
「いいのかよ、お前の家さ、南の村じゃ村ハジキにされてたんだろ? ここでも同じことしてやろうか?」
「生きていけねえぞ、ははっ」
玄慈は必死でもがいた。喚いて叫んで怒鳴って、ついには、乙女のように泣いた。
その姿にそそられた悪童たちが、ついに、その汚らわしいものをそそり立たせて、
ゴンッ、という鈍い音がした。
それは、山舞姫が打ち付けた薪である。悪童の右肩を思い切り打っ叩いた。悲鳴が上がる。
「ぎゃっ、な――くそっ、見張りはっ」
「相手になりゃしねえ。こっちは毎日山仕事で鍛えてんだ!」
次には志郎兵衛が拳固を振るい、二歳も三歳も年上の男を殴り飛ばし、蹴飛ばし、投げ飛ばす。
なまじ志郎兵衛は喧嘩無双であった。ほとんど一人で五人はいた悪童をとっちめてぶちのめすと、泣いてうずくまる兄を見て、――怒りを燃え上がらせた。
「音頭取ったの、誰だ」
「そ、れは」
「言え。言わねえと頭かち割るぞ」
普段ならば弟の蛮行を諌める山舞姫さえ、悪童らを睨んでいる。
「志郎、見ないことにしてあげるから、軽く打つくらいならいいわよ」
彼女は鬼の性質は継がなかったが、天狗の血を色濃く反映していた。歳の割に背が高く、母親譲りで目付きが鋭い。
「い、言って、言ったら、どうする」
「殺す。殺して見せしめにする。誰だ」
志郎兵衛の目は、笑ってない。
「言うかよ、気色わりい、ハンパ者――」
ゴンッ、と鈍い音。志郎兵衛の拳固が、十五歳になる体格の良い男の鼻面にめり込んでいた。鼻骨がおられ、前歯が二本根本から折れている。血の糸が垂れて落ちた。
「お前を河原で晒したっていいんだ」
胸ぐらをつかまれた男は、たまらず小便を漏らし、失神した。
ぶんとそいつを投げ飛ばした志郎兵衛。が、さすがに山舞姫が止めた。
「もういい、十分仕返しした」
「十分だと!? どこが! 兄上が愚弄されたんだぞ! お前は悔しくないのか!」
「悔しいに決まってる! こんなやつら皆殺しにしたい! けど、だめ。わかるでしょう。志郎、あなたは決して馬鹿ではない」
志郎兵衛は、己の下唇を噛み、「くそ」と吐き捨てた。
玄慈は十四歳のこの日を境に、いくつか変化を遂げた。
一つに、排他的になった。
身内以外を徹底的に嫌い、唾棄したのだ。あるいは閉鎖的な考えに固執し、獣狩という世界に傾倒し始めた。
二つ、人間を憎悪する――その火種を燃やし始めた。
これはのちに、玄慈が「
両親はこれを危惧した――早晩、なにかしらの禍根となると。
だが、二人の弟妹は兄を支持した。
✿
今再び、玄慈は己に問うた。
――俺の御役目とは何だ?
――俺がすべきことはなんだ?
――忌まわしい
まだ、己には何もわからない。
このままではいけないという気もしている。このまま己の考えを変えるべきではないと怒鳴る心もある。
あるいはいっそ、このまま黙々と山奥で暮らすべきであるという、最もな意見も胸のうちにはたしかにうずくまっていた。
矢が、頬のすれすれを過ぎ去る。
玄慈は思い返し燃え上がる憎悪を研ぎ澄まし、鋭い神経の刃に変え、指定された的に礫を当てて、砕いた。
「それまで」
なつめの張りのある声が響いた。
和真がカラクリ小屋で一切の操業を止めて、設備を停止した。
玄慈は傷一つなく、矢の修練を乗り越えた。
その始終を見ていた志郎兵衛は「さすが兄上」と感嘆を漏らし、山舞姫は「ひやひやする」と胸をなでおろしている。
和真は内心では、玄慈の葛藤の欠片を見抜いていた。それは、和真自身も経験した、ある一つの、
和真はずっとずっと前に、父から言われた言葉を静かに反芻していた。
――世を憎み、つながりを捨てきれず、偏屈な己の宿業を生涯にわたって哀れみ続ける。お前はそういう星のもとに生まれたのやもしれぬ。わしの子にしておくには、身に余る。
――のう、亡き鬼子母神の子よ……。お前は、名の通り、
カラクリ手甲を使って弓柄を曲げる。弓張りは本来、数人がかり。怪力の妖怪でも、二人からの人夫がいる。
しかし、このようにカラクリ仕掛けの巻き上げ機があれば、一人で全てができる。
世間はにわかに騒がしい。
一応の平定をもたらした新将軍・
遊び呆けて酒に女に歌に舞い。
蓋を開けてみれば剣技はてんでだめで、蹴鞠にしか能がないと来た。
もとが公家上がりだったこともあり、この馬鹿将軍を擁立していた武将・吉居氏はとっとと見切りをつけてしまった。
結局、火狩寛信は曖昧に、半開きの幕府で遊び呆けて財政を圧迫した挙句、重税を
死期は指折り数えるほどらしい。多分、年を越す前に、一波乱あるだろうというのがなつめの見立ててである。
(二十年近く遊んだんだ、腹痛で死んでも満足だろうさ)
玄慈は半分貶し、半分は、なにか事情があったのかもしれないなどと思っていた。
公家上がり――そうはいっても、武家社会における公家の暮らしは悲惨そのものだ。
いっそ百姓になり、豪農に成り上がったほうがいい暮らしができるほど、公家は逼迫していた。武家が台頭している現在は、それほどまでに食い詰める公家が多い。有力なものならばいざ知らず、下級の地位にあるものの暮らしは、悲惨であった。
白飯を食えるなんてのはごくごく一部。大抵は雑穀を食み、ときに野草を刈ってまで食うほど。
日々どうにか書籍を書き写し、写本を作ったり、どうにか
あるいは生来の気高さが邪魔をして、中には無理な自害をする家々もある。
とにかく――。
そうした出自であるから、武家のやり方はなじまなかっただろうし、いっときの火遊びが加熱して、引き際を見誤ったというのも、なんとなくは理解できる。
同情もする。しかし、それだけだ。
(しくじったら終わりだ。そういう社会だって、わかっていただろうに)
今年の暮に十八歳になる弟、志郎兵衛は武家奉公に出ている。出向先は父和真の実家だ。志郎兵衛の喧嘩無双とその胆力を聞いた祖父が、ぜひ預けてくれといったらしい。
多分、世継ぎの問題もあるのだろう。嫡流筋は、現状和真しかいないし、血を分けた嫡孫は志郎兵衛しかいないのだ。
山舞姫はなつめの伝手で天嵐神社に出向き、今は分社のひとつで社人としての日々を送っている。いずれは神使となるだろう。
(俺だけが)
玄慈は弓を手に山野を走る。
(取り残された)
誰よりも努力してきたという自負がある。
弟妹を恨む気持ちは――ない、とは、言い切れない。
しかしいろいろな物事は、結局、己が世間を断絶した「甘え」に由来していた。
逃げずに、あの、恐ろしい出来事と戦っていれば。志郎兵衛とともに、拳を奮って一人二人殴り倒していれば。
山舞姫のように、賢く復讐していれば。
(俺はどこへ行けばいい。何をすればいい)
その問いに答えられるのは、己だけだ。何者でもない。
矢を一本
歪みのない矢はきれいに一回転した。
鏃は、ついと前を向いた。
「山頂……」
示す先はそこだった。
生まれたところ、
なにかがあるのか、いるのか。しかし、そこへ行って、一度、何かを感じてみようと思った。
走り出すと止まらなくなる。
丸木橋をわたり、岩を飛び越えて、鈎縄で樹上を飛び、山を点と点で縫うように駆け抜ける。
いずれ見えたのは、たち枯れた巨大な樹洞だ。
新たな枝が生えており、そこには小さく青芽が出ている。
樹はまだ死んでいなかった。樹洞を抱えながらも必死で生きている。
(心は、――俺一人で満たすものではないのか? この器は、俺が満たすものではないのか? なら、誰が満たす?)
龍祖神のもとへ歩く。
石の盃の埃を払って、
(そうか)
玄慈は、ようやくあたりまえのことに気づく。
(俺が誰かを満たし、誰かに俺を満たしてもらえばよいのか)
閉塞していた世界に、春の暮、茂る緑の匂いが吹いた。
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