第二話 白鹿が導くところ
第二話 白鹿が導くところ
山に分け入る。
樹冠は高い――天嵐樹が伸び上がっている。春夏秋冬とわず葉を茂らせており、枝葉は広々と伸びる。いわゆる常緑広葉樹だ。
今の時期、まばらに生えるイチョウやカエデが見せる、部分的な山吹色と朱色の色彩が美しい。
和真は山を進んだ。
小川で水を飲んでいるのは
肉は鶏に似てさっぱりとしており、美味だが、今は狩る必要はない。
和真は比高
岩の出っ張りや土のくぼみを瞬時に見定めて飛び移り、上へ上へと手足を伸ばして、あっという間に這い上がる。というか、跳び上がる。
崖登りは獣狩の基礎的な体術の一つ。彼らはこうした技能の多くを
和真の息はまるで上がっていない。
河に渡された丸太一本の不安定な橋を、さも分厚い板敷きの床を歩くかのように渡り、さっさと対岸へ。
腰の竹筒から水を一口飲んで、ふと、北へと顔を上げた。
一段高い岩棚がある。
木漏れ日が極彩色の輝きとなって降り注ぎ、美しく麗しく、息を呑むような――、
――
「お前は……」
和真は思わず、腰の箙から矢を掴みかけ、背負っていた弓を左手で、
「あっ」
白鹿がさっと踵を返した。
数歩進んだところで、ちらりとこちらを振り返る。
――ついてこい、鬼の子。
そう言われている気がした。
はたと和真が弓矢を収めて駆け出そうとしたときには、すでにその神威纏う鹿は、走り出している。
和真は己が尋常ならざるなにかに試されている――そんな気がして、突き動かされるように足を回転させていた。
和真の額、本人からしてみたらその左側には黒い角が生えている。
それは途中で二股に破れており、雁股矢を思わせた。膨大な妖力が逃げ場を求めて枝分かれしたのだと、なつめは説明してくれた。
和真が真剣に武芸を志していれば、侍大将も夢ではないだろう。それだけの器である。だが、彼には鬼という恵まれた血筋があり、武士の家の出自という優れた立場にありながら、生来争いを好まない、和を尊ぶ気質が強かった。
兄弟で飯の取り合いになってもまっさきに手を引くし、武芸の手ほどきをしていても「打たれる側が可哀想」という理由で自分からは攻撃しない。
あげく、「食べない命は獲らない」という流儀。
武士の子としては欠点だらけの和真を、桜之丞の御家は「ウドの大木」、「汚点」とし、放逐した。
しかしその膨大な妖力は、ときに強者を呼びつける。
獣しかり、武芸者然り。
ときに、神獣をも。
和真は白鹿を追った。
邪魔な竹林を山刀で払う。
岩場を蹴って、和真は左手の「カラクリ手甲」を使い、鈎縄を前方の樹枝へと射出した。
鈎縄は枝を掴んだ。即座に内転し、鈎を噛ませて縄を巻き取る――枝へ向かって跳躍した。
「白鹿――神の使いとも言うが」
樹上に飛び乗り、和真は左前腕を外転。鈎を緩めて縄をさっと巻き上げて回収した。
カラクリ手甲――前腕を内側に回転(内転)させると縄を巻き取り、外に回転(外転)させると縄が(正しくは、先端の鈎手が)緩む、獣狩たちが使う狩猟道具の一つである。
縄の中に仕込まれた細い筋金(鉄鋼のワイヤーのようなもの)によって、先端の鈎のゆるみが決まるわけだが、その製法は秘伝。獣狩の家系によって全く異なる技術で作られており、並大抵の鍛冶師では、基礎的な理屈さえ理解できないほど難解だ。
獣狩という存在が稀有な――相伝で技が受け継がれる特異な者たちである証である。
このカラクリ手甲は師匠から弟子へ伝えられる装備であり、扱いを体得できねば、獣狩とは認められない。それだけの品物だった。
白鹿はしかし、この
和真の眼下、四半町(二十七メートル)で動きをピタリと止め、出方を伺っていた。
射掛けるか、否か。
尋常に考えれば神の使いたる神獣を射るなど言語道断。
しかしこれが、あちらからの挑戦であれば、射掛けぬというのもまた無作法だ。
(百歩譲って向こうが力比べを望んでいるのなら)
和真は弓柄に伸ばしかけた手をそっと引っ込めた。
(不意打ちなどは望んでいないだろう)
樹上から飛び降りた。
両足を屈伸し、両膝と両手をついて四つの点で衝撃を分散し、着地。
顔を上げると、白鹿が「来い」と言うふうに、くるりと頭を山頂へ向けた。
その足取りは緩やかだ。走る、でも急ぎ足でもない。歩きである。
「おい、お前は――俺に何をさせたい?」
答えるはずもないが、問わずにはいられなかった。
しばらく歩いていると、龍祖神の石像があり、小さな祠がある開けた山頂に出た。
よく知っている。疾うの昔に枯死した
「……
まあ、誰だって忘れられるのはつらいだろう。
龍祖神を祀っている以上、なんらかの名のある神だったに違いない。それこそ、古の
和真は祠に
白鹿はじっとそれを視ている。
「気が散るんだが……まあいい。ここに祀られていたのはお前なのか?」
和真は不敬とは思ったが、気が散るのは本当だ。気まぐれに問うと、白鹿は樹洞を見上げた。
樹洞とは言うが、ゆうに半町(五十五メートル)もの高さがある巨大な樹の骸である。往時には、三倍の大きさがあったのではないだろうか?
和真は懐の銭を手に、それを祠の苔まみれの賽銭箱に入れる。
そうして
名も知らぬ、――おそらくは、白鹿を祀る地への感謝。言葉は些細だ。ありがとうございます、ご平安を。
それからなんだかんだ山でやっていける日々、なつめとの充実した暮らしへの感謝を胸の内側で滔々と述べる。
もともと口がうまくない。いつも渋柿をかじったような顔で、鹿爪らしいところだけが父親譲りなどと言われる和真である。
(我が子はなつめに似てほしい)
そう祈願せずにはいられない。
いや、なつめもなつめで、結構むすっとした、生真面目な顔なのだが。
などと思っていると。
「ぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ」
赤子の泣き声が、すぐ近くでした。
和真は一体何事かと顔を上げる。
白鹿はもういない。
赤子の声は、樹洞からした。
「おい、おい」
和真は樹洞に分け入る。
わずかに翠緑の灯火を放つ、樹洞から伸びたへその緒につながった赤子が、枯れ枝と萌える葉っぱに包まれて横たえられていた。
「この子は……」
赤子は泣いている。
その泣き声は、何かの萌芽を思わせる産声だった。
和真は知らず知らず震える手でその子を抱えた。
へその緒が自然と腐るようにして断ち切れる。
「
樹から生まれた子。
その子には、男と女、その両方の
✿
その翌日改元、十二年続いた
――
戦と呼べるだけの戦いさえ起きず、結果、あっけないほど容易く鏡石屋軍は敗退した。
同じ頃、
山々から産出される金銀をこれでもかともちいた、きらびやかな御神殿である。
やや華美な装飾にすぎるという印象も拭えないが、財力すなわち国力なりとする御祭神・
伽羅の香が焚き染められ、行き交う巫女たちは酒に山鳥の煮込みに、あれやこれやと抱えて忙しない。
一人の麗しい巫女が
「この時代の変わり目に、新たな神が生じるか」
美声、鶴声というものがこの世にあるとしたら、まさにこのような声を言うのだろう。
白い喉を二度鳴らして、一升(一・八リットル)の酒を飲み干したのは巨大な女である。
身の丈、ゆうに十五尺(四・五メートル)はあろう女体。さらに下半身を百尺(三十メートル)もの龍体にすげ替えた異形の躯体。
雷の如き金色の髪を長く伸ばし、手入れされた萌黄色の龍角が金銀のきらめきを優美に照り返す。
この御方こそ
遠い
上等な煙草の甘い香りが御神殿に満ちる。
「して、その子は何処か」
「地元の獣狩が確保してございます」
「獣狩? そやつの名は」
「弓張子梟福殿――旧姓は桜之丞ですか。――失礼、
「ほう……なつめの婿じゃな」
「よろしい、しばらく機を伺おうではないか」
「よろしいので?」
「構わぬ。妾はそやつの伴侶に詳しい。神の子を如何様に育てるか、楽しみであるな」
そう言って、
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