第四話 それぞれの鍛錬
第四話 それぞれの鍛錬
「習字は好かん」
志郎兵衛は正座という姿勢自体が好かんと言わんばかりに、足元をくつろげ、あぐらをかいた。
「志郎、兄上が見たら嘆かれる」
「そらそうだが――俺は剣を振るうほうが好きだ」
「筆もまともに握れぬものが、はてさて威武をもち采配を振るうものか? 私には甚だ疑問だな」
「山舞姫、む、難しい言葉で俺をごまかしても無駄だぞ」
庵室。
十五歳の山舞姫と十四歳の志郎兵衛は、言いつけられた書き写しの手習いをしながら口喧嘩をしていた。
「兄上は獣狩になるのか」
「そう聞いた。私たちは手助けするなと」
「なんでさ? 父上も薄情だな。日頃兄弟で助け合うようにと言うくせに」
「阿呆。獣狩の修行に手助けは無用なのだ。それに父上が薄情などと言うな。情に厚いからああも毎日落ち着きがないのだ」
志郎兵衛は、言われてみればと思った。
和真はふだん、鉄甲の軍船と言われても頷けるほど、どっしりと構えた男だと思う。志郎兵衛は我が父だからそう思うのかもと思うが、しかし、獣狩仲間から頼られている様子を見ていると、まんざら身内びいきな話ではない気がしていた。
それがどうだろう。最近はぼんやり東の方を眺めていたり、畑仕事にも意識が回らぬふうで、狩りも弓ではなく罠で仕留めた獲物を担いでくる程度。
いつもなら酒が回ると下手くそな歌を歌うのだが、それがなぜか――最近は美声で歌うのだ。
母・なつめは目を丸くして「風邪引いたの?」と戸惑っていたほど。
玄慈が修行を始めて一ヶ月が経とうとしている。
この頃が、獣狩見習いと、そして師匠にとっての正念場だ。
中途半端な覚悟の見習いは、大抵この時期に修練場を脱走するし、師匠としての器がないうつけ者は助け舟を出す。
が、すくなくとも和真に関しては静観を貫く姿勢だ。
それは畑仕事に現れている。
淡々と雑草を抜く仕事で、覚悟を試している風だ。
「志郎、習字が好かんのなら手合わせするぞ。そろそろ武芸の稽古の時間だし」
「そうこねえと。ずっと座ってると足が腐っちまうぜ」
志郎兵衛はいかんせん辛抱に欠けるところがある。山舞姫はそう思うのだが、同時に彼はふと冷静な――冷徹な算盤を弾くこともあるのだ。
武芸者としての、ある程度の素質はある。そう思っている。
稽古においては、削り出した木剣を使う。剥き出しの木ではなく、さらに皮を巻いている。それでも当たれば痛いし、打ちどころによっては大怪我する。
子どものチャンバラで使うには、それでも安全な部類だ。なんせ普通は薪なんていう立派な棍棒でやり合うのだから。
「二人とも、習字は済んだの?」
母のなつめが御勝手(台所のこと)で果物を切りながら問うてくる。
「志郎が飽きたっていうのが聞こえたけど」
「飽きてない、好かんってだけで」
同じことではないのか。山舞姫はくちばしを入れない。
「立派なお武士様は字もうまいって言うけどね」
「続きは後でやるって。それより打ち合い! 母上、木剣持ってっていい?」
「いいわよ、終わったら手入れしなさいよ」
志郎兵衛はいの一番に革巻きの木剣を掴んだ。山舞姫も一本、太刀掛にかけてある木剣を掴む。
外に出ると、太陽が眩しい。八月の上旬。天嵐国は盛夏である。
「お前ら、稽古か?」
「父上、行司してくれよ。山舞姫と俺だけじゃ喧嘩になっちまう」
「ふん、引き際が悪いだけだ、志郎は。往生際が悪いのは武士としてどうなんだ?」
「うるさいなあ。武士道の精神なんかわかんねえよ。死なないほうが何杯も偉いしすごいだろ」
山舞姫は存外、煽ってくる。それを彼女は自覚している。そして、志郎の庶民的な死生観を好ましく思っていた。
「玄慈がいないからな。わかった、俺がやろう。ただ、昼餉のあとは草むしりを手伝え」
和真がそう言うと、志郎兵衛があからさまに文句を言いそうになる。それを山舞姫が肘をついて黙らせた。
「志郎兵衛、お前から打ってみろ。山舞姫、凌ぎと往なし、石火術からだ」
そうして二人の稽古が始まった。
✿
刈り取った種子の種を、手元の小さな石のすり鉢に入れてすりつぶす。
薬研なんてものはない。とにかく全部が手探りだ。結果がどうとか、より良い効率とか、そんな事を考えて時間を無駄にするくらいなら、やれるだけのことをやって、成功への道順を順繰りに試しておきたい。
「菜種油なんてどう取るか知らんが、まあ、乾かして絞れるだけ絞るしかない」
ちなみに絞った油をカラクリに注す。これは現代で言う植物性潤滑油のようなことだが、当然、そんなことなどこの時代の神和魅大陸の民が知る由もない。
が、ここを使っていた先人――和真もまた、同じ方法でカラクリを動かしていたことがあり――。偶然の一致なのか、獣狩の本能か。
(刀の錆止め油があれば一番だが、そんなの手に入らん)
都合よく持ち込んでいるわけがない。
石のすり鉢だって、手作りである。そこらの石を穿ち、くぼみを作って、そこに菜種を入れて石棒で擦り潰すのである。絞り出された油は切り込みのような溝から垂らし、木の器に溜め込んでいく仕組みだ。
(どうだ、いけるか)
玄慈は半ば神に手を合わせる気持ちだった。天候のごとく荒々しい天慈颶雅毘売様が、慈雨をもたらすように、油をもたらしてくれと。
お祈りが通じたのか――。
木の器を見ると、とろりとした黄金色の油が僅かに溜まっている。
「お」
来た。
量はあまりにも少ないが、いける。
沢の狩場も順調であった。巧みに迷い込ませた魚を捕らえる網。
蔦の切除もあらかたおわっている。家は、樹上に枝や草を組んで作った小屋がある。樹上に小屋を作ったのは、狼が登ってこれない備えだ。
九分九厘まで狼が人を襲わないとは聞かされている。しかし、よしんば狼が襲ってこなくとも、噛みついてくる獣はいる。そして、獣に噛まれれば弓形病(いわゆる破傷風。本作表現)にもなる。
備えは十重二十重にしておいても不足だけはない。
いちおう、他の適当な種油でカラクリを整備している。錆を目の荒い布で拭い、あるいは石器で削り落とし、研磨性のある石で磨く。
その繰り返しで一ヶ月だ。
(これだけ苦労して、器の底に少ししか貯まらんとは。相変わらず、油絞りってのも難儀な仕事だ)
今まで何気なく使っていたものの、あらゆる一切に感謝の念が湧いてくる。なんとなれば、天と地の全てにすら、感謝の言葉が溢れてくる。
(ひょっとして、獣狩は皆、こうして感謝することを最初に覚えるのか)
玄慈十五歳。彼の夏は、これからが本番である。
しゃわしゃわと蝉が鳴く。
玄慈は半裸で手製の石槍を握り、沢の水面へ刺突を放つ。上半身は裸だから、乳房は思い切り空気にさらされていた。
普段こんなことをすれば風紀を乱すとして、役人からしょっぴかれるだろうが、ここには玄慈と野生の獣以外いない。
鋭い穂先が水を跳ねた。
すとん、と貫く手応え。玄慈は素早く槍を振り上げた。
そこには立派なヤマメ。一尺はある。
そのヤマメにフクロウが迫るが、玄慈はさっと槍を引いた。
フクロウは空中で身を翻して、「腕を上げたな」と言わんばかりに鋭く睨むと、空へ駆け上がって、イチョウの木に留まる。
「お前との勝負も最後さ」
玄慈は槍からヤマメを抜いた。
石器の短刀でイワナを一枚卸すと、その一切れをフクロウへ投げた。
フクロウはそれを咥えてしばらくもしゃもしゃとついばむと、「達者で」というふうに、一枚の羽根を舞わせて、去っていった。
玄慈は魚を木串に刺して焚き火で炙る。
串を石に立てかけて固定し、使い古した石器刀をぶんと放った。
「昼飯も用意できたな」
がんっ、と刺さった石器刀は、木の幹に、アオダイショウを縫い付けていた。
幹に刻まれた数は日付を示していた。
八月三十一日。
刻限最終日。
玄慈はこの二ヶ月でずいぶんと逞しくなっていた。
「女の体は相変わらずか」
ち、と舌を打った。
己の体は特異だ。
男の喉仏に低い声、そして股座の一物。
一方で胸には女のような肉肉しい膨らみがあり、腰は丸く、女陰もある。
極め付きはこの糞みたいな美貌だ。
妹と弟、そして崇敬する両親が言うから思いとどまっているが、可能なら顔など焼いて潰したいと思っていた。
この顔のせいで――まっとうに、男の扱いを受けられん。
が、そんなつまらない迷い、惑い、苦しい暮らしも、まもなく質を変える。
獣狩ともなれば、そのようなことでは惑っていられない。
もっと現実的で、実際的な悩みが、山のように出来するのだ。
たった一度の人生。投げ出すのは容易い。そして一度投げ出せば、二度ともとには戻らない。よしんば、二度目三度目の人生を与えられても、あるいは別の世界でやり直せても、命を投げ捨てるやつはどこかでまた同じことを繰り返すのだ。
(今ここで踏ん張れないやつが、どこへ行って何を頑張るってんだ?)
一所懸命、というではないか。
玄慈は頬を打った。
この修行をやりおおせる。まずはそれだ。
設備の整備も済んでいる、生き延びている。
さて、――?
ふ、っと、玄慈はうなじを触った。
手のひらを確認する。なんら異変はない。
ただ、嫌な予感。
ばり、ばり、むしゃり、ばり。
何かがいる。玄慈は石器槍を掴んだ。
そこにいたのは、ヤマメを貪り食らう、どす黒い瘴気をまとう猿。
「なんだ――こいつは」
獣ではない。妖怪でもない。
もっと異質な――。
「っ、ぁ!」
ほとんど本能的な動作だった。右腕が後方にしなって、左腕でやりの太刀打ちを打ち出していた。
そうして前後に傾斜をつけた柄を、猿の爪が掠めていったのだ。
瞬時に行った凌ぎ技。ときにそれを、天嵐流武芸において石火流し、石火術ともいう。
弟たちとの武芸の稽古の成果が、こういうとっさの場面で現れる。
「なんだあれは」
問うて、答えてくれる敵などいない。まして、己は十五。誰に問うてもまずは己で考えろと言われる歳だ。
(尋常の生物ではない。獣でも妖怪でもない。噂に聞く穢獣か?)
猿の攻撃は続く。爪による刺突、ひっかき、腕を利用した薙ぎ払い。
玄慈は槍の中程を持ち、防戦に徹する。
石火術を繰り返し、次々攻撃をいなす。
剣速自体は志郎兵衛のほうが倍早い。的確に急所を打つ技量なら山舞姫が圧倒。だが、両立という点で見ると、この猿がなかなかのところ。
そこそこに素早く、ある程度嫌な狙い方をする。
勝負事に勝つ上で必須となる鉄則は、相手の最も嫌がることを、最も嫌がるところへ、嫌なときに、徹底的にやり続けることだ。
夜中に起こされるのが嫌な人間に、昼間話しかけてもほとんど意味はない。嫌がることは少ないだろう。
だが、寝ている真夜中に繰り返し、毎日、何年も起こし続ければおかしくなるか、怒りで判断を過つ。
勝負も同じだ。
嫌なことが続くと、焦り、怒り、攻めるにせよ防ぐにせよ判断が狂う。
「このっ」
穢獣は、それを徹底していた。
玄慈が上裸で戦っているのをわかっていてか、やたら、胸ばかり狙う。
己を虐めた――という言葉では許せることではない――村の悪童が脳裏に蘇った。
「殺す」
爪を石突で弾いた。腰に引いた槍を繰り出す。
だが猿はひょいと後ろに下がって、穂先を逃れた。
玄慈はもう一度槍を引き込みつつ一歩踏み込み、確実に突き通すべく、両手で槍を放つ。
が、この憎らしい猿は醜悪な面にニタニタと笑みを浮かべて飛び上がると、玄慈の乳房をべちゃりと撫でて、「ヒッヒ」と笑うではないか。
「俺を愚弄するのも大概にしろ」
右腕一本、槍を鳴いだ。
ぐわんっ、と柄がしなる。猿の横面に太刀打ちが激突し、そいつを沢の底へ沈めた。
とどめを刺せていないし、霧散するところを見ていない。
玄慈は慌てて沢に駆け寄った。
槍を構えつつ睨む。
そのとき、水面から伸びてきた腕が玄慈の右足を掴んだ。
「ぐあ――」
引きずり込まれる!
考えろ、考えろ。思考を投げ捨てたとき俺は死ぬ!
槍の柄の中程を掴んで、玄慈は石突を足先へ打った。
ゴスッ、となにかを殴りつける手応え。十中八九、あのくそ猿だ。
「くたばれっ、このっ、下衆が!」
何度も何度も石突を打ち据える。
が、水面が淀み、腐った匂いが立ち込めるにつれて、己の体力が奪われていくような感覚に陥った。
非常にまずい。
玄慈は何度目かの打撃のあとで、猿の拘束を逃れると岸から上がった。
見れば水は赤黒く淀み、濁り、粘ついて腐っているではないか。
「くそっ、ごほ、瘴気――不浄溜り……!」
長く曝されれば、腐り、死ぬ。
母なつめはこの手の知識に詳しく、よく教えてくれた。
玄慈は慌ててその場を離れる。
「がふっ、ごほっ」
咳込んで、どうにか小屋のある木までたどりつく。
幸い猿は追ってきていない。奴も傷を追っているからか、どこかで――あの不浄溜りで回復するのを待つのだろう。
縄梯子を上がり、それを巻き上げて、小屋で寝転んだ。
「がぁっ、あ、焼ける――!」
喉が焼けるように渇く。
水瓶からお椀で水をすくい、浴びるように飲むと、幾分おちついた。
それから触られた部分を含めて、丁寧に身を清める。酒があればよかったが、そんなものこの生活では仕入れようもない。
胸と足首が特にひどい。
水をかけることでどうにか色味も戻ったが、足首にはわずかに違和感がある。
いちおう胸と足首には、割いた羽織を晒しがわりに巻いておいた。
それから、天然素材――樹皮と蔦の縄で作った甲冑を着込む。
樹皮具足、とでも言うべきものだ。
当然だが、あの穢獣は死んでいないだろう。
「なんなら数を増やすかもしれん」
玄慈の視線が、小屋の虫籠窓から、ぎらり太陽を照り返すカラクリに向いた。
「あれを動かしてみるか」
ものは試し、思い立ったが吉日。
あとは、行動あるのみだ。