描く自由と、描かれたあとを生きる自由 『みいちゃんと山田さん』をめぐる反応に答える
月曜日の朝に「障害そのものではなく、『障害性』が演出される」という文章をnoteで公開してから、二日半が経ちました。予想をはるかに超える数の人に読まれ、Xでは賛同だけでなく、さまざまな疑問や批判も寄せられています。複数のメディアから取材の依頼も届き、この問題について語る人の一人として、この文章が参照され始めていることも感じています。
一つひとつのコメントに返信するつもりはありません。短い応酬を重ねれば、論点よりも「誰と誰が争っているのか」が前景化し、考えるべき問題が細切れになっていくから。かといって、反応を放置したいわけでもない。個別には返信しない代わりに、この数日間に受け取った問いに、まとまった文章として答えようと思います。
前回、僕は「現時点では明確に、アニメ化に反対します」と書きました。その立場は変わっていません。ただ、僕が何に反対しているのか、どのような条件なら判断を更新しうるのかについては、もう少し精密に言葉にしておく必要があると思ったので、以下に書きます。
これは「表現の自由」と「窮屈な倫理」の対立ではない
アニメ化への反対に対して、「表現の自由を侵害するな」という反応が繰り返し寄せられた。だが、国家が作品を禁止し、作者を処罰し、出版や放送を差し止めることと、市民が作品を批評し、反対を表明し、企業に計画の再考を求めることは同じではない。憲法上の表現の自由は、第一義的には、国家権力による介入から市民の言論や出版、芸術活動を守るためのものだ。私人同士の問題にも基本的人権の価値は影響するが、憲法の規定が市民同士にそのまま直接適用されるわけではなく、必要な調整は民法などを通して行われる、というのが最高裁の基本的な整理である。作者や制作関係者への脅迫、嫌がらせ、人格攻撃、業務妨害などが許されないことは言うまでもない。それでも、市民が作品を批評し、アニメ化への反対を表明すること自体もまた一つの表現であって、それを直ちに「検閲」や「表現の自由の侵害」と呼ぶことはできない。
ここで衝突しているのは、表現の自由と、誰も傷つけないための窮屈な倫理でもない。社会学者の明戸隆浩さんがヘイトスピーチをめぐって書いた論考の題名を借りれば、問題になっているのは「表現の自由」と「表現が侵害する自由」である。つまり、自由対倫理ではなく、自由対自由なのだ。今回に即して言えば、障害を想起させる人物を描き、作品として広く流通させる自由と、その表象によって人生を先回りして解釈されず、蔑称を与えられず、固有の人間として安全に生活する自由との衝突である。
もちろん、『みいちゃんと山田さん』をヘイトスピーチと同一視するつもりはない。この作品は障害者への排除や暴力を呼びかけるものではない。それでも、表現が受け手を不快にするだけでなく、現実に誰かの自由を狭めることはある。すでに「みいちゃん」という呼び方が、知的障害や発達障害があるとみなされた女性を揶揄する言葉として使われ、当事者から具体的な苦痛が訴えられている。その投稿では、真面目に働き、生活している人までが作品の人物に重ねられ、それまでの努力が一つの呼称によって否定されるように感じると語られていた。
これは「漫画を読んで傷ついた」という感情だけの話ではない。作品がつくった人物像が、現実の誰かを理解するための型になる。その人の性格、生活歴、努力、他者との関係を知るより先に、「みいちゃんみたいな人」という解釈が置かれる。その結果、学校や職場や地域でどう見られ、どう扱われ、どのように社会へ参加できるかという自由が狭められる可能性がある。表現する自由だけを自由と呼び、表現されたあとを生きる人の自由をその外側へ追い出すことはできない。問うべきなのは、描く自由があるかないかだけではなく、その自由の行使によって誰の自由が広がり、その一方で、誰の自由が狭められるのか、である。
表象の貧困は、関係の貧困でもある
漫画家の山田胡瓜さんは、障害者について、多くの人が現実に接した経験も、メディアを通じた疑似体験も乏しいため、一人の極端な人物を描くだけで「一般化だ」「露悪的だ」と批判されやすいと指摘している。
その結果、作家が批判を恐れて障害者を描かなくなれば、表象の乏しさがさらに続くのではないか、という問題提起である。この指摘には同意するところがある。障害のある人物が、純粋で善良で、努力家で、周囲へ感動を与える存在としてしか描かれないなら、それも著しく貧しい表象(いわゆるストレートな感動ポルノ)だからだ。意地悪な人、身勝手な人、セックスをする人、失敗する人、他者を傷つける人、愛しにくい人が描かれてもいい。
そのうえで僕は、こう問い返したくなる。そもそも、なぜ僕たちは、障害のある人と関わる機会がこれほど少ないのだろうか。障害者表象の少なさは、作家の萎縮だけから生まれたものではなく、学校、職場、地域などあらゆる場で、障害のある人とない人が分けられてきた社会の構造ともつながっている。言い換えれば、表象の貧困は関係の貧困の結果でもある。つまりこれは循環構造なのだ。この構造を問わないまま「現実に会う機会が少ないから、フィクションでもっと描こう」と言うだけでは、現実の分離をそのままにしながら、作品だけに代理の出会いを担わせることになってしまう。
確かに、漫画家をはじめフィクションを担う表現者に障害のある人との関係をつくる義務があるとは思わないし、直接関わりさえすれば必ずよい表象が生まれるわけでもない。それでも、日常のなかでさまざまな障害のある人と関わる経験がもっとあれば、「みいちゃんのような人もいるかもしれないが、まったく異なる人もいる」という複数の像が、作者にも読者にも蓄積されるだろう。表象も関係も乏しい社会では、一つの作品が担う代表性が大きくなる。今回「みいちゃん」という名前が現実の人を指す類型として使われていることは、その危険が批判者の想像ではなく、すでに社会で起きていることを示している。
だから、障害者表象を増やすことと、一つひとつの表象を批評することは対立しない。必要なのは、批評を弱めて作家が安心して描けるようにすることではなく、異なる作品、当事者自身の表現、異なる関係から生まれた像、そしてそれらを検討する批評が、複数並んで存在することである。
なぜ『闇金ウシジマくん』はよく引き合いに出されるのか
「なぜ『闇金ウシジマくん』はよくて、『みいちゃんと山田さん』はだめなの?」という問いも、何度も目にした。僕は『闇金ウシジマくん』の原作漫画を通読はしておらず、山田孝之さんが主演した実写版シリーズを追っかけてきただけなので、作品全体の優劣を断定するつもりはない。両作品が比較される理由はわかる。どちらも、貧困、性風俗、依存、暴力、搾取といった社会の暗部を扱い、人がシステムのなかで追い詰められ、転落していく姿を描いている。『みいちゃんと山田さん』について、「『ウシジマくん』の最もきつい回がずっと続いているようだ」と評されたこともある。
それでも、扱われているモチーフが似ていることと、物語の構造や社会的な作用が同じであることは別である。『ウシジマくん』は、丑嶋と闇金会社を固定した軸としながら、借金をし、搾取され、転落する人物が「若い女くん」「フリーターくん」「ホストくん」などの編ごとに入れ替わる。公式の各巻紹介からも、異なる階層、職業、欲望、家庭環境を持つ人物を順番に扱う構造が確認できる。対して『みいちゃんと山田さん』は、みいちゃんと山田さん、なかでもみいちゃんの言動、身体、性、失敗、搾取、転落を持続的な中心に置き、冒頭から殺害されるまでの十二か月として、その結末を予告している。両作品に「不幸な人が登場する」という共通点があるだけで、同じ表象の構造を持つとは言えない。問題は、不幸な人物を描いたかどうかではなく、一人の人物の不幸を、どれほど長く、どれほど集中的に、読者に見続けさせる物語なのか、である。
作家の宮内悠介さんは、『ウシジマくん』との比較から、両作品の虚構性や現実との距離の違いを指摘し、『みいちゃんと山田さん』で醜悪に描かれているのは、みいちゃん本人ではなく彼女を取り巻く人々ではないか、と書いていた。
「虚構との距離」という指摘は重要だと思う。とはいえ、「悪いのは周囲の人間である」という説明だけでは、疑問が残る。ここでは、物語内部の倫理と、作品がつくるまなざしの倫理を分けなければならない。物語のなかで、みいちゃんを搾取する男性や、無責任な周囲の人間を悪者として描くことはできる。同時に、その人たちに搾取されるみいちゃんの身体、性、失敗、暴力、転落を、読者の好奇心へ向けて反復的に差し出すこともまた、できる。ややこしいことに、周囲を明確な悪者として描くことによって読者はかえって「自分は彼らとは違う善良で理解のある観察者なのだ」という位置に立ちやすくなる。「自分はみいちゃんを馬鹿にしていない!自分は彼女を心配し、周囲の悪人を批判してる!」と思いながらも、同時に彼女がどこまで転落するかを読み続けることは可能だ。物語の内部では搾取を批判しながら、作品の外部では、搾取される一人の女性の苦痛を継続的に消費する。その二つはすんなり両立してしまう。僕が問いたいのは、作中で誰が悪者になっているかではなく、読者がどの位置から、どのような快楽とともにみいちゃんを見るように配置されているのかという、まなざしの構造である。
まだ存在しないアニメに反対するのは矛盾なのか
もう一つ多く寄せられたのが、「アニメになれば原作とは異なる表現になるかもしれない。完成する前から反対するのは矛盾している」という指摘だった。この指摘には、もっともな部分がある。アニメ化によって原作の問題が増幅される可能性もあれば、脚本や演出によって、原作では背景に退いていた社会構造を前景化し、みいちゃんをより複雑な人物として描き直す可能性も、論理的には残されている。僕は、どのようなアニメ化も永久に禁止すべきだと言っているのではない。反対しているのは、具体的な懸念と現実の影響がすでに示されているにもかかわらず、制作側がそれをどう認識し、誰と検討し、翻案によって何をつくり直すのかが見えないまま進む、現在のアニメ化計画である。
前回のnoteにも書いたように、製作委員会は、専門家の助言を得ながら、適切なレーティングや注意喚起を設け、偏見や誤解を助長しないよう慎重に制作すると表明している。これは何も表明しないより重要な一歩だと思う。だが、どの分野の専門家や機関が関与し、制作のどの段階から参加し、その意見が脚本や演出を変更しうるのかは、現時点では示されていない。僕が求めているのは、脚本や絵コンテを事前にすべて公開し、市民の許可を得てから制作せよ、ということではないし、あらゆるアニメ作品に一律の倫理審査や説明義務を課せという話でもまったくない。求めたいのは、完成作品の事前審査ではなく、制作の原則と手続きについての説明である。制作側は原作のどこに問題が指摘されていると認識しているのか。どのような専門性を持つ人がどの権限を持って関与するのか。みいちゃんの声、発音、笑い方、食べ方、怒り方、視線、身体の動きといった、アニメによって新たにつくられる「障害性」をどのように検討するのか。放送か配信か、対象年齢、注意喚起、宣伝、切り抜きやグッズ展開をどう考えるのかといったことについて、だ。別にすべてを説明せよと言っているわけではない。それでも、何を問題と捉え、どのような手続きで制作上の判断を行うのかは、示せるはずだ。
「そんなことを一作品ごとに求めていたら、アニメなどつくれない!」と言われるかもしれない。本作については、すでに人物名が現実の障害者への呼称として使われ、当事者から具体的な苦痛が訴えられ、製作委員会自身も、偏見や誤解を助長する危険を制作上の課題として認めている。あらゆる作品に、あらゆる危険を事前に予測せよと言っているのではなく、すでに具体化し、予見できる影響に、公開前から応答してほしいと言っている。一度放送や配信が始まり、音声や身振りが切り抜かれ、模倣され、ミームとして流通すれば、それを社会から回収することはできない。「まず完成品を見てください」だけでは、その不可逆的な影響への責任を、受け手の側に押しつけることになる。必要なのは、誰も傷つけないことの完全な保証ではない。問題を認識し、影響を受けうる人の声を聞き、制作判断に反映し、問題が起きたときに見直せる体制を持つことである。制作側から具体的で信頼できる方針が示され、条件が変わるなら、僕もその応答を見て判断を更新する余地を持っている。それは後退ではない。批評によって応答を求め、その応答を評価することもまた、批評の仕事だと思う。
文化芸術は人を傷つけてもよい。でも、傷つけ方がある
僕は、人を傷つけず、誰も不快にしない表現だけを求めているわけではない。文化芸術は人を傷つけることがある。観客が安心して立っていた場所を壊し、作品を見る前の自分には戻れなくする。その傷によってしか生まれない批評性だって十分にある。踏み込んで言えば、文化芸術は人を傷つけてもよいと僕は思っている。ただし、傷つけ方がある。問われるのは、不快かどうかではなく、誰に傷を負わせ、誰を安全な場所に残し、誰が快楽や注目、利益を受け取るのかだ。観客の善良さや安全な位置を傷つけるのか。作者や制作側のまなざしまでも問いにさらされるのか。それとも、すでに傷つきやすい立場にいる人の人生だけを差し出し、観客と制作側は安全なまま、その転落を楽しむのかーー。
実際に多くの人がご存知のように、講談社ヤングマガジン編集部の公式動画では、『みいちゃんと山田さん』について、人の不幸を罪悪感なく読めることや、みいちゃんがどこまで堕ちていくかを見たいという趣旨の発言がなされ、それが作品の「推しポイント」として編集されていた(動画はその後、非公開)。これは担当編集者やアニメ制作陣の制作意図を直接証明するものではないけれど、出版社の宣伝空間において、みいちゃんの転落を見る欲望が作品の魅力として言語化されたことは重い。以下のzephel01さんのnoteにまとめがあるので転載。
「不幸を消費しているのではないか」という疑問は、批判者が外部から勝手に持ち込んだものではないのだ。僕が問いたいのは、作者個人の人格や本心ではなく、この作品が制作され、編集され、宣伝され、アニメ化されていく過程で、誰の傷が商品として配置され、誰の欲望が動員されているのかという構造なのだ。
傷つける表現には、傷つけるなりの思想が必要だと思う。それは前回も書いた通りだ。でも、繰り返すがそのことは、作品の最後に正しい教訓を書けという意味では決してない。なぜこれほど苛烈な表象が必要なのか。それによって何が見えるようになるのか。作品は、他者の転落を見たいという読者自身の欲望まで問い返しているのか。問題は、他者の傷を描いたことではなく、他者の傷を使って受け手を安全に楽しませてはいないか、ということである。
描かれたあとを生きる人がいる
『みいちゃんと山田さん』を読んで、社会からこぼれ落ちる女性の存在を初めて知った人がいることは否定しない。この作品に救われた人、自分自身を重ねた人もきっといるだろう。それでも、ある人が作品に救われたことと、別の人がその作品から生まれた類型によって現実の生活で傷つくことは、同時に起こってしまう。だから、前者の存在によって、後者の訴えが無効になるわけではない。
描く人には、確かに描く自由がある。そして、描かれた像によって人生を決めつけられず、蔑称を与えられず、固有の人間として日常を脅かされず安全に生活する人にも自由がある。
僕は現在も、具体的な制作体制と説明が示されないまま進む、現状のアニメ化計画に反対している。制作側が寄せられた懸念を単なる炎上として処理せず、原作の何を問題として認識し、誰と検討し、翻案によって何をつくり直すのかを具体的に示すなら、その応答を見て、あらためて考えたい。
個々のコメントには返信してませんが、読んでいないわけでも、考えていないわけでもなく、受け取った問いには、こうしてちょくちょく文章によって答えていきたいと思います。今回問われているのは、描く側の自由だけを「表現の自由」と呼び、「描かれたあとを生きる人の自由」を、その外側へ置いたままでよいのか、ということなのだと思う。



典型的なダブルバインドだよ あなたの言葉を真に受けて生きたら心がぶっ壊れちゃうって
https://note.com/ndde674/n/n081c2fdff03e みい山アニメ化にはこういう懸念もありますよという話です