ざわざわした会場でも、自分に関係する事柄はスッと耳ざとく聞こえるカクテルパーティー効果がありますが、本も言葉も、自分にフィットするものはずっと心に残ります。
・だいぶ前に立川談志師匠の漫談の映像を見ました。
「カルガモの親子の行進を護衛するのはなんなのか 猫を放ってやろうかと思う」というボヤキ、KGBの小噺などしたあと急にハンドルを切り、
「年取った人たちが大根の葉っぱ捨てられないってのはケチでもなんでもないんです。
工夫すれば解決できる状態を知ってるから、それを放棄するのが嫌なんですよ。そういう幸せの基準があったんです」
という話をし始めました。
私はびっくりしました。
私の「ケチ」に急に枠組みが与えられたのです。
私は本当にケチで、漫談ででてきたように大根の葉っぱは捨てられないし、自炊で鍋や煮込みをやったとき、汁を一切捨てることができません。外出先でタッパーに玉こんにゃくを入れて食べ終わったあと、煮汁を持ち帰ろうとして漏れ、カバンが出汁まみれなったこともあります。
ずっとこの性分を「節約」の快楽ゆえだと思っていました。しかし、それだけでもないよなというモヤは常にありました。
漫談を聞き、瞬時に「私のケチの大部分は工夫の放棄ができないことに起因するんだ!」と輪郭がつけられました。
最後「幸せの基準を決めなきゃいけないという話です」と締めくくられました。漫談としてすごい締めくくり。みんなが宗教家や占い師、エッセイイストに求めているのはこういう感覚かと初めて体験しましたね・・・。
・落語に「水屋の富」というお話があります。
安く水を売って暮らす行商の水屋さんが、ある日宝くじで大金が大当たり。家の縁の下にお金を隠すも、盗られないか毎日心配で心配で完全にノイローゼになり、人が変わってしまいます。
ついに、そのお金は遊び人に盗まれてしまうのですが、水屋さんは「ああ、これで苦労がなくなった」と安堵するというサゲです。
この話を聞いたとき「貧乏くさい話やなあ、まあでも宝くじ当たって幸せになるだけの話おもんないもんな」と思いつつも、「自分、完全に『水屋さん』側やわ」と感じました。
「大金で自分のリズムが狂うくらいなら無い方がマシ」というのは、お金を持っていない人の負け惜しみっぽくて、自分のケチな性格に呼応したのかな・・・とは思います。
しかし、周り全員は価値を認めてるけれど、自分にはフィットしないものに振り回されるのは本当にしんどいです。私はケチですが、投資に気持ちが向かないのは、でかいものの上下に気持ちが振り回されるのが嫌だからかもしれないです。(知識がないのもありますが)
・今日、太宰治の「きりぎりす」という短編を読みかえしました。
主人公の女性は、全く売れてない自由きままな画家にほれ込んで結婚するも、その画家が成功してお金持ちになり俗人になったことをとことん嘆くというお話です。
こんな一節があります。
「あなたは、展覧会にも、大家の名前にも、てんで無関心で、勝手な画ばかり描いていました。貧乏になればなるほど、私はぞくぞく、へんに嬉しくて、質屋にも、古本屋にも、遠い思い出の故郷のような懐なつかしさを感じました。お金が本当に何も無くなった時には、自分のありったけの力を、ためす事が出来て、とても張り合いがありました。」
太宰治『きりぎりす』青空文庫より
この「ぞくぞく」という部分に、わたしも同じようにぞくぞくしました。
そう、そうなんです。限られた中での工夫、確かにあるその喜びをこんな馬鹿正直につづった文に目が開かれました。
文章はこう続きます。
「だって、お金の無い時の食事ほど楽しくて、おいしいのですもの。つぎつぎに私は、いいお料理を、発明したでしょう? いまは、だめ。なんでも欲しいものを買えると思えば、何の空想も湧わいて来ません。市場へ出掛けてみても私は、虚無です。よその叔母さんたちの買うものを、私も同じ様に買って帰るだけです。あなたが急にお偉くなって、あの淀橋のアパートを引き上げ、この三鷹町の家に住むようになってからは、楽しい事が、なんにもなくなってしまいました。私の、腕の振いどころが無くなりました。」
太宰治『きりぎりす』青空文庫より
「貧乏」を「腕の振いどころ」と表現しています。
今、私が似たようなことを書くと、「ほんとうに貧乏で困ってる人に失礼」というような批判に埋もれてしまいそうですが、あえて言うならば「すべて『買って済ませればいい』という、工夫ゼロに対する立場としての『貧乏』」です。
今日の私、すごく仕事やめそうな雰囲気ありますね。
・だいぶ前に立川談志師匠の漫談の映像を見ました。
「カルガモの親子の行進を護衛するのはなんなのか 猫を放ってやろうかと思う」というボヤキ、KGBの小噺などしたあと急にハンドルを切り、
「年取った人たちが大根の葉っぱ捨てられないってのはケチでもなんでもないんです。
工夫すれば解決できる状態を知ってるから、それを放棄するのが嫌なんですよ。そういう幸せの基準があったんです」
という話をし始めました。
私はびっくりしました。
私の「ケチ」に急に枠組みが与えられたのです。
私は本当にケチで、漫談ででてきたように大根の葉っぱは捨てられないし、自炊で鍋や煮込みをやったとき、汁を一切捨てることができません。外出先でタッパーに玉こんにゃくを入れて食べ終わったあと、煮汁を持ち帰ろうとして漏れ、カバンが出汁まみれなったこともあります。
ずっとこの性分を「節約」の快楽ゆえだと思っていました。しかし、それだけでもないよなというモヤは常にありました。
漫談を聞き、瞬時に「私のケチの大部分は工夫の放棄ができないことに起因するんだ!」と輪郭がつけられました。
最後「幸せの基準を決めなきゃいけないという話です」と締めくくられました。漫談としてすごい締めくくり。みんなが宗教家や占い師、エッセイイストに求めているのはこういう感覚かと初めて体験しましたね・・・。
・落語に「水屋の富」というお話があります。
安く水を売って暮らす行商の水屋さんが、ある日宝くじで大金が大当たり。家の縁の下にお金を隠すも、盗られないか毎日心配で心配で完全にノイローゼになり、人が変わってしまいます。
ついに、そのお金は遊び人に盗まれてしまうのですが、水屋さんは「ああ、これで苦労がなくなった」と安堵するというサゲです。
この話を聞いたとき「貧乏くさい話やなあ、まあでも宝くじ当たって幸せになるだけの話おもんないもんな」と思いつつも、「自分、完全に『水屋さん』側やわ」と感じました。
「大金で自分のリズムが狂うくらいなら無い方がマシ」というのは、お金を持っていない人の負け惜しみっぽくて、自分のケチな性格に呼応したのかな・・・とは思います。
しかし、周り全員は価値を認めてるけれど、自分にはフィットしないものに振り回されるのは本当にしんどいです。私はケチですが、投資に気持ちが向かないのは、でかいものの上下に気持ちが振り回されるのが嫌だからかもしれないです。(知識がないのもありますが)
・今日、太宰治の「きりぎりす」という短編を読みかえしました。
主人公の女性は、全く売れてない自由きままな画家にほれ込んで結婚するも、その画家が成功してお金持ちになり俗人になったことをとことん嘆くというお話です。
こんな一節があります。
「あなたは、展覧会にも、大家の名前にも、てんで無関心で、勝手な画ばかり描いていました。貧乏になればなるほど、私はぞくぞく、へんに嬉しくて、質屋にも、古本屋にも、遠い思い出の故郷のような懐なつかしさを感じました。お金が本当に何も無くなった時には、自分のありったけの力を、ためす事が出来て、とても張り合いがありました。」
太宰治『きりぎりす』青空文庫より
この「ぞくぞく」という部分に、わたしも同じようにぞくぞくしました。
そう、そうなんです。限られた中での工夫、確かにあるその喜びをこんな馬鹿正直につづった文に目が開かれました。
文章はこう続きます。
「だって、お金の無い時の食事ほど楽しくて、おいしいのですもの。つぎつぎに私は、いいお料理を、発明したでしょう? いまは、だめ。なんでも欲しいものを買えると思えば、何の空想も湧わいて来ません。市場へ出掛けてみても私は、虚無です。よその叔母さんたちの買うものを、私も同じ様に買って帰るだけです。あなたが急にお偉くなって、あの淀橋のアパートを引き上げ、この三鷹町の家に住むようになってからは、楽しい事が、なんにもなくなってしまいました。私の、腕の振いどころが無くなりました。」
太宰治『きりぎりす』青空文庫より
「貧乏」を「腕の振いどころ」と表現しています。
今、私が似たようなことを書くと、「ほんとうに貧乏で困ってる人に失礼」というような批判に埋もれてしまいそうですが、あえて言うならば「すべて『買って済ませればいい』という、工夫ゼロに対する立場としての『貧乏』」です。
今日の私、すごく仕事やめそうな雰囲気ありますね。
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