メッセンジャー
出張前に家のあちこちに手紙を残す日下部の話
⚠️捏造だらけ
⚠️決戦後の日車呪術師if
正直こんな面倒なことをアツヤはするのだろうかという疑問はありますが「懐に入れた人に対しては甘いイメージがある」という気持ちだけで突っ切りました。
高頻度で場面が飛ぶかつ文章量がバラバラなので読みづらいかもしれません。有罪。
呪術は初めてなので設定等間違いがあるかもしれませんがよろしくお願いします。
- 69
- 82
- 974
カーテンの隙間から朝日が差し込んで自然と瞼を開く。寝ぼけ眼で隣を探るがいつもいる質量がなくて疑問に思うと同時に、そうか今日から出張でいないのだったとまだ覚めきっていない頭で理解した。
いつものルーティンが無いせいなのか、はたまた寂しさからかわからないが普段より重い体を起こしてふありとあくびをこぼす。伸びをする際パキと音がなる背骨に「いや、もしかしたら重い体は歳のせいかもしれないな」なんて考えながらベッドから降りようと床に足をつけると、隣にあるサイドテーブルに1枚のメモ用紙が置かれていた。
書き置きなんて珍しい、と思いながら100円均一によくある正方形のメモを手に取ると、急いでいたのか少しだけ雑な字で書き記されている。
『おはよーさん。よく寝れたか?前にも言ってたが今日からしばらく家と高専のこと頼んだ。俺がいなくても絶対メシと睡眠だけは抜くなよ。いってくる』
ところどころ繋ぎ文字になっている筆跡はここ数年ですっかり見慣れた恋人の字だ。なんとなくひっくり返して裏面を見ると文字に沿ってぼこぼこしている箇所がある。刀を何年も握ってきた手や腕は力加減をすることが難しいのか、彼は気を抜くと時たま筆圧が強くなることがあった。いつもは力を抜くように気を付けているらしいが、それほど急いでいたのだろうか。それとも時間が繰上げになったか。どちらにせよ彼は「面倒くせぇ〜〜」と思いながらも律儀に時間通り向かったのだろう。
数行のメモに再度目を落としてサイドテーブルの引き出しにそっとしまった。
朝はいつもコーヒーを飲む。
日下部が淹れてくれることもあれば自分が淹れることもあったが、俺は日下部の淹れるコーヒーが好きだ。
どのくらい好きかと聞かれると、淹れてもらうがために先に目が覚めてもわざと身体を起こさず日下部がコーヒーを淹れにいくのを見送るくらいには。そうやってしばらく布団にくるまっているとコーヒーの香りを纏わせた日下部が、俺が目が覚めていると知っていながら起こしに来るのだ。だから彼はいつも「おはよう」ではなく「コーヒー入ったぞ」と言う。この歳になって甘えるのもどうなのだろうと思うが、豆もケトルと水も同じはずなのにどうしてか味が変わるのはなぜなのだろう。
ゴリゴリとミルで豆を削ってカップを取ろうと食器棚を開ける。いつも使っているマグを取り出すと、中にサイドテーブルにあったものと同じメモ用紙が入っていた。なぜこんなところに、と思いつつメモに目を落とす。
『コツ:お湯の温度を下げること。あとひとつあるけどそれはまた今度な。コーヒーだけで済まそうとするなよ』
まるで思考を先回りされているようでほんの少し驚いた。
まだ甘えるのに慣れていなかった頃。日下部の淹れるコーヒーを真似しようとコツを聞いたことがある。彼は一瞬口を開いて閉じた後すぐに「企業秘密でーす。いつでも淹れてやるよ」とはぐらかした。職業柄人間の良い所も悪い所も見てきたから分かるがあの一瞬の思索は、言おうと思ったことを止めた空白だ。待ったをかけて審問をすることもできたがそこまでのことではない上に、どうやら俺が甘えれば解決することだと言われたような気がしてあの日初めて「コーヒーを淹れてほしい」と我儘を言ってみたりしたのだ。
後々任務や私生活を経て気付いたが、日下部は全てを自己完結する俺のことをよく思っていないようだった。甘えろとは言われた試しがないが、頼れとは何度も何度も言われた記憶がある。特に任務においては「報連相をしっかりしろ。社会人でしょーがあんた」と呆れられたものだ。
今思えばあれも日下部なりの優しさが滲んだ結果なのかもしれない。
しかしながらあとひとつは何なのだろうか。だがコツを全て知ってしまうと俺でも作れてしまうから困る。俺は結局日下部が淹れるコーヒーそのものが好きなのかもしれない、と思いながら寝室に戻りメモ用紙をサイドテーブルにしまった。
家を出る直前、ひとりになるとつい抜いてしまう朝食をしっかり指摘されたため手のひらに収まるおにぎりを持って高専に向かった。
二重になっている鍵を開けて玄関を開ける。バタンと背後でしまった音が響いて、静寂がなおのこと強く感じた。
呪術界といういつでもどこでも多忙な業界に身を置いているため、お互い同じ家に住んでいても全く会わないことは多々ある。だがそれでも真っ暗な1人の部屋は底冷えする気分になった。弁護士時代は当たり前の光景だったというのに、時の流れと彼に絆されている事実にほんの少し居た堪れない感情が湧き上がる。
スーツを脱いで部屋着に着替えるとどうも自分のためにやる気を起こそうという気にならず、ソファに寝転がる。本当であればシャワーも浴びなければいけないし晩御飯だって食べなくてはならない。特に後者は日下部から口酸っぱく言われていることだ。
まだ関係が恋人ではなかった時、日下部から妹君の話を聞いた。
息子の死がきっかけで自分の世話がまるで出来ず、ひとりで外出も、歩くことも出来なくなってしまったと。なにより1番危険だったのは『食事が喉を通らない事』だったという。人間の身体はエネルギーがなければ動けない。回復できない。
ただ、ゆっくりと衰弱していくのみだ。
いつしか健康的な食事が取れなくなり、好物も食べられなくなり。点滴で補い始めたが、そのうち補助だったはずの点滴が主な生命維持になっていった。
甥っ子の話も聞いた後に、日下部は今よりも随分痩せて骨ばった俺の手を見て言った。
「だから今のあんたを見てんのは……正直、きつい。…俺が見てるとこだけでもいいから、ちゃんと食って」
あの頃の記憶が脳裏をかける。あんな顔はもう2度とさせないためにも、食べなければな。
先程までは重力が何倍にも感じていた身体を軽々起こして冷蔵庫に向かう。冷蔵庫を開けると青白い光の中の真ん中に今朝と同じメモ用紙が置いてあった。一体いくつあるんだ、と思いながら冷えたメモを手に取る。
『前に10段のパンケーキが食べてみたいって言ってただろ?帰ってきたら作ってやるから胃袋小さくすんなよ』
どうやらぽつりとこぼした俺の小さな夢を叶えてくれるらしい。つい笑みが溢れてメモの文字を撫でる。尚更、食事を抜くわけにはいかないようだ。
体温でぬるくなったメモをサイドテーブルにしまって野菜室を開けた。
「……こんなところにもあったのか」
今日は夜中の任務だったためそれまでは自室で事務仕事でもしようかと思っていたのだが、結局昼過ぎに起きた。だらしないことは承知の上だが、いかんせん日勤と夜勤の区別もない環境のため目を瞑っていただきたい。空の真上にある太陽の光を浴びながらベランダを見つめていると、そういえば植物の水をあげる頃だと気付いてジョウロを持ってベランダに出る。
いつしか植物を枯らしてしまったと日下部に言うと「毎日水あげてる?あげすぎも良くねぇぞ」とアドバイスを貰ったのだ。どうやら生き物は皆すべて過剰も不足も毒になるようだと知ったのは高専預かりになってから半年を過ぎた頃だった。近くにしゃがんで水をあげようとすると、植物用の栄養剤のような筒に紙が入っていることに気がつく。
まさかと思い取って開けるとやはり昨日3枚見つかったメモ用紙と同じものだった。賞状のようにくるりと巻かれて入れられたメモは広げても端が巻き、若干の抵抗を感じる。
しかしながら彼はこんなにサプライズ好きだったろうかと逡巡しながらメモを見た。
『5月10日の深夜一時、ベランダの方角から流星群が見られるらしい。俺もあっちで見る』
10日。逆算するより先に無意識下でリビングのカレンダーをみると今日はまだ2日だった。忘れることはないだろうが、念のためカレンダーに書き込みながらメモ用紙の『あっちで見てる』という言葉を思い返す。
それは詰まるところ、同じ空を見上げたい、ということだろうか。あまりにもロマンチストな言動すぎてそわそわしてしまう。いつもは一切言わないのに。本当にこれを書いたのは日下部なのか?イタズラではなく?と疑心暗鬼になりながら筆跡を何度も見たり意味もなく裏返してみたりするが、事実に変わりないらしい。スマホで『5/10 流星群』と調べると確かにこの方角から見えるようだ。高専の近くにあるこの家は都心の光があまり届かない位置にある。おそらく綺麗に見ることができるだろう。
メモ書きには『一緒に見よう』とも『見ろよ』とも書かれていない。あくまで見る見ないは日車の自由だ。それでも日下部は10日に俺が流星群を見ると踏んで日付と時間だけ残したのだろう。日車の思考や癖を完璧に知っている証拠だ。
5月のまだ肌寒い風が、少し熱くなった頬を撫でて部屋に入り込みカーテンがたなびく。机の上に置きっぱなしの資料が一枚床に落ちた。
「本日は全国的に晴れ間が広がりそうです。絶好の洗濯日和でしょう」
共に住むことになってから新しく買ったテレビから耳障りのいいアナウンサーの声が聞こえてくる。共に住む、と言っても初めは同棲ではなく覚醒型の中途呪術師という保護観察のための同居だった。ここ数年で関係がガラリと変わるものだから人生は予測できないことばかりだ。
さて、今日はどうやら雲ひとつない晴天らしい。ベランダの窓を開けて空を見上げると遠くに2本のまっすぐな飛行機雲が見える。
スーツはいつもクリーニングに出すため洗濯物といったらタオルぐらいしかないのだが、せっかくのいい天気だ。梅雨がくる前に衣替えもしてしまおうか。どうせなら寝具の毛布も洗ってしまおう。日下部は体温が高いから寒ければ彼にくっつけばいい。
「俺の都合は無視ですか日車先生?」という恋人の声が聞こえた気がして「先生ではない」ことだけ否定し、後は知らないふりをする。白味がかったグレーの毛布を腕に抱え込み洗濯機に向かう。
丸洗いはネットに入れるんだったか、すすぎを多めにするんだったか思い返しながら蓋を開けると洗濯槽の中に裏返しに置かれたメモがあった。
また?というか何枚あるんだ。逆にどこが見つかってないんだ。
数日で何枚も見つかるメッセージにさすがに驚きを隠せずにメモを取った。
『この時期に洗濯すると思うんだがあんた意外と寒がりだよな。前ヒートテック着てたし。逆に俺はすぐ体温上がるけど。
衣替えした後に寒い日があるとすぐくっついてくるのカワイーと、思って、ます』
途中書くのをためらったのか、我に帰ったのか、ところどころボールペンを立てて置いたまま点が滲んだ跡がある。このメモだけ不自然に段落が分かれているしきっと直前まで書くか迷ったのだろう。今までとは違う文章に少し面食らってしまって頭に星が落ちた気がした。
寒がりという自覚はないが、特別寒さに強い自信はない。東北生まれというと寒さに強いんでしょ?と言われることがあるが、それは身長が高い人になにかスポーツやってたでしょ?と聞いているようなものだ。東北生まれでも寒いものは寒い。今年の冬は特に寒波が酷く、日下部と山奥へ任務に行った時は自身のコートの上に日下部のコートを借りて羽織っていたくらいだ。しかしいくら俺が寒がりといえどあの吹雪の中コート無しで動ける彼も極端に体温が高い気がする。出会ってから3度冬を共にしているがマフラーも手袋もしているところを見たことがない。だがマフラーに埋もれる彼や黒の革手袋をつけている彼を見たいかと聞かれたら、正直めちゃくちゃに見てみたい。日下部はなんだかんだ甘いからプレゼントでもしてみれば付けてくれるかもしれない。
それにまさかくっついているのが可愛いと思われているとは。どうやら俺のわがままと日下部のときめきポイントはぴったり当てはまるようだ。誰にみられているわけでもないが自然と上がる口角を隠すようにメモを口元に持っていく。
いいことを知った、と気分が上向きになりながら毛布を洗濯機に入れた。
午後のバラエティーをぼうっと眺めてコーヒーを飲む。わははと出演者が盛り上げる光景を液晶越しに見ながら、そういえば高羽は息災だろうかとぼんやり思った。
本当に久しぶりにひとりの休日だ。
高専預かりになって初日から同居が始まり、そのまま同棲に行き着いたため休日中ひとりきりというのは弁護士時代以来だ。そもそも仕事中も高専には生徒たちがいるし、任務にも補助監督が同行するからか中々ひとりになるタイミングというのはあまりなかった。
だからだろうか、静寂なわけでもないのに少しだけ心寂しくなる。大学を卒業して十何年とひとりで暮らしていたというのに、今更ひとりが寂しいなんてあまりにも退化しすぎではないか。あの頃は何も感じていなかった自身の変化にまだ追いつけていない感覚がある。事故とはいえ全てが変わってしまった生活の中で、呪術界には慣れてきたものの人との関わりは新しいことばかりで、嫌な部分をたくさん知って、その分生徒や周りの愛しさもわかって。だからこそ緩やかに首を絞められている心地がした。
どれもこれも日下部のせいだ。彼は甘えさせるのがうまいから。
日車はあんまりな責任転嫁をしつつ気を紛らせるために本棚を見る。集中できるかは定かではないが気分転換くらいにはなるだろう。4段ある本棚を上から順に見ていくと3段目に白い栞が挟まっている本を見つけた。なんとなく手に取ってみると文庫本サイズの白い紙だった。紙質的にここ最近見つけたメモ用紙と同じものだから、また何かのメッセージだろうか。本棚はリビングの割と目立つところに置いているのだが以外と気づかないものだな、と思いながら紙を開くと、そこには文字ではなく虫食いのような穴が空いたただの真っ白な紙だった。
唐突に変化球が訪れてつい「え」と声が溢れる。均等ではないし連続で空いている箇所もあり、この紙で完結するというより何か大元があってそれに沿って合わせたような空き方だ。王道に行くならおそらくどこかのページに合わせると文章になるものだろうか。手始めに本が挟まっていたページに当ててみるが、どこもしっくりしない。となると別ページだ。
1ページ目から順にずらして当てていく。
2ページ、3ページ、4ページ………
もともと栞が挟まっていたところを通り過ぎて、本の七割程度が進んだところでぴったり文字が当てはまるところを見つけた。
「……ここか。…怜…れい、とうこ?に…会い…あい、す……ああ、『冷凍庫にアイスある』か」
ようやく解けた謎に達成感を感じつつ時計を見上げると、謎解きを開始してからもう2時間も経っていた。ヒントが一切なかったものだから、まあまあなタイムだろう。おそらく。
いい時間であるしせっかくなので用意してくれているだろうアイスを取りに冷凍庫を開けると、自分が学生の頃からあるコーヒーミルクのアイスだった。2人で分けて、頭の部分を食べるか食べないかの論争を何十分とやったり、ここが1番美味しい派がいたりとくだらない話をしていた学生時代を思い出す。
日下部もそんな時代があったのだろうか。昔から妹君を養っていたと聞いているから、もしかすればそれどころではなかったかもしれない。自分よりもずっとずっと長く呪術界にいる彼は、日頃の小さな幸せが血で上書きされてしまっているのではないだろうか、と余計なお世話が浮かんでは消える。日下部の面倒くさがりは一種の諦めが含まれている、と、ここ最近ようやく気付いた。面倒くさがりだというのは事実だが、仲間を多く無くして、きっと自身よりもうんと年下の呪術師の死も見てきたからだろう。
のらりくらりとかわしても、それはどうなんだとごねても、それでも最後には覚悟を決めて命を投げ打てる。口をついてでた言葉だったとしても誰かのために犠牲になることが念頭にある。
例え亡霊になっても守りにきてくれると信じてしまうほどに、彼の心根は優しい。
手元にある2つのアイスをぱきりと割ってひとつは冷凍庫に戻す。確かこのアイスのキャッチコピーは「幸せを分け合う」ことだったはずなので。
ソファに戻って頭を外して口をつける。学生の頃から俺は頭は食べる派だ。
目の前のバラエティーだった番組はいつのまにかニュースに変わり、ちょっとしたコーナーでタレントが街ゆく人にインタビューをしている。音としては先程よりも落ち着いているはずなのに、さっきまでの寂しさはとっくになくなって懐かしいコーヒーミルクの甘さだけが残った。
カタ、とキーボードを叩く音が小さく響く。下がってきた眼鏡を一度取って背伸びをして、ちらりと時計を見るとすでに午後6時を回っていた。
ここ最近は自分のために作るのが億劫で、お茶漬けやそうめんを鍋で茹でるだけで終わってしまっている。本当ならきちんと食事を用意して食べるべきであるし、そちらの方が日下部は安心するのだろうがこれでも以前より随分良くなったのだ。あの時は一週間の内暖かい食事を摂ることなんて数回あるか無いか程度で、空腹の状態を思い出せないほど頓着が薄れていたから。
今日も適当に済ませてしまうかと立ち上がると、先ほどまで使っていたボールペンがカツンと床に落ちた。転がって机の真下に入り込んでしまったためしゃがんで取ろうと覗き込むと、机の1番奥の裏側にあのメモが貼り付けられていた。
さすがにこんな場所にもあるとは思わず驚いて頭をゴツンと机の角に打ちつける。メモを剥がして後頭部をさすりながら立ち上がると前のメモたちよりだいぶ行数が多いのかびっしりと文字が並んでいた。
『厳格で真面目かと思いきや意外と抜けてるところがあるし、自由気ままで猫みてぇだなって思ってる。でも俺は日車のそういうところにハマっちまってるしアホみたいに惚れ込んでるって自覚もしてる。………見つかりにくいところに貼るからにはちょっと大胆に書いてみるかと思ったが、あんたなら見つけそうだな……もしかしてこれ言い損か?やらかした』
どうやら今回は俺の好きなところについてのメッセージだったらしい。日下部としてはもう一生見つけられない気持ちで書いたのだろうが、どうやらメモの杞憂通り運良く見つけてしまったようだ。彼にとっては運悪く、だろうが。その証拠に今までのメモは格好つけたがりのような言葉ばかりだったのに、このメモだけ少し気の抜けた軽い口調で書かれていて思わずふは、と笑った。
日下部はあまり「好き」も「愛している」も言わない。
といっても別に不満があるわけではない。
そもそも俺もあまり言わないし、今更ティーンのように言葉にしないとわからない!なんて拗ねるつもりもそんなエネルギーもないからだ。
いかんせん2人とも人間関係に対して、積極的な繋がりを求める生き方をしてこなかった。人懐っこいわけでもないし話しかけやすい雰囲気でもない。その上こちらからも関わりを求めないから関係値が希薄のまま終わるのだ。
このメモのように直接的に言葉にされたのは告白された時以来ではないだろうか。
あの日は俺が高専に来てちょうど2年経った時期で、ようやく教師職にも呪術師にも型が付いた頃だった。
教職員室で資料をまとめていると少し立て付けの悪い扉がガラリと開いて首だけ後ろへ振り返る。
「日下部か。おかえり」
「おー……」
「…随分と疲れているな?確かそこまで難航する任務ではなかったはずだが」
「相手はな。大した術式持ってねぇし。ただその相手の頭が硬ってぇのなんのって。途中上の連中と話してんのかと錯覚したわ………はぁ〜〜疲っかれた」
ソファにぐでりと座り込む日下部の身体には外傷は一切見られないため、本当に交渉に持ち込んだのだろう。それか上の人間から何か言われたか。どちらかと言うとこの手の任務は術式の性質上日車の元に依頼が来ることが多いのだが、なんのコネを使ったのかいつの間にか日下部が代わりに引き受けていて、それに気づいた時には既に任務先に赴いていたのだ。日車は頭上に疑問符を浮かべながら任務依頼に目を通すと、どうやら一般人に冤罪の罪をきせて「訴えない代わりに儀式に参加しろ」という名目で暴れ回っている呪詛師のようだった。おそらく本人が所有している術式か呪具かが関係しているのだろう。
日下部はこの「冤罪」という言葉に引っかかったのかもしれない。日車は自分の犯した罪については決戦の前に日下部に話していた。殺害するに至った経緯も含めて。あの時はなんでもないように聞いていたがあの彼のことだ、気になったことには結局首を突っ込んでしまう性格上放って置けなかったのかもしれない。
疲れたと言いながらも結局引き受けて、それに対して詳しく話もしない日下部には度々救われてきた。全てをひけらかさなくても良いと言われているようで、ついそれに甘えてしまうのだ。
しかし勝手に任務を変わったとはいえ、日車の業務量が減ったことは事実である。なにかお礼ができれば良いが何が良いだろう。
…もし食事を共にできるならそれは俺に取っての褒美になってしまうが、来てくれるだろうか。
決戦の日から行動を共にするうちにいつしか好きになってしまった彼に、どう声をかけるべきか逡巡していると未だソファに座っている日下部が天井を見つめながら声をかけた。
「あんた明日休みだったよな?今から飲み行きません?」
資料を簡単にまとめて2人で高専を後にし、あれよあれよと居酒屋に来てもう2時間経った。
日下部も俺ももうだいぶ飲んでいて少しだけ頭がぼうっとする。このふわふわした心地はアルコールのせいか、はたまた意中の人と共にいるからか。後者だった場合、恋に溺れる中年男性という地獄のような字面になってしまうので前者ということにさせてほしい。
酒を飲みながらちらりと対面に座る男のことを見る。鋭いようにも気だるいようにも見える目元はいつもより柔らかい印象を受けた。
それにしてもまさかあちらから誘われるなんて思ってもみなかったため、飲みに行こうと誘われた時は「ああ、うん…」と腑抜けた返答をしてしまったことを思い出す。もっとこう、何か気の利く回答ができなったものかと未だに後悔していた。相手の一挙手一投足にも自分の行動にも、必要以上に考え後悔しては頭を悩ませるのも何回目だろう。恋とは本当に厄介なものである。
悩んでも仕方がないことなのだが考えずにはいられなくて意識せずに皿を持ち上げると、ギリギリに置いてあった箸が転がって机の真下にカツン、と落ちた。あ、と声を上げると日下部がこちらをみて状況を察する。
「ん、落とした?すんませーん、新しい箸もらっていいすか」
「すまない…」
はーい!と元気よく答える店員の声にかき消されそうになりながら謝ると気にすんなよ、と手をひらひらさせた。なんだか先ほどから自分の格好悪いところばかり見せてしまっている気がするが。とりあえずテーブル下に入り込んでしまった箸を拾おうと下に潜り込む。
手に取って顔を上げる一瞬、視界の左に日下部の手の甲が見えた。向き直った時にはもうその手はなくて、その代わりに手の置かれていた場所にちょうどテーブルの角があったことがわかった。
ぶつけても痛くないようにしてくれていたのか。
いや、そんな、女性や子供じゃあるまいし。
うれしい。恥ずかしい。格好良い。好きだ。
大好きだ。
「……今日の任務の代替えでも思ったが、なぜ俺なんかにここまで気を使う」
かき乱される心の内を悟られぬようにわざと答えにくい質問を投げかける。日下部はひとつ瞬きをして目を逸らしながら首筋に手を当てた。
「気を使うっちゅーか……いや、まあそりゃあ、惚れた相手には優しくするでしょうよ」
「………?、……惚れ…?」
ありえない言葉が聞こえた気がしてぽかんと口が開く。目の前の彼は逸らしていた目線をこちらに戻してまっすぐに俺の目を見た。
「この際だからハッキリ言いますけど、俺あんたに惚れてんですよ、ね」
何を、言っているんだ、この男は。
本当に?もしかしてこれが告白というやつなのか?わからない。こんな経験初めてで何を言えば良いのか、適切な回答が見つからない。
とりあえず何か言わなければと口を開く。
「そ、「すいませーん!お待たせしました!お箸ここに置いておきますねー!」
忙しいだろうにこちらの不手際で手間をかけさせてしまってすまない店員さん。しかしどう考えても今ではなかった。
風のように来て、風のように去っていった店員に話をぶった斬られ沈黙が落ちる。やり直しをするために日車は再度口を開いた。
「その、惚れているというのは」
「ええ、ここまで言ったら察してくださいよ……恋人になりたいって、そういう話」
「な、なぜ」
「なぜって。あんた聞きてぇの?話し始めたら多分この店が閉まる方が先になっちまうと思うけど」
ふは、と笑いながら答える日下部とは裏腹に日車の頭の中は大パニックだった。こんな都合のいいことがあって良いのか、夢なのでは?
数十秒ほどぐるぐるとまわる回転率のいい頭は、ついに最終回答を出した。
「……帰る」
日車はがたりと立ち上がりハンガーにかけていたジャケットを羽織り出す。その姿をじっと見ていた日下部は表情には微塵も出ないものの「うわ〜〜まじかこれ振られる?」と心の中では泣きそうになりながら見つめていると、夜で誰も見ていない時間というのにしっかりジャケットのボタンを閉めた日車が向き直った。いつも血色がいいとは言えない顔が、今は林檎のように赤くほてっている。
「帰って、その話を、聞かせてくれ」
結局その後保護観察という名目で同居している家に戻り、改めてお互いの想いを確かめ合って、晴れて恋人同士となった。
今思えば他人である日車の出勤状況や休みの日を覚えているとか、任務内容をわざわざ見て代わりに引き受けるとか。脈がなかったら何なんだと言いたくなるような事ばかりだったが、その当時は本当に気付かなかったのだ。卑屈になりすぎていたというのもあるし、まさか同性の男のことなんて眼中にないだろうと思っていたため付き合おうという気は微塵もなかった。棚からぼたもちというべきか青天の霹靂というべきか。
付き合った次の日の朝「どう考えても俺を選ぶなんておかしい。きっとすぐに目が覚めるはずだ」と思いながら日下部と共にいたが、日車が白旗を上げるのにそう時間はかからなかった。敗北というより陥落した、のほうが正しいかもしれない。
それくらい恋人になった日下部の言動はひどく甘く、ひどく重いものだった。
思えばこれももう数年前の話か。歳を食うにつれてどんどん時間が早くなる気がするな。
先ほど打った後頭部の痛みは本当に久々だった。いつもは素知らぬ顔をして守ってくれる人がいるから。
夢を見た。
あの日、裁判官と検事を殺害した日の。
手のひらは赤黒く染まって、周りの人間が、自身の大切な部下が、怯えた顔でこちらを見ている。
絶望と空虚のさなか、気付いた時には既に劇場にいた。
現実、権力、平等、金。そこでようやく気付く。
ああ、私は。法に見限られたのか。
ハッと目が覚めて荒くなっていた息を吐く。震える手を握って額に手を当てた。
額も手のひらも脚の先も冷たくて凍えそうなほど寒い。
隣に置いているスマートフォンの電源をつけるとまだ深夜の2時だ。それでも頭は冴え切っていてとても再度眠れる状態ではなかった。諦めてベッドから降りクローゼットを開ける。この時期になって、もういらないと思っていた毛糸のカーディガンを取り出して上から羽織った。それでもまだ寒い。寝室を出てキッチンに行きマグカップを取り出す。コーヒーを淹れようとケトルに手を伸ばしたが、ふいと方向転換をして冷蔵庫を開ける。半分ほど減っている牛乳を取り出してマグに注ぎ、レンジに入れた。
低い機械音を立てて稼働するレンジの前で手先の冷たさを慰めるようにポケットに手を入れると、指先にカサリとした感触がある。
右ポケットからその感触の正体を取り出すと、あのメモ用紙だった。
『あんたの悪いとこは抱え込みすぎるところ。もーちょい人を頼ることを覚えろ。俺は日車のこと頼りにしてる。だからあんたも頼れ。高専のガキどもだって柔じゃない、知ってるだろ?あんたのそういうとこも全部ひっくるめて好きだけど、そんな好きなやつの苦しそうな顔はできるだけ見たくねぇのよ。……もし寒いならブランデーを入れるといい』
ああ、見透かされているな、と思う。
ここ最近は着ていなかったカーディガンに触れているということは、そういうことだと日下部は察しているのだろう。
チンと温めが完了した音を聞いた日車は、メモの通りブランデーを取り出して数滴入れた。
決戦後、俺は回遊で虎杖に言った通り自首をした。しかし不起訴になってしまったため控訴をしたのだが、それでも結果は変わらなかった。
一般人の権力に対して呪術界の圧力はあまりにも強すぎたのだ。
吹き飛ばされて中途半端に直した左腕はいまだに完治できていない。自首をして何ヶ月も経った今日まで首からかけた三角巾はついぞ取りはらうことができなかった。
これからどうするべきか。裁かれるつもりでいた事もあり先が見えなくなった感覚がして頭が回らない。行き着く場所もないのにここにずっと居るわけにはいかなくて外に出ると、一台の黒い車が止まっているのが見えた。
あの車を知っている。高専で使われている物だ。脚を止めて車の前にいる人物を見ると、その男と目が合った。決戦時も着用していたトレンチコートは買い替えたのか新しいように見えた。
「お久しぶりですね、日車先生」
「……先生はやめろ」
「はいはい。…とりあえず乗れよ。どうせ行くとこもないだろ」
先に運転席側に戻った彼を見つめて視線を落とし、大人しく助手席側に乗り込む。バタンと扉が閉まって車が発進する。裁判所から離れ、高速に乗る車の行き先は東京を指していた。
しばらく無言のまま走って、ふいに運転席に座る男が前を見据えながら口を開いた。
「単刀直入に言う。高専に来い」
「拒否権は?」
「ない。つーか、呪術界の法律とかあって無いようなもんだからな。……上層部はもう動き始めてる。特にあんたの術式は上の人間にとって都合が悪いんだよ。碌でも無いやつばっかだからな。もしあんたの領域に巻き込まれた日にゃあ、確実に殺されると思ってる。だからさっさと縛って飼い殺しにしてやるって算段だろう」
想定はしていたが、まさかそんな事態になっているとは。と他人事のようにぼんやり思う。決戦前ほんの少しだけ話した五条の口ぶりからしても上層部のことは毛嫌いしていたようだし、どうしようもない連中なのだろうと思ってはいたが、さすがに一般人上がりの相手に厳重すぎやしないだろうか。
おそらくこれ以上聞いて、どう足掻いても拒否はできないようだ。日車は諦めて、ふと気になったことを投げかけた。
「……君は、命令されて来たのか」
その言葉を聞いた日下部は少し息を吸ってハンドルを握り直し、淡々と答えた。
「…迎えに行けっつー話はあったが別に行くのは誰でも良かった、けど。……なんとなくだよ」
その目線は少しだけ切ないように見えて、それ以上話を続ける気にはなれなかった。
あの時の日下部の感情は今でも分からない。死線を共に超えた人間への情かもしれないし、なにか思うところがあったのかもしれない。
結局俺は強制的に高専預かりになり、過剰に怯えた上層部は日車を「保護観察対象」として日下部と同居することになった。補助監督の仕事を請け負うこともあれば、一級までの任務を担うこともあり、任務には必ず日下部が同行した。初めの頃は始まりから終わりまで二言言葉があればいい方、というくらい話さなかったが、生徒たちや報告の話をするにつれて少しずつコミュニケーションを取るようになった。
好きな食べ物、嫌いな食べ物、趣味、好きな音楽、最近の愚痴。
自分の中で空白だった彼の人物像のピースが当てはまっていく感覚は悪いものではなかった。
生活するうちに人の介助が完璧にこなせることを知った。生徒や俺のことを見守る癖があることに気付いた。
少しずつ、ほんの少しずつ、彼を、日下部篤也という人物を知ることが嬉しいと感じるようになった。それだけじゃ足りなくて、もっと知りたいとも思った。
観察という名の同居が始まって一年が経とうという頃、カーディガンを貰った。
「朝いつも寒そうにしてるだろ。出先でたまたま見つけたからやるよ」
スーツを脱ぎながら当たり前のように話す日下部を見つめながら、バレていたのか、とか、やはり周りをよく見ているなとか、感心が募る中で一番強く感じたのは嫉妬だった。
たかが観察対象の俺にも渡すのなら、誰にでもこんなことをするのだろうと怒りにも似た感情が湧いた時は、自分でもひどく驚いた。それと同時にようやく自身が彼に恋をしていることに気付いたのだ。
ようするにこのカーディガンは始まりのきっかけ、とも言えよう。貰った頃よりもすこしヨレて伸びてしまったが、今でも暖かくて大切なものだ。
ホットミルクを飲み干してマグを洗う。いまだに頭は冴えているし眠れそうには無いが、気分は幾分か落ち着いた。
どれだけ考えても、どれだけ後悔しても明日は平等にやってくる。俺はカーディガンを羽織ったまま寝室に戻った。
10日深夜一時。日車はベランダに立っていた。
植物と共に土に入れられていたメモには詳しく書かれていなかったがあの後隙間時間に調べたところ、みずがめ座流星群がピークだという。空も星も嫌いではないが意識して見るのは初めてだなと思いながら見上げていると、キラリと一筋の光が見えた。ひとつ流れていったかと思えば次々に光が溢れては消える。一際大きな光もあれば目を凝らさないと気付かないような小さな光もあった。
日車は空を眺めながらふと、流れ星というと願い事のイメージだが何か願おうかと考える。とはいえ特別叶えたい夢も野望もないのだが。
夢、叶えたいこと、続いて欲しいこと……頭の中で日下部や生徒たち、岩手に残してしまった先輩や部下のことを思い出す。ああ、そうだった。俺が出会った人はみな平等に優しかった。
「(皆が無事で…優しい人間が傷付かない世でありますように)」
脳裏に面会室で話した青年を思い出す。彼も結局は優しすぎる人だった。グレーな労働条件が課せられる中ほぼ監禁同然の労働を強いられ、自身のお金もないのに猫を養っていた。介護職だって誰でもできる職業ではない。人間には必ず必要な尊ぶべき働きであったし、あんな事件に巻き込まれるべきではなかった。人間の欲に塗れた醜さを着せられていいような人ではなかった。
法は確かに平等かもしれない。しかし人間に降りかかる試練は皆平等とはいかない。人の苦労を知らず死ぬ人間もいれば、気苦労に耐えかねて自死する人間もいる。案外神はいつだって不平等なのだ。だからこそせめて優しい人間が損をする世であって欲しくない。要らぬところで傷付いて欲しくない。
明日は日下部が出張任務から帰ってくる。
術師には難しいことかもしれないが外傷も心傷も、できることなら無いまま、無事に帰還することを祈った。
久しぶりにエプロンのリボンを締める。
この2週間食事を抜くことはなくとも凝った料理などしなかったため、こう意気込んでキッチンに立つのは久々だ。レシピを見ようとスマホを開くとメッセージが入っていることに気付きメールを開く。どうやら予定通りの時間に帰って来れるようだ。定時なんてものがあってないような呪術界では大変に珍しいことであるため、もしかすれば途中で巻いたのかもしれない。
ここにいると「法律とは」と哲学的な思考をしてしまうことが多々あるが、それはおいおい決算するつもりだ。本人は面倒がっているが今の日下部はかなり権力があるので、いつか乱用して根底から整えよう。
さて、昨日のうちにレシピは調べておいたのでさっそく取り掛かる事とする。直前まで何を作るか迷ったが最終的には己の直感を信じることにした。
2人分の調理は量が多くなる(というか日下部がよく食べる)ため下の棚から大きなフライパンを出そうと手に取ると、フライパンの裏に張り付けられていたのか、いつからか生活に馴染んでしまったメモがひらりと落ちた。
『キッチンに立つとあんたの料理が壊滅的だったのをいつも思い出すんだよな。今はすげぇ美味いけど。でもあんたの中でそれぐらい食べることが当たり前になってんのは正直嬉しい』
壊滅的だったことを覚えられている恥ずかしさと、自身の料理が美味いと褒められている嬉しさがごちゃまぜになって何とも言えない表情になる。脳裏で日下部が「あんたやっぱ分かりやすいよな」と言った気がした。
日車の料理はとんでもなく壊滅的だった過去がある。
同居を始めたての時は忙しくてお互い作る暇がなかったが、長年呪術界にいる日下部が一歩早く落ち着いたためしばらくは日下部が料理担当だった。その数ヶ月後、日車もようやく落ち着き始めたため流石に料理をずっと任せるわけにはいかないとキッチンに立った。
「今日は俺が夕食を作るから日下部は先に風呂に入ってこい」
「まじ?さんきゅー」
日下部が風呂に入ったのを見届けた日車はシャツの袖を捲って野菜を取り出した。
前提として話そう。まず日車はそもそも食に興味がない。学生時代も弁護士時代も腹は減るし食べはするが、基本「何が食べたい」とか「絶対にこれが食べたい」という考えはなかった。出されれば出されたものを食べるし、自分で選ぶ時はバランスを考えた上で取り敢えず目についたものを食べていた。要するに何をどう調理してどうなるのか知らないのだ。
それは「弱火20分加熱を強火5分で良い」と考えてしまうようなレベルで。
「日車ァ、先あがった……ぞ…」
タオルで髪を拭きながらキッチンに目を向けた日下部はその惨状に固まる。何がどうなったらそうなるのか、鍋に入っているパスタが焦げているのだ。そんなことある?と凝視する日下部と同じく日車自身もそんなことある?の気持ちと行き場のない手でどうしようもなかった。
今日作りたかったのはミートソースのパスタだ。まずソースを作ろうと野菜を切るところまでは良かった。出先が器用な日車はみじん切りなどの作業はやり方を見ずとも、学生時代の家庭科の授業を思い出しなら出来たのだ。
野菜を切り、トマト缶を開けて、さて野菜を炒めますかというタイミングでレシピを見ると「中火で飴色になるまで炒める」と書いてあった。日車は飴色?と頭上にはてなが浮かぶ。普段自分では食べない上に、身近にいる飴を食べる人物はいつもカラフルなものを食べていて想像ができない。まさか玉ねぎがここからピンクになるようなことはないと思われるが、とにかく炒めてみるかと火をつけて炒めてみるが、一向に火が通る気配がない。火が弱すぎるのか?いやでも真ん中だしな、と思いながらも変化がないので一気に強火にしたのだ。全ての間違いの発端である。
その後もトマト缶の水分が全部飛ぶわ、鍋の居場所は見つからないわ、パスタは焦がすわで大惨事になってしまった。
しばらくの沈黙があった後、まさか茹でるだけのパスタが焦げるなんて思ってもみなかった日下部は呆気を通り越して大爆笑をかまし、しばらく不意に思い出してはツボっていた。
あの後は日下部が料理を作り直し結局二度手間になってしまった。俺がすまないと謝ると「日車にも苦手な事とかあんだな」と笑いながら言われた。
できればあの惨事は記憶から消してほしいのだが、メモを見る限り忘れる気はないらしい。まあ今は美味いらしいので良しとする。
しかしやはり直感を信じて良かった。日車の目の前には玉ねぎとトマト缶が鎮座している。
今日はリベンジマッチだ。
新幹線の風を切る音がかすかに聞こえる。トンネルを抜ける瞬間一つ大きな音がして外の景色が見えた。
日下部は何もない田舎道の景色を見ながら、家に残した日車のことを思い返していた。
「家に帰るのが怖いんだ。眠りにつくことも」
2年前の秋ごろ、同居が始まり半年ほど経った頃に日車がつぶやいた言葉だった。
暮らし始めた当初は何を考えているのかよく分からない人だと思っていたが、日車は意外とわかりやすいし意外とハッキリとものをいう。だからこそ先の発言も嘘偽りない本心なのだろうと汲んで、片手間に報告書を確認していた日下部は一度資料を置き日車に向き合った。
「なんか不満とかあるんだったら言えよ。共同生活は擦り合わせが大事だろ」
「……いや…不満は一切ない。ただ……逆、なんだ。……俺がこんな生活をしていていいのだろうかと思うと恐ろしくて眠れない。…彼らを家族のいる家に二度と帰れなくしたのは俺なのに、そんな自分は帰る場所があって。そこが……今いる家の居心地がいいからこそ、尚のこと、怖い」
淡々と語る日車の顔色は決戦後に比べれば幾分かいいものの、それでも健康とは言い難かった。同居を初めて初月の顔色はむしろ良かったのだが、環境に慣れるにつれて段々と実感が湧いてきたのだろう。人間余裕が出てくると良くも悪くも余計なことを考えてしまう。
呪術界の問題の多さ、生徒の話、過去の過ち。
日車は特に頭のキャパシティも回転率もすこぶる良い。だからこそ現実的な状態、状況に勘づくのが早かった。今回もその一端だろう。
多忙の波が一度落ち着いて、周りだけでなく自分を見つめてみた。するとどうだ、結局は裁かれずにただ生きている自分の状況を痛いほど実感したはずだ。
死ぬために生きた自分が、なぜこんな。
「…俺は死にたくねぇ、って考えでしか生きたことがねぇから日車の気持ちはわからん。そも生きてきた環境も境遇も違うしな。だがあんたの命はあんたのものだ。他人が日車の命の価値を決める権利はない。そんでもって世の中「命は平等」らしい。ま、呪術界は例外かもしれんがな。ただ、もしこの理論が正しいなら、あんたが現在幸せであろうと不幸せであろうと比較する必要はない。…今の生活が良いと思えるなら、今はそれを享受するべきだ」
どれだけ言っても、おそらく日車は自責をやめることはないだろうと思う。それは理解している。だがもし「自分は幸せになるべきではない」と思っているなら、それは真面目すぎる考えが故の大きな間違いだ。
背負いながらも生きていく。難しいことかもしれないが、それが一番の贖罪とも言えよう。
罪人はどん底に落ちて当然だとか、幸せになってはならない、なんていうガヤは現実を知らないだけの人間だ。誰かを踏み台にして蹴飛ばしてのし上がった人間は、今も「良い人」としてメディアに出る。そんなものだ。
日車は真面目なものだから誰かを踏み台にしてのし上がったことも、賄賂を渡して権利を得たこともなかったのだろう。彼の長所でもあるし欠点でもあることだ。世の中の澱みに弱い。
日下部は日車にとって今の生活が一般的に言う「幸せ」だというのなら、どうかそれを受け入れてほしいと思う。
日下部の言葉を受けた日車が顔を上げてこちらを見た。その姿にぼんやりと幸せが崩れて伽藍堂になった妹を思い出す。もし息子がいなければまた違った人生があったのかもしれない。それでもその幸せに予防線を張って受け入れないのは考えられない。その結果どんな道になったとしても、それもひとつの人生だ。
守ってやりたいと思った。できることなら、幸せにしてやりたいとも。
『まもなく、東京。東京。お出口は左側です。乗り換えのご案内を___』
思えばあの時からだいぶ惚れてたのかもしれないと考えながら、随分とわがままになった恋人の元に帰るため席を立った。
「おかえり」
「おー、顔色変わりないな」
ガチャと玄関から音がしたため出迎えにいくといつもの姿の日下部が立っていた。良かった、どうやら大怪我などはしていないようだ。
二言目には日車の体調を伺うもので、ついムッとして荷物を受け取りながら反論した。
「心配しすぎだ。自分の体の管理くらいできる」
「どーだか」
笑いながら靴を脱ぐ日下部を見て荷物を置いてこようと背を向けると「あ、そうだ」と声をあげて呼び止められた。
振り返ると日下部はトレンチコートのポケットからあのメモ用紙を取り出して日車に渡した。
目を落として読むとその文言に自然と笑みが出る。その顔を見た日下部は日車の目元に指を添えて言った。
「愛してる。ただいま」
久しぶりに聞いた本人の声は、メモ用紙とはまた違った鮮明な優しさが乗ったメッセージのように感じられた。
「そういえば、なんでこんなことをしたんだ」
「出張前にほんの少し時間ができたからちょっとだけ驚かしてやろうと思って」
「いたるところにあるから何事かと思ったぞ。楽しかったが。…しかしサイドテーブルのメモだけ字が雑ではなかったか」
「あー、あれは時間配分ミスって」
「君が?」
「……………寝顔見てたら書く時間なくなったんだよ」
「…ふ、何だ。君意外と可愛いところがあるな」
「だぁーッ!!最後まで格好つけさせろっつーの!!」
初めまして。突然のコメント失礼いたします。 穏やかで幸せな二人のお話に心が満たされ、とても癒されました。 🍭さんのいない間に、メモを通して二人が心を通わせているように見えて、とても微笑ましかったです。