一章『土塊は雪を待つ』 そのニ

 小柄な女子中学生が、差した傘をくるくると回していた。

 それだけの情報の中で私を驚かせたのは、その想定していない色使い。

 黄緑色の瞳。

 強まる雨脚を弾くような異邦の瞳が照り輝き、カメラ越しに私を見つめていた。そして向こうは知る由もないけれど完全に見つめ合う形となって、驚いてしまったのだ。

 訪れたものの正体をまとめて、ようやく落ち着く。胸を撫で下ろした後、応対した。

『はい、どちら様でしょうか』

『雨宮さんと同じクラスです。休んでいる間の配布物を届けに来ました』

 雨粒みたいに、一瞬触れてはすぐに吸い込まれて消える。そんな淡い声だった。

「それは……どうも。ちょっとお待ちください」

 インターホンの前から引き返す。

 娘が家に連れてきたことのある友達の顔とは一致しない。

 小柄な少女然として、娘の通う学校と同じ制服。外見だけで判断するなら嘘はなさそうだけど、娘に一応確認してもらう方がいいだろう。娘の部屋に入ると、丁度みかんのシロップを飲んでうっとり目を細めているところだった。なにが丁度なのだろう。

「同じクラスの子が学校の配布物を届けに来たんだけど」

「んー、誰だろう」

「歩けそうなら確認してくれる?」

 大丈夫、と娘が黄色いお椀を一旦脇に置いてゆっくり立ち上がる。そこからの歩き方もしっかりしているので、言葉通りもう大丈夫なのだろうと安堵する。

 娘を連れてインターホンの前に戻る。画面を覗いた娘は、すぐ相手の名前を口にした。

「地平さんだ」

 やはり同級生というのは嘘ではなかったらしい。

「ちたいら……」

 そして、そちらには私も心当たりがあった。冗談のように大きいお屋敷を構える家の名前がそうだったはずだ。うちの家が一体何軒並ぶのかというほどの……実際、遠くから眺めて関わったことはない。縁通い階級の方々という認識だったけれど、そこの子なのだろうか。

「雨の中待たせてごめんなさい、今取りに行きます」

『はい』

 映るその姿と眼差しは身動ぎ一つない。雨の一部のように、地面に真っ直ぐだった。

「わたしが行こっか?」

「なに言ってるの、外は雨よ」

 部屋に戻りなさい、と娘の肩を押す。二日も横になり続けているので動き回りたいのか、娘が不満げに唸るのを微笑ましくも聞き流して部屋に戻した。この分なら明日になれば登校できるだろう。

 玄関で簡単に履けるサンダルに足を通して、受け取るだけで時間はかからないだろうから、いいかと傘を差さないで表に出た。帰ってきたときよりも雨の音が強まり、やはり差してから来るべきだったと後悔しながらも、視線が真っ直ぐずっと訪れているので引き返さず、そのまま娘の友達の元へ向かった。雨天の暗がりの中でも、闇夜のような傘が広がっていても、どれだけの雨が降ろうともその瞳の色があまりに浮き立つので引き寄せられるように前へ進めた。

「こんにちは」

 傘を回すのを止めた女子中学生の声は小さく、けれど不思議に雨音にかき消されないでこちらに届いた。

「どうも……」

 止まった傘から垂れる水滴が、味のない涙のようにこぼれ続けている。

 今年も長く居座っていた夏を丸ごとやり過ごしてきたような青白い肌。私どころか同い年の娘と比較しても小柄で、視線の高さが二十センチは違うだろうか。中学校の制服に背伸びすら感じる幼い雰囲気の顔立ちと、掠れているのが一目で分かる薄い唇。鎖骨にかかる程度の長さの髪が、やや不揃いなのが少し違和感を覚える。素人の手際というか。胡桃色のその髪をまさか自分で切っているのだろうか。

 そしてやや野暮ったい長さの前髪の向こうに、あの瞳がある。

 マスカットのように艶のある黄緑の双眸が、私をじっと見上げていた。

「えぇと……」

「カイです。地平塊」

 その女の子は、あくまで主観に基づく総評でしかないけれど。

 饒舌と視線を簒奪する、美少女だ。

「カイ」

 思考が一瞬形状を失い、オウム返ししてしまう。

「こういう字です」

 人差し指で宙に漢字を描く。読み取ると、塊。かたまり。

 儚さも感じる小柄な少女には、あまり似つかわしくないように思える名前だった。

 しかしその名前よりも、やはり、その目。

 見つめ合っていると、心が茨に蝕まれるような痛みと、得体の知れない浮遊感が湧き上がる。

 その瞳へ感情が錯綜する中で、既視感めいたものも混じるのは何故だろう。以前に町ですれ違ったことでもあるのかもしれない。その原点を思い出そうとしていると、地平塊が差していた傘を私の上にまで、背伸びして掲げてくれた。気遣いは素敵だけど、傘が私の額に当たりそうで少し怖かった。

「背、高いですね」

「え……ああ、そう、かも」

 そっちが小さいだけでは、とは流石に言えなかった。大学時代に計ったのが最後だけど、私は165くらいで、この子は150に達していないだろう。いや……140も怪しく見えるけど、それは流石に低く見すぎだろうか。

 すぐに戻るつもりだけど、地平塊から傘を取り、私が差す。

 地平塊は空いた手を見つめた後、用事を思い出したように抱えていたものを渡してくる。

「これ、学校のプリントとかです」

「はい。ありがとう」

 雨に濡れないようにビニール袋で包装されていたそれを受け取る。それから、地平塊が傘の下に入るという名目を得たように私へ近寄ってきた。流れてきた雨水すら飲み込んでしまいそうな、底を感じさせない畏怖と美麗を併せ持つ目が間近で見上げてくる。

 存在しない水位が喉までせり上がってくるような圧は、私の心のいかなる作用がもたらしているのか。傘が雨を弾く音さえ遠くに感じて、足元は縫い付けられたように影から離れない。

 と、地平塊の唇が動く。

「雨宮のお母さんマジめっちゃ美人」

 誰かの真似をするように、がらりと口調を変える。それはいいのだけど、真似のためか目を見開いて大口を開けて、少し怖い。再生機能のように、言い切るとすぐ元の微笑に戻る。

「クラスの子がそう言ってたから、どんな人なのかと思ったけど本当に綺麗で驚いちゃいました」

 そこまではっきりと評されると、年甲斐もなく頬が熱を帯びそうになる。

「それは、どうも……?」

 火照った肌に、雨水の冷たさが皮肉にも心地いい。

 やっと金縛りが解けたように傘を返すと、地平塊はまた夜を纏うようにそれを背負う。そして、そのまま去っていく。

 私の心に、二つの黄緑色の星を強く焼き付けて。

 落としていない化粧と前髪が雨で崩れて顔に張り付くのを感じながらも、目を奪われて。

地平塊がその名の通り雨水を吸い込むように、遠くの景色へ溶けるのを。

 強い雨の中、傘を差さない間抜けとなって、見送ってしまった。



 娘が風邪で、私が早退して、同級生が学校のプリントを届けに来る。

 そう、それだけのことだった。

 それだけで人生の岐路というものが出来上がってしまう。

 たった一人の、なにも知らない少女と巡り合うだけで。

 私と、カイとの出会いだった。

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