一章『土塊は雪を待つ』 その一

 数えきれないほど作ってしまったカイとの思い出の中で、原点ともいうべきはこの日だった。

 責任転嫁の矛先をどれだけ探しても納得いくものは見つからなかった。

 だからその日は、私とカイが出会うための日だったのだろう。



 子煩悩だと揶揄されて怒ってしまったのを、未だに引きずりながらハンドルを握っていた。気心の知れた仲ではあっても、焦っているところに軽口を叩かれてつい、強い反応になってしまった。ここまで運転する中でずっとその場面を、検証するように繰り返し思い出している。

 そうしている間に怒ったというほどかな……語気を強めたくらいかな……と段々、自分に都合のいい落としどころを見つけ始めたので、考えるのを止めようと努める。ここから先は不毛でしかない。

 明日、出勤してから謝ればいい。それだけのことだ。

 それより今は、娘のことを考えるべきだった。

 信号が変わり、列の先頭の車がようやくゆっくりと動き出すのが見える。バスから降りた大量の外国人観光客が歩道を埋め尽くすのを横目で一瞥しながら、車を前進させる。

 ワイパーがフロントガラスを払って残る跡が、子供の頃から不思議と好きだった。

 九月末の雨模様は、昨日から安定している。雨は急ぎもせず、立ち止まりもせず黙々と、淡々と音を立てている。薄暗くて、少し気温も落ち着いているので娘も眠りやすいのではないだろうか。

 二日前から娘が発熱を伴う風邪に苦しんで、学校を休んでいた。当たり前だけど、親としては職場にいる間も気がかりで、今日は普段よりずっと早い帰宅を選んだ。中学生にもなって、と思うかもしれないがいくら中学二年生だといっても、親からするといつまでも子供なのだ。

 そこを同僚に指摘されて、とまた後悔が空回りしそうなので、振り払って運転に集中するよう意識した。

 少し寄り道して買い物を済ませてから、自宅に戻る。ガレージを開けて、いつものように駐車する。夫は職場まで犬と徒歩で、家族揃って遠出する機会も減ってからは実質、私の車になっていた。スーパーの袋を忘れないように手に引っかけてから、玄関へ向かう。

 鍵を開けて家に入ると、物音がなく、薄暗い。灯りを落とした廊下が物寂しい。寝ているかもしれないので足音を控えながら、娘の部屋の戸を開いて覗き見る。扉を開けた僅かな隙間に娘が反応して、寝転んだままこちらと目が合った。

「ただいま、寝てた?」

「うとうとしてたけど、鍵開ける音で起きた」

 側に屈むと、「おかえり」と言われて、そして笑われた。

「どうかした?」

「お母さんが早く帰ってくるのは、わたしが病気のときだなぁって」

「それなら、私が毎晩遅くに帰る方が健康に良さそうね」

 実際そうなってしまってはいるので、夫には感謝する他ない。

「熱は? 計った?」

「お昼前に計ったけど、37度くらいだったから昨日よりは楽だよ」

 昨日は喉の痛みを訴えて話すのも億劫そうだったので、いつも通り喋っていることにまずは安心する。閉め切った娘の部屋では残暑の熱がじわじわと寄ってきて、弱く回る扇風機がその空気を緩く掻きまわしている。娘に寒暖どちらを聞くか迷いながら腕を動かして、スーパーの袋が音を立てたことで思い出す。

「ちょっと待ってなさい」

 部屋を一旦出て台所に向かう。帰りがけに買ってきたものを早速お椀に移す際、換気用の窓に朧気に映った自分の髪を、なんとなく摘む。

 黒い髪の自分が鏡面に映ってもさしたる違和感を覚えなくなったのはいつからだろう。もう、元の髪の色を知る人間との付き合いは夫と親くらいしかない。そんな軽い感傷を覚えながら用意して、娘の部屋へ戻る。

 早速、缶詰のみかんとシロップの注がれた、黄色いお椀を差し出した。

「熱を出すと、いつもこれを食べたがるから」

 子ども扱いすると反発する年齢かと思ったけど、素直に娘が頬をほころばせたので安心する。

「ママ~、起きるの面倒だから食べさせて~」

「いいけど、本当にいいの?」

 布団を被ったままの娘が興奮と期待で目を輝かせて、若干鼻に赤みを帯びている。本当にいいのだろうかと思いつつ、スプーンで掬ったみかんとシロップを娘の口元に差し出す。

 娘はそれにかぶりつくように首を伸ばした、のだけれど。

「ぶえっしゅ」

「ほら」

 完全に横になったまま、シロップごとみかんを口に入れようとすればどうなるか分かりそうなものである。案の定、口の端からシロップが溢れて顔が酷いことになった。その上噎せた。

 娘の顔と枕を拭いてから、スプーンとお椀を渡す。

「横着しないで、起きて食べなさい」

「あいあーい」

 口と頬を濡らした娘が渋々起き上がる。体温、調子共に大分回復してきたようだ。昨日は夫が娘の面倒を見ていて、熱がなかなか下がらないと私にも連絡して随分と心配していた。勿論、私もだ。二日連続で夫に任せるのも申し訳ないし、私も落ち着かないので今日はこちらが早退となった。

「晩ご飯はなにか食べられそう?」

「んー……消化にいいものを与えるといいでしょう」

「的確な診断ですこと。食べられそうなら……と言っても、作るの私じゃないけど」

 作れないわけではないけれど、夫に言わせると適材適所であり、娘に言わせるとお母さんの料理はコクが足りないような感じ、だそうだ。更に言うと味付けが薄いらしい。でも味付けを意識して濃くしても、今度はちぐはぐな味わいになってしまうのだろう。塩梅、というやつがまるで身についていない。結婚してから、いつか夫に習おうと思い続けて十四年が経ってしまった。

 そうしていると、チャイムが来訪者を知らせてくる。娘と顔を見合わせた。

「お父さんじゃないよね」

「まだ早いかな」

 こんな雨の日に一体誰なのかと、応対に向かう。宅配は休日に指定してあるので違うだろうと除外しながら、何気なく出たインターホンに映ったものに、一瞬、息が止まる。

 胸の中心を突かれたような衝撃に面食らい、その正体に意識が回らないまま目が収縮する。

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