日記
そこらじゅうに転がっている地雷でまともに歩けない。モノだらけで歩くこともままならなかった部屋は、数年経って布団が畳めない以外は、健常に映る程度に落ち着いたが、結局足の踏み場はない。
いつも怖さが形を変えることに絶望する。不安というのが本当に不定形のもので、そこに理由などなく、何かで相殺できるものでも秩序だった意味のある恐怖でもないと気づくとき、その表面上の記憶を引っ掻く鉤爪よりも、この怖さの根元が自分自身でしかないことに気づいて息がしづらくなる。
数時間気づいたら寝ているのも起きたら嘔吐感があるのも随分と久しぶりだった。今日はあまりにも多く昔に触れた。昔というのは拡大解釈すればもはや現実であり、実社会で生きること実生活のなかにあることそれ自体がトラウマの一つであって、逆に意識しづらいところがあるんだけれど、それにしても少しばかり触れすぎた実感がある。というよりも急にそれが湧いてきた。俺の脳みそはまだ信頼に値するほどには動いておらず、朝起き上がれずどんなに大きい音を聞いても何か始めるというフラグを踏める回路はなくって、人といるふりをしているけど簡単に全部拒絶したくなる。これが一番つらい。気持ちを捨てるのに慣れていて、だからといって捨てたことに耐えられるわけがなくて、信じざるを得ないのに全く信じられないという矛盾が高頻度で心の中に訪れる。2つの価値観がまざっている。だからといって死にたくもない。助かりたくもない。だけれど今までつかんできた命綱だと思っていた紐に首を絡めて終わることがないとは誰も言えない。
ふりこのエネルギー保存則を簡易的に示したグラフを最近よく見るから、年齢についてもこれかなと少し考えていた。若さは知らなさを渡す。まだ形になっていない自分と、長い可能性と、未熟なまま誰かを必要とする切実さ。年を経たら選択をきっと渡している。傷ついて人を知って自分の癖や限界を知ってそのうえでいたいと選ぶことには別の重さがある。熱や匂いや重さに浮かされるのとはべつに、理性があるうえで身体をあずける、積み上げた警戒を少しだけほどけさせるのはそれも生々しさだと信じてきたのだけど、全然そんなことない気がする。どうせ自分をごまかすための適当な説明としか思えない。そうとしか考えられない事物はある程度に個人の中で真実だ。過去に対して安心する材料は未来にしかない。権利はそばにあって、だから前向きに生きるのならそれを握りしめて明日からのなかに決着していないことを信じるしかないのだけど、どんなに頑張っても届きようがないことが多いのを感じてきたから、それが安心材料には到底なってくれない。どうせ終わると腹づもらずにいられない現実の中で、しかし不明瞭な可能性という一番自分が信じていないものでしか、この世で何よりも確定している過去に対する怖さにあてられるものがない。そういう意味ではとても詰んでいる。


コメント