「テストステロンが人を公平にする」と称した論文紹介がバズり、フェミニストである私はゾッとした
昨晩、X(旧Twitter)のトレンドでテストステロンに関する話題を見かけた。
ざっくり言えば、「テストステロン(いわゆる男性ホルモン)を投与された女性は公平な行動をとるようになったが、テストステロンを投与されたと思い込んだ女性(プラセボ群)はむしろ攻撃的になった」という趣旨の論文紹介が拡散されていたのである。
Darles testosterona a las mujeres hace que se comporten de manera más justa y menos conflictiva. Sin embargo, las mujeres que creen que han tomado testosterona —pero que en realidad han tomado placebo— se comportan de manera más agresiva y más injusta. pic.twitter.com/NYMol9RmGw
— Sergio Ferrero (@calotonterias) May 18, 2026
そこに付けられていた反応の中には、たとえばこんなものがあった。
「つまり、女さんが考える『男みたいな行動』は攻撃的で不公正な行動だが、実際の『男みたいな行動』は公正で対立の少ない行動である、と?」
「…それ以上いけない」
私はそれを見て、かなり強い違和感を覚えた。
私は女性であり、フェミニストである。
だから、この手の言説に対して反射的に警戒した、という面は確かにあると思う。
それと、Natureの査読付き論文が、本当にそんなお粗末な内容であるはずがない、という直感もあった。
そう思って論文の本文を読んだところ、奇しくも、自分の特権性を顧みる結果となった――それでゾッとしたというのがこの記事の趣旨である。
論文に書かれていた主張の概要解説
まず、元の論文の話を簡単に整理しておきたい。
話題になっていたのは、Eiseneggerらによる2010年のNature論文『Prejudice and truth about the effect of testosterone on human bargaining behaviour』である。
研究のテーマは、テストステロンが人間の交渉行動にどのような影響を与えるかについてだ。
https://www.nature.com/articles/nature08711
この論文が批判しているのは、「テストステロンは人間を攻撃的・反社会的・利己的にする」という俗説である。
著者たちはこれを folk hypothesisと称している。
一方で、著者たちが支持している別の仮説もある。
それは、テストステロンは社会的地位やステータスに関わる行動を強めるのではないか、というものだ。
すなわちこの論文は、テストステロンと公平性の話など最初から扱っていない。
ましてや、SNSで拡散されていた解釈のように「男性的な行動とは本来、公平なものだ」と言っているわけでもない。
論文が主張しているのは、かなり条件依存的な話である。
人は社会的地位を守るためなら、ときに攻撃的に振る舞うかもしれない。
だが、別の状況では、同じ地位への関心が、むしろ公平に見える行動を促すかもしれない、ということだ。
今回の研究で行われたのは、最後通牒ゲームと呼ばれるゲーム理論の実験だ。
これは、2人の参加者が一定の報酬を分け合うゲームである。
提案者は「自分がいくら取り、相手にいくら渡すか」を決める。
応答者はその提案を承諾するか拒否するかの二択を迫られる。
応答者が提案を承諾すればその通りに分配され、拒否すれば両者とも何も得られない。
異議申し立てや話し合いは不可。
合理的に考えれば、どれだけ不公平な提案でも、応答者は承諾して多少の報酬を得た方がメリットが高いはずだ。
しかしこのゲームは、あまりに不公平な提案がなされた場合、応答者は自分の報酬を諦めてでも提案を拒否しがちなことで知られている。
つまり提案者にとっては、相手に拒否されない程度に公平な提案をすることが、戦略的に合理的な行動になる。
この条件下で、テストステロンを投与された被験者は、プラセボ群よりも高い報酬を相手に提案した。
つまり、より公平な行動をとったということである。
しかし、それは「テストステロンによって利他心が増した」という話ではない。
もし利他心が増したのなら、応答者側の拒否行動にも変化があるはずだが、そうした効果は見られなかったからである。
ゆえに、著者たちの解釈は以下のようなものとなった。
提案者にとって、相手に拒否されることはゲームにおける地位を脅かす出来事だ。
今回の実験では、公平な戦略が地位の維持および強化につながるので、テストステロンによってその行動が促進されたのではないか、と。
さらに論文は、刑務所内で問題行動を起こす囚人は、男女ともにテストステロン値が高い傾向にあるという先行研究にも触れている。
一見するとこれは今回の結果と矛盾しているように見えるが、論文の枠組みでは問題なく説明できる。
刑務所のように厳しい階層構造があり、舐められることが深刻な不利益につながりうる環境では、地位を守るための行動が攻撃的・反抗的な形を取ることがある。
逆に、最後通牒ゲームの提案者のように、穏当なやり方が地位維持に役立つ状況では、同じ欲求が公平性を強めうるということだ。
なお、今回の実験で被験者が女性だけなのは「テストステロンの舌下投与の薬理動態が、男性に対しては確立されていない」という制約によるものだ。
ゆえに、テストステロンを摂取したという思い込みで攻撃的になるという反応すらも、女性だけに特有なのか、それとも男性も同じなのか、はたまた性別よりも地域性や文化圏の問題なのか、現状では等しく不明である。
結局、この論文では「テストステロンは人を攻撃的にする」とも、「テストステロンは人を公平にする」とも言っていない。
テストステロンは社会的地位への関心を高めるという仮説を補強し、その欲求により、人は状況に応じて攻撃的にも、公平に見える形にも振る舞いやすくなると考えているのだ。
もちろん私の読解も完璧ではないと思うが、Xで散見された「女が考える男らしさは偏見で、真の男らしさとは公平性である」というような解釈は、この論文からはかなり遠いだろう。
ここまで読むと、SNSでの拡散がいかに都合のよい切り抜きだったかは、かなり明らかになった。
だが、私が本当に考え込んだのは、ここからだった。
もしもこの論文が「テストステロンと加害性」の話として流れてきたら
今回、私はこの論文を実際に読んで、SNSの解釈がかなり恣意的なものだったということを把握した。
それは冒頭でも書いたように、私が女性であり、フェミニストであり、怪しいデータを出して女性を嘲笑するような論調に対して警戒心を持っていたからでもあると思う。
しかし、だからこそ自分に問うた。
もしこれが逆だったら、私は同じように全文を読んだだろうか?と。
もしSNSで、次のような投稿が流れてきたら。
「高テストステロン値が囚人の暴力や問題行動と関連していることが判明。やはり男の加害性は生得的なものだった」
私は自分の性格上、たぶん何らかの留保は付けるだろう。
「まあ、すべての男性が加害的だという話ではないし、生物学だけで社会問題を説明するのは危険だよね」
「でも、男性の暴力性について、無視できない現実があるのも確かだと思う」
そして、その慎重そうな言い回しによって、自分がフェアな態度を取っているような気持ちになって、で満足したかもしれない。
でも、このケースで、私はちゃんとファクトチェックをしただろうか?
ファクトチェックをせずに、慎重そうな無難なコメントとともに拡散するのは、本当にフェアだろうか?
そのデータが相関関係を示したものなのか、それとも因果を説明しているのか、対象者は誰なのか、条件は何なのか、著者たちはどんな注釈をつけているのか、そこまで確認しただろうか。
たぶん、していない。
なぜなら、その切り抜きは、私のエコーチェンバーにとって心地よいものだからだ。
私は、自分を比較的慎重なフェミニストだと自負している。
少なくとも、露骨なデマや陰謀論に飛びつくタイプではないと思っているし、乱暴な言葉で男叩きをするのは嫌いだ。
そして私の周囲にも、そういう人は少なくない。
感情的な断罪ではなく、社会構造や統計や歴史を踏まえて、慎重に言葉を選ぶ。
けれど、だからこそ怖いと思った。
なぜなら、極端な思想の人だけが、雑な偏見に加担するわけではないと気づいてしまったからだ。
むしろ、慎重そうな人間の方が、自分の世界観に合う話を見たときに、より巧妙にそれを正当化してしまうリスクすらあるのではないか。
先述の慎重そうな言い回し――「すべての男性が加害的とは限らないけど、暴力性はやっぱり無視できないよね」というような感想は、私が嫌悪したはずの雑な読解と、どれほど違うというのだろう?
実は今回の論文は、偶然にも、そのこと自体を考えるのに非常に役立つテーマを扱っていた。
この研究では、実際にテストステロンを投与された人は、より公平な提案をした。
一方で、「自分はテストステロン(=攻撃的になるホルモン)を投与された」と信じた人は、実際に何を投与されたかに関係なく、より不公平な提案をしたのも事実だ。
薬理作用と、思い込みによる効果が、逆方向に働いているのだ。
つまり、人は自分が何を信じているか、自分がどんな物語の中にいると思っているかによって、行動を変えてしまうといえるだろう。
それで、この論文はテストステロンについてのバイアスを一番重要な洞察として扱っており、要旨でも明記している(それゆえに切り抜きが余計に広まってしまったのかもしれないが)。
では、私は、あなたは、そして「意味不明なことを喚き散らしているアイツ」はどうか?
自分の信じている物語に合う言説を見たとき、それをどのように扱っているだろうか?
SNSに流れてきた主張を見て「やっぱりそうだった」と思った瞬間でも、ちゃんと警戒心を持ってフェアに精査するにはどうしたらいいか。
私はこの問いに、あまり自信を持って答えられない。
マジョリティの特権とは「何も説明しなくていいこと」ではないか
男女論に限らず、あらゆる対立構造において「マジョリティは特権を持っている」とよく言われる。
でも、具体的にマジョリティがどのような特権を持っているかについての分かりやすい説明は少ない。
今回私が得たひとつの考察は「マジョリティの一番の特権性とは、何も説明しなくても無条件に認められることではないか」というものだ。
ここでいうマジョリティとは、必ずしも強い人間のことではなく、特定の話題において疑われずに済む側のことだ。
説明しなくても、ひとまず信じてもらえる側のことだ。
沈黙しても、自分の尊厳がただちに削られにくい側のことだ。
マジョリティ側にいるとき、人は自分について説明しなくていい。
ひどい偏見が流れてきても、自分の生活は大きく脅かされないから、それにいちいち反論しなくていい。
あまりに目に余る場合だけ「流石に極端だよね」と言っておけば、多くの場合すぐに賛同が得られる。
しかし、マイノリティ側にいるときは違う。
偏見が偏見であることを、全力で説明しなければならない。
「自分たちは必ずしもあなたたちの敵ではないんです。マイノリティの中にもノイジーマイノリティはいて、世間がイメージしているのは、平均的な当事者の姿ではありません。私の怒りは身勝手ではなく、ちゃんと自分なりの理由があるし、たとえ黙っているからといって文句がないというわけでもありません。でも、むやみに社会を荒らしたいわけではなくて、誰かを陥れたいわけでもなくて…」
これらを、何度も何度も証明しなければならないし、どれだけ説明しても疑いから逃れることはできない。
「あんなのは一部です」と言っても、「本当に?」と聞かれる。
「その研究の読み方は間違っています」と言っても、「都合が悪いから否定しているだけでは?」と疑われる。
「私たちはそんな存在ではありません」と言っても、「でも実際にこういう人を見たことがある」と返される。
このコストの非対称性は、とても大きい。
マジョリティは、わざわざ説明しなくてもありのままでいられるのに対し、マイノリティは、説明しなければ勝手にステレオタイプな当事者像が作られてしまう。
私が今回「女性の攻撃性や身勝手さが科学的にも証明された」という誤解を危険視し、わざわざ元論文にあたってファクトチェックをするというコストを支払ったのが、まさにそれだ。
さて、ここで厄介なのは、現代社会において、絶対的なマイノリティなんてほとんどいないということだ。
私は女性であり、フェミニストである。
親から虐待されたことがあり、性被害の経験があり、風俗で働いたことがあり、ADHDと診断されており、トラウマによる解離症状も指摘されている。
そう並べれば、私の人生にはたしかに、マイノリティ性と呼べるものが多く含まれている。
しかし同時に、私は日本国籍の父と母から生まれた日本人である。
現在は、東京ほどではないにせよ、名古屋という十分に恵まれた都市圏で暮らしている。
異性のパートナーもおり、少なくとも現時点では、制度上も社会生活上も同性婚とは無関係だ。
つまり私は、ある文脈では説明を強いられる側であり、被害者であり、別の文脈では説明を免除される側であり、加害者でもあるのだ。
このことを、私はたぶん頭ではわかっていたと思う。
けれど今回、「もしこの研究の切り抜きが男性批判に使える形で流れてきたら、私はちゃんと読んだだろうか」と考えて、初めてかなり具体的に理解したという実感がある。
私は、私に都合のよい偏見を、きちんと偏見として扱えるだろうか?
私は、自分が説明しなくていい側に立ったとき、誰かが背負わされている説明責任に気づけるだろうか?
また、もしこの記事を読んでいるあなたが男性で、「マジョリティだってしんどいんだぞ」と思ったとしたら、ふと立ち止まってほしい。
あなたのしんどさは、本当に「男性(マジョリティとされる側)」の苦しみだろうか?
貧困、ブラック企業、低学歴、障害、疾病、ヤングケアラー、虐待、いじめ――実は、それらはすべてマイノリティ属性だ。
マイノリティは、表面的なマジョリティ属性を理由に、苦しみを勝手に抹消されてしまうことがある。
あなたがまさにそれだし、別の場面では、私もそうだ。
マイノリティ同士の連帯はやっぱり難しい、けれど
ここまで考えると、マイノリティ同士の連帯がなぜ難しいのか少し見えてくる。
「抑圧されている者同士なら、自然に分かり合える」
これは理想的だが、現実はそう簡単ではない。
ある痛みを知っていることは、別の痛みを自動的に理解することを意味しない。
ある場面で説明させられる側だった人も、別の場面では説明を求める側、疑う側、無視しても傷つかない側に立つことがある。
これは、誰かが特別に悪いという話ではない。
むしろ、人間はそういうものなのだと思う。
フェミニストは低学歴の男性を助けないし、LGBT活動家は貧困の男女カップルを助けない。
同様に、マジョリティはマイノリティを助けないし、「助けてもらいたいならその苦痛の大きさと、あなたの善良さを証明しろ」と言ってくるし、そのくせ、時流が変わった途端に、求めてもいない変な免罪符を押し付けてくることもある。
往々にして、人は自分が傷つけられてきた方向には敏感になるし、危険を早めに察知しようとするものだ。
そして自分の経験と合致する話を見ては「やっぱり」と思い、安心する。
これ自体は切実な生存戦略なので、外野が道徳とか倫理を説いて「やめろ」と言うべきものではない。
しかし、その生存戦略が、別の文脈では誰かへの偏見に加担することがある。
悪意なく、仕方なく、それゆえ残酷な形で別の誰かを追い詰める。
私は男性から傷つけられた経験があるから、男性の加害性に関する話題に敏感になること自体は、私にとって自然なことだ。
しかし、その経験が、自動的に私の読解を正しくしてくれるわけではない。
この当たり前のことを、私は今回かなり痛感した。
だから、「私たちは同じ弱者だからわかり合えるはずだ」という綺麗事を唱えていたって、何も進展しないのかもしれない。
むしろ、もっと不快な現実がここに横たわっている。
私は、あなたに対して、説明を求める側に立ち得る。
私は、あなたの痛みを「一部の極端な事例」として処理し得る。
私は、あなたに向けられた偏見を、自分には関係ないものとしてスルーし得る。
私は、あなたについての雑な研究解釈を、「まあ実感とは合うし」と受け入れ得る。
自分もまた、別の誰かにとってのマジョリティになり得るし、知らないうちに特権を振りかざし得るし、同様に、敵だと思った人たちが必ずしも身勝手さによって動いているわけではないと知ること――たぶん、変化の芽はそこから始まるはずだ。
(補足)研究をキャンセルカルチャーから守るためにできること
私は、性差やホルモンと行動に関する研究が、炎上や政治的圧力によって萎縮することには強く反対している。
不快な結論が出るかもしれないから研究するな、という態度は、はっきり言って馬鹿げている。
しかし同時に、研究を自分の陣営に都合よく切り抜いて、雑な男女論争の武器にする態度も、同じくらい馬鹿げていると思っている。
「研究をキャンセルするな」という主張は正しいが、それならばなおさら、私たちは研究を丁寧に読まなければならない。
自分にとって不快な結果だけでなく、自分にとって気持ちのいい結果に見えるものほど、慎重に扱わなければならない。
味方に都合のよい研究(もっと言えば、自分が深く傷ついてきた領域で、自分の経験と合っているように見える話)を疑うことは、とても難しい。
私だって普段ちゃんとできていないと思う。
しかし少なくとも私は今回、Xでの論文がトレンド入りした出来事を通して、人間は自分が信じたい物語にかなり強く動かされるということをあらためて実感した。
テストステロンを攻撃性のホルモンだと信じきっていたプラセボ群と、「この研究によって、女性の偏見と男性の正しさが証明された」というような読解に便乗してしまった人たちは実はすごく似ていて、きっと私にもあなたにもそういう側面があって。
それでも、できるかぎり情報を正確に誠実に受け取ろうとする意識が、マイノリティ個人のみならず、学問・表現・思想をも守る砦となるだろう。
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お言葉ですが、フェミニズムは女性の男性による抑圧の解放から生まれたのですから、フェミニストは低学歴であれ高学歴であれ「男性」を助ける必要はありません。 社会的な格差と先天的な身体特徴による性階級をごちゃ混ぜにしているように見受けられまして。
コメントありがとうございます。 フェミニズムは女性解放運動だから男性の問題とは関係ない、それは承知しています。 うまく書けているか自信がないのですが、私がこの記事で言いたかったのは「理想をいえば、あらゆるマイノリティ同士が連帯できたほうが良さそうな感じがするのに、なぜそれが困難な…