260804
春日部つくしってV、声が可愛すぎる。
ありえないくらい元気がない。depressedとかじゃなくて、本当に、エネルギーが切れてる。もう何も出来ない。一歩も動けない。とても執筆する余裕もない。
なんですかこりわ。俺は死ぬのか。月ノ美兎が死を恐れているという話がある。広橋涼も死を恐れている。
私、とにかく生きていたくて。
長生きしたいの。
人類最後の2人になって相手の血をすすってでも生きていたい。(笑)
委員長は連続性が失われることを恐れているらしい。
これまでの記憶をすべて失くして、モノとなってしまうことが怖いとか。
イメージしよう(moonlight)。すべて忘れるということを。今まであったこと、出会った人、作品、言葉、景色、匂い、音、思考、何もかもが消え失せ、「このわたし」を思考する存在は未来永劫いなくなる。百年経っても千年経ってもモノのまま。
どうしても恐懼に駆られない。だってみんな、「睡眠」は平然とするじゃん。同じじゃないか?どう考えても。眠ってる間は「このわたし」を思考する存在は消えているわけだから。それが8時間から無限に変わるだけよ。その8時間も体感できるようなものではないし……。目が覚めるという保証が問題なのか?でも眠ってるうちに死ぬのと、爆弾をゼロ距離で食らって即死するのでは、前者のが好ましいんでしょ?体験としては変わらなくない?
死より衰弱の方がずっと恐ろしい。衰弱したくない。
労災のデータベースなんかを見てると、人は本当にどうしようもない理由であっけなく死ぬということがよく分かる。なんのドラマもなく。「納品場でホームから階段を下りようとした際、滑って落下し、後頭部を強打し死亡した。」とか「食材配達のため単独で自動車を走行中、市道にある橋の欄干に単独で衝突したことによって自動車のハンドルで体を打ち死亡した。」とか。
人生ってあまりにanticlimactic。マイケル・ジャクソンもスティーブ・ジョブズも、誰も劇的に死ぬ事はできなかった。アドルフくらいだろ劇的に死ねたの。
しかし劇的な死を選べる権利があるのはサピエンスの特権でもある。自殺という権利。その気になれば死に方を選べるというのは他のどの生物も持ち得ない能力だ。もし人生は「どう終わるかで決まる」というなら、ふつうに生きた際の帰結のanticlimacticさを考えると、自殺の一手という気もする。
しかし三島由紀夫のように大立ち回りして死ぬことが、はたして価値のあることだろうか……。納品場でホームから階段を下りようとした際、滑って落下し、後頭部を強打し死亡するのと、決死のスピーチに罵詈雑言を浴びせられ、切腹するも介錯を失敗されて激痛の中息絶えるのと、どっちがマシかね。
死はもうどうしようもないとして、死の準備をするのが大事なのではないか。とどのつまり、自殺が有用な選択肢になるのも、死の準備がより正確にできるというだけに過ぎない。死そのものはどうあっても自分の体験にはなり得ないのだから。
つまり、納品場でホームから階段を下りようとした際、滑って落下し、後頭部を強打し死亡するとしても、「いつ死んでもいい準備」ができていれば問題ないでしょうということ。しかしまさにそれを訴え続けてきたスティーブ・ジョブズでさえ民間療法にすがり深い後悔の中死んだのだから、言うは易く行うは難し。
死の準備とは記録に尽きる。自分が持つすべてを外部媒体に記録する。すべてのやり残しを誰かに託す。主観体験の快楽以外はそれで事足りる。
たとえば死判定の機構を作って、死後ObsidianのVaultを公開する仕組みにすれば、私がやり残したことはおおよそすべて記録されているから誰かが拾ってくれるかもしれない。
死後のメッセージを今のうちに作っておく。書くようなことがないなら、むしろいつ死んでもいいということかも知れません。
そうとも、主観体験の快楽以外は……。確かにうまいメシを食う喜びは委託できない。しかし、それがどうしたというのか。我々が死を恐れるのはそんな理由ではないのではなかったか。


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