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決着されど終着されじ/ととたの小説

決着されど終着されじ

18,109文字36分

原作軸全日本の~びす大会後でなんとかよだつかできんか?と思って書きました。
よだ→?→←←←←←←つかでやることやっててデキてないよだつかです。☀出番少ないです。
🐺ちゃん東京移籍後、東京の喫茶店で読書してる🦅がいろんな人間を見る話
大注意:無理がある(ので許して欲しい)

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夜鷹純が住民税をどこに納めているか、明浦路司は知らない。


夜鷹は勧められるがまま名古屋に1部屋マンションを買ったので、そこで長年寝起きをしていた。
賃貸ではなくなぜ分譲を購入にしたのか夜鷹自身覚えていない、生まれてから一度も家が欲しいという気持ちになったことはない、金が有って気がまぐれただけ。
最初で最後の教え子となる狼嵜光が東京のスターフォックスFSCに移籍するに伴い、夜鷹の住居をどうするかという問題があった。
賃貸契約などの面倒さもあり、夜鷹は少し考えたのち家具電化製品付きのマンスリーマンションを契約した。
有料オプションで清掃や荷物の受け取り、清掃もしてくれるとのこと。
三回ほど担当者から金額を確認されたので煩わしくなり、3カ月分をまとめて先払いを済ませて黙らせた。
住むところというのはそれだけ大事だ。
多くの人間は家を買ったということはほぼほぼそこで暮らして死ぬことを考える。だからこそ治安、病院や学校へのアクセス、近隣住民などいくら考えてもキリがない。
親友の鴗鳥慎一郎は家を建てる時に親の所有する土地に建てたが、注文住宅の建築メーカの人間に「3回建ててようやく満足ってよく言われます」と言われたのを夜鷹へ笑い話として話した。
家を買ったらそこで死ぬまで暮らす。
だが夜鷹純がそうとは、明浦路司にはとても思えない。
夜鷹には金がある、たとえ金がなかったとしても住みたくなくなったら住まなくなる、そういう人間だ。


「明浦路先生」
「は、はい」
鴗鳥慎一郎は仁王立ちで、明浦路司の名前を呼んだ。
司は夜鷹に証明できなかったあの全日本ノービス。もう二度と夜鷹に会う事はないだろう位には覚悟していた。
名古屋に戻ってからしばらくしてから。司がトレーナー探しに全国行脚する前の事だ。
電話での連絡ではなく、直々にルクス東山FSCに鴗鳥慎一郎は現れた。何のついででもなく、用件は明浦路司への面会であると武将のように述べる。
「明浦路先生、来週の水曜日の夜、また、私たち個人の貸切にいらっしゃいませんか」
「……!」
もちろん司も衝撃だったが、慎一郎の方がよほど思いつめた顔をしている。
眉に力を入れ、ぐっと黙り、眼で伝えようとしているその迫力。
私『たち』とわざわざ言った。
司は30秒近く黙って、
「…………これは、いえ、」
「…………」
慎一郎は時代劇俳優のように重く頷いた。
「……ぜひ、お伺いします」
「はい!!」
慎一郎は張り詰めた息をゆるめ、バンと司の肩を強く嬉しそうに熱い手のひらで叩いた。
後になって司は知る、この貸切に「俺なんかいいんですか」とか「俺は証明できなかった」とか「夜鷹純はなんて言ってるんですか」などNGワードを踏んだらそこで終わりだったのだ。
この試練は当日、現地に行ってもまだ続く。
夜鷹純は司の方を見もしない。話しかけもしない。司は「本当に俺なんか」と言いかけ、飲み込み、ぐっと氷に乗る。
慎一郎から貸し出された靴を遠慮してもNGだったし、委縮してジャンプを跳ばなくてもNGで、とにかくNGはそこかしこに転がっていて、針の穴に糸を通すような夜だった。
司は選手時代も短く大会の経験も少ない。だが教え子のいのりのためになら、なんだってやってやる、という強い気持ちはある。
じっと夜鷹を見つめていると、無いものとして扱っているはずの夜鷹はひとつまばたきをして彼にしてはあり得ないほど長く助走を取った。
助走の短さは夜鷹純の驚異の一つとして有名である。引退選手が実況席で「なんか跳んだ」と叫んだのがちょっとした流行語になるほど。
その彼が長く、今から跳ぶからなとでも言わんばかりにわかりやすく助走を取る。
もしかして4Lz見せてくれるのかななどと司は期待したが、夜鷹が跳んで見せたのは3Lzと3Aだった。しかも両手を上げない、つまり狼嵜光の手本に見せるものとは違う形で跳んでみせた。
「――!」
着氷を終えた夜鷹はこの日初めて司を一瞬、正面から睨む。
これはいのりがあの大会で失敗した2つのジャンプだ。そして3Aはいのりが最後に跳んで回転不足をとられたジャンプでもある、彼は勝敗を聞くだけではなくちゃんと最後まで見たという事だ。
司は深く深く、頭を下げた。夜鷹純は4Lzが跳べる、そんな彼がわざわざ3Lzを跳んで見せてくれたのだ。
それを受けて司は、無謀にも3Lzを真似るようなことはしなかった。1Lzから拾っていく。服のボタンをかける時は下から一つずつ、そうすればずれることがない。
誰かにぶつからないように、誰かの邪魔になっていないか気にしながらというのは視野を広く持つという意味で大事ではあるが、司はこの時ただ広いリンクに滑り出した。
一人になりたい、その衝動をまずはなだめないと。
夜鷹純のスケートを見ては、どうしたってコーチとしての司先生ではなく明浦路司が叫ぶから。それが今だけは許されている。
「邪魔さえしなければ別に僕は構わないよ」
「純くん」
その言葉は枠の終わりがけに慎一郎に向かって突然放たれた。
夜鷹の声にしては大きくはっきりとしたもので、慎一郎は表情を崩さないまま片目をぎゅっと司へ瞑ってみせた。
「明浦路先生、私も勉強になります、ぜひまたいらしてください」
「……俺、鴗鳥先生のおかげで、すごく勉強になるので助かります、ありがとうございます!」
なんというぎこちないやりとり。だが慎一郎は今度こそ拳をグッと作って二人から隠さないところでガッツポーズを取った。司は頷き、夜鷹は見えないふりをした。
「では、また連絡します」
こうして鴗鳥という美しいブルーバードを不遜にも伝書バト代わりに夜鷹と司は途切れずに済んでいる。
そしてリンクを出れば当然のように夜鷹は、
「乗って」
と自分のタクシーに司を呼ぶのだ。
さっきまでいないもののようにあつかったじゃないですか、それっておかしいですよ、と司が言ってもNGだ。
司はあってないようなルールを神がかり的に理解し、守った。
辻褄も理屈も道理もそこいらに置いて、不自然を続けている。


狼嵜光の移籍に話を戻す。
夜鷹が東京の拠点に賃貸マンションでも分譲マンションでもなく、家具電化製品付きのマンスリーマンションを選んだのが司は嬉しかった。
家を買ったのだって気まぐれだというので、今回だってそうだろう。
そもそもなぜ司が嬉しいのかって単純で、夜鷹の事が好きだからだ。
好きな人が近くに居てくれると嬉しい。これだけ。
別に司の元に帰って来るとかそういうことじゃない、と司は言い訳を呟く。
マンスリーという終われば終わるだけの家ではなく、彼の家がそこにあるという事実がすがりつけるほど太くて嬉しい。
でも、司は夜鷹にとってはもう「飽きた」存在なのだ。なぜって司が夜鷹へ証明をできなかったから。それを忘れてはいけない。
矛盾を抱いている司を抱いているということを、夜鷹は気づいているだろうか。


名古屋に夜鷹は週2ほど、慎一郎や司が思った以上に頻繁に戻った。
それは東京よりも多いリンクで存分に氷に乗るためだったり、親友を訪ねるためでもあった。
飛行機と違って新幹線は駅に行きさえすれば乗れるし、東京駅も品川駅も名古屋駅もどこに行くにも便利だ。
狼嵜光が移籍する直前に鴗鳥慎一郎は過労で倒れている。本人は甘いものの食べ過ぎ、冗談めかして言っていたが、彼のプライベートを知る夜鷹にはわかっていた。
慎一郎は自分を二の次にして働いてしまう人間だった。いくら頑強な体を持っていると言っても限度がある。
光もそれをわかって東京へ移籍をすることを決めたのだろう。
慎一郎の性格上、光はともかく夜鷹の東京での暮らしを深く心配しているのも分かる。
だが、夜鷹だって慎一郎が心配だ。鴗鳥慎一郎は夜鷹純のたった一人の親友で、理凰や汐恩の父で、エイヴァの夫で、光のもうひとつの家族みたいなものだ。
光の真夜中の個人レッスンは週3日である。名古屋に居た頃は夜鷹は週5日のペースで1回4時間氷に乗り、うち1時間を光のレッスンにあてていた。
同じ条件でとライリー・フォックスは夜鷹に約束をしたが、さすがに夜鷹は自分単独でリンクを使う事はしない。
遠慮しているというよりは光の事以上に借りを作りたくないし、名古屋に戻りさえすれば自由に氷に乗れるのだ。
そういう理由で、名古屋には週2以上戻って来ている。

「おはよう」
「おはよう、純くん、東京の暮らしはもう慣れた?困っている事はない?」
「なにも。別に変らないよ」
慎一郎は必ずこう言うし、夜鷹も必ずこう答える。


とはいえ夜鷹としては東京という街に対して大きな不満を抱えている。
煙草問題である。まず喫煙所が駅に無い。新宿駅や池袋駅といいうターミナル駅ですら駅中になく、駅から出たところにぽつんとあるぐらい。
大阪から引っ越してきた人間などは口をそろえて「どこで皆煙草吸ってんの」と言うほど。
そして路上喫煙も全面的に禁じられている。名古屋でも一部路上では禁止されているが、東京はその比ではない。
路上喫煙だけなく、店もまた紙煙草が吸える店が本当に少ない。
夜鷹は酒を飲めないのでバーだの居酒屋だのに行く事はないが喫茶店すら煙草が吸えない店ばかり。
コーヒーチェーンは喫煙室を併設しているところもあるが、それも電子や加熱式煙草に限られる事も多い。
喫煙可能店マップ、というのがネットに流れるくらいには東京は煙草に厳しい街だった。
高峰は夜鷹に『とにかくボロくて古い店探せ』と言った。
携帯用灰皿を持ち歩いていても吸えない、これは思った以上に夜鷹を苦しめた。
生ぬるくくさくへばりつくような空気を吸いたくないがために煙草を吸っているような夜鷹である。
どこかないか、夜鷹はふらふら歩くうち雑居ビルの1Fに喫茶店を見つけた。『とにかくボロくて古い』喫茶店だ。
駅からはやや距離があるが紙煙草OKとマジックで書いた札が提げてある。
いちもにもなく飛び込んだ。染みた重たい煙草の臭いに夜鷹は安堵した。吸える。
喫煙者は他人の煙草の匂いを嫌うが、煙草の匂いのしないところで煙草を吸うのもためらわれる生き物なのだ。
店員は70台ほどの、店主と思われる男性が一人カウンターでぼんやりとしていた。店内に客は二人だけ。
「いらっしゃい、あいてるとこどうぞ」
「アイスコーヒー」
「はい」
ビニール貼りのソファにどっかりと腰を下ろす。メニューすら見ずに夜鷹は注文した。
カフェインを摂らないようにしているが、とうていカフェインレスなどのぞめないだろう。夜鷹は有料喫煙所と割り切った注文をした。
店内には昨今よくあるタブレットや店員私物スマホからの転送ではなく、懐かしい有線放送のJ-POPオルゴールチャンネルが再生されている。
ペラペラの軽い金属の灰皿を、誇張ではなく東京に来てから初めて見た。煙草に火を点ける。
「アイスコーヒーね」
作り置きだろう、すぐに出てきた。
煙草を吸うと眼が冴えるというが、たっぷりと体に服にまるで魔除けのように煙草の煙をしみこませ、夜鷹は少しまどろんだ。
息ができる。気付けば思ったよりも長居になった、スマートフォンを一度も取り出していない。
出されたアイスコーヒーは氷がすっかり解けて黒と透明の二層を成している。
結露で濡れた伝票を取って会計に向かう。
「交通系で」
suicaでと言わず、交通系でと夜鷹は言った。
何故交通系でと言うのか夜鷹は覚えていないが、司が「交通系でって言うんですね」と言っていたことは覚えている。
スケートのことであればほぼすべてに対して「何故そうしたのか」を説明できる夜鷹だが、生活に対しては途端に解像度が低い。
「悪いねうち現金のみ」
言われて夜鷹、上着のポケットに手を突っ込む。無い。財布を忘れていた。
「……大変申し訳ありません。財布を忘れてしまったようです、」
夜鷹は店内でも外していなかったサングラスをここに来て外し、店主に目を合わせただしく頭を下げた。
「後程もう一度伺います、それまで時計か電話を置いていきますので待っていただけないでしょうか」
決済するつもりだったスマートフォンをそのまま置き、続けて細い手首から時計を外しにかかった。
ゴテゴテときらびやかではないが高いものと一目でわかる腕時計、店主の方はのんびりと首を横に振る。
「よくある、次でいい、また来て」
言葉も抑揚も惜しむような言い方に、夜鷹は少し好感を抱いた。頭を下げて店を出ると、ビルの隙間で夕日が赤みのつよい金色にとろけている。
有数の繁華街に近い事もあり、帰るものといくものが混ざり合う道を夜鷹はまだ歩いた。もっと夜にならないと彼は氷に乗れない。


以来なんとなく夜鷹はこの店を気に入った。二回目に行った時には「前回のお金です」と差し出すと、固辞されず「まいど」と受け取られ、それで終わり。
気に入ったというよりは他に喫煙可能な店を探すのも面倒だったからと言ってしまえばそうだ。店名も覚えていない。
夜鷹は入り浸るのではなく居座った。
コーヒーを頼んで、何をするかといえば読書である。夜鷹はスマートフォンに読書アプリを入れていた。
名古屋に居る時はタブレット端末を使っていたのだが、鞄を持ち歩くのが煩わしいのでスマートフォンが精いっぱい。
文字が小さくて見づらいが、疲れたら休めばいい。今時はスマートフォンさえ持ち歩けば煙草も買えるしタクシーにも乗れるから便利なものだ。
とはいえ現金のみの店もあることを忘れてはいけなかったが。
趣味と言うほどではないが夜鷹は読書を好む、読書は夜鷹を邪魔しない。始めたい時に始めることができ、そして内容が気に食わなければそこで終える事もできる。
気に入れば同じところだけ何度繰り返してもいい。同じ理由なら音楽鑑賞や映画鑑賞も当てはまるのだが、音楽はうるさく、映画は人の身体の動きがどうしても目に入ってしまう。
何か特別積極的に読むことはないが、意外にも夜鷹はあれば何でも読む。
東京のマンスリーは名古屋のマンションの暗証番号と生体認証と違い、物理鍵だ。金属の鍵はチャリチャリと煩わしい。

本を読み、目が疲れたら目を瞑って、一時間に一杯注文をする。混雑をして来たら出ればいいと思っていたがその機会は今のところない。
一杯目のコーヒーは何とか飲み干す、二杯目はもういいだろうとばかりにまるまる残す。老人はチラと夜鷹の顔を見たが何も言わない。
真っ黒ずくめの男が頻繁に来るのに店主の距離感は変わらない、警戒もされなければ過剰に立ち入っても来ない。
丁寧であいさつのできる人間だと思われたんじゃないかな、と夜鷹が言えばきっと司は失礼にもエッと大声を出しただろう。
慎一郎が聞けば深く頷いて純くんは丁寧だからねと言うだろう。
「すみません、火貸してもらえますか」
珍しく店主が話しかけてきたかと思えば、どう見ても空に見える100円ライターをカチカチと鳴らしている。
100円ライターは空に見えるのにまだ着くのかというくらい着火できるし、使い切る前にどこかへ失くしてしまう。
貴重な100円ライターの終わりを夜鷹は見た。
「……」
夜鷹がライターを貸してやると、ゆったりした身のこなしと裏腹に素早く火を点けて、軽く頭を下げて返す。
持ち合わせていたのが扱いやすい安物のライターでよかった。
愛用していた鷹の刻印入りのあれは名古屋に置きっぱなしだ。東京で失くしたくないと無意識に思ったのかもしれない。
「どうも」
店主は長年煙草を吸っているのだとわかる無駄のない所作だった。
カウンターの内側へ咥え煙草で戻ると、深くいかにもうまそうに煙草を吸う。
ふかすばかりで味わってなどいない自分が少し恥ずかしく夜鷹には思われた。


店は盛り場に近い。奥には4人座れるテーブル席もある。
最近流行のレトロ喫茶やカフェとは一線を画す、レトロというよりは当時というのだろう。
コーヒーチェーンのように一杯400円では飲めないし、逆に1,200円を超えるようなスペシャルティコーヒーというのもない。
生き残るというより生きているだけの店だ。
夜鷹はカウンター席には座らない、いつも奥の2人席に腰を下ろす。広いとこどうぞ、と店主がいう時はそのまま4人席を占領させてもらうこともある。
時間を潰すのが壊滅的に下手な自覚が夜鷹にもあるので、この喫茶店でスマホを眺めたり、ぼんやりするぐらいしかない。

店に入る前に念のため夜鷹は上着のポケットを叩くようになった。二度同じ失敗をしたくないというより、ありふれた一度の失敗のまま記憶に残らない客としていたかった。
『匠先生は酔って財布を落としたりするから、お守りに1万円札入れてるそうですよ』
『俺もスマホケースにお金入れてます!……ごせんえん』
『現金のみのお店に入っちゃったら言ってください、近くなら俺、行きます』
社交辞令ではなく本気の顔で間抜けな、穴の空いた靴下を履く彼は夜鷹に言った。
名古屋の自宅の向かいには夜にだけやっていて紙煙草の吸える喫茶店がある。現金のみ支払いだ。財布を忘れた夜鷹はそこで、自分よりお金のない人間が自分のためにお金を出すという経験をした。
恩に着せてくる人間が多いことぐらいは知っているが、彼はそんなことはしないだろうとも思うし、たとえ彼がそんなことをしたとしても問題なかった。
もう夜鷹は彼に、明浦路司に飽きているのだから。
名古屋で夜鷹はコーヒーを飲んで煙草と夜をふかし、飽きた男を自分の部屋に連れ込んで抱く。彼も矛盾も抱いていた。
だからどうした、別にどうでもよかった。



喫茶店というのは様々な人が来るのだ。
盛り場から近いからだろうか。それにしても日中の喫茶店というのは多種多様な人種が訪れる。
別れ話、告白、マルチや宗教の勧誘、近所の主婦たち、恐らくは不倫関係の男女――
夜鷹は勿論人間だ、だが人間に馴染みなりきれていないところがある。だから無関係の人間達の言葉を聞くことは学習のひとつと言ってもいい。あまり意欲的ではないが。
悪く言えば盗み聞き、よく言えば人間観察。読書と同じで自分は傍観者なので、始めたい時に始めて終わりたい時に終わる事ができる。
夜鷹の顔や雰囲気に視線を集めることはあっても、すぐに離れていく。そういえばまだ、東京に来て夜鷹は『ヨダカジュン』と呼ばれたことがない。
スタイリストから変わらず送られてくる服を着ている。自分のからだの動きを妨げないことのみに終始した服達に不満はない。
あまり目を不要に惹かないように名古屋に居た頃よりさらに落ち着いたものが多くなったぐらいだ。
『俺は夜鷹純の大ファンなんです』夜鷹かあら離れたところで明浦路司が親友の慎一郎に語るのを聞いたことがある。
声を潜めていたらしいが地声が大きくて丸聞こえだったし、あとで慎一郎からも嬉しそうに言われてしまったので二回も聞くことになった。

もしやこれは感傷なのか?違う。即座に夜鷹は否定した。
感傷という言葉には傷が含まれる、夜鷹は傷ついてなどはいない。ただ振り返っていただけだから回想だ、……下心があるな。まあいいや。
「アナルは?」
したごころを振り返っていたところ、背後から低い男の声が聞こえてきて夜鷹は顔に出さずに驚いた。
アナル、何がどうしてそんな会話が出てくることがある。
「経験ありません」
別の男がはっきりと答えた。申し訳ないとでもいうような声色だった。
「ですが、やります」
「きみノンケだよね?」
「はい」
「借金?」
「いいえ」
ああと夜鷹は腑に落ちた。東京新宿にある日本有数のゲイタウンからここはわりに近い、そうした店の面接をやっているのだ。
これまでにも数回ここで風俗店やキャバクラなどの面接している会話を聞いたことがある。
夜鷹の人生において「本指」やら「店外」など聞いたこともない単語が飛び交っているのはまあまあ面白い。
逆にここで慎一郎とスケートの話をしたらそんな風に周りからは聞こえるのかもしれない。
というのも以前、「うちじゃシニアは4回転が基本だからその分バックで稼ぐ」というのが聞こえて耳は敏感に『4回転』を拾ったのだが、それが一種の風俗店の接客だとわかったのだ。
本番、バック、回転、ランキング、飛ぶ(跳ぶ)――もしかしたらアクセルだのルッツだのあるのかもしれない。

「借金はありませんが、お金が必要なんです」
「そういうコ多いけど、うちも飛ばれちゃ困るわけ」
「飛びません」
飛ばれちゃ困るというのは、おそらく仕事を放り出して逃げる事だろうと夜鷹にもわかる。
世界で一番強くスケート靴を履いて跳んだだろう夜鷹の後ろでそんな会話が続く。
夜鷹が氷に戻れと言ったのを司は断った、あの夜を思い出す。もう二度と言ってやらない。
「車とかギターとか、欲しいものがあるぐらいでやる仕事じゃない」
「どうしてもやりたいことがあるんです」
「覚悟だけじゃやっていけないこともあるんだよ」
「……」
「きみ学校は?」
「……高校まで」
「じゃあ普通に働いたほうがいい」
「でも、時間が無いんです」
「俳優かな、アイドルとか……ダンサーとか。うちは顔出ししてないしチェキもないし撮影禁止だけどリスクはある、理解してる?」
「……してるはずです」
彼の回答は誠実だった。しているはず、まだ実感を伴ってはいない。
ああ。夜鷹は新しい煙草に火を点けた。何かのために自分を生贄に捧げようとしている青年が背後に居る。
そしてそれを、犠牲の重みを量る神官のような男は拒否をしているのだ。
きっと応募してきた男は美しく魅力的な男なのだろうと想像がついた、本当にやらせたくないのなら見た目を理由にさっさと断ってしまえばいい。
「……うち、弟が三人居て」
ここまで覚悟ばかりを張って来た男の声に、翳りのようなものが生まれた。
そうだ彼も四人兄弟だと言っていたな――次男だとか。夜鷹は思い出す。
慎一郎くんは長男なので、「僕を兄だと思って」と彼に優しく接していた。彼はおそれおおい!とのけ反っていたけれど、憧れを隠し切れない顔をしていた。
そのやり取りを見て僕は何と言ったんだったか――そうだ「僕の事はなんとも思わないで」だ。「ハイ……」と彼は萎れている。
僕は僕でしかありえない。そして、もう君の憧れた夜鷹純ではない、という意味で言ったのだが、「でも夜鷹純でしたっ……!」とやはり慎一郎くんにこそこそ嬉しそうに訴えていた。だから声が大きい。
面白くは無かった、陰で言われることがじゃなくて、その嬉しそうな顔は僕に向けるべきだと思った。
背後の面接は進んでいく。
青年がからだを売ってでも得たいものが、つまらないものであってほしくないなと思いかけた。支払った分だけ叶うべきだ。
だが弟が三人居て、という部分が気にかかる、つまりそれは捨てられないものを抱えながら跳ぼうとするようなもの。
人は一方向にしか進めない、ジャンプは身軽なものが高く跳べる、足をとりしがみつき後ろ髪を引いてくる存在というものは排除すべきなのだ。
少なくとも夜鷹はそうしてきた。
「……〇〇クンてわかる?」
「はい、アイドルですよね」
夜鷹の知らない名前だ。
「彼がニチョの出身なのは知ってるよね」
ニチョ、知らない名称だったが二丁目、つまりゲイタウンのことを言っているのだろう。外に出ると知らなかった事ばかりだ。
「はい」
「有名になればなるほど、一番いい時にバラされるってカレは知ってた。だから本人が自分から公開したんだよ」
「……そうだったんですか」
「彼も兄弟が多かった。兄弟が居なかったらもっと早くこの街を出られてただろうね――」
「あの、ちゃんと勉強してきました。ここで働けないなら、俺は……」
「わかってる。二年だよ、うちの店は二年で卒業させる。四つ守って。一つ、薬はダメ、二つ、裏引きはダメ、三つ、恋愛は禁止。――できる?」
「念のため説明をしてもらえますか」
彼はどうやら頭が悪くないようだった、間抜けで愚かな青年をひとり知っている夜鷹はふんと音のしない程度に鼻を鳴らす。
「薬はまあ普通にダメだけど、何でもかんでも薬を中心に考えるようになるから一番にダメ。裏引き――店を通さずにお金を貰うことだけど、これは絶対にバレる、客なんか皆口が軽いからね、きみ相手じゃなくても――例えば他の店の子を口説くときに、どこどこのだれだれはいくらでやらせてくれた、なんて平気で言う」
何度も説明してきたのだろう店主の男の説明はよどみがない。
「裏引きのダメなところは、バレたら店に居られなくなるだけじゃなくて『裏引きしたやつ』と知られて、今よりいい店には行けなくなるし、逆に悪い店がつけこんでくる。この街は稼がせてくれる街だと思わないこと」
「……はい」
「恋愛禁止、これは店の中でくっつくと面倒だからっていうのもあるけど、店の外でも基本的には禁止――彼女は居る?」
「……いました」
「男がオトコを相手にする仕事。たとえ彼女に言えても絶対どこか影響が出る。揉める。辛い思いをすると薬やお酒、風俗に流れちゃうんだよね――この街は誘惑が多いから、そうするとお金は飛んでいく」

夜鷹はこのやりとりを当然耳で聞いているのだから、漢字は夜鷹の脳が当てはめている。
『お金は飛んでいく』と言われた時にはっきりと『飛んでいく』という漢字を当てはめた。
飛ぶと跳ぶを夜鷹は明確に分けている。彼――明浦路司もそうだった。と思う。
夜の貸切に便乗するようになった彼はリンクに貼られた、とある選手のポスターに対してぽつんと、
「なんかなあ――」
とつぶやいたのを覚えている。
選手の名前は思い出せないが、『高く飛べ』と書かれていた。ちょうど一通りのジャンプを終えた夜鷹は珍しく、
「何が違うの」
と尋ねた。聞かれていると思っていなかったらしい彼はビャッと驚いたようだが、
「飛行機の飛ぶは、鳥とかチョウチョみたいに――飛行能力があるものの字だと思っていて」
「うん」
「ジャンプの跳ぶは、飛行能力のないものが、自分の力で地面から離れて、重力で着地することだと思っていて」
「うん」
少し高揚した。明浦路司はおろおろと自信なさげに、でも身振り手振りうるさく続けた。
「飛行能力のないものが――まるで鳥みたいに自分の力で跳べてることがすごいので、だから、でも……」
口ごもる。
「飛行能力があるみたいに跳べってことなのかもしれないんですけど、なんかチガウナって……すみません」
夜鷹が何か言うよりも早く、彼は慎一郎から借りたスケート靴をすっかり足首になじませてリンク中央へと進み出た。
初めてジャンプを跳ぶ5歳みたいに長く長く助走をとって、えいっ!というように2Tを跳ぶ。高さはあるものの、もちろん着氷する。
そういえば、彼はAを除いた2回転が跳べるようになっていた。遅いね。早いけど。

背後の面接は続いている。
「……わかりました」
「それから最後ね、四つめ、個人情報を守る以外の嘘をつかないこと」
「はい」
どうやら、彼は自分の身をくべることになったらしい。細かいお金の話が始まったので興味はなくなる。
夜鷹はようやく、手元の端末で読書を再開した。
「二年間よろしく、でも、無理だと思ったら必ず言うんだよ」
「はい」
夜鷹の横を通って二人は店を後にする。

わざわざ顔を上げなくても視線だけで二人を追いかけることができた。
店の入り口は通りに面している。午後の日光が路面に注がれていて、薄暗い店からすると光の中へ影がふたり連れ立って出ていくように見えた。
逆光で顔は見えない、だが、すらりと背の高い彼は見てわかるほどダンサーの立ち方をしていた。


今夜鷹が読んでいるのは何かをテーマにした複数の作家による短編小説集だった。
題材の一つに、バレエダンサーを目指す少女が出てくるものに差し掛かる。
『あたしにはバレエしかいないの』
親は何を馬鹿なと首を振る。
『バレエじゃなきゃいやなの』
結局親は根負けして、お金を出す――

明浦路司の事を思う。現役時代のことを思い出すとどうしても氷にまた乗りたくなるから、――煙草に火を点ける。
二十歳からフィギュアスケートを趣味ではなく選手として本格的に始めるというのがどれほど馬鹿げているか。
馬鹿げているが、自分であればできたと夜鷹は思う。
彼は恵まれなかったのは事実だが、証明できなかったのは彼の落ち度だ。
あの全日本での司の演技がなぜ夜鷹の記憶に残っているのか、まだ答えは出ない。
でも、あの時に(僕だ)と思ったのは確かだ。
僕のくせに転倒するな、僕なのに負けるな、僕なのに人と踊るな、どれも全部違って、どれも全部正しい気もする。
もう二度と会う事もない人間に対して好き勝手な感想があり、なのに再会した。
彼の最後の演技を見たのも、名港杯の後で出会ったのも、ここまでは偶然に片づけてもいい。
だが、たったひと枠の貸切とはいえ同じ氷の上に乗った以上――もう無視はできない。
彼はよりにもよって夜鷹純に向かって、「氷の上に絶対はない」と言ったのだ。
氷に乗っている時間以外は死んでいるんだか眠っているのだか変わりないような、ただスケートをするための身体を繋ぐばかりの暮らし。
そこに楽しませてくれる存在が現れたのだ。
証明してね、と言った時に、万が一の敗北も考えていなかった。
でも、勝ちたいと立ち向かってくる存在は夜鷹にまだ火をつけられる。
だが、彼はコーチとしても負けた。終わり。飽きた。

慎一郎は夜の貸切に引き続き彼を呼びたいと言う。
彼が何を考えているのかまではわからなかったが、夜鷹は自分ができることで慎一郎が望むなら可能な限り叶えたいと思う。
だから、賭けに負け、証明のできなかった彼のリンクへの立ち入りを許した。

レオニード・ソロキンは『観客のいないバレエ……芸術といってもいいね、観客のいない芸術に価値はあると思うかい?』とかつて夜鷹にたずねた。
夜鷹は当時『僕はたった一人でもスケートをやるだろうな』と答える。
勝つためのスケートでもあるが、生きることとスケートはもう絡みついてしまっていて分離できない。

夜鷹は明浦路司にたずねたことがある、
「きみは、いきるのしぬのを賭けて、スケートをやったことはあるの」
気まぐれだったが、いのちを問う言葉だった。
「……スケート選手生命という命なら、賭けたことがあります」
あの全日本の事を言っているのだろう。
「俺は……たとえあの後宝くじに当たったとしても選手には戻らなかったと思います」
「なぜ」
明浦路司は静かに笑って、答えなかった。
「貴方はいつもそうだったんですね」
「……まあね」

東京に来てから夜鷹は隙間の時間が多いので、こうして明浦路司の事をよく思い出す。
現役を引退してから夜鷹の人生に現れた人間で、特筆があるとすれば光とそれから明浦路司ぐらいのものだった。
間抜けな男。その才能をドブに捨てた男。夜鷹を楽しませず、飽きさせた男。
なのにきみょうに消えない。夜鷹もことさらに排除はしていない。
好きにすればいい。僕はもう、コーチとしての彼にはもう飽きている。
もう飽きた。なのに抱いている。名古屋に戻るたびに引っ掛けるようにして抱いている。彼も何も言わずに言わない。


今日読んでいる本は児童向けの小説だった。何故この本を選んだかわからないが、夜鷹のAmazonアカウントで本や雑誌のサブスクが加入されている、その中にあっただけだ。
少女たちが夏祭りに出かけ、ふしぎな生き物と出会い――きっと別れはあっても死ぬことのないだろう冒険譚。
暇ではあるが没入できるほどではない、スケート以外夜鷹を熱中させるものはない、ないように人生を捧げたからだ。
「会えて嬉しかった」
だから背後から突然ハキハキとした若い女の声が夜鷹の背後から降ってきて夜鷹は少し驚いた。
降ってきたと言うのは彼女が立ち上がって歩きながら言ったためだ。
「……うぃ」
男の方は帰らないのか珍妙な返事で送る。すりガラスを思わせる特徴的な声。
「じゃあね」
若い女と言っても夜鷹からしてみれば少女と女性と老婆ぐらいの違いしか分からない。
光が本来好んでいるようなフリルの多い、だが明るい色調のワンピースと肩で切りそろえた黒髪の丸い後頭部が店を後にした。
彼女が完全に店から出ていって、……ッはー……と男の深いため息が有線放送の合間に響く。
ド、と鈍い音。
夜鷹が見なくともわかる、男がテーブルに突っ伏したのだろう。
少なくとも夜鷹がこの席に座るより前から彼らは店に居たはずだ、本を読んでいたとしても隣を誰かが通れば気づく。
だが夜鷹は二人客だと思っていなかった。
彼女は「会えて嬉しかった」と特別な仲を思わせるような事を言った。なのにすぐ後ろだというのに会話の一つも聞こえた気がしない。
別れたのかな、あまりにも暇すぎて夜鷹はそんなことを考えた。
夜鷹はスマートフォンを置くと煙草に火を点けた。ごく軽く口の中を満たす。意識して肺に入れていないわけではないが、それでもツンと脳に効く。
ああ彼は「あまり煙草を吸い過ぎると脳が委縮します」とどこかで書かれているようなこと夜鷹に真面目に言った。
そんなものわかっていないとでも思うのか、どんな思いで煙草を吸ってるのか、知りもしない、知りもしないから言えるのか。
夜鷹は目も合わせずに「君は関係ない」と言った。ところで彼等は別れたのかな、これももちろん僕には関係ない。


しばらくして、新しい客が来た。夜鷹から見て大荷物の細身の若い男というぐらい。
「友達が先に」と店主に言うとどうやら男の突っ伏してる席を案内されたようだ。
夜鷹の横を通る時に、そっと歩みを遅くした。ちらりと横を見れば男は黒いギターだかベースだかの入っているらしいケースを席にぶつけないよう慎重に運んでいるところ。
「うぃ!おつかれさんス」
「うぃ~……」
先に居た男の声がくぐもっている。まだ突っ伏しているようだ。
「あれ、あの子いないんスか」
「仕事あるからって帰った」
「アナ~ル」
アナル?またアナル?夜鷹が誤差程度に眉をしかめ、すぐに「ああなるほど」の省略形だと気づく。
「アイスコーヒーください、ガムシロだけでいっス」
新しくやってきた青年は「す」の発音がthだと些細なことがわかる。
「はーい」
「……プリン食わねえの、いつも食ってんのに」
「金なしほういちス」
「給料入ったばっかじゃん」
「こないだ彼女が誕生日だったんスよ……ちいかわショッピングモールとメシとホテルで」
ちいかわ。ちいかわというのは、なんかちいさくてかわいいやつというキャラクター名だということを夜鷹は知っている。
「ああ」
「つか今月あの子も誕生日じゃなかったスか」
「そう」
「どっか行ったりなんかプレゼントしたりしないんスか」
「別にいらないんだって」
「あッス」
「俺がいてくれればいいって」
「……おぉ……」
「ファン過ぎよな」
どうやら彼らはバンドを組んでいて、先程の若い女はファンであり恋人なのだろう。
ファンを恋人にするというのはどういうものだろう、なんとなく夜鷹は別になにとは言わないけれど興味をそそられた。
「しかも俺ら付き合ってない」
「えっ」
(わかる)
付き合っていないのに特別な仲。
「呼べば来る」
「おぉ」
(わかる)
「向こうもデートしたいとか言わないし」
「えぇ……」
ただ喫茶店でおなじ時間を過ごしただけで、嬉しかったと言う彼女。
(わかる)
「セフレじゃないスか」
(わからない)
セフレというのはセックスフレンドということぐらい夜鷹も知っている。
「セックス死ぬほどがんばってる俺。マジでうまくなった」
(それは少し違う)
夜鷹はセックスで頑張ったりなどはしない。

性交経験があるものの、夜鷹は男を抱くのは初めてだった。それも自分より大きな、見た目にメスの要素のかけらもない男を。
なのに抱けるなと思ったのはあの視線だ、セックスの事を「目合う」がら「まぐわう」というが、あれほどの視線に求められた夜鷹は負けん気ひとつで抱いたようなものだ。
向こうはそんなつもりはなかったと言うが、お互いに相手の視線に誘発されてそうなったと思っているのだからこの話に決着はつかない。
やればできたというだけ。真実を二つ、お互いに持っていればいいだけ。
フィジカルで仕掛けたのは夜鷹だが、面白いを通り越して心配になるほど溺れたのは司だ。
夜鷹の視線に気づいた司が事を終えてから「しんじなくてもいいですけどおれおとこはじめてです」と棒読みで言った。
別にどうでもいいと夜鷹は決まり文句のように返しておいて、ひそかに胸を躍らせた。
彼をああしたのは僕だ。
現役時代にこんなものを知らなくてよかった。
肉欲で身をほろぼす人間と言うのを夜鷹は何人も見たことがあり彼らの事を今でも愚かだとは思う、夜鷹とて童貞ではない。
だがこんなに、こんなにもだっただろうか。
どんどん彼が自分のかたちになっていくのがわかる。
性交の事を下品に『ハメる』という事ぐらいは夜鷹も知っていたが、知っているのと体験するのとでは大違いだ。
マンスリーマンションは物理鍵だ、毎日、鍵穴に鍵を突っ込んでいる。

共通の知人ができたことが嬉しいのか慎一郎は夜鷹に明浦路司の事をしょっちゅう言う。
身長が186cmで慎一郎と同じで、履いているシューズはライデルで、ペア選手でもないのに筋肉をつけているのは趣味で、好きな食べ物はドーナツで……
夜鷹も別にそれをわざわざとめないので、無駄と言っていいだろう明浦路司知識が増えた。知識が増えると像を結ぶ。
煙草を吸うと脳が委縮して――なるほど、夜鷹の脳が委縮したところに彼は図々しく入り込んだのかもしれない。


「じゅ」
ある夜のさなか、美しい背中をのけぞらせて司が自分の名前を呼ぼうとしているのに夜鷹は気づいた。
思わず――思わずというほかない、枕に彼の頭を押さえつけてしまった。
「うう」
行き場のないその声も呼吸も涙もぜんぶ枕に吸わせてしまい、それ以来、司は声を可能な限りこらえるようになる。
声をこらえるためにキスをねだる事すらあった、人の唇を消音器がわりにしようというのだからいじらしいを通り越しておそろしい。
古文ではおそろしいというものを、頭の毛が肥え太るという表現をした。わかる気がする。
司の声は今夜鷹の背後で喋っているヴォーカルの彼のように、決して特別な声質ではない。
溺れる彼に「じゅんさん」と名前を呼ばれたら夜鷹のほうがどうにかなってしまったかもしれなかった。
「つか、れた」
夜鷹がやっと言えたのはそんなことだった。疲れていない。いやつかれていた。
明るい金色に近い髪の毛の色は染めているわけじゃないんだ、これは慎一郎から聞いた話ではなく、夜鷹が見た話。


「俺の声と曲が好きなだけ、俺が歌うのやめたら捨てられるのは俺のほう」
すりガラスのような声のボヤキが続く。
(わかる)
わかりたくはない。
夜鷹がスケートをやめたら、きっと司は夜鷹の事を見もしなくなるだろう。
「呼べばくるし、俺が邪魔くさそうにしたら帰る、俺が他で何してるのか聞いて来ない……俺に都合が良すぎる」
(わかる)
司は夜鷹にとって都合がいい。やわらかくあたたかく、それでいて線を引いていて、自分は溺れる癖に夜鷹と融け合おうとしない。
セックスとは二人がひとつになる行為ではない、お互いが輪郭を失うほどとろけて、でも混ざりあわない。相手が他人だと確認する行為だ。
「都合悪いよりいいじゃないスか」
わかってないな。
「都合が良すぎるのって怖いんだよォ」
「そういうもんスかね」
(僕は怖くないけどね)
夜鷹が恐れるものなんかたった一つだ、いつ跳べなくなるのか。そしてその日を夜鷹自身で選ぶことはできない。
「お前んとこ同い年だろ、あいつ8歳下なんだわ」
(同じだね)
夜鷹は非常に若く見える、見えすぎると言われる。だから夜鷹は外見の年齢に頓着していない。
だが明浦路司が8歳下だと慎一郎から聞いた時はさすがにうろたえた。聞いたのは散々抱いて泣かせた翌日だったのでよく覚えていた。
8歳下という事は、それは夜鷹が引退した時に彼はまだランドセルを背負った小学生をやっていたという事だ。
親友の言葉に、へえ……と言うだけがやっとだった。8歳も年下ということはたとえ彼がノービスから選手をやっていたとしても――

「は~~~~……」
女泣かせのヴォーカルは泣き言を全部ため息に乗せた。
「そんなもんスかね」
「歌とセックスしか頑張ってない」
「いやもう27じゃないスか…」
できる事ならスマホを投げたくなったが夜鷹の理性がすんでのところで押しとどめた。
衝動が鈍っているのかもしれない、これが丸くなるという事だろうか。
彼より若いくせに、何を言っているの。慎一郎くんは28歳まで現役だったよと親友を引き合いに出す。迷惑だろうか。
元オリンピック金メダリストですら、こんな若者たちと似たようなことをやっていると言うべきか。
こんな若者たちのやるようなことを、オリンピック金メダリストもやらされていると言うべきか。
どっちだっていい、どうだって。
でも、自分は20代もあと少しで終わるところなのに、相手はまだ10代なら、それはまあ、気持ちになるかもね。

「んッで!んで、曲は昨日送ったやつでこの歌詞どう?」
気合が入ったらしい。ヴォーカルの声がカラ元気にまわった。かさりと紙の開く音が有線放送の間に紛れる。
「はー、だ~いぶラブっスねこれ、昭和時代のやつみたいな。これどっかに縦読みであの子の名前入ってたりなんスか」
昭和時代。令和からすると2時代前だ。若者ぶりたいわけではないが自分の生まれた年が時代扱いされるにどうもまだ慣れない。
「そういうのやんない、あいつが喜ぶのってそういうことじゃない」
「はぇ~~いいじゃないスかこれ、いいじゃないスか!早く合わせてみたいな、ギターはムズかったスね、俺関係ないけど」
ベーシストの声が上擦った。僕等でいうところの、曲に対して解釈と構成、振り付けを練っているようなものなんだろう。
新しいプログラムにワクワクする彼らは、少なくともシニアは4回転が基本でバックというより明るく聞こえる。
「ま、俺が歌うとあいつ喜ぶからさぁ……」
すりガラスの声が甘く得意げに曇った。
それを耳にした夜鷹は、ついぞ手に取ったことのないガムシロップのパッケージを摘まみ上げた。
半透明の容器を満たすどろりとした液体。アイスコーヒーにガムシロップを入れて、ろくにかき混ぜもせずストローで啜る。
ガムシロップは放り込まれてすぐグラスの底にたまっていたので、喉を直撃した。苦い、甘い。


それから二人はああでもないこうでもない、いくらか歌詞を手直ししていたが時間だと立ち上がる。
スタジオの時間になったのだろう。フィギュアスケートほどではないがバンド活動というのもなかなかに場所と時間とお金のかかるものなのだ。
店を出る寸前、男は苦甘い声で言った。逆光になるため顔は見えないが、彼は笑ったようだった。
「俺なんかさあ、歌が上手くて顔がいいだけの無職だよ~~」
いい声だ。思わず夜鷹は微笑んだ。自嘲ではなく苦笑だった。
僕もだよ。僕もだ。
今でこそ狼嵜光のコーチという、仕事と言えば仕事をしているものの、いずれ彼女の手を離す日が来る。そうしたら無職だ。しかも40歳近い。
でも僕はセックスを頑張ったりはしない。彼が勝手に僕に溺れてる。彼は僕に証明できなかった。僕は彼に飽きている。


「……もう俺、貴方がスケートをやるやらないどころじゃないんですよ」
それぐらいに、と言葉を続けようとした司は自ら、ぼふっと枕に顔をうずめた。
ねえいま、何を言おうとしたの、そんなものわかる、わかるけど、追いかけられない。
追いかけられないのをわかっていてそういうことをする。


夜鷹純が住民税をどこに納めているか、明浦路司は知らない。
今日は光のレッスンがあるが、新幹線の終電には間に合う。
疼いた。夜鷹はさっそくスマートフォンを取り上げる。慎一郎くんに枠を取ってもらうためだ。

コメント

  • *遼*
    5月19日
  • ゴンタ

    彼に飽きた、飽きたと繰り返して自分に呪いを掛けている、それこそが無意識の意識(無知の知?)!何をしてても、どんな会話を聞いても、どこからだって彼を連想して意識してるじゃないですか!彼について考えるのは飽きてない癖に〜! (わかる)ってなってるの可愛い!諦めた方が良いですよ!早く!

    2025年9月11日
  • chicken

    最高です!一番好きな作家さんです!

    2025年9月9日
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