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この作品「イエスタデイ、イエス・ア・デイ」は「くさひぐ」「篤寛」のタグがつけられた作品です。
イエスタデイ、イエス・ア・デイ/かみやの小説

イエスタデイ、イエス・ア・デイ

5,251文字10分

日車さんのお誕生日が夏だったらという妄想のもと、日下部さんが日車さんに指輪を贈ろうとするお話
二人称小説がとても好きなのです… 下手の横好きなんですが

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 君は日曜の朝からボウルに割り入れた卵を溶いている。
 彼が起き抜けにだし巻き卵が食べたいというので、それでは作りますかと、君はたいして面倒にも思わずにキッチンに籠もっている。
「今年の梅雨も短そうだ」
 群青のソファに座って新聞を広げたたまま、首だけこちらへ回して彼が君を見る。なめらかな頬に朝の陽射しがまぶしくとろけている。絵に描いたようなきらめく光景に、君はこみ上げてくる笑いをどうにか押さえて、「そりゃ困ったな」と相槌を打つ。
「だし巻きのリクエストあるか?」
「甘いのがいい。今日は漬物を乗せて食べる」
「はいよ」
「君、なんだか妙に俺に甘いな」
「いつもでしょーが」
 君は慎ましくそう答えると、――でもまあ、と付け加えた。
「来週誕生日だろ、寛見。だから余計に甘やかし月間だな」
「……そうか。忘れていた」
 なるほど、と彼は納得したように頷く。短く切り揃えたばかりの愛くるしい後頭部を眺めながら、君は前から考えていたことを、とびきりの勇気をもって口にする。
「誕生日、欲しいもんあるか?」
「この生活」
 彼は一瞬のためらいもなく答える。ややあって、彼が新聞をゆっくりとめくる音がする。
「俺の望みはそれだけだ。贅沢だと思うが、これは譲れない」
「そうじゃなくてさ。ほら、あるだろ、何か記念になるようなもんとか」
「卒業式じゃないんだぞ。ガベルに今年の日付でも入れるか?」
「そーじゃなくってぇ……」
 君はもう少し待つべきかと考えて、すぐにその考えを捨てる。彼は聡明な男だけれど、同じだけ不器用で頓珍漢なところもあるから。
「指輪」
 君は絶対に聞き間違われないよう、はっきりと一文字ずつ発音した。
「指輪とか、どうだ」
 彼は答えない。大きく開いた新聞の、文芸欄か何かに視線を向けたまま、動かない。新作のミステリか何かが大きく特集されていて、右面の端には短歌と俳句の小さなコーナーがある。
 君は彼が、文学に並々ならぬ興味を持っているわけではないことをよく知っている。
「ほら、俺たち、付き合ってそれなりに経ったし」
「駄目だ」
 彼はソファの上で飛び上がるようにしながら、今度は身体ごと君を振り返った。
「駄目だ。指輪なんて、絶対に駄目だ」
「どうしてだよ。ふたりでつけるの嫌か?」
「嫌というわけじゃない」
 彼はおおきな目をうろうろと動かして、結局最後に君ではなく、君の手元にある溶き卵の入ったボウルへとすがるような視線を向ける。君は素早くボウルを取り上げて、彼にちいさな意地悪をすることを想像するけれど、決して実行に移すことはない。
 君は彼に首ったけだ。
「つまり、嫌ではない……んだが、ほら、あれだ、指輪は小さいから、落とすかもしれない」
「もう少しマシな言い訳考えなさいよ、元弁護士でしょうが」
「指輪は丸いし」
「ほぉん? あとは?」
「……」
 彼はあきらめたように、ボウルから君へ、ゆっくりと視線を上げる。薄い唇がためらうように開き、すぐにきっぱりと閉じられた。
「一億」
「……はい?」
「俺に指輪をくれるなら、一億の指輪をくれ。それより安い指輪なら受け取らない」
「は、はい?」
「以上だ。話は済んだか、篤也? 俺のだし巻きを早く頼む」
 ――はい? と君はもう一度訊き返す。彼は知らん顔で君に背を向けてもう一度新聞を広げ、しばらくして上下を直してから、おもむろに次の面を広げる。
「……そうか」
 やがて君は頷いた。ちょうど温まっただし汁に少し多めの砂糖を放り込み、少しの醤油と塩を慎重に加えてから、君は決然と宣言した。
「じゃあ買いにいこうぜ。一億の指輪。今日、これから」


 かくして君と彼は並んでソファに座っている。
 君は黒いTシャツに履き古したチノパン、彼は白いポロシャツに新調したばかりのセンタープレスのデニムを合わせて、膝を揃えて黒い革張りのソファに浅く腰掛け、宝飾店の二階の一室で静かに店員を待っている。
「……靴が」と彼が呟く。白い指がデニムの裾をせわしなくいじり回している。
「く、靴が、安物だった」
「もうどうしようもねえだろうが。腹くくれ」
「君のは、古いが、いい靴だ」
 いつもなめらかに回る彼の舌が、今日は少しもつれている。セットの足りないやわらかな髪が彼の額にはらりと一筋落ちる、その美しい瞬間を君は目にする。
 ローテーブルに置かれたふたつのグラスの中で、溶け始めた氷がからりと同時に音を立てて崩れる。透明な炭酸水がちいさく囁くのを君は聴く。
「――何度でも謝る」
 彼の指がデニムから離れて、ソファの座面をきりりと握り締める。
「俺が間違っていた。一億なんて嘘なんだ、篤――日下部」
「じゃあ二億? ふたりで四億かあ」
「からかわないでくれ。もう帰ろう、店員さんにも俺が謝るから」
「ここが誰の紹介か想像つくだろ」
 君は少しばかり意地の悪い笑みを浮かべて、指で《現金》のマークをつくる。
「当日の予約なんて普通はできねえんだとさ。どうせなら楽しもうぜ」
「情けない話だが、俺はまったく、まったく楽しくない――」
「お待たせいたしました」
 黒いスーツの男性店員が音もなく扉を開けて入ってくる。白い手袋に包まれた手に、平たい黒い本がある。よく磨かれた革靴が分厚い絨毯を踏みしめ、一歩ずつ近づいてくるのを君は見る。
「あの」
 君の隣で彼がうろたえたように腰を上げる。君は彼の肩を抱いて、いささか強引に彼をソファへと戻す。店員が口元に上品な笑みを浮かべて彼を見る。そのことに君はささやかな――久しぶりの、みずみずしい苛立ちを覚える。
「御要望の価格帯のものですと、原則的にはフルオーダーになりますので、残念ながら本日すぐには御用意が難しい状況です。こちらにカタログがございまして」
「そうだろうと思いました」
 彼が力強い声を上げる。
「そうだろうと思いました! もう結構です、ありがとう――」
「他にはありません?」
 君は低く、静かに続ける。
「どうしても今日、欲しくって」
「本日御用意できるものとなりますと、価格帯がだいぶん下がりますが……」
「だってよ、日車」
 君は肩をすくめて、さみしげな眼差しをつくって彼を振り返る。
「やっぱり、――一億じゃなきゃだめ?」
「いや……」
 彼は大きな目をこれ以上ないくらいいっぱいに広げて、慌てたように首を振った。
「そんなことない、そんな、そんなこと……」
「よかった。じゃあ今日買えるやつ、頼みます」
 君は膝を打って店員に向き直る。
「こいつの気が変わらねえうちに、贈りたいんで」
 さして気を悪くしたふうでもない、やわらかな笑みをたたえて店員がもう一度部屋を出て行く。
 君がそれを見送って、おもむろにグラスを手にとり、細いストローで味のない炭酸水を豪快にすすった瞬間、隣に座った彼が両手で顔を覆って悔しげに吐き出した。
「――そうか。君、だましたな」


 君は彼の手を引き、早足で道をわたってパーキングメーターを目指す。君の手には白く細長い紙袋がある。その若葉色の持ち手に、同じ色の洒落たリボンが巻かれたさまは、白いドレスの少女のようだと君は思う。
 その想像は唐突に思い出にすり替わって、ほんの少しの間、君を不幸にする。
「家が買える」
 君の後ろでぼそぼそと彼が呟く。彼の手にも同じ紙袋があって、彼は持ち手に腕を絡めたまま、きつくそれを抱えている。
「……日下部、これは、家が買えるぞ」
「こんなんじゃ犬小屋くらいしか買えねえよ、しっかりしろ。ほら乗った乗った」
 君はレンジローバーの助手席のドアを開けて、いつものように彼を座らせる。ドアを閉めて運転席に回り、やはりいつものように運転席に座ってドアを閉めると、都会の真ん中でそこだけがふたりの国になる。
 エアコンが効き始めるまでの間、君はエンジンを掛けて窓を開ける。夏を迎える街の、むせるほどの喧騒がどっと流れ込んでくるけれども、今はどこかひとごとのようだと君は思う。
 大通りの向こう、百貨店の入口から絶え間なく人が吐き出され、同じだけ吸い込まれてゆく。
「悪かったな」
 君は後部座席に紙袋を置くと、ちらりと彼の横顔を見遣る。うつむいたままの彼の、雄々しく美しい鼻筋に君はいつも見とれる。
「なんか、無理に買っちまってさ。お前があんな無茶振りまでした理由、ちゃんと聞かなきゃとは思ったんだが……」
「いいんだ」
 彼は両手で紙袋を抱えたまま、小さく首を振る。
「いいんだ。欲しかった」
「ええ……?」
「心から欲しかった。君から指輪がもらえるなんて言われて、嬉しくない人間はいないだろう」
「でも前代未聞の渋りかただったでしょーが……」
 エアコンの冷気が徐々にふたりの間に広がってゆく。君は車の窓を閉める。都会らしい騒音がぴたりと止み、君は少しだけ心細くなる。彼の言葉の、本当の重みを君は今も時々図りかねるから。
「だって、指輪なんて」
 彼は手の中の紙袋を一瞬強く握り締め、それから慌ててその手を緩めた。
「指輪なんて――大それたもの、もらったら、もうそれ以上幸せなことなんて、俺にはそうそうやってこない。それがわかっていて、君にそれを、ねだれると思うか」
 君は、答えを持ち合わせない。
 代わりに君は彼の心について考える。
 彼が幸せと呼ぶできごと。彼が自分で招き入れた不幸の数々。残虐。この日常。罪やら、罰やら。
 一億、と彼が吹っかけたとき、それが彼にとってどれほど切実な数字だったかを。
「心配すんなって……」
 君はダッシュボードからロリポップを取り出しかけて、やめる。素敵な言葉をいくつか思い浮かべようとして、それもやめる。
「……たぶんさ。ずっと不幸でい続けるってのは、俺たちが思うよりも遙かに難しいんだ。どうしたって、人間どっかで幸せになるようにできてる」
「君は、そう思うか?」
「そんなことねえ、って思いたかったけどさ」
 君は自分の一番不幸な記憶を見る。君が今も大切に握り締めている、苦く痛々しいはずの記憶が、日々少しずつ確実に美しい思い出になってゆく、この許しがたい薄情を。
「でも、たぶん無理なんだ。どうやったって、俺たちはどっかで幸せになっちまう。だからお前が余計な心配することもねえのよ」
 君はシートベルトを締め、ハンドルを握ってシフトレバーを倒す。白いレンジローバーが静かに夏の街へとすべり出す。彼は助手席でうつむいたまま、ぴんと硬い紙袋を両手で抱えている。その横顔、美しい鼻筋にまぶしい陽射しがたどたどしく揺らめいては消える。
「――大切にする」
 彼は目を閉じて囁く。
「大切にするよ」
「まあ、犬小屋程度ですけどね」
 君は笑って混ぜっ返す。悪い癖だと思うけれど、これが君を形づくる大切な癖だということも、君は身をもって知っている。
「君はそう言うが、これが釣り合う犬小屋なんて女王陛下の犬小屋くらいしかないぞ」
「そりゃいいな。女王陛下の犬小屋か」
「俺も君に何か贈りたい、君の誕生日に。欲しいものを言ってくれ」
「この生活」
 君はなめらかにハンドルを切って車線を右へと移す。くふん、と隣で彼が鼻を鳴らす。
「俺の真似なんてつまらないことをするな。一億の家でも買うか?」
「お前が死ぬのをあきらめて、やたら怪我したがる癖も直したうえで、毎日ご機嫌で俺の飯食ってくれる生活だ。そんなに簡単に手に入るもんでもないだろ?」
「……そうかもしれないが」
 君は思う。
 本当に欲しいものは、もう永遠に失われてしまっているんだ、と。
 あるいはそう思おうとしているのかもしれない。本当はなくしてしまった小さな命のことなど自分にはどうでもよくなっていて、ただ洒落た感傷に浸りたくて、今もそう願うふりをしているだけなのかと。
「悪いな」
 君は詫びた。
「俺が指輪なんか、贈っちまって」
「言っただろう? 君から贈ってほしくてたまらなかった。ありがとう篤也、すごく嬉しい」
 君は答えない。首都高の下をくぐるあたりで車列が混み始める、その渋滞の始まりに気を取られたかのように君は答えない。
「なあ、皆にはどうやって説明するんだ」
 きっちりと閉じられた紙袋の隙間から中を覗くようにして彼が呟く。
「指輪をつけていたら、きっと何か言われるな」
「そういうの得意でしょうが。任せた」
「……どうしようかな」
 歌うように彼が繰り返す。
「どうしようかな、篤也」
 言葉が旋律だとしたら、この世で一番美しい曲を君は聴いている。
 やがて室町の交差点に差し掛かり、刺々しい夏の陽射しがフロントガラスから真っ直ぐに切り込んできて、君はたまらず少しだけ涙をこぼした。



タイトルはジェーン・バーキンの曲です
すごく素敵なので!!!!!
 

       

コメント

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