日下部が目を覚ますと20年ほど時が進んでいた。
補助監督や医務室の担当から聞く限り、正確には身体と記憶の両方が後退しているという表現が正しかった。様子を見に来る同僚(と思しき数名)は慌てた様子を見せ、先述の二人も今後の対応に頭を抱えていたように見えたが、当の日下部本人は一抹の安堵を覚えていた。自身が大きな過ちを犯されなれば、この先20年は生きていられることが判明したからである。
ひとしきり混乱と動揺でひしめいた医務室はようやく静けさを取り戻した。日下部はひとりベッドに横たわり人が出払った医務室で状況を整理する。
本来の自分はもう40も手前で、術師としてはそれなりに仕事ができていると聞かされた。任務中に不幸にもトラブルに見舞われ、今の状態に陥っている。現状解呪方法は明確には未だわからず、時間経過で戻るのか特別な方法があるかは識者が総出で確認中のため、今日下部は解呪方法の解析を待つことと平穏に時を過ごすことしかできなかった。症状自体は身体が後退しているのみで、本来自分が認識する時間軸にいる自分には何の影響もないことも日下部の安心材料だった。その他の身体状況はいたって正常で、特別な痛みもなく外傷も目視の限りなかった。
ベッドから身体を起こし、眠っていた身体を醒ますように日下部は大きく伸びをした。正午を過ぎた医務室はカーテンが閉められ隙間からは穏やかな日差しと澄んだ青い空をのぞかせている。不思議と空腹感はなかった。
医務室も日下部の記憶通りの印象だったが、器具やデスクに置かれた私物から認識外の時間軸を自覚させた。ベッドはより清潔さが感じられ、シーツも日下部が先日寝た時よりもキメが細かい上等の物のようだった。日下部はベッドからゆっくりと降り、水道近くに置かれた鏡で己の姿を確認した。普段と変わらない、いつも寮の自室で見る姿がそこに映っていた。同世代に比べてはいくらか幼く見える表情も、入りと閉りが鋭いながらも丸い瞳の形も、肉付きが心もとない肩や胸板も何一つ記憶と変わらないことにほっとしながらも劇的な向上がないことに内心幻滅もしていた。ただ記憶の中にある数日前の稽古でついたあざや切り傷はなく、手にできているまめや厚くなり始めた皮膚はあるものの、潰れて崩れていた箇所も見当たらない。
一歩歩くごとにサイズが合わないスリッパがずりずりと音を立てる。壁の前にはラックが置かれ、男性用のスーツ一式とキャメル色のコートが丁寧にハンガーにかかっている。日下部の体格には合わない、身長も体格もかなり大柄な男性を彷彿とさせる大きさだった。
不躾にも日下部が医務室をうろついていると3回のノックが響き、日下部の返答を待たずに出入口が開いた。扉の外には黒いスーツにネクタイを締めた男、真面目そうな雰囲気で背は高い。色白の肌のせいかうっすら目元にクマをたずさえ、その上には丸い三白眼、細く下がり気味の眉が整った位置に並んでいた。骨ばった額には短い前髪が耳の横から前髪までざっくりと硬めの整髪剤で固めてあり、垂れた幾らかの毛束がドアから入る風で揺れていた。
真一文字に閉じられた薄い唇が不意に開く。
「失礼する」
低く落ち着いた声だった。
「……初めまして。日下部君だな、いや、日下部さんの方がいいか」
「はい、そうです。呼び方はどっちでも」
「詳しい話は既に聞いているか」
淡々と話す男の表情は変わらない。三白眼は日下部の姿を真っ直ぐと映して揺らがなかった。
「はい、えっと伊地知さんと家入さん…という方から」
「俺も二人から話を聞いている。では細かい話はなしだな」
起伏の無い面持ちと低いトーンの口調に気圧され日下部に緊張が走る。
「解呪までの生活について少し話をしたい。入っても?」
「…どうぞ」
男が後ろ手で静かに扉を閉める。再び閉じた口元からも丸い瞳からも男が抱いている感情を日下部はまだ汲み取れなかった。押し黙ったままベッド脇に置いてあった丸椅子まで男が歩み寄り男が腰掛け、そのまま右手を差し出して日下部をベッドへ座るよう促した。黒いスーツから鳴る衣擦れの音しか聞こえなかった。
「名乗りが遅れてしまった。俺は日車だ」
男、日車が一呼吸開けて話しだす。話し方は先程より幾分落ち着いて聞こえた。
「まず呪いについてだが、今後のためできれば日記をつけてほしいと依頼を受けている。できるか?」
「筆記用具があれば…できる限り頑張ります」
「次に解呪までの住まいだが、多方面に確認をしたところ現状から位が充分な術師預かりが好ましいということになった。寮への手続きも責任者が多忙で手に着かないらしい」
「はあ」
「…こちらで勝手に話を進めてしまって申し訳ない。混乱しているなかで無駄な刺激を与えたくなかった」
視線が泳いでいる。日下部と同じように日車もまた緊張しているようだった。
「結論だが、俺が担当することになった。」
不意に視線を上げた日車が続ける。視線はまだ合わず、表情は明るいものではなかった。単調に見えた瞳に陰が目立った。
「日車さんが?」
「今の君を知る人たちにも声をかけたが、任務のスケジュールや諸々の事情がかみ合わなかった。すまない、知らない男の家なんかに来ることになってしまって」
暗い表情がさらに陰る。声のトーンも徐々に落ちていき、目は日下部から床へと移ってしまった。
「自分は良いですけど、日車さんはそれで大丈夫なんですか」
日車の様子にいたたまれなさを感じた日下部が気遣うように声をかけた。
「構わない。むしろそうさせてほしい。同居人が長期の任務に出てしまってしばらく戻る気配がない。部屋は1つ空いているんだ」
ただ、と日車が続ける。
「同居人には粗方話を着けておくが、そのまま部屋を使わせるのは君含め双方向で問題があるかもしれない。夜までに俺の部屋を整理しておくから、使うのはそっちにしなさい」
「何か不安なことはないか」
ようやく丸い瞳と視線が交わる。深い茶色を落とす瞳孔だけでは日下部は未だ日車の感情を認知することはできなかったが、落ち着いた色を感じていた。
数秒の思考のあと、日下部が口を開く。
「…稽古はできますか?」
「は、」
きょとんとした顔の日車と目を合わせながら日下部は話し続ける。
「稽古は欠かしたくないんです。種類はこだわらないから体術なら何でもいい、鈍らせたくない」
「…だが今の君は」
説得をするように語り掛ける日車を遮ってさらに頼み込む。
「だめ、ですか?」
「……わかった、時間が許す限り俺が付こう。在校生にも相談しておく」
体格的にやや上目遣いになった日下部に日車は押し負けた。
「あとは持ち帰れる資料が欲しいです。基礎レベルのものでいいです、禁書とか今のオレに不都合なものを出せとは言わないので」
「…次の休日に入るまでに調整する」
止めるのも無意味に感じた日車が額をおさえながらため息交じりに返答する。
顔を上げた日車が壁にかかる時計を確認する。もう14時を回るところだった。
日車が一呼吸置き改めて日下部の姿を本人に気づかれぬよう束の間目に入れる。日車自身と比べれば無論四肢の細さこそあれ筋肉の着きは悪くない。手足の大きさは二回りほど小さく、身体つきはいたって健康的な少年そのものの姿だった。顔つきも年相応だが、真っすぐな眼光からは強い志さえ日車に感じさせた。
「夕方ここへまた迎えに来る。業後に君用の日用品を買いに行こう。生憎うちには君に合う服がないんだ。それまでにストックの制服を入れるから、気が向いたら着替えてくれ」
そう言って日車は立ち上がり、思い出したように「あとは、」と付け加えた。
「呼び捨てでいい、敬語もよしてくれ。元の君とはそう話していた」
振り向いた顔つきは穏やかだった。
入ってきた時よりも軽い足取りと口調で日車が廊下へ出た。術師にしては細い左腕には、いつの間にかかかっていたコートとスーツを抱えている。
日下部から見れば、どちらも日車の背格好にはおおよそ不釣り合いだった。