第5話

 ティアが息を呑み、振り返ると、ちょうど白衣をまとった女性が扉を押しながら部屋に踏み込んできた。全身に包帯を巻き、酒瓶を片手に持った、生気のない女性。

 理屈は不明だが、防音壁など関係なく扉越しに話を聞いていたようだ。


「アナタがどうしてここに?」

「『玻璃』のアデリナ――前も名乗ったかな?」


 ティアが『灯』のボスになった直後、一度だけ顔を合わせていた。

 国の妨諜に特化した専門チーム『巓』――つまりは国家機密の管理者だ。

存在自体が機密事項のような女性が、ティアに小さく手を振った。


「こういう展開になると思ったから来たのさ――繰り返すが、答えはノーだ――」

「……情報は語れない、ということですか?」

「今の『灯』には――今まで以上のフェロニカ先輩の情報を閲覧する権限はない」


 アデリナは部屋に入るなり、上司である『C』に「気付け、くれます?」とコーヒーを要求している。彼は「もちろんだとも」と豆を挽き始めた。

 ティアは不気味な心地で、酒瓶を手の内で回す女性を見つめた。


「納得しかねます。今は国家の命運がかかっている。『ニケ』の分析は必要不可欠です」

「――わかっているさ――しかし過去、『灯』はどれほどの裏切り者を出した?」

「それらの事情は、すべて報告書に記されているはずです」

「――こっちには規則がある――不服なら、任務から降りるといい――」

「万全の情報も与えられず、仕事をこなせと?」

「――『燎火』にはできた。ティア君には荷が重すぎるかい?」


 冷たい瞳でクラウスのコードネームを出され、ティアは口を噤んだ。

 あの男のようにはなれない――そんな泣き言を吐ける立場ではない。

『灯』のボスとして「わかりました」とだけ短く告げ、室長室から離れた。ロクな情報が手に入らぬ以上、ここにいるのはタイムロスでしかない。


 ゆえにティアが、室長室に残された者たちの次の会話を聞くことはない。



 ◇◇◇



「さすがに意地悪が過ぎるのではないかね? 『玻璃』?」

「現実的措置です――『灯』はいまだ『燎火』との接点があるかもしれない――機密レベル3以上の情報を渡すには、長期的なリスクが多すぎます――」

「多少の信頼は置いてもいいと思うがね」

「それがアナタの指示なら従いますが――?」

「いや、信念の下に判断したなら構わない。『紅炉』に未来を託されたキミの言葉だ」

「……それはおそらくティア君も同じですけど」

「意外な評価だな。つまりは、期待している?」

「半々です――さすがに首脳会談が遅延し続ければ、支援せねばなりませんが――」

「………………」

「――国家機密を守る者として知りたい――今の『灯』の底力を」



 襲いかかる難題が『灯』のボスを測る試練とは、まだティアは知らない。



 ◇◇◇



 その日、ティアは対外情報室の本部で働きづめだった。

 もはや他チームの手を借りねば間に合わない事態に突入している。


 首脳会談の実現に向け、できる限りの情報を集める。相手政府はなにをディン共和国に要求し、どこまで譲歩できるのか。協定の素案に反対する者は誰か。


 ――しかし手は増えても、脳が増えることはない。

 他チームに逐一指示を飛ばすのは、すべてティアの役目。


「この文書を、今日中に『花園』に届けてっ! 協力者『荒獣』と『遺生』には、一時離脱のサインを。明日から『百鬼』と合流し、ピルカで活動する。『百鬼』の報告通りなら、元国王親衛隊の将軍と秘密裏に会合できる。他のスパイチームからのサポートを受けられないかしら? 周辺の見張りを任せたい」


 三分に一度は同胞に指示を送る――そんな目まぐるしい時間。

 日が沈むまでになんとか一段落つけ、すぐに陽炎パレスに向かう。

 体力は底をついていたが、気合で足を動かすしかなかった。


(きっとフェロニカさんの仕事量は、こんなものじゃなかったはず……)


 今すぐ横になりたい欲求に抗えたのは、唯一無二の憧憬の存在。

 彼女は不治の病を抱きながらも、最後の一秒まで祖国のために奮闘した。


(一度、陽炎パレスに戻って、モニカから届いた報告書を受け取らないと)


 首都から陽炎パレスまでは二時間――面倒ではあるが、あの拠点は『灯』のメンバー以外は入れない。無線機に届いているはずの情報を読まねばならない。

 そうティアが、首都に停めていた車に乗り込もうとした時だった。



「――無防備ではありませんかね? 今やディン共和国の主柱が」



 足首を掴まれた。

乗り込もうとした乗用車の下に、人が潜んでいたのだ。


「――っ⁉」


 反射的に足を引っ込めるが、バランスが崩され、危うく転倒しかける。体勢を立て直す頃には、不審な男に接近され、逃げ場所を封じられていた。

 ティアを車と挟み込むように立つ男は、体躯こそ小さいがあまりに機敏。


「……もしかして、ライラットのお客さん?」

「――元・十二柱『カローン』――アナタに敬意を表し、それだけは明かしましょう」


 十二柱――それは『創世軍』が有する暗殺部隊。

 小さな体の坊主頭の男は、既にナイフを取り出している。三本以上のナイフを器用に片手で握りこみ、その三本の切っ先をいずれもティアの顔に向ける。


「ワタクシから『ニケ』様を奪った罪を裁くため。覚悟はできていますか?」

「……わざわざ全部、名乗るのね。一番強調したいのは『元』なのかしら?」


 やけにペラペラと語ってくれたカローンという男。

 その意図を察し、ティアは静かに唇を嚙んでいた。


「姑息ね。まさか『今は無所属だから、「創世軍」は関係ありませーん』とでも?」

「解釈はご自由に」

「一個だけ聞かせてくれない? 徹底的に両国友好を妨げることが、ニケさんの遺言?」

「……そこまで明かしてあげるほど親切でもなく」


 僅かに表情の変化が起きたが、その理由までは分からない。

 相手も一流のスパイ。余計な問答を待たず、ナイフを振るおうとする。


「気になるなら、直接聞いたらどうです? あの御方の下へ逝き――」


 そこでカローンが動きを止め、眉をひそめた。


「――なんですか? それは?」

秘武器ラストコード《夢幻劇》――紅々と添い遂げる世界よ」


『創世軍』からの刺客――その展開は当然、警戒している。

 呻いたカローンの視線の先にあったのは、ティアが手にしていた黒い筒。ティアが振れば風が吹き込まれ、複雑な音色が奏でられる楽器。ティア専用の笛だ。

 ティアの感情を――魂を――仲間に伝えるスパイ道具。


「――邪魔」

「え――――――」


 ティアが短く笛を振った瞬間、カローンの身体から鮮血が噴き出した。

 颯爽と現れたのは、駆けつけた二人の影。


 一つは――超磁力でナイフを射出した、『忘我』のアネット。

 一つは――飛び交うナイフの隙間から狙撃した、『愚人』のエルナ。


 巧みな奇襲とコンビネーションによって、二人は強者さえ圧倒する。

 革命任務を通して培われた、『灯』最高レベルの連携。


 カローンは攻撃がほとんど見えなかったようだ。「……っ――魔獣……っ」と呻き声を漏らし、その場に倒れる。間もなく意識を失った。


「サラに頼んでいてよかったわ」


 ティアはその手並みに感心しつつ、短く指示を出した。


「アネット、エルナ、殺しはしないでね。『創世軍』との交渉に使う」


 二人は、てきぱきと処置を始める。

 ふとティアが顔を上げた時、護衛をタイミングよく送り込んだ功労者――『草原』のサラが、近くの建物の屋根で「任せてくださいっす」とサムズアップを送ってくれていた。

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