第7話

 特務諜報課ヘートヴィヒ=マイヤーハームは、毎日のように体が竦む。


 仕事上スパイと頻繁に出会うが、その度に思うことがある。

 目の前にいるのは――魑魅魍魎。


 彼女自身の出身は農家。村で一番聡明だった彼女は周囲からの期待に応えるように、勉強漬けの日々を過ごした。奨学金を借りて大学では語学を学び、やがて官僚の道を進む。


 地道にキャリアを積み重ねて、三十四歳。自信もついた。

 そんな自分が矮小に感じられたのは、特務諜報課に配属された直後。


 ――アイツらは、常軌を逸している。

 そこは、理解を超えた世界が広がっていた。


 スパイ養成学校の下限年齢は、八歳。自分がトンボを追いかけていた時代から、人を騙す訓練を積み重ねた異形たち。大戦の地獄から生み出された、二度と国土を侵略させないという執念で満たされた諜報機関。小国を守る、最強の工作員たち。

 尊敬はしている。官庁からの依頼を回すと、彼らは十二分以上の成果で答えてくる。


 ライラットで革命を成した時、尊敬は完全に恐怖に変わった。


(……このまま、あの子たちを崇めていいのか?)


 仕事をこなしながらも、常に心は迷い続けている。


(……大量虐殺を導けるほどのスパイたちに、今後も力を与え続ける……?)


 首脳会談が終わったあとも、その懸念は増し続けている。

 あまりに華々しい功績は、猜疑心を生む。


 彼女たちを広告塔にする判断が正しいとは思えない。彼女たちには断ってほしかった。

 あるいは辞職覚悟で自ら総理を説得すべきか、と早朝、彼女が出勤していた時だった。


「マイヤーハームさん、二日ぶりですね」

「『花園』さん……」


 官公庁街のど真ん中でリリィが手を振り、待ち構えていた。

 一瞬呆気に取られたが、すぐさま頭を下げる。


「せ、先日は失礼しました! 国益のために奔走するアナタ方に、余計な私情を――」

「――私情、いいじゃありませんか」


 リリィはまるで気にしていなさそうに手を振った。


「わたしは、嫌いじゃないですよ。ワガママとか、信念とか」

「そう言っていただけるのは助かるのですが……」

「今日はマイヤーハームさんの私情を聞きたくて、会いに来たんですよ」


 リリィはそう頷くと、そっと官邸と無関係の方向に歩き出した。

 マイヤーハームはそれに続いた。


 定時の出勤時間には、まだ余裕がある。早朝すぎるせいか、出勤する人もまだら。通りに並ぶ街路樹から、寒風が枯葉を攫っていく。


「ありがたいですが、話に値する私情はもうありませんよ」


 マイヤーハームはコートに手を入れ、道を進んだ。


「ごめんなさい。騙していたわけではないのです。ただ、迷っていただけ」

「はい、分かっていますから」

「怖気づいたのです。アナタたちのような若者が命懸けで情報をかき集め、首相と閣僚たちは帝国を蹂躙する計画を推し進める――その事実を目の当たりにして」


 小さく溜め息を吐いた。


「そんな覚悟を、ずっとアナタたちは固めてきたはずなのに」


 マイヤーハームには、覚悟などなかった。国家公務員を目指したのは、自らの能力を発揮する場所を求めていただけ。両親は褒めてくれた。給料もよかった。

 依頼と報告書を右から左へ、左から右へ、移すだけでよかった。


「私は駒です。いや、駒として生きるべきだった」


 しかし『灯』からの報告書を見た時、目が覚めた。


「今は、恐い――アナタたちを『救国者』と崇め、《暁闇計画》に参入することが」


 それは本来、吐くことさえ憚られる偽善。

 嘆けど、公務員の一人に過ぎない自身がこの流れを変える力もない。度胸もない。二人の子どもの生活費を稼ぎ、故郷の両親には仕送りをしなくてはならない。

 計画は国防上必然――マイヤーハームは、そう自分に言い聞かせ続けている。


 するとリリィが「なにか誤解があるようですね」と苦笑を漏らした。

「誤解?」とマイヤーハームが聞き返すと、「えぇ」と彼女は深く頷いた。


「わたしたちだって、所詮はただの人間ですよ」

「……? いえ、でもアナタたちは 養成学校で特別な訓練を――」

「――あいにく、わたしたちは落ちこぼれだったので」


 誤魔化すように肩を竦めるリリィ。

 その過去まではマイヤーハームも知らなかったので、瞬きする。


「何も変わりませんよ。不安で、それでも答えを求めて、大切なものを守りたいだけ」


 そう呟いて、リリィは「例えば」と口を開いた。

 それから語り出されたのは、いわば雑談――直近の彼女たちの思い出だった。



 ◇◇◇



 それは、同棲生活を始めた当時の出来事。


 陽炎パレスを離れることに決めたリリィたちは、これからの新生活に大きな期待を抱いていた。約一年で終わる仮住まいといえども、お気に入りの家具に囲まれたい。祖国での最後の一年を満喫できるよう、完璧な拠点を築き上げたい。

 そう意気込みながら、借りた部屋に初めて足を踏み入れたが、トラブルが起きた。


「ねぇっ⁉ なんで1LDKなの⁉ 三人で暮らすんだよ⁉」

「立地が最優先だって言ったのは、お前じゃねぇか‼」


 早速、価値観の違いが露呈した。


 ジビアは「駅に近ければ、いくら狭くても構わない」という節約志向、一方でモニカは「駅には近い方がいいが、各々のプライベート空間は大事」というバランス志向。


 多忙故にジビアに一任したのが最大のミスだった。

 怒号をあげるモニカを無視し、ジビアが寝室を確認。


「寝室には、ベッド二つが限界だな」


 その広さを確認し、彼女は深く頷いた。


「よっしゃ。あたしはリビングのソファで寝るから――」

「――交代で寝ればいいんじゃないかなああぁ⁉」


 そして、顔を真っ赤にしながら吠えるモニカ。


 ちなみにリリィは「住居費より食費」という、どちらかと言えばジビア寄り。それでも、さすがにもう少し広い部屋がよかったが、今ここで新たな部屋を探す時間はない。


「あのー、今更なので言っちゃいますけど」


 早速ケンカを始めている二人を眺め、リリィが恥ずかしそうに手を上げた。


「モニカちゃん、わたしのこと、好きすぎですよねー」

「なー。強引に同棲に持ち込んだくせによぉ。なにビビってんだ?」


 そこでモニカの身体が大きく震えた。

 恥ずかしそうにたじろぎ「い、いや」と顔を俯かせる。


「そっちの話題、もう少し配慮してくれ――」

「「間が持たねぇんだよ‼ 色々とっ」」


 ジビアとリリィが同時に叫び、彼女の呟きがかき消される。

 彼女の恋情は必要以上の配慮はしない――それが共同生活のルールになった。

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