「あれ?司先生全然食べてないじゃないですか」
会話が途切れたタイミングで偶然発せられたそのライリーの言葉に、周囲の視線が司へと集まる。
最早恒例と化してきたコーチ陣による飲み会。然し今回は珍しいことに瞳やライリー達も招待された大規模なものであった。初めは有益な情報を得ようとスケート談義に花を咲かせていたが、酒が進めば次第に話題もとっ散らかってくるというもので。すっかり只の飲み会と化した状況で突如として落ちたその話題に些か酒も進んだ周囲が何だ何だと集まってくる。
「本当だ、口に合いませんでした?」
「いえ!決してそんな事は!」
何時もは酒はそこそこに恐縮しつつも美味しそうに食事をしている司が、今日に限っては箸に手すらつけていない。そんな様子に幹事である千羽がそう問いかけるも、本人は必死に首を振って否定する。その何時もとは異なる様子に全員が揃って首を傾げている中、はたと何かに気付いた瞳と洸平だけが司に対して勢いよく詰め寄った。
「もしかして司ちゃん!ダイエットしてるとか言わないわよね」
「えっ……とぉ……」
「やっぱり!」
アイスダンス時代の無茶を知っている二人からすれば司のダイエットは最早トラウマである。良いから食べろとばかりに司の皿に肉や魚を持っていく二人を司は慌てて制した。
「いや本当に大丈夫だから!必須カロリーはちゃんと計算してるから!」
「いーや信用できない!」
「そうよ!というかアンタ別に太ってる訳じゃないのに何でダイエットなんて!!」
瞳にそう詰め寄られ、うぐっと司は喉を詰まらせる。これが通常時であればまぁ女性の個人的な問題だし…と大人らしく引き下がっていた周囲も酒が回った今回ばかりは少々違った。そうだそうだ、無茶はダメですよ、コーチは体が資本なんだから、と寄せられる心配の声に終ぞ耐えられなくなった司が叫ぶ。
「これには、理由がありまして!」
「理由?」
「実はですね……」
◇◆◇
司がそれを見つけたのは久しぶりに訪れた恋人の家であった。無造作に投げ捨てられたコートや机の上に放置された郵便物に苦笑しつつ、何時も通りコートはクローゼットにしまい、郵便物は分別してと甲斐甲斐しく世話を焼いていた最中それは司の目に飛び込んできた。
『健診結果報告書』
そういえば以前慎一郎に無理やり病院へと連れて行かれたとボヤいてたな、と思い出しつつヘビースモーカーで食事嫌いの恋人の健康状態が常々より気になっている司は、暫し悩んだ挙句それをそっと開いた。目に入るのはいずれの項目もAの文字ばかり。あれだけ不健康な生活を送っていて良くもまぁここまで優秀な結果になるなと呆れつつホッとしていた最中、最後の項目にぴたりと司の視線が止まる。
「身長176cm、体重………えっ」
軽い、軽過ぎる。いやマジで何だこの数字。しかも多分これ筋肉込みの体重だから体脂肪はほぼ無いに等しいに違いない。いやというか何よりも、
「わ、私より軽い……」
いや分かっている。司は確かに女性に対しては高い186cmであるし、彼とは男女差もある。一概にこの体重だけを比較するのは間違っている。しかし分かってはいるが、そうもいかないのが乙女心というもので。
「司?」
「はいっ!?」
いつの間にか風呂から上がり背後に立っていた恋人に全く気付いていなかった司は、思わず悲鳴を上げる。その様子に首を傾げる恋人の頭からはポタポタと今だに拭いきれていない水滴が落ちていた。
「ちょっと!ちゃんと乾かしてから出てきて下さいよ!」
「面倒」
「もー!」
引ったくる様に彼が首から掛けているタオルを取り力強く彼の髪を拭いていく。されるがままの彼に嘆息しつつふと視線を下げるとまだ服を着ていない彼の裸が目に入る。
(やっぱ筋肉は付いてるけど細いなぁ)
正に理想的な引き締まった身体で世のアスリートが見れば憧れること必須。そんな彼に比べれば自分は鍛えており筋肉こそしっかりついているものの無駄な肉は落としきれていないのかもしれない。いやこれでも滅茶苦茶筋トレとか走り込みとかしてるんだけどな。
「…どうしたの」
「別に?」
口数こそ少ないが人の機微に関しては意外と聡い彼の事だ。此方の葛藤に気付いたのかもしれないが真坂こんなことを言える筈も無く司は曖昧に笑って誤魔化した。
◇◆◇
「……と言う事がありまして」
司が話し終わると先程までの喧騒が嘘のようにその場に沈黙が落ちる。暫くして漸く口を開いたのは司の彼氏の親友でもある慎一郎であった。
「明浦路先生」
「はい」
「純くんのアレは不摂生あってのものですので、貴女が真似する必要はないかと」
その発言に周囲のコーチ陣は力強く頷いた。確かに彼氏よりも体重があったと言うのは女性にしてみれば大問題かもしれないが、事今回に関しては色々と例外が多過ぎる。というかあの夜鷹純並に痩せた明浦路など見たくないし、仮にもしそうなれば彼女を敬愛するいのりや理凰が号泣することは想像に難くない。
「そうよ、と言うか司ちゃんのそれだって大半は筋肉でしょうに」
「そもそもが痩せてますしねぇ」
同じ女性として思う所があったのか、瞳とライリーが司を挟むように座り込み彼女の肩を抱きながらそう励ます。然し司は、その言葉に暫し悩んだ後に重々しく口を開いた。
「それだけじゃないんです……」
「え?」
「これは昨日の話なんですが、」
◇◆◇
今では頻繁に泊まりに来る様になった夜鷹の家には司の着替えを常備してある。そして司はその高身長故に偶にメンズものの服を選んで着ることがあった。それが全ての悲劇の原因だったのだ。
夜鷹の家に泊まった翌朝、朝食を作りながら鼻歌を歌っていた司は背後からかけられた恋人の声に機嫌よく答えて振り返り、そして静止した。
「………彼シャツ?」
「はぁ?」
袖からはその細い指先が僅かに覗き、裾は太腿付近まで隠れる長さ。そしてサイズが大きく肩がずれ落ちるせいで、彼の浮き出た鎖骨が丸見えである。それは何処からどう見ても「彼氏に借りてきました」という格好であった。
「いや、それサイズ合ってなくないですか」
「え?……あぁ間違えた、君のか」
君のか、あぁそうか自分のか。だからそんなに大きいのか。そう理性は納得しつつも多大なるショックを受けた司は、それこそ言葉にならず身体は固まり目眩さえする程の衝撃で思わずふらりと倒れかける。幸いにして直ぐに顔を洗いに行った夜鷹には気付かれなかったものの、密かに司はキッチンで項垂れ泣いた。
◇◆◇
「彼氏にッ…彼氏に、彼シャツされた気持ちが分かりますかッ!!?」
遂に声を上げて泣き出した司に最早周囲が掛けられる言葉はない。食事をしない代わりに酒を呑んでいたのも悪かったのだろう、すっかり酔いが回った彼女に男性陣は慌てふためくばかりであったが、それに反して落ち着いた女性陣はそっと慈しむように彼女の背を撫でた。
「それは、辛かったわね……」
「もう司先生、そんなデリカシー無い男別れましょうよぉ」
誰も悪くない、いや強いて言うならば不摂生な食事を送り意図せずともデリカシーに欠ける発言をした夜鷹純が悪いといえば悪いのだが。それにこれに関しては中々に司先生に同情してしまう事件でもある。何処の世に彼氏に彼シャツされて嬉しい女子がいようか。と言うか夜鷹純彼シャツ出来るのか、それはもう健康的にヤバくないか?そう別の心配を始めたコーチ陣を他所に、ゆっくりと涙に濡れた顔を上げた司は重々しく宣言した。
「せめて、せめて夜鷹さんと同サイズになるまでは痩せたいっ…!」
「いや本当に無理すんなって」
「そもそもの身長差があるんだから…」
そう周囲から気遣わしげに掛けられる言葉も今の司には届かない。やる気に満ち溢れた彼女にこれ以上できることはあるだろうかと頭を悩ませ、慎一郎はスマホを取り出し全ての元凶である親友へと密かにメールを送った。