会社は、たった6年で消えた。 残ったのは、20人ほどの若者と、彼らが後に作る産業のすべてだった。
【序章】1108号室から始まった
大阪市淀川区西中島。新大阪駅から歩いてすぐの、なんの変哲もないワンルームマンションの一室に、その会社は登記された。
ライオンズマンション新大阪第三 1108号室。資本金100万円。設立日は1987年6月1日。社名は「株式会社リョーマ」。代表取締役社長は22歳、代表取締役専務も22歳。二人は大阪星光学院中学校・高等学校の同級生であり、大学に入ってからもつるみ続けた腐れ縁だった。
この会社は1992年に経営破綻する。存続期間、わずか5年あまり。売上のピークは諸説あるが、大きく見積もっても年商10億円規模。上場もしていない。技術も持っていない。教科書に載るような発明もしていない。
それなのに、この会社の名前は今も語り継がれている。
理由はひとつ。ここに集まった20人ほどの学生が、その後の30年で、日本のインターネット産業の中枢を占めてしまったからである。
GMOインターネットグループのCOO。KLabの創業者。ザッパラスとenishを上場させた「上場請負人」。DeNAの共同創業者。パーソルグループ(旧インテリジェンス)の代表。アジアで日本人起業家を支援し続けるエンジェル投資家。—— 彼らの履歴書を遡ると、必ず同じ場所に行き着く。
1980年代後半の大阪。バブルの真っ只中で、**「なんか今の日本ってつまらない」**とつぶやいていた、時給100円の大学生たちの巣窟に。
これは、その巣窟の全史である。
【第1章】バブルが「つまらなかった」若者たち
<ディスコを顔パスで入る、という人生目標>
物語は、創業よりも数年前、一人の大学生の実に不真面目な目標から始まる。
関西学院大学に入学した彼が大学1年次に掲げた目標のひとつは、**「ディスコに顔パスで入れるようになること」**だった。手段は単純で、大阪ミナミの伝説的ディスコ「マハラジャ」に連日通い続けること。目標は達成された。
だが、ここからが凡百の遊び人と違った。
彼は店側に、曜日ごとの割引カードという企画を持ち込み、そのカードの発行権を交渉して自分のものにした。「俺の名前を言えば安くなる」——この一言で、彼の周囲には人が集まる構造が生まれる。18歳か19歳で、彼は「集客の権利を握る」というビジネスの本質を、遊びの現場で発見していたことになる。
さらに彼は、当時それぞれ独立して動いていたパーティサークルの代表たちを一堂に集め、束ねた。生まれたのが関西最大規模のサークル連合**「なにわ倶楽部」**である。出版、レコード企画、ファッションショー。学生団体の域を超えたプロモーション装置が、大学の外側に出来上がっていた。
<バブルの逆張り>
ここで時代背景を確認しておきたい。
1987年。日本はバブル景気の絶頂に向かっていた。大学生が就職面接に行けば「お車代」が支給され、その車代だけで生活できたという笑い話のような噂がまことしやかに流れた時代である。就職は売り手市場、一流企業の内定は取り放題、努力よりも学歴と愛想。
その黄金時代のど真ん中で、リョーマに集まった学生たちは、昼も夜も働いていた。しかも、後年の回想によれば実質的な時給は100円程度だったという(本人たちの自嘲を含む笑い話として語られている数字である)。
なぜか。
30周年の会合でこの疑問をぶつけられた参加者の答えは、驚くほど簡潔だった。
みんな「なんか今の日本ってつまらない」と言っていた。
親の世代が築いた繁栄を消費する側ではなく、自分たちの繁栄を作る側に回りたかった。
バブルという巨大な祝祭の中で、その祝祭に背を向けた若者たちがいた。リョーマとは、その逆張りの器だった。
【第2章】MY LICENCE ―― 「退屈」を発明に変える
◾︎ 起点は自分自身の不満だった
リョーマの母体となった事業は、意外なほど地味である。合宿制の運転免許学校の斡旋業だ。
1986年11月15日、「MY LICENCE(マイライセンス)」という名前で、前述のワンルームマンションの一室に開業した。
なぜ免許合宿だったのか。理由は明快で、創業者自身が消費者だったからである。
当時の合宿免許には、学生視点で見た明確な欠陥があった。
・1日に運転できるのは2時間程度。残りの時間は、ただ暇・宿泊施設が古く暗く、特に女子学生からの不満が大きい
ここに彼らは、スキーやテニスといったレジャーを組み合わせた商品を企画する。「免許合宿」を「免許も取れる旅行」に再定義したのである。今日のマーケティング用語で言えば、完璧なリフレーミングだ。
◾︎ 天下りの壁と、迂回路
しかし、最初の営業は失敗した。
教習所に直接企画を持ち込んだところ、当時の教習所長は警察署長の天下りポストであり、学生の提案に耳を貸す土壌がなかった。堅い。話にならない。
そこで彼らは正面突破をやめた。教習所への営業は既存の出入り業者に任せ、自分たちは集客に専念し、利益を折半する。
・教習所への営業 → 出入り業者(既存の信頼関係を借りる) ・学生の集客 → リョーマ(大学構内のポスター・チラシ、サークル網)
「自分たちにしかできないこと」だけを担い、それ以外は他人の資産を使う。 学生が大企業的な参入障壁を突破するための、教科書的な解法である。彼らはそれを、経営学の講義に出ないまま実行した。
結果は劇的だった。単価25万円程度の商品を、月に100〜300人規模で販売。1987年度の売上高は2億3,000万円に達したとされる。
大学生の副業の話ではない。中小企業の年商である。
1987年6月1日、この事業を法人化して株式会社リョーマが誕生した。同年11月には免許事業を「運転免許事業部」とし、新たに「マーケティング事業部」を設置。サークル情報誌の編集と営業に乗り出す。
会社は、免許の会社からプロモーションの会社へと姿を変えていく。
【第3章】「梁山泊」という口上 ―― 会社史上もっとも危険なリクルーティング
リョーマの本当の発明は、免許合宿ではない。
採用である。
学生スタッフのリクルーティングを主に担当していたメンバーが、集める相手に対して繰り返し使った口上がある。
全員が将来社長をめざす、梁山泊のような組織を目指している。
梁山泊。『水滸伝』において、体制からはみ出した豪傑たちが集った、いわば無法者たちの根拠地である。
冷静に読めば、これはとんでもない文句だ。**「うちに来た全員が、いずれ独立して出ていく前提の会社」**を宣言しているに等しい。
事実、後年この口上を発した本人が振り返っている。「全員が社長を目指す」という理念には永続性がない、と。全員が独立と出し抜きの野心に囚われれば、組織はまとまるはずがない。だからこそ彼は、リョーマの破綻後に自分が16年経営した広告会社では、この理念を採用しなかった。
そして彼はこう総括する。リョーマとは、学生企業というモラトリアムが織り成したファンタジーだったのだ、と。
◾︎ しかし、ファンタジーは実現してしまった
ここに、この物語最大の皮肉がある。
古今東西、「全員が社長を目指す」を掲げた会社は星の数ほど生まれてきた。そのほとんどは、スローガンをスローガンのまま終わらせた。
リョーマだけが、それを本当に実現してしまった。
創業期の4人が最初に作った名刺——各人100枚ずつだけ、裏面に印刷された言葉があった。四半世紀後、彼らはその言葉が成し遂げられたことを確認することになる。
採用文句が、20年30年かけて予言に変わる。ビジネス史において、これほど気味の悪い成就はそう多くない。
【第4章】伝説の数字 ―― 2億3,000万か、5億か、10億か
リョーマの売上規模については、資料によって数字が揺れる。この揺れ自体が、この会社の伝説性をよく表している。
出典・証言 語られている数字 学生起業の分析記事 1987年度に2億3,000万円、2年目に5億円 一般的な紹介 創業2年で売上5億円を達成 創業者本人の後年の回想 最盛期には年商10億円程度はあったはず
創業2年で5億円という数字が定説に近い。一方、創業者本人は最盛期10億円という記憶を語っている。会計期間の切り方、取扱高と売上の区別、合併した企業の数字を含むかどうか——ズレが生じる要因はいくらでもある。
重要なのは正確な数字ではない。 20代前半の学生が経営する会社が、億単位の年商を叩き出し、「時代の風雲児」としてメディアに取り上げられたという事実の方だ。
1988年4月には、大手クレジット会社をメインスポンサーに、大学・短大の新入生を対象とした学生サークル向けの無料情報誌を発行するに至る。フリーペーパー×学生データベース×スポンサードモデル。1988年の日本で、20代前半の学生集団がこれをやっている。
彼らは早すぎたわけではない。ちょうどよく、誰よりも先にいた。
【第5章】分裂 ―― 1988年3月、創業者が会社を去る
絶頂は長く続かなかった。
好調な免許事業に対し、新規参入した広告事業は赤字を垂れ流していた。組織の内部に亀裂が走る。
1988年3月。共同創業者である専務が、社長に対してこう切り出す。
「リョーマを抜けて、独立したい」
しかも、社員の半分が専務についていくという。
ここで社長が下した判断が、この物語の性格を決定づけた。
彼は、専務を止めなかった。自分が出ていくことを選んだのである。
自分が立ち上げ、自分が育て、自分の名で語られてきた会社を、22歳か23歳の青年が自ら手放す。後年、彼は「さすがに落ち込んだ」と率直に振り返っている。
社長は退任し、大学も中退し、大阪を捨てて東京へ向かった。代わって専務が代表取締役社長に就任する。
<この決裂が、すべてを二倍にした>
普通の物語なら、ここで会社は失速し、創業者は消える。
だが実際に起きたのは、真逆のことだった。
・大阪に残った側:リョーマとして事業を継続 ・東京へ出た側:新天地で、より大きな賭けに出る
ひとつの人脈が、二つの拠点に分裂した。 そして数年後、この二つの流れは合流し、日本のインターネット黎明期を作る主要な水脈になる。
決裂は、ネットワークを破壊しなかった。倍加させた。
【第6章】東京にはSYNがあった
上京した創業者が東京で出会ったのが、もうひとつの学生集団だった。
SYN。1988年から1990年まで実在した、在京の大学生を中心に組織された営利サークルである。ある企業の一部門という形をとっていた。名称の由来は、たばこ銘柄の販売促進活動「SomeTime Young Network」の略称にあるとされる。
大阪にリョーマがあり、東京にSYNがあった。
この二つが交差したことで、人材の厚みは決定的なものになる。SYNに関わっていた顔ぶれを見れば、その意味は明らかだ。
・後にダイヤル・キュー・ネットワークを創業し、さらにザッパラスを創業する人物 ・後にDeNAの共同創業者となる人物 ・後にインテリジェンス(現パーソル系)の代表を務める人物 ・後に電通のクリエイターとして名を馳せ、独立して文筆家となる人物
大阪の商魂と、東京の情報網。 この二つが1989年の東京で握手したとき、次の事業の準備は整った。
【第7章】ダイヤルQ2 ―― 300回線をめぐる、伝説の抽選ハック
◾︎ 1989年7月、NTTが扉を開ける
1989年7月10日、NTTが「ダイヤルQ2」を開始する。
電話で有料情報を提供し、その情報料の回収をNTTが代行するというサービスだ。「0990」で始まる番号を取得した事業者は、課金インフラを自前で持たずに情報を売ることができる。
今の言葉で言えば、これはプラットフォームの誕生である。決済機能付きの、音声によるインターネット。しかも当時の日本には、まだインターネットがない。
上京した元社長は、この構造を即座に見抜いた。
◾︎ 大企業を出し抜いた「2枚ルール」
参入を狙っていたのは彼らだけではない。大手商社系のボイスメール事業者2社が、強い意欲を見せていた。資本力でも人員でも、学生上がりの集団に勝ち目はない。
だが、NTTが公表した規定に穴があった。
・設備の都合上、当初提供されるのは300回線のみ・希望者多数の場合は抽選・1社につき申込書は2枚まで
「1社につき2枚」。ならば——
彼らは学生ネットワークを総動員し、大量の申込書を提出した。
結果、抽選で決まる300回線の大半を、この若い集団が押さえた。一方、資本力を誇った商社系の大企業は、抽選に漏れた。
ルールの文面をそのまま読み、そこにある構造的な隙を、動員力という自分たちの唯一の武器で突く。倫理的にどう評価するかは読者に委ねるが、これが日本のネット黎明期を象徴する一撃だったことは否定しがたい。
◾︎ 電話回線の上に作られた、ポータルサイト
1989年9月28日、株式会社ダイヤル・キュー・ネットワークが設立される。社長にはSYN出身の人物が就き、リョーマの創業者2人も経営陣に名を連ねた。リョーマで経理・総務を担っていた人物も上京して合流し、法人設立前から10人近いメンバーが集まっていた。
彼らは独占した回線に、ニュース、スポーツ情報など多様な番組を並べた。
電話回線の上に、ポータルサイトを作ったのである。
情報料収入は、サービス開始から1年余りで月商数億円規模に到達したとされる。20代の若者たちが、日本で最初期の「課金メディア事業者」になった瞬間だった。
【第8章】崩壊 ―― 二つの会社が、同時に沈む
栄華は再び、短かった。
ダイヤルQ2の爆発的な普及は、彼らが望まない方向へ暴走する。上限いっぱいの3分300円という料金設定で成人向け業者が大量参入し、ツーショットダイヤルが乱立。数十万円から数百万円という高額請求が家庭に舞い込み、少年非行の温床として社会問題化した。
1991年、世論に押されたNTTが規制に乗り出す。利用企画書の審査厳格化、実態と異なる番組の契約非更新。1992年にはQ2回線を使ったツーショット事業者は事実上消滅した。
プラットフォームの浄化は、その上に乗っていた優良事業者も道連れにした。
ダイヤル・キュー・ネットワークは資金繰りに行き詰まり、営業権の大半を譲渡する。この局面で、後に「上場請負人」と呼ばれることになるメンバーが動き、大手出版社の会長に支援を要請。事業譲渡というかたちで、事業そのものは生き延びた。
一方、大阪のリョーマも限界を迎えていた。1991年4月には代表取締役社長が交代し、同年には他社との合併も行われたが、流れは変わらなかった。1992年、経営破綻。
そして、最も重い後日談が残る。
事業に伴う借金や問題の大半は譲渡先が引き受けたものの、リース車両やコピー機など、引き継げないものが残った。それらの債務を、創業者と社長の2人が連帯保証で背負っていた。
彼らはそれを返済する「プロジェクト」を、仲間とともに約2年かけて遂行する。
20代半ばの若者が、失敗の後始末を、逃げずに2年やり切った。
――このエピソードこそが、後年、彼らが互いを信頼し続けた理由の核心にあるように思われる。数字ではなく、債務処理を共にした記憶が、この人脈の本当の接着剤だった。
【第9章】ディアスポラ ―― 20人はどこへ行ったのか
会社は消えた。人は消えなかった。
リョーマの元メンバーで、後に経営者を志した者はおよそ20名と整理されている。運転免許合宿の受付スタッフや正社員、合併先から加わった社員を含めれば、OB・OGはさらに10名以上いる。
彼らの散らばり方は、驚くほど広い。そして、驚くほど再収束している。
◾︎ 系譜① モバイルインターネットへ ―― 創業社長のその後
リョーマを去った創業者は、いくつかの事業を経て1997年、モバイル関連の開発に取り組む企業に入社。そこで世界初のモバイルインターネット「iモード」の開発プロジェクトに参画する。
1998年、世界初のモバイル専業コンテンツプロバイダーの設立に参画し、副社長兼CTOに。同社は設立2年でJASDAQ上場。さらにそのR&D部門を担う子会社として設立した会社が、後のKLab株式会社である。同社は2011年に東証マザーズ、2012年に東証一部へ上場した。
免許合宿 → ダイヤルQ2 → iモード → モバイルゲーム。
一見すると脈絡がない。だが串刺しにすれば一本の線が通る。「人と情報を束ねて、そこに課金する」——彼はこの一点を、20代から一貫してやり続けている。
◾︎ 系譜② GMOへの大合流 ―― 最大の受け皿
リョーマ人脈を語るうえで、最も奇妙で、最も象徴的な現象がこれである。
散らばった主要メンバーの複数が、最終的にGMOインターネットグループに合流した。
・リョーマ2代目社長を務めた人物は、その後複数の起業を経てメールマガジン系広告会社の社長に就任。同社は2000年にNASDAQジャパンへ上場する。同社はGMO傘下となり、彼は2007年にGMOインターネットの専務取締役、2015年に取締役副社長、2022年にはグループ副社長執行役員・COOに。
・リョーマで学生スタッフの採用を担い、後にダイヤル・キュー・ネットワークで大学4回生にして7人の部下を持つ部長職に就いた人物は、1992年に広告代理店を創業。雑誌広告からネット広告へ舵を切り、2006年には連結年商120億円規模に成長させた。しかし2006年の市場暴落のあおりで業績が悪化し、2008年に同社をGMOインターネットへ譲渡(現在のGMO NIKKO)。彼自身はシンガポールへ移住し、アジアで挑戦する日本人若手起業家を支援するエンジェル投資家となった。
・ダイヤル・キュー・ネットワークの創業社長を務めた人物もまた、後のGMOにつながる企業の創業に関わり、さらに自らザッパラスを創業する。
一度は敗れた若者たちが、20年かけて、日本有数のネットグループの中枢に集結した。 意図された結果ではない。だが、偶然と呼ぶには規則的すぎる。
◾︎ 系譜③ 「上場請負人」 ―― 二人一組で会社を直す男
関西大学在学中にリョーマに参加し、卒業後いったん就職したものの退職して、仲間が立ち上げたダイヤル・キュー・ネットワークに設立時取締役として飛び込んだ人物がいる。
彼はその後、プロ経営者として名を成す。
・2004年、かつての仲間が創業したザッパラスの代表取締役に就任。当時カンパニー制で7〜8事業が乱立していた同社に対し、創業者以外の常勤役員を全員入れ替えるという荒療治を断行。iモード上の占い分野への選択と集中を進め、2005年に東証マザーズ、2009年に東証一部へ上場させた ・2011年には、それまで縁のなかったソーシャルゲーム企業に入社。enishへの社名変更を経て、2012年にマザーズ、2013年に東証一部へ。経営参画からマザーズ上場までの速さは「実質的に史上最短」と評されることもある
注目すべきは、彼が単独で会社に入っていない点だ。ザッパラスでもenishでも、リョーマ時代の仲間と2人1組で乗り込み、経営にあたっている。
30年前の学生サークルの相方が、上場企業の再建チームとしてそのまま機能している。これがリョーマ・ネットワークの実体である。
◾︎ 系譜④ SYN側の広がり
大阪の水脈が東京の水脈と交わったことで、影響範囲はさらに広がった。
・DeNAの共同創業者・インテリジェンスの代表を務めた人物 ・電通で活躍し、独立後は文筆家として広く知られる人物
モバイルゲーム、EC、人材、広告、クリエイティブ——日本のインターネット産業の主要カテゴリのほぼすべてに、この人脈の指紋がついている。
◾︎ 一覧:影響範囲の見取り図
領域 到達点の例 モバイルコンテンツ iモード黎明期の主要プレイヤー、上場ゲーム企業 インターネットインフラ・広告 大手ネットグループのCOO、傘下広告会社 コンテンツ・占い 東証一部上場企業の創業と再建 ソーシャルゲーム 短期間での二度の上場 EC・ネットサービス 大手ネット企業の共同創業 人材サービス 大手人材企業の経営 ベンチャー投資 アジア圏での日本人起業家支援
5年で潰れた会社の同窓会名簿としては、明らかに異常である。
【第10章】なぜ、あの場所から人が出たのか
問いを立て直そう。リョーマは特別な教育機関ではなかった。研修制度も、メンター制度も、キャリアパスもない。時給は100円だと自嘲されるような環境だった。
にもかかわらず、なぜここから人が育ったのか。仮説は4つある。
【仮説1】権限が、年齢に先行して与えられた
大学4回生が7人の部下を持つ部長職を務める。20代前半が億単位の売上に責任を持つ。能力に権限が追いつくのを待たなかったことが、成長速度を決定的に変えた。
多くの組織では、権限は実績の後に与えられる。リョーマでは、権限が先に投げ渡され、実績は後から追いついてくるしかなかった。
【仮説2】失敗のコストが、人生の早い段階で支払われた
倒産、事業譲渡、そして連帯保証債務。
彼らは20代半ばで、多くの経営者が40代50代で初めて経験する種類の敗北を経験した。しかも、逃げずに処理した。
後年、彼らの一人はこう語ったという。上場すること自体はそれほど難しくない。難しいのは事業を伸ばし、会社を続けることだ、と。
これは成功者の余裕から出た言葉ではない。潰した人間の言葉である。
【仮説3】ネットワークが再帰的に呼び合った
リョーマ人脈の最大の特徴は、離散した後も再結合し続けていることだ。
ダイヤル・キュー・ネットワークはリョーマ人脈で作られ、ザッパラスにはダイヤル・キュー・ネットワークの仲間が呼ばれ、enishにはザッパラスの相方が同行した。GMOには複数の元メンバーが別々の経路で合流した。
一度の縁が、30年にわたって何度も現金化され続けている。 これはネットワーク効果というより、信頼の複利運用に近い。
【仮説4】「たまたま」を否定しない誠実さ
30周年の会合で、当時の採用担当者はこう言ったという。たまたまそこにいただけで、特別なことは何もない、と。
この謙虚さは、単なる美徳ではなく実務的な意味を持つ。過去の栄光を制度化しようとしないから、彼らは今も新しい賭けができる。
現在のスタートアップ界隈では、**「何をやるかより、誰とやるか」**という言葉がしばしば語られる。リョーマとSYNは、その条件が偶然にも完璧に揃った場所だった。そして、この種の奇跡は、そう何度も起きない。
【終章】30年後の夜
2017年6月2日。リョーマとSYNの結成30周年を記念する集まりが開かれた。
参加者は約30人。その半数が、上場企業の現役役員か元役員だった。残りの多くも家業を継いで経営者となっている。
一人ずつステージに上がり、近況と5年後の夢を語る。全員が50歳前後。資産もある。引退してもおかしくない年齢だ。
だが、彼らの口から出てきたのは、こんな言葉ばかりだったという。
・今やっている事業を、5年後にもっと伸ばしたい ・もう一度、新規で事業を立ち上げたい ・上場を目指したい
全員、現役だった。
締めの挨拶に立った人物は、こう言った。あの頃と比べて、みんなキャラも立ち位置も基本的に変わっていない、と。
昔の仲間とはそういうものだ。現在の肩書きは関係ない。
そして、その場に居合わせた記録者は、彼らについて印象的な観察を残している。彼らは過去の栄光にすがっていない。 リョーマとSYNの日々は鮮明な記憶として残っているが、それはそれとして、彼らは今を生きている。30年前を思い出として心に納め、常に先を見ている。だからこそ、今の位置がある。
【結論】リョーマとは何だったのか
株式会社リョーマは、成功した会社ではない。
5年で潰れた。負債を残した。創業者は追い出されるように出ていった。看板事業は行政規制で消えた。
事業体としての評価は、控えめに言っても失敗である。
だがビジネスの歴史は、企業の寿命だけで測るものではない。その企業が、どれだけの「次」を発火させたかでも測られる。
リョーマは、日本にまだベンチャーキャピタルもエコシステムもインキュベーターもなかった時代に、人材輩出装置として機能した、極めて稀な例だった。制度としてではなく、事故として。設計としてではなく、熱として。
「全員が社長を目指す梁山泊」——組織論としては明らかに欠陥のあるこのスローガンは、組織を殺し、人間を育てた。
そしてバブルの絶頂で「今の日本はつまらない」と言い放った20人ほどの若者は、その後の30年をかけて、自分たちで面白い日本を作りにいった。
会社は6年で燃え尽きた。 しかしその火は、まだ消えていない。
<参考・出典>
・Wikipedia「リョーマ (ベンチャー)」「西山裕之」「真田哲弥」「杉山全功」「ダイヤルQ2」 ・元メンバーによる回顧ブログ(リョーマ25周年・30周年関連エントリ) ・起業支援メディアによる創業者インタビュー(2007年)およびメンバーインタビュー ・学生起業分析記事(2021年) ・イベントレポート「リョーマ×SYN 30周年」(2017年) ・岡本呻也『ネット起業!あのバカにやらせてみよう』(文藝春秋、2000年)
※本稿の数値には出典間で差異があるものが含まれる。特に売上規模については、決算期の区切りや取扱高・売上高の定義の違いにより複数の数字が流通しているため、本文中でそれぞれ併記した。