(寄稿)不寛容の時代 小説家・桐野夏生

 小説家になって、26年という月日が経った。小説家という仕事は、それこそ「生産性」という意味で言えば、無駄な存在だが、違和感を糧として仕事をしてきた自分たちには、また別の感受性を培ってきたという自負がある。

 私には、「何か変じゃない?」という違和感がすべてだった。

 その違和感こそが、新しい扉を開ける鍵で、別の世界を創り出すと信じて大切にしてきた。

 しかし、今、その違和の質は大きく変容してきている。

 『OUT』という、主婦パートの物語を書いたのは1997年だ。

 当時は、夫がホワイトカラーという家庭で、なぜ妻はパート労働というブルーカラーになるのか、という疑問があった。

 パートは代替可能な単純労働で低賃金、景気調節の安全弁を担いもするから、労働者としては、まことに不利だ。つまり、家庭内の性別役割が税制にも反映され、そのまま主婦の労働形態になっていることへの違和であり、疑問だったのだ。

 ところが、10年後は労働市場の規制緩和により、女性だけではなく、若い男性の非正規雇用も進むことになる。

 『OUT』の取材当時、「娘のバイト代よりもパートの時給が安い」と嘆いていた弁当工場の主婦は、娘のバイト代も自分の時給並に安くなったことを嘆くだけでなく、娘世代や若い男性たちに、自分のパート勤務を奪われることも恐れなければならなくなった。

 新自由主義経済のもと、事態はさらに悪くなったのだ。富める国はますます富み、貧しい国は富める国に搾取され続けて、貧しさから抜け出すことができなくなる。

 となれば、国家は富を維持しようと、コスパのよい労働力への管理を強め始める。

 日本において、特に犠牲になったのは若い女性たちだった。

 若い女性労働者の6割が非正規雇用で低賃金。貧困層を形成しているにも拘(かか)わらず、次世代の労働力を産め、と強制されもする。

 医大の入試も、女性というだけで不利になる。まったくもって、ナメられたものである。

 コロナ禍の現在、若い女性の自殺率が上昇していると聞く。カフェで、ふと耳にした若い女性の「どうして12時間も働かなきゃならないんだろう」というつぶやきが蘇(よみがえ)って、胸が痛む。

 しかも、企業に都合のよい規制緩和が進むと同時に、管理に都合のよい概念もちゃっかり生まれるのだから、始末に悪い。

 ご存じ、「自己責任」である。違和も疑問も、すべて自己責任という言葉に回収されてしまい、表には出にくくなる。同情とか共感というエモーショナルな言葉は消え、代わりに「共有」という曖昧(あいまい)な語がのさばり始めた。

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 文学や映像もまた、グローバリズムのくびきから逃れることはできない。

 かつて文学は、その国家、その民族の、固有の悩みや苦しみを描き、その深い井戸を掘ることで、互いに共通する普遍性を確保することができた。だが、それは牧歌的と言えるほど、幸せな時代だったようだ。

 今や文学ですらも、世界で通用するためには、市場原理主義の洗礼を受ける。人種差別、民族差別、性差別、児童虐待、あらゆる種類のクレームを避けるための検閲が働き、表現は刈り取られて、滑らかになった美しいものが供される。しかし、棘(とげ)を内包しないつるつるの顔をした文学は、人の胸を打つことができるのだろうか。

 そして、つるつるの美しい顔は、同じ表情、同じ声で、あらゆる場所で「正義」を語り始める。

 「正義」は、あらゆる人間をねじ伏せることのできる、便利な言葉だからだ。

 ふと思い出したのは、東日本大震災の翌年に開催された、イタリア映画祭での光景である。

 私が見た作品は、『七つの慈しみ』という、東欧の貧しい国から、違法でイタリアに入国した若い女性移民の物語だった。

 彼女は病院で介護の仕事を手伝っているが、孤独で貧しく、どこにも行き場がない。身分証明書欲しさに、死体置き場に忍び込んで死者から盗もうとしたり、赤ん坊を誘拐しようとしたりする。まだ若い彼女の、目の下に出来ている隈(くま)がすべてを表しているような、何ともやるせない作品だった。

 終映後、映画監督が舞台に登場して、質疑応答の時間となった。すると真っ先に、一人の青年が客席から立ち上がった。彼は「自分も映画の仕事をしている」と自己紹介した後、「罪を犯した女性を、なぜ主人公にしたのか?」というようなことを問うた。

 聞かれた映画監督は絶句し、「彼女は追い詰められて、それしか方法がなかった」というような答えをしたと記憶している。

 私は、その質問に、それまで感じたことのないような違和感を覚えた。まさしく、これまでの違和とは質が変わった、と実感した瞬間だった。

 ジャン・バルジャンの昔から、罪と罰は、人間と社会との大問題だったはずだ。質問者は、罪を犯さざるを得ないほど追い詰められる、という状況に想像が及ばないのか、と驚いたのである。

 正しき者、正しき行いを描く作品には、確かにカタルシスがある。だが、人間の行いは正しいことばかりとは限らない。人間は愚かで、間違いを犯す。

 罪を犯した人間は主人公の価値がない、という発想は、虚構における優生思想ではないか。

 質問者の言わんとする「正義」は、想像力の及ばないところ、いや、無縁のところに堂々と鎮座して、周囲を睥睨(へいげい)している。まるで、自分が一番偉いかのように。

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 後年、似たような質問を、私も受けたことがあった。

 『夜の谷を行く』という連合赤軍事件に関わった女性のその後を描いた作品についての、雑誌取材での出来事である。

 インタビューに来た若い女性が、「なぜ、彼らは罪を犯したんですか? 何で法律を犯した人を書くのかわからない」と言う。

 その答えは、私にもわからない。わからないことだらけで、闇の中を進むのも、また小説を書くことなのである。そして、小説は正解を出すものでもない。その小説世界に生きる人間を描くことしか、できないのである。

 おそらく、この女性のような若い世代には、「思想」という概念すら消えてなくなっているのだろう、と思うしかなかった。イデオロギーが古びて消えてなくなっても仕方ないが、理念までが消えてしまうとしたら、人間には何が残るのか、逆に知りたいと思った。理念に突き動かされて、失敗や罪を犯すのも、人間の姿なのだから。

 正義と悪、右と左。二元論で語られるほど、人間は単純ではない。むしろビトウィーンな存在なのに、他人の曖昧は許すことができないらしい。その不寛容は、いったいどこからくるのだろうか。

 最近、連合赤軍事件の永田洋子の弁護をした、女性弁護士さんの講演を聞く機会があった。その女性弁護士さんは、おととし虐待されて亡くなった結愛ちゃんの母親の弁護も引き受けておられる。

 結愛ちゃんの母親は、毎日、夫に正座させられて、何時間も執拗(しつよう)な説教を受けていた。叱責(しっせき)され、反省文を書かされる日々が続くと、自信をなくして混乱し、どうしたら叱責されずに済むかしか考えられず、自分がおかれた状況すらもわからなくなったという。

「50年ほど前に、若い人たちが、同じように仲間を苦しめ、死に至らしめたことがありました」

 弁護士さんの言葉は、私の心に沁(し)みた。それはもちろん、連合赤軍事件のことである。連綿と続く、人間の愚かさ。そして、罪。

 そこには、「犯罪」という言葉だけでは、持つことのできない事実の重みがあり、手ですくおうとしても、掌(てのひら)からこぼれ落ちてしまう、水のように形を留めない事実の儚(はかな)さがある。

 その重さや儚さを積極的に知ろうとしないと、人々は何度も同じことを繰り返すのかもしれない。だから、事実には普遍性があると、私は信じているのだ。事実を単なる「犯罪」という言葉で片付けて、慮(おもんぱか)ろうともしない人々は、傲慢(ごうまん)で不寛容だ。

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 しかしながら、現実は、またもつるりと身をかわしてみせる。フェイクニュースの存在である。

 事実の重みと儚さを積極的に知ろうとする、と書いたが、その事実が今や揺らぎを見せている。

 フェイクニュースは、あらゆるところに真実のような顔をしてのさばり、容易に人を信じ込ませる。

 ネットでひとつ読めば、アルゴリズムで同じような記事が供与されるから、さらに信じ込むようになる。かくして、彼らの信じる「事実」を楯(たて)にして、頑迷で差別的な人々が生まれてくる。

 この果てしない追いかけっこが、世紀末的な絶望をもたらして、暗い気持ちにさせる。

 しかし、絶望していても、仕方がない。私は小説書きなのだから、小説の話に戻ろう。

 たったひとつ、彼らの振りかざす「正義」と戦う方法がある。小説を読むことだ。

 小説は、自分だけの想像力を育てる。言葉は目に見えないものだから、読者一人一人が想像することでしか、その小説世界を堪能することはできない。従って、個々人が頭の中で結ぶ像は、それぞれ違っているはずである。そこが、ひとつのイメージを付与するビジュアル作品と違うところだ。

 他者と違うことが他者を認める礎となり、他者が取り巻かれている事実を慮る力を養うのである。それが想像力という力だ。

 不寛容の時代、自由な小説から力を得てほしい、と心から願うものである。

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 きりのなつお 1951年生まれ。主な作品に「OUT」(日本推理作家協会賞)、「柔らかな頬」(直木賞)など。近著に表現の不自由な近未来社会を描いた「日没」。

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