二つの声が響く言葉/非母語話者としての表現論
ぼくは中国で生まれ育ち、日本に身を寄せてから四〇年という歳月が流れた。日本語を学び、日常のあらゆる場面で使い続け、思考を整理し、文章を綴るための言語としても日本語を選び取ってきた。
しかし、ふと口から発せられる「話し言葉」に目を向けるとき、そこにはどうしても越えられない一条の川が存在する。イントネーションのわずかな揺れ、言葉の音節が持つ独特のリズム、そして間の取り方など、どれほど時を重ねても、日本で生まれ育った人々とまったく同じ響きで語ることは容易ではない。
かつてはそれを自らの修練不足のように感じたこともあった。だが、第二言語習得の研究が示す通り、臨界期を過ぎた成人が第二言語を母語話者と全く同じ精度で運用することは、極めて困難である。これは個人の努力の成否などではなく、人間と言語の間に横たわる、ある種の構造的・宿命的な現象なのだ。
だが、この宿命を「克服すべき欠陥」や「恥ずべき瑕疵」として捉える必要が、果たしてあるだろうか。
重要なのは、「日本人のように話すこと」を終着点に設定しないことだ。われわれが目指すべき真の地平は、「日本人と同じように話すこと」ではなく、「日本人には語れないことを、日本語で語ること」にあるのではないか。陳舜臣さんの紡いだ言葉を辿り直すごとに、ぼくはただ、その確信へと幾度も連れ戻されるのだった。
発音やアクセントの完璧さにおいて母語話者に及ばないとしても、思考の深度、観察の独自性、そして語りを組み上げる構成力は、母語が何であるかとは無関係に、どこまでも磨き上げることができるからだ。
ぼくの思考の地下水脈には、いつでも母語である中国語が脈打っている。ある事象を捉え、それを日本語という言葉へ翻案し、新たな論理として再構成する過程において、日本人とは異なる視座や問題意識が、自然と織り込まれていく。
これは「言い淀み」でも「過ち」でもない。二つの言語、二つの文化の狭間を往還し続けてきた者だけが手に入れ得る、かけがえのない「知的資源」なのだ。
社会学者のピエール・ブルデューは、個人の背景や経験が集積して固有の価値を生む仕組みを「文化資本」と呼んだ。複数の文化に根を張り、異文化の摩擦のなかで培われた視点は、言語の表面的な流暢さを遥かに超えた文化資本として機能する。また、発達心理学者のレフ・ヴィゴツキーが明かしたように、言語とは単なる意思伝達のツールではなく、われわれの「思考そのものを形作る道具」である。異なる言語体系と思考回路が頭の中で交差するとき、そこには単一の言語空間では決して生まれ得ない、新たな視線と創造性の火花が散る。
さらに、文学理論家ミハイル・バフチンの提示した「多声性(ポリフォニー)」という概念を呼び寄せるなら、ぼくの発する日本語は、決して孤独な単一の声ではない。そこには、背後で息づく中国語というもう一つの思考の声が寄り添い、絶えず響き合っているから、「未熟で不完全な日本語」などではない。「複数の文化と論理が複層的に響き合う、対話的な日本語」なのだ。
だからこそ、われわれが話し言葉の場で挑むべきは、アクセントの正確さで母語話者と競い合うことではない。勝負すべきは、話の提示の仕方、論理の骨組み、視点の斬新さ、そして聞き手の認知を揺さぶり、新たな気づきをもたらす知的な熱量である。
発音の癖やイントネーションの不器用さは、その人が歩んできた人生の軌跡であり、「個性」として引き受ければよい。その代わり、紡ぎ出す内容の密度と思想の深さによって、聞き手を言葉の奥へと引き込んでいく。
そのとき、非母語話者であるという事実は、もはや何の制約でもなくなる。それどころか、誰にも取って代わることのできない、あなただけの鮮烈な表現力へと昇華するものになるだろう。


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