明浦路司と夜鷹純は不仲である。それはスケート界では最早常識ともされている事だ。
目が合えば普段は温厚な明浦路選手が鬼もかくやの表情で睨み返し、本番前にはリンクに負けない程の凍てついた空気が二人を包む。唯一の緩衝材である鴗鳥選手がいる場合は幾分マシなのだが、それでも他の選手達は普段から何かとこの二人を引き離そうと模索したり、時には全力で知らないふりを決め込んできた。
明浦路司は夜鷹純が嫌いである。いや、苦手という方が正しいかもしれない。
彼に出会った、と言うよりその姿を見たのは十四歳の時だった。スケート界期待の星、などと陳腐なタイトルで銘打たれたその少年はしかして正に星の様な輝きを持って司の目を灼いた。彼のスケートは美しく、初めて司は胸を焦がす程の衝撃を受け思わずその場に蹲った。あぁ、自分もこれがしたい。あの場に行きたい!あの人と同じスケートがしてみたい!
その衝動は何日経とうと消える事はなく、寧ろ沸々とその火は大きくなっていった。初めは自分の小遣いから何とかスケートリンクに通っていたものの、所詮中学生の持ち得る金など微々たるもので直ぐに底をついた。そこで、両親に頭を下げた。初めは何をと困惑し呆れていた両親も、畳に額を擦り付け土下座をする司に、此れは何を言っても無駄だと諦めた。流石に四人もの兄弟を抱える中、司の為だけにスケート資金を捻出することは出来なかったが、父親の伝手で中学生でもバイトをさせてくれる場所を紹介してもらい、司は其処で資金を稼ぎつつスケートを続けた。学業、バイト、スケート、三足の草鞋は大変なんてものではなかったけれど。日に日にやつれていく弟に両親や兄にはもう辞めろと何度も言われたけれど、司は諦めなかった。
そうして漸く貯まった資金でクラブに入り、念願のスケートを始めたのだ。司の才能は正に異常だった、普通の人が何日も掛かって出来るようになる事をたったの数時間で覚えてしまう。コーチ達はその才能に歓喜し、選手達は恐れた。様々な視線が己に突き刺さっているのには気付いていたけれど、それでも司にとっては氷の上にいれることが何よりも幸せだった。
そんな時だ、初めての大会で緊張する司の目に止まったのは、あの『夜鷹純』だった。あの日テレビで見た憧れの姿に息を呑み、知らず見惚れていたが、ふと彼が此方を見てその目が合う。瞬間、今まで司の中に渦巻いていた熱がそれよりも大きな衝動に掻き消されるのを感じた。
この人に屈したい、甘えたい、褒めて欲しい
そんな浅ましい欲求に吐き気が込み上げ、思わず口元を覆い司はその場から逃げ出した。なんで、違う、俺は夜鷹純の様なスケートがしたくて、あの人に負けないくらいの輝きを生み出したくて、それなのに。混乱する司の脳裏にふと、一つの答えが浮かんだ。
「あの人、Domなのか」
この世界には男女とは別に異なる性が存在する、それがDomとSubだ。男女が身体的特徴の差ならば此方は精神的特徴の差と言えるだろう。DomはSubに対して支配したい、守りたい、尽くしたいという欲求を持つ。逆にSubはDomに対して支配されたい、守られたい、屈したいという欲求を持つ。他にもこの両方の性質を合わせ持つSwitchや、こうした欲求を持たないこの世界では大多数のNormalも存在するが、司はSubであった。
とはいえ、司の欲求はそこまで大きなものではない。昔から人に対して尽くすこと、そして褒められることは好きだったがそれくらいだ。日常生活の範囲内で済む欲求であったので、DomとSubの間で欲求を解消する為に行われるというPlayもまだ経験したことがない。寧ろ己の欲求など此処最近はスケートのお陰で忘れていたくらいであると言うのに。
恐らく、いや間違いなく夜鷹純はDomなのだろう。そうでなければ彼に対して此処までSubである司が強い欲求を抱く筈がない。彼がDomというのは寧ろしっくりくる。だが、それは司にとって絶望にも等しい事だ。司は生まれて初めて自分のこのSubという性を呪った。この世界にSubであるアスリートが多くない訳ではない。そして彼等は必ずしも対戦相手であるDomにこのような欲求を抱いている訳ではない。では何故司だけが、夜鷹に対して此処まで熱烈な欲求を抱いてしまうのか。夜鷹のDomとしてのランクが高い事もその一因ではあろうが、それだけでは理由が付かない。考えられるとすれば司と夜鷹の相性が良すぎるが故、かもしれないが。
いやだ、と思った。自分は確かに夜鷹に憧れているけれど何時しかそれは彼の様になりたいから、彼を超えたいという夢に変わった。彼の姿を見て屈したいなどと、そんな陳腐な欲求に自分の勝利への炎がかき消されたことがこの上なく怖かった。今もまだ、欲求は渦巻いているけれど、でも司はそれを胸の奥深くに仕舞い込んだ。二度と出てこないように祈りながら頑丈に鍵をかけて、深く息を吐き出して、気持ちを切り替える。
「俺は、あの人に負けない、屈しない、絶対に……!」