サッカーゲームは「動かせない21人」といかにして戦ってきたか
文・otaku can change the world
サッカーは決して一人ではできない。
0.サッカーゲームは選手を操作するとは限らない
世界で最も長く続いているサッカーゲームの系譜の一つは、選手をまったく操作できない。
1982年、英国のプログラマー、ケヴィン・トムズ(Kevin Toms)は、勤め先のかたわら自宅で書き上げたゲームを、雑誌広告からのメールオーダーで売り始めた。ZX81というホビーパソコン向けの、グラフィックすらほとんどないテキストだけのゲーム ── タイトルは『Football Manager』。プレイヤーは4部リーグのチームを引き受け、選手を売買し、布陣を決め、試合結果の文字列を眺める。それだけのゲームが商業的な大成功を収め、「サッカー監督シミュレーション」というジャンルそのものを創設した(注1)。
この系譜は今日、『Championship Manager』(Sports Interactive、1992年)を前身とする現行の『Football Manager』シリーズへと(社名も血統も別ながら、ジャンルの直系として)受け継がれている。日本でも『プロサッカークラブをつくろう!(通称:サカつく)』が、『カルチョビット』が、同じ場所に立っている。
ここで確認しておきたいのは年号だ。1982年 ── それは家庭用のリアルタイム・サッカーアクションが洗練されるよりも前である。つまり、「選手を操作しないサッカーゲーム」は、リアルタイム操作の派生物でも簡略版でもなく、ジャンルのほぼ起点から存在していた。サッカーとは走り、蹴り、競り合う競技のはずなのに、なぜその「操作」を丸ごと捨てたゲームが、最初期から、しかも堂々と成立してしまうのか。本稿は当初、この疑問から出発した。
もちろん、こう答えることはできる。あれは「監督ゲーム」という別ジャンルであって、サッカーゲームの本流ではない、と。
実際、本流の側 ──『ウイニングイレブン』や『FIFA』── の公式の語りを追うと、そこにあるのは一貫して「ピッチ上の90分をどれだけ本物に近づけたか」の物語だ。『ウイニングイレブン 2014』のプロデューサー益田圭はFOXエンジンによるAIのゼロからの再構築を語り(注2)、『ウイニングイレブン 2020』の細田真規人はイニエスタ監修によるドリブルの刷新を語る(注3)。新作が出るたびに更新されるのは、操作とAIと挙動の忠実さである。この語りに従うなら、サッカーゲームの歴史とは操作の精度が競技へ漸近していく歴史であり、監督ゲームはその傍流ということになる。
しかし、この整理では説明のつかない事実が、それも本流のど真ん中に転がっている。2010年代以降、『FIFA』シリーズの屋台骨となったのはUltimate Teamという「編成と市場」のモードであり、そこではピッチ上の90分がときに省略可能な要素ですらある。
操作の忠実さを追求してきた本流が、たどり着いた先で操作を手放しはじめている ── これはどういうことか。しかも視野を日本に広げれば、1988年の時点ですでにテクモの『キャプテン翼』は、選手を常時直接操作する方式から離れ、簡略化された移動と局面ごとのコマンド選択へサッカーを翻訳していた。さらに、その発明は現在に至るまで一つの巨大な家系として引き継がれている。
だとすれば、問いの立て方を変えたほうがいい。サッカーゲームの歴史を「操作がどう進化したか」ではなく、「そもそもサッカーの何が、操作できないのか」から考え直してみたい。
1.21人問題──コントローラーは、いつも1人分しかない
サッカーは敵味方合わせて22人で行われる競技である。ところがプレイヤーの手元には、いつだって1人分の入力装置しかない。プレイヤーが直接動かせるのは原則としてボール保持者(守備時はカーソルの当たった1人)だけで、味方の10人はAIが動かし、敵の11人もAIが動かす。ゲームAIの研究者・菅原俊生は修士論文の冒頭でこの構造を端的に定式化している ── 11人を同時に動かすのは難しいため基本的に一人しか自由に操作できず、残り10人はAIが動かすが、そのAIが常にプレイヤーの想定通りに動き続けることは難しい(注4)。益田も同じことを開発者の言葉で語っている。「11人のチームを1人で操作するのは大変なことですし、自動で動くAIにまかせてばかりでも勝つことは難しい」(注2)。本稿ではこの非対称を「21人問題」と呼ぶことにする。
ここで重要なのは、これが単に「人数が多い」という話ではないことだ。多数のユニットを扱うゲームなら他にもある。しかしリアルタイムストラテジーは時間を止めて(あるいは減速して)全ユニットに命令を出せるし、ユニットは命令が来るまで勝手に動かない。パーティRPGはターン制で、非操作メンバーは待機している。サッカーゲームにはこの猶予がない。試合時間は止まらず、ボール保持者以外の10人は常に自律的に動き続け、プレイヤーが逐次命令を出す隙がない。つまりサッカーゲームだけが「リアルタイム・連続空間・高い自律性を持つAIへの委任」という条件を同時に背負っている。
しかも、サッカーという競技の意地の悪いところは、勝敗を決めるのがボール周辺のミクロな攻防だけではない点だ。ヨハン・クライフは、選手がボールを持つのは平均3分にすぎず、大切なのは残りの87分に何をしているかだ、と語ったと伝えられる。ボールから遠く離れた場所での配置、走り込み、ラインの上下動 ── すなわち「操作できない領域」こそが試合を決める。オフザボール(ボールを持っていない状態)こそがサッカーの本体だとすれば、サッカーゲームとは「ゲームの本体部分をプレイヤーが操作できないゲーム」だということになる。この歪んだ構造は、プレイヤーの体験の側に、ある独特の症状を生み出す。
2.責任の霧 ── 失点は、いつも霧の中にある
格闘ゲームで負けたとき、原因の所在は明白だ。すべての入力は自分の指から出ており、負けたら100パーセント自分のせいである。
この透明さが、格闘ゲームの「言い訳のできなさ」という美学を支えている。ではサッカーゲームで失点したとき、原因はどこにあるのか。自分のパスミス?それともカーソル切り替えのタイミングか?味方AIの戻りの遅さ?あるいは試合前に設定した戦術かも ── サッカーゲームにおいて、究極的な原因はプレイヤーには判別できない。本稿ではこの責任の所在が定まらない状態を「責任の霧」と呼びたい。
この感覚には学術的な観察記録がある。ゲーム研究者のミゲル・シカール(Miguel Sicart)は『FIFA 12』の分析において、同作で刷新された戦術的守備 ── 1人を直接操作しながら、もう1人のAI選手に間接的な指示を出してプレスさせる仕組み ── のもとで、間接操作下のAI選手がファウルを犯し、ときにPKまで献上する事態が起き、そこに「不正義の感覚(a feeling of injustice)」が生じると記述している(注5)。自分が直接動かしていない選手の行為で、自分が罰せられる。サッカーゲームというジャンルに固有の、あの割り切れなさの正体はこれである。
ここで少し考えてみたい。プレイヤーは何に苛立っているのか。── それは、AIが弱いことではない、と私は思う。
それはきっと、AIの行動が「予測できないこと」に端を発する。予測できれば、失敗は自分の読み違いとして納得できる。予測できなければ、すべての失敗は理不尽になる。つまりサッカーゲームの品質は、操作の気持ちよさと同等かそれ以上に、「AIへの信頼」の設計品質で決まる。そして冒頭の問いに、ここで補助線が引ける。サッカーゲーム40年の歴史とは、操作の進化史である以前に、この霧とどう付き合うかという設計判断の歴史なのではないか。霧の中で信頼を設計するか。霧の発生源ごと消すか。それとも、霧を別のものに変えてしまうか。以下で見ていくのは、同じ一つの問題に対して、まったく異なる答えを出し続けてきた者たちの系譜である。以後の議論を二つのレイヤーに分けておこう。一つは、サッカーのどこを切り取り、プレイヤーをどこに立たせるかという「カメラと翻案」の問題。もう一つは、自分以外の判断によって生じた結果を、誰に引き受けさせるかという「責任」の問題である。
両者は関係するが、同じものではない。カメラそのものが責任を決めるのではなく、何を見せ、どの因果を追えるようにするかによって、結果を「自分の失敗」として読める範囲を変える。
3.本流は霧の中で何をしたか ── 拡張・命令・信頼
リアルタイム操作の本流は、21人問題を回避せず、その内側で格闘し続けた。ただしその格闘は一枚岩ではない。本流は40年のあいだに、三つの異なる答えを積み重ねている。操作主体の拡張、命令言語の整備、そして信頼の設計である。順に見ていきたい。
磁石のボールと、乗り移るカーソル
最初期のサッカーゲームは、実質的にドリブルゲームだった。ゲームの主体はボール保持者ただ一人であり、パスは「ボールを別のドリブラーに引き渡す」ための補助行動にすぎなかった。ボールが磁石のように足に吸い付く挙動 ── 開発者コミュニティで「ボールマグネット」と呼ばれてきた実装(注6)── は、この設計思想の帰結である。この吸着がいかに根深い仕様だったかは、先に触れた細田の証言が示している。2019年の新作でドリブル刷新を説明するにあたって、彼は「従来ですとボールが選手にくっついているような表現だった」と過去を振り返った(注3)。磁石ボールの克服は、シリーズ開始から四半世紀を経てなお現在進行形の課題だったのだ。
転機は、パスが「引き渡し」から「連携」へ意味を変えたことにある。ワンツーはボタン一つで壁役の味方を走らせ、スルーパスは「今いる場所」ではなく「これから走り込む場所」へボールを送る。ここで重要なのは、操作対象が「ボールを持つ1人」から「ボールを介して連動する複数人」へ拡張された、という点だ。
そしてこの拡張を完成させたのがカーソル切り替えである。ボールが移動するたび、プレイヤーの意識は選手から選手へ乗り移る。操作主体は「選手一人」から「チーム全体」へ跳躍した。プレイヤーが失点で苛立つのは「あの選手が動かない」からではなく「自分のチームが動かない」からだ ── 霧は、個人から集団へと拡張された。
幽霊の視点
ここで、前節の予告、つまりカメラの話を拾っておきたい。乗り移るカーソルを成立させたウイニングイレブン/FIFA型の視点は、あらためて考えるとかなり奇妙なものだ。
基本は上空からの鳥瞰で、明らかにテレビ中継のカメラを模している。ところがその中継画面の中の一人に、プレイヤーの操作が接続されている。そしてボールが動けば、接続先は次々に乗り移っていく。これは誰の目なのか。特定の選手の目ではない。純粋な観客の目でもない。本稿ではこれを、ピッチの上空を漂いながら選手たちに次々と取り憑いていく「幽霊の視点」と呼びたい。プレイヤーはテレビの前の視聴者のようにサッカーを見ながら、同時に画面の中の誰かとしてサッカーをしている ── この宙吊りの立ち位置こそ、憑依型インターフェースの正体だ。以後の各節で確認していくが、それぞれのサッカーゲームがプレイヤーに何の責任を負わせようとしているかは、この「カメラをどこに置いたか」に、ほとんど正直に現れる。
さらに面白いのは、この「憑依」の滑らかさの内実である。バスティアン・コニングス(『Gameplay Football』開発者)が公開した設計文書によれば、サッカーゲームのシステムは常に「ボールに最も早く到達できる選手」を計算し、その選手を自動的にボールへ向かわせている。カーソルが乗り移った瞬間から選手が自然にボールへ寄っていくのは、「ボールへの欲求(ball desire)」と呼ばれる自動制御の産物だ(注6)。つまりプレイヤーの操作は、拡張された時点ですでに純粋な手動ではなく、AIとの共同操縦だった。憑依とは、操作と自動制御の縫い目を見えなくする技術の名前なのである。だが縫い目を隠すだけでは、操作できない10人の問題は残る。
操作できないなら、言い聞かせる
フォーメーション設定とは何か。私はこれを「戦術の再現」だとは考えていない。それはプレイヤーがAIへ意志を伝えるためのユーザーインターフェース(命令言語)である。初期の作品では4-4-2などの選択肢が数個あるだけだった語彙は、攻守可変システム、選手個別の意識設定、ラインの高さ、プレスの強度と、際限なく増殖してきた。
この解釈は開発者の一次証言に裏づけられる。益田は、『ウイニングイレブン 2014』で導入された「コンビネーションプラン」── 攻撃パターンを試合前に設定し、3人以上の連動を演出する機能 ── の目的を、「手軽にボールを持っていない選手の動きをコントロールできる」ことだと明言している(注2)。
オフザボールへの命令言語、まさにその通りの言葉で開発者自身が語っているのだ。この系統にはハードウェアを利用した突然変異もある。ニンテンドーDSの二画面ソフトは、上画面に中継カメラ、下画面に見下ろしの戦術盤を置き、タッチペンで選手の走路を直接描かせた。命令言語が「メニューの文法」から「図形の文法」へ書き換えられた瞬間であり、監督がホワイトボードに引く矢印の、ほぼ直訳である。
この二画面の分業を、視点の語彙で言い直すとこうなる。下画面は真上から見た盤面 ── 完全な監督の視点であり、プレイヤーはそこに線を引く。上画面はスコアや実況演出を映すテレビ的な多目的画面 ── つまり中継の視点である。DS版『イナズマイレブン』(レベルファイブ、2008年〜)が徹底したのもこの構成で、プレイヤーは下画面の盤面にタッチペンで選手の走路を描き、選手同士が接触した瞬間だけコマンド選択の局面対決へ切り替わる。監督の視点とテレビの視点という、サッカーを「見る」ための二つの視座が、ハードウェアの二枚の画面へ物理的に振り分けられていた。
二画面が分けているのは視覚情報だけではない。下画面では自分が走路を描き、上画面ではその結果を観戦する。ここでカメラと責任の設計が接続する。責任を生むのはカメラそのものではなく、「自分が引いた線」と「選手が走った結果」の因果を、二つの画面が追跡可能にしていることだ。走路の線を引いたのは自分の手だから、走った結果は自分に返ってくる ── 命令言語とは、責任の霧を「自分の引いた線」の因果へ晴らしていく装置でもあったのだ。
だが、命令が通じるだけでは足りない。命令の結果が納得できなければ、霧は晴れないからだ。ここで本流の格闘は、最も目立たず、最も重要な局面に入る。
信頼の設計 ── 味方AIの意図をどう持続させるか
味方AIをプレイヤーにとって自然で読みやすいものにする難しさは、二つに分けられる。一つは、いったん選んだ動きを状況の揺れに振り回されずに持続させること、もう一つは、そもそも、いつ、どこへ、どのような動きを始めるか選ぶことである。コニングスの設計文書には、この二つに対応する成功と未解決が並んでいる。
前者については、味方AIの挙動を安定させるための具体的な工夫が示されている。チームが攻撃中かを判断する「ポゼッションバランス」には、意図的な遅延と平滑化が加えられている。瞬間ごとの判定値をそのまま使うと、味方への鋭いスルーパスが敵の近くを通っただけで「敵が奪う」と判定され、走り込んでいたストライカーが動きをやめてしまうからだ(注6)。もちろん、パス軌道や敵選手の到達可能性をより精密に予測できれば、この誤判定自体は減らせる。それでも、瞬間的な状態推定の揺れをチーム全体の行動へ直結させないという問題は残る。ここで平滑化が解決しているのは、いったん始めた走りを、不安定な判定によって中断させない「意図の継続」の問題である。
一方、どの動きを始めるべきかという問題は、それほど綺麗には解けない。同じ文書でコニングスは、守備の位置取りやマンマークの割り当てには比較的明確な解決策を示しながら、攻撃時のオフザボールの走り込みについては、「自分の解決策に満足していない」と認めている(注6)。守備では、ボールや相手選手との位置関係から、守るべき場所や対象をある程度定められる。ところが攻撃では、裏へ抜ける、足元で受ける、囮として外側へ走るなど、同じ状況にも複数のもっともらしい選択肢が開かれている。どれが正しいかは、ボールの保持者(=プレイヤー)が次に何をしようとしているかによって変わる。難しいのは走り込みを生成することそれ自体ではなく、プレイヤーが期待した走りと、AIが選んだ走りを一致させることなのだ。
この区別が、「味方AIが賢い/バカだ」という評価の中身を考える手掛かりになる。『ウィニングイレブン』の黄金期に賞賛された「操作の気持ちよさ」の一部には、味方が始めた動きを最後まで続け、プレイヤーがその先を予測できる感覚も含まれていたのではないだろうか。反対に、「AIがバカになった」という批判にも、単純な能力低下だけでなく、動きの意図や継続条件が読めなくなったことへの苛立ちが含まれている可能性がある。細田が語る、パスの得意な選手がボールを持てば味方が走り出し、ドリブルの得意な選手なら周囲が道を開けるという挙動(注3)も、プレイヤーが次の動きを予測するための手掛かりとして理解できる。選手の個性や実在選手の起用は、AIの行動をただ多様にするだけでなく、「この選手ならこう動く」という期待を成立させるのだ。
本流のサッカーゲームは40年間、AIを賢くするだけでなくプレイヤーが味方の動きを予測し、それを自分のプレーへ組み込める条件を設計してきた。平滑化は、すでに始まった「お前は裏へ走れ、俺はボールを届ける」という契約を途中で破綻させない。一方、攻撃時の走り込みの難しさは、その契約をそもそもどの相手とどの瞬間に結ぶべきか定まらないことにある。
4.コマンドの中のサッカー
『ポートピア』から来たサッカーゲーム
1988年、テクモは『キャプテン翼』を発売した。本作は選手の直接操作を完全に捨てたわけではない。味方がボールを持つ移動モードでは、プレイヤーはレーダー上の記号を十字キーで動かす。敵と接触するか、任意にコマンド画面を開くと、「どうする!?」という選択へ移行する。一方、ほかの味方の移動や敵ボール時の展開は自動で進む。つまり本作が行ったのは、サッカーを自動化することではなく、連続的な直接操作を簡略化し、勝敗を左右する判断をコマンドの局面へ圧縮することだった。
この設計の出自について、決定的な証言がある。当時テクモに在籍した猪瀬祥希は、初期企画書における画面構成は『ポートピア連続殺人事件』をイメージしたものだったと述べている ── 画面の4分の1が絵で、残りがコマンド部分という、アドベンチャーゲームの標準UIである。
これを見たプロデューサーの柿原彬人が「こんなちっちゃい画面では迫力がない、全画面にしなさい」と指示し、全画面演出へ転換された(注8)。ここで見落としてはならないのは、順序だ。テクモ版キャプテン翼は、サッカーゲームにコマンドを足したのではない。アドベンチャーゲームを母体として、そこにサッカーを流し込んだのである。流動する試合をコマ割りで決定的瞬間に切り出す漫画の文法と、選択肢で物語を進めるADVの文法が、ここで合流した。柿原の「全画面にしなさい」という指示は、結果的に、この作品のカメラを漫画のコマの側へ決定的に押し出した指示でもあった。
こうして生まれた試合画面を構成するのは、迫り来る敵FWや、立ちはだかるキーパーの構えを全画面で映すカット演出である。『ウイニングイレブン』型のカメラがピッチ全体を連続的に映すのに対して、『キャプテン翼』のカメラは、局面が発生した瞬間と、そこに関わる者だけを切り出す。「どうする?」という問いも、試合全体を俯瞰する監督ではなく、その局面の渦中にいる当事者へ差し出される。責任を局所化するためにカメラが寄ったのではない。漫画をゲームへ翻訳するために決定的瞬間を切り出した結果、プレイヤーが引き受ける判断もコマンド選択の一点へ集約されたのである。
では、21人問題はどこへ行ったのか。完全に消えたわけではない。移動モードではほかの味方が自動で動き、守備時の接触もシステムへ委ねられている。ただし、その動きは簡略化されたレーダーや画面外の処理へ押し込められ、プレイヤーが問われるのは主としてマッチアップ時の選択である。『キャプテン翼』は21人問題を解決したのではなく、局面の外へ隠し、プレイヤーの責任を「ガッツ」「能力差」「コマンド選択」へ圧縮した。本流で絶えず露出していたAIとの共同操縦の縫い目を、漫画のコマ割りによって21人問題を限りなく見えにくくしたのである。
試合が試練のための装置になるとき
『キャプテン翼』がサッカーの連続的な進行をマッチアップごとのコマンドへ切り分けたのに対して、その文法をさらに物語の側に推し進めたのが、初代『高円寺女子サッカー』(スターフィッシュ、2006年)だった。シリーズはテレビアニメ風に、タイトル→本編→次回予告というテレビドラマの構成で進行する(注9)。
初代にはリアルタイムのアクション操作がなく、試合もアドベンチャーパート同様に局面ごとに選択肢が現れ、誤った指示を出すと相手にボールを奪われ、同じ局面へ戻されることもある。『キャプテン翼』では、ガッツや能力値を踏まえて複数のコマンドから戦術を選んでいた。それに対して本作の試合は、物語を正しい順路へ進めるための選択肢に近い。サッカーの局面をコマンドへ翻訳するだけでなく、そのコマンドをADVの分岐へ吸収したのである。
2作目ではこの論理がさらに試合の外側へ広がる。試合前に相手との「舌戦」があり、言い負かせば前半が有利になる。部員との信頼度を上げておかないと、校長の査定で試合を待たずにゲームオーバーになる。勝敗を決めるのは技術でも戦術でもなく、人間関係のパラメータなのだ。
3作目にしてやっとサッカーゲーム側への揺り戻しがくる。試合は「アクションを選ぶ、演出を見る、結果を受けて次の局面へ進む」という独立したコマンドバトルになり、ドリブルにはタックル、パスにはパスカット、シュートにはブロックという相性と、各選手の能力値が成否を決める(注10)。これはシリーズで初めて試合パートが付いたというより、ADVの選択肢だった試合を、能力値と相性を備えたゲームシステムへ組み直したものだ。
それでも物語に対する試合の従属は依然として強く、2周目以降は試合をスキップでき、負けた場合の展開を見ることも選べる。試合システムを強化しておきながらその試合を遊ばずに物語を進める道も同時に用意しているのである。つまり、『高円寺女子サッカー』シリーズにおいて、試合は独立した勝負である以前に、人物関係と物語を次の局面へ運ぶ装置だと読むことができるだろう。
なお、初代では、立ち絵とセリフを与えられた部員は7人だけで、残る4人はモブだった(注9)。本流が「動かせない10人」に苦しんだ裏で、高円寺女子サッカーは「描けない4人」に苦しんでいたのである。
5.見守るという操作 ── カルチョビットと監督たちの系譜
電撃移籍!ダビスタがサッカーに来た
『ダービースタリオン(ダビスタ)』は、プレイヤーが競走馬のオーナーとなり、配合によって馬を生産し、調教を重ね、出走するレースを選ぶこ競走馬育成シミュレーションである。だが、レースが始まれば馬を直接操作することはできない。プレイヤーにできるのは、それまでの育成を信じ、走る姿と結果を見守ることだけだ。そこで得た資金や評価を次の配合と育成へ還元し、再びレースへ送り出す。「準備する、委ねる、見守る、育て直す」という循環が、シリーズの基本的な文法になっている。
そんなダビスタを生み出した薗部博之が、サッカーを題材に手がけたのが『カルチョビット』(任天堂、GBA 2006年/3DS 2012年)だ。プレイヤーは監督として選手を雇い、フォーメーションやスタメンを決め、特訓を行わせるが、試合中の選手を直接操作することはできない。行えるのは選手の交代や指示までで、あとは試合を見守るだけである(注11)。競走馬が11人の選手へ、調教が特訓へ、レースが試合へ置き換わったと考えれば、両作の構造はよく似ている。『カルチョビット』は、「自分では動かせない他者を育て、実戦へ送り出し、その結果を次の育成に還元する」というダビスタの文法をそのままサッカーへ移植した作品として読める。
ここで先に決められているのは、カメラではなく役割である。プレイヤーが引き受けるのは育成と采配までであり、試合中の実行は選手に委ねる。その契約を画面上で表した結果、カメラはピッチ上の身体から離れ、スタンドやテレビ中継の位置まで退く。失敗が途中経過として受け取られるのも、遠くから見ているからではない。介入できる範囲とできない範囲が、試合前から明示されているからだ。
そう考えると、注目すべき仕様が見えてくる。能力値とは別に用意された「動きに関する隠しパラメータ」だ。「ダイアゴナルラン」「スペースに走り込む」「オーバーラップ」など12種のパラメータは最初は全選手同一で、特訓によって徐々に変化していく(注12)。列挙してみて気づかないだろうか。これらは、前節でコニングスが「自分の解決策に満足していない」と認めた、あの攻撃時のオフザボールの走り込みそのものである。
つまりカルチョビットは、本流が最後まで解けなかった技術的難問を、育成の物語に変換した。走らない味方への苛立ちに対する回答が、「まだ育っていないからだ」という伸びしろになる。霧は消えない。だが、霧は愛着に変わる。走る性向を数か月かけて育て、走り込むその瞬間を、スタンドから見守る。ここでのカメラは、もうピッチ上の誰にも接続されていない。それはスタンド席の、あるいはテレビ中継の視点であり、「介入できない」ことが最初から画面の形で宣言されている。だからこそ失敗は理不尽ではなく、成長の途中経過として受け取られる。
ここで、冒頭の問い ── なぜ操作しないサッカーゲームが、1982年のケヴィン・トムズ以来これほど堂々と存在し続けるのか ── にいったんの答えを出せるだろう。選手を操作しない「監督ゲーム」の系譜は、本流の進化の果てに現れた「次の段階」ではない。最初から別の木の枝として本流と並走していた。そして、その枝が売っていたのは「操作できないサッカー」ではない。「見るサッカー」の直訳である。ゲーム研究者のゴードン・カレハは、プレイヤーの関与を複数の次元に分解し、試合全体を俯瞰してチームの運命を見守る「マクロな関与」が、ミクロな操作と独立して快楽を生むことを論じている(注13)。考えてみれば、大多数のファンにとって、サッカーの原体験はピッチの上ではなくテレビの前にある。見て、祈って、采配に文句を言う「監督ゲーム」の系譜が写し取っていたのは、サッカー体験の周縁ではなく、その中心だった。だから堂々としていられたのである。
リベロは逆走する
一方、まったく逆の方向へ振り切った実験もあった。2000年の『リベログランデ』(ナムコ)は、操作を一人の選手に固定する。パスを出せばボールは仲間へ渡り、自分は走り込みのタイミングを読み、受ける瞬間を選ぶしかない。ここでは責任の霧が消されるどころか、濃縮されている。受け手として走らなければ、それは「自分の読みの失敗」として透明に返ってくる。カーソル憑依で「自分=チーム」へ拡張した本流の正反対 ── 21人問題を、回避するのでも消去するのでもなく、ゲームの核として正面から突きつけた作品である。
実はここまでの三つの節で起きていることは、同じ一つの操作の変奏である。プレイヤーが「操作している(と感じる)もの」の位置を、ボールからずらすこと。そしてその移動は、カメラの移動として画面に刻まれている。本流はボールからチームへ移り、カメラは幽霊になった。キャプテン翼はチームから局面へ移り、カメラは漫画のコマになった。カルチョビットは局面から育成へ移り、カメラはスタンドまで退いた。そして、リベログランデは逆にボールへ最接近した。
6.市場を操作する ── Ultimate Teamという合流点
試合が省略可能になる日
2010年代以降、本流の重心は劇的に外側へ移動する。その象徴がUltimate Team(FUT)の成功だ。2009年の『FIFA 09』に拡張モードとして生まれたこの仕組みは、『FIFA 12』のころにはシリーズの屋台骨となっていた。周縁のおまけが、本体を乗っ取ったのである。
選手カードをパック(ガチャ)で入手し、市場で売買し、集めたカードからチームを編成する。ただし、単に能力値の高い選手を11人並べればよいわけではない。所属クラブやリーグ、国籍、適性ポジションなどの組み合わせによって「ケミストリー」と呼ばれる連携値が変わり、それが選手の能力や位置取りに影響する。強い選手を買うだけでなく、選手同士のつながりを考えながら、限られた予算でチームの最適化を目指し、週次イベントとシーズン制で変わる課題に適応できるように編成を更新し続ける。
プレイヤーの操作主体は「身体」でも「チーム」でもなく、「市場」になった。ピッチ上の90分は手段にすぎず、ときに省略可能なコンテンツになる。プレイヤーが最も長く見つめる画面は、もはやピッチではなく、メニューと市場だ。
これをソーシャルゲームの流行による本流の堕落と読むのは簡単だ。だが本稿の見立てでは、これは堕落ではなく合流である。思い出してほしい。選手を操作せず、編成と采配と経営だけを扱うゲームは、1982年から存在していた。ケヴィン・トムズのFootball Managerであり、サカつくであり、カルチョビットである。本流は40年の格闘の末に、監督系譜が最初から住んでいた土地へ降り立ったのだ。
翻訳系の末裔も、同じ場所に着いた
さらに象徴的なのは、キャプテン翼の家系の現在地である。2026年6月にサービスを開始した『イナズマイレブン クロス』は、ジャンル名を「育成シミュレーション」とする基本無料スマホゲームだ。試合はオートで進行し、プレイヤーは必殺コマンドの選択のみを行う。完全オート進行も可能で、主人公は選手ですらなく、戦術分析能力を買われて監督に任命された少年である(注14)。シリーズの生みの親・日野晃博は、IPを復活させるにはスマホゲームが必要であり、サッカーが盛り上がる2026年に照準を合わせたと語っている(注15)。ペンで選手を走らせる操作すら消え、残ったのは編成と育成とガチャと局面のコマンド。40年前に袂を分かった二つの系譜 ── リアルタイムの本流と、コマンドによる翻訳の系譜 ── が、基本無料時代に同じ「編成型」の地点で再会したのである。
ここで重要なのが、試合に勝てば敵チームの選手をスカウトして自軍を強化できる「スカウト機能」だ。スカウトというシステム自体は、『Championship Manager』や、日本でいえば『サカつく』シリーズのような監督系ゲームの中で培われてきた。そこではスカウトとは、未知の選手を発見し、能力を見極め、交渉可能な市場へと引き込むための装置だった。つまり本来は、「試合」とは別の場所にある「編成」のための機能である。
しかし『イナズマイレブン』がそこへ接続したのは、単なる監督ゲーム的な市場編成ではない。『キャプテン翼』が持っていたRPG的、あるいは少年漫画的な仲間の増え方(強敵と戦い、物語の中で次の仲間が増える)という文法である。敵チームとの試合は、勝敗を決めるだけでなく、そのまま採用面接にもなる。監督系ゲームが作ってきた「スカウト」という編成システムと、少年漫画が繰り返してきた「今日の敵は未来の仲間」という物語の回路が、ここで縫合されている。
同じ2026年には、qureateの『ファンタジスタ明日翔』が、テクモ式を意識的に復刻した。行動力「バイブス」が尽きると「くっ……バイブスが足りない!」と表示される(注16)など、『キャプテン翼』に対する目配せは明らかである。さらに美少女ゲームとしての側面を踏まえれば、ここには『キャプテン翼』から『高円寺女子サッカー』を経由し、『ファンタジスタ明日翔』へ至るもう一つの支流を読むことができる。サッカーをコマンドへ翻訳し、敵やライバルを仲間として回収し、チームを編成していく。『ファンタジスタ明日翔』もまた、『イナズマイレブン』とは別の姿で、キャプテン翼の血を受け継いでいる。
つまり、ここで合流しているのは二つの流れである。一方には、監督系ゲームが長年磨いてきた「スカウト=編成のための情報・交渉システム」がある。もう一方には、『キャプテン翼』以来の「試合=物語上の出会い」「敵=未来の仲間」という少年漫画的なチーム形成がある。『イナズマイレブン』はこの二つをスマホゲームの編成・育成・ガチャの形式へと接続し、『ファンタジスタ明日翔』はテクモ式のコマンドサッカーと美少女ゲームの系譜を通じて、それを別方向から反復している。
ここで一段引いて考えたい。憑依とカーソル、コマンドと局面、育成と観戦、市場と編成 ── 操作主体が身体から外側へ抽象化していくこの運動は、実はサッカーゲームに固有ではない。ポケモンのプレイヤーは1匹の身体から6匹の編成へ、そして図鑑へと関心を移す。『Civilization』のプレイヤーはユニットから文明へ、『Crusader Kings』のプレイヤーはキャラクターから王朝へ。多数のエージェントを一人で扱うゲームは、どれも同じ抽象化の坂を登る。サッカーゲームが特別なのは、リアルタイム・連続空間・高い自律性という条件が重なることで、この坂が最も急峻になっている点だ。だからサッカーゲームは、この一般現象の最も連続的な実験場になった。
7.人間とカメラ ── 2020年代の二つの検算
全員を人間にしたら、霧はどうなるか
21人問題への回答として、理屈の上では最も素朴で、実現は最も困難な選択肢が一つ残されていた。ピッチ上の全員を人間にしてしまうことである。実はこの発想自体は新しくない。益田は2013年の時点で、最大22人=11対11のオンライン対戦を『ウイニングイレブン 2014』に搭載していた。だが興味深いのは、当時のインタビューですでに「各々がいるべき位置をガイドする機能」の必要が語られていたことだ(注2)。AIを人間に置き換えた瞬間、今度は人間のほうがオフザボールを守れない ── 草サッカーで全員がボールに群がる、あの光景が回帰してくる。ポジションガイドとは、人間に対する命令言語にほかならない。そして、ウイニングイレブンシリーズにおいて、この試みが功を奏したかというと、その答えはNOだと言えるだろう。コンシューマーゲームにおいて22人の参加者を集めるハードルの高さは想像に難くないだろうし、大人でなければ尚のこと困難であることは明白だ。同じ学校で、同じゲーム機を持ち、サッカーに興味がある友人を21人集めることの困難さは、それ自体がそもそもなぜサッカーゲームが21人問題を抱えるに至ったかという話でもある。
この方向を人数を絞ることで成立させたのが、2025年6月に『Sifu』のSloclap社がリリースした『REMATCH』である(注17)。Steam、PlayStation、Xboxでクロスプレイが可能であり、esportsやストリーミングを意識した作りの本作は、3対3から5対5でプレイでき、プレイヤーはピッチ上の選手のうちの一人を、一人ずつ操作する。
ファウルもオフサイドもVARもなく、フィールドは壁に囲まれ、試合はほぼ止まらない。全選手の能力は同一で、すべてのアクションはマニュアル操作 ── つまり、AIへの委任がゼロのサッカーゲームだ。カメラは三人称視点で自分の選手の背中に固定され、乗り移りは存在しない。幽霊の視点はここで廃止され、プレイヤーは、かつてリベログランデが試みた「一人の身体」へ帰ってきた。ただし、今度は動かせない残りの選手たちも全員が生身の人間として。
では、責任の霧は晴れたのか。半分は晴れた。自分のミスは、完全に自分のものになった。だが同時に、チーム対戦型のオンラインゲームで遊んだことのある人なら誰でも知っている、あの馴染み深い帰属が立ち上がってくる。「味方が下手だったから負けた」── である。動かせない残りの選手がAIから人間に置き換わっても、「自分以外のエージェントの判断で、自分が不利益を被る」という構造そのものは、一ミリも変わらない。変わったのは怒りの宛先だけだ。AIに向かっていた「なんでそこ走らないんだ」が、そのままの文面で、生身の他人に向かう。
しかも、同じことが翻訳系の側でも起きている。『イナズマイレブン クロス』のストアレビューには、パスを選択しても意図しない味方にボールが戻り続け、狙った選手でシュートを打てないままタイムアップになる、という不満が書き込まれている(注18)。『ファンタジスタ明日翔』のレビューにも、CPUの挙動の癖で前衛ばかりがボールに触れ「DFって何でしょうか」と首をかしげる記述がある(注19)。操作をコマンドに縮約し、試合をオートにしてもなお、「自分の指示とAIの解釈のずれ」への苛立ちは消えない。委任先をAIから人間へ替えても、操作をコマンドへ翻訳しても、霧はどこかに必ず滲み出てくる。これは40年の歴史に対する、意地の悪い検算である。責任の霧の正体は、AIの性能問題ではなかった。複数の身体がひとつの勝敗を分有するという、サッカーの ── そしておそらくは、あらゆる協働の ── 構造そのものだったのだ。宛先は変えられても、霧は消えない。
カメラが責任を配りにくる
2025年に発売された『イナズマイレブン 英雄たちのヴィクトリーロード』(レベルファイブ)の試合は、賛否は別れるとはいえイナズマイレブンシリーズが培ってきたサッカーゲームのノウハウの集大成といえるだろう。
通常時はウイニングイレブン型である俯瞰のフィールドで、カーソルを切り替えながらリアルタイムに選手を動かす。ところが敵選手と接触すると「フォーカス」と呼ばれる1対1の局地戦に移行し、画面は流れる試合から、対峙する二人の駆け引きへと切り替わる。相手ゴール前に到達すると「ゾーン」に入り、時間が減速し、シュートコースや味方へのパスをじっくり選ぶ局面選択になる(注20)。さらに、試合を自動進行にして「監督の気分で、試合を好きな視点から眺めて楽しめる」観戦モードまで公式に用意されている(注20)。整理すれば、幽霊の視点(憑依型カーソル)、局面の視点(キャプテン翼的なコマンド対決)、観戦の視点(監督ゲームの系譜)── 本稿が40年ぶんの別々の作品に辿ってきた三つの立ち位置が、一本のゲームの中で、試合の局面に応じて切り替わっているのである。
ここまで来ると、本稿がずっと持ち歩いてきた「カメラ」というものの正体が、はっきり見えてくる。カメラの位置とは、ゲームがプレイヤーをサッカーのどこに立たせるかの宣言である。一方、責任の配分を決めるのは、直接操作、AIへの委任、試合前の指示、結果のフィードバックといったルールの総体だ。両者はしばしば重なるが、同じではない。カメラは、すでに設計された責任の境界を見せ、ときにはその因果を読みやすくする。
ゲームがプレイヤーに「この瞬間はお前の責任だ」と言いたいとき、画面は局面へ寄り、時間は減速し、視点は当事者へ近づく。責任を求めないとき、カメラは上空へ、スタンドへ、メニュー画面へと退いていく。キャプテン翼のコマ、DSの監督盤面と中継画面、ウイニングイレブンの幽霊、カルチョビットのスタンド、REMATCHの背中越し ── それぞれのカメラは、それぞれの責任配分の図面だった。『ヴィクトリーロード』が切り替えているのは、カメラだけではない。画面が寄るのと同時に、介入できる行為の粒度と、プレイヤーが直接引き受ける判断の範囲も変化する。過去40年の異なる設計を、一試合の内部で組み替えているのである。
8.逆流する実装 ── ゲームが現実の計算装置になる
最後に、ゲームと現実の関係が反転する地点を見ておきたい。サッカーゲームは現実の競技を模倣するだけでなく、現実を判定し、分析するためのモデルを先に実装することがある。この逆流は審判技術にも見られるが(注21)、本稿の中心であるオフザボールの問題に即して、より重要なのは次の事例だ。
本稿が実装の証言としてたびたび引いてきたコニングスの『Gameplay Football』は、後にオープンソース化され、Google Research Footballという強化学習研究環境の基盤となった。
そして中原・藤井ら(2023)は、まさにこの環境を模した状態空間の上でマルチエージェント深層強化学習を走らせ、従来の分析が積み残してきたオフザボールの選手 ── ボールから遠い選手 ── の行動価値を、実際のプロ選手の評価と突き合わせて測定する手法を提示した(注22)。サッカーゲームが長らくこの問いにとらわれていたように、現実の分析科学にとってもオフザボールは長らく「見えない領域」だった。そんなサッカーゲームが40年かけても解けなかった「見えない21人」の問題を、今度は現実のサッカー分析が、サッカーゲームを実験場にして解こうとしているのである。今やサッカーゲームは競技の翻案であることをやめ、競技を理解するための計算装置になった。
おわりに:霧は、ピッチを越えて
本稿で辿ってきた系譜に共通するのは、こういうことだ。プレイヤーが最終的に介入し、その成否に責任を感じる対象 ── 本稿の言葉で「操作主体」 ── と、失敗が実際に帰属する先 ──「責任主体」── は、必ずしも一致しない。格闘ゲームでは完全に一致する。だから敗北は透明だ。サッカーゲームでは、憑依によって「チーム全体」を操作している感覚と、「動かせないAI味方のせいで失点した」という帰属が食い違う。責任の霧とは、このズレの名前である。
そして40年の設計判断は、すべてこのズレへの態度として分類できる。ズレの中で契約と信頼を設計した本流。ズレを図形の言語に変えて自分の手元に引き戻したDSの二画面。ズレの発生源を局面ごと切除したキャプテン翼。ズレを愛着に変換したカルチョビット。ズレを濃縮してゲームの核にしたリベログランデ。ズレの外側、市場と物語へと移住したFUTと高円寺。ズレの委任先を、AIから人間へ置き換えたREMATCH。そして、これらの答えのすべてを一試合の中で動的に切り替えてみせたヴィクトリーロード。同じ問題、八つの答え。それぞれの答えは、それぞれのカメラの位置として、画面に刻まれてきた。ジェスパー・ユールの言い方を借りれば、スポーツゲームは競技の再現ではなく手続き的な別物である(注23)。 だとすれば、サッカーゲームという「別物」の中身は、球技ではなく、この責任配分の実験だったことになる。1982年にケヴィン・トムズが選手の操作を丸ごと捨てたとき、彼はこの実験の、最も早い参加者になっていたのだ。
だが、操作主体と責任主体のズレは、サッカーゲームだけのものではない。協力型ゲームで味方の判断に敗北を左右されるとき、AIエージェントに委任した仕事の結果を自分が引き受けるとき、同じ霧が立ち上がる。それはAI以前から、人間の組織における委任と分業にも棲みついてきた。複数の主体が一つの結果を分有する限り、責任の霧は避けられない。サッカーゲームはこの古く普遍的な問題を、コントローラーとAIという具体物を通じて、40年間可視化してきたのである。
委任は避けられない。ならば問題は、委任した相手の判断が、事後に納得できる形で自分へ返ってくるかどうかだ。サッカーゲームの40年が教えるのは、その納得を生むのが「賢さ」ではなく「読めること」── 意図が持続して見えることだという、地味だが動かしがたい設計原理である。そしてもう一つ。責任を配るときには、カメラを、つまり、その人をどこに立たせ、何を見せるかを一緒に設計しなければならない、ということも。
サッカーゲームが40年間動かしてきたのは、選手だけではない。プレイヤーの視線と、介入できる範囲の境界である。責任はカメラだけで決まらない。だが、委任した結果を自分の判断として引き受けられるようにするには、誰をどこに立たせ、何を見せるかまで設計しなければならない。サッカーゲームの歴史は、その二つを結び直し続けた歴史だった。
戦争とは不確実性の領域である。行動の基礎となる要素の四分の三は、多かれ少なかれ不確実性という霧に包まれている。
注
Kevin Toms公式サイト "About Kevin Toms creator of Football Manager"。 https://kevintoms.games/about-2/
益田圭「FOXエンジンでスポーツゲームの高みへ挑む―『ワールドサッカー ウイニングイレブン 2014』プロデューサーの益田圭氏にインタビュー」Gamer、2013年11月14日。
https://www.gamer.ne.jp/news/201311140006/BEN「『ウイニングイレブン 2020』プロデューサー細田氏インタビュー。『ウイニングイレブン』最新作の進化とは?【電撃PS】」電撃オンライン、2019年8月26日。
https://dengekionline.com/articles/10137/菅原俊生『サッカーゲームにおける大局的戦術指示による即応機械学習に関する研究』修士論文、東京工科大学大学院バイオ・情報メディア研究科、2015年度(指導教員:渡辺大地)。
https://gamescience.jp/2015/Paper/Sugawara_2015.pdfMiguel Sicart, "A Tale of Two Games: Football and FIFA 12," in Mia Consalvo, Konstantin Mitgutsch, and Abe Stein, eds., Sports Videogames, Routledge, 2013. https://miguelsicart.net/publications/FIFA_Football.pd
Bastiaan Konings, "Soccer Game Development Concepts," properlydecent.com. https://properlydecent.com/blog/soccer_game_development_concepts/
「ファミコン版『キャプテン翼』が今日で35周年! サッカーゲームの常識を覆した、稀代の傑作を振り返る」GAME Watch、2023年4月28日。 https://game.watch.impress.co.jp/docs/kikaku/1497146.html
猪瀬祥希第1回インタビュー後半:テーカン〜テクモ時代のゲーム開発、清水洋ほか(聞き手)、IIR Working Paper WP#18-45、一橋大学イノベーション研究センター、2018年12月。
https://hit-u.repo.nii.ac.jp/record/2058186/files/070iirWP18-45.pdf
同インタビューでは、猪瀬祥希自身が『キャプテン翼』の初期企画書について次のように述べている。「画面は『ポートピア連続殺人事件』をイメージしてもらえればわかると思うんですけど、4分の1ぐらいが画面で、あとはコマンド部分があってっていう画面構成の企画が、私が一番最初に目にした企画書ですね。で、それを柿原さんにプレゼンしたら、ものすごい怒られました。『なんじゃこりゃ! 全然、「キャプテン翼」の世界観がこれでは表現できていないよ。こんなちっちゃい画面では迫力がない、全画面にしなさい』と」(pp.25-26)。「【そそれぽ】第42回:美少女たちと熱血青春!『ある青春の物語 高円寺女子サッカー』をプレイしたよ!」インサイド、2012年5月19日。 https://www.inside-games.jp/article/2012/05/19/56732.html
スターフィッシュ『高円寺女子サッカー3 ~恋するイレブン いつかはヘブン~』公式サイト。
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ガッキー「いろいろあった約3年―3DS『高円寺女子サッカー3』開発者インタビューをお届け!」Gamer、2016年6月26日。 https://www.gamer.ne.jp/news/201606260001/任天堂『ポケットサッカーリーグ カルチョビット』公式サイト(3DS版)。
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レベルファイブ「新作スマートフォン向けゲーム『イナズマイレブン クロス』の配信決定」ニュースリリース、2026年1月13日。 https://www.level5.co.jp/news/20260113/
「『イナズマイレブン クロス』,正式サービスを開始。新主人公『汐沢 陽』によるオリジナルストーリーが展開される」4Gamer.net、2026年6月9日。
https://www.4gamer.net/games/974/G097482/20260609020/「[インタビュー]『イナズマイレブン クロス』が目指す,新しい"超次元サッカー"。スマホで気軽に,好きなキャラクターを育てる楽しさ。日野晃博社長に新規層開拓と今後の展望を聞く」4Gamer.net、2026年6月5日。
https://www.4gamer.net/games/974/G097482/20260601053/qureate『ファンタジスタ明日翔』公式サイト。
https://qureate.co.jp/Asuka/
「新作コマンド式サッカーゲーム『ファンタジスタ明日翔』レビュー。王道物語と美少女てんこ盛りでバイブスあげあげの沼ゲーだった!【電撃インディー#1279】」電撃オンライン、2026年2月。
https://dengekionline.com/article/202602/66501
あひる「【ファンタジスタ明日翔】攻略ガイド|試合のコツとキャラ育成を解説!」あひるのゲーム部屋。
https://ahiru0923-gameroom.com/20340/「『REMATCH』プレイレビュー! ファウルもオフサイドもない独自ルールで競い合うマルチプレイアクションサッカー」PlayStation.Blog(日本)、2025年7月24日。
https://blog.ja.playstation.com/2025/07/24/20250724-rematch/
「ファウルやオフサイドなどが存在しないオンラインサッカーゲーム『Rematch』,本日リリース」4Gamer.net、2025年6月19日。 https://www.4gamer.net/games/866/G086632/20250619029/App Store『イナズマイレブン クロス』ユーザーレビュー欄。パスする味方を選べないため意図した選手にシュートを打たせられない、という趣旨の投稿が複数見られる(2026年7月6日閲覧)。
https://apps.apple.com/jp/app/イナズマイレブン-クロス/id6756994116?see-all=reviews&platform=iphone「新作コマンド式サッカーゲーム『ファンタジスタ明日翔』レビュー。王道物語と美少女てんこ盛りでバイブスあげあげの沼ゲーだった!【電撃インディー#1279】」電撃オンライン、2026年2月。
https://dengekionline.com/article/202602/66501レベルファイブ『イナズマイレブン 英雄たちのヴィクトリーロード』公式サイト「対戦」ページ。
https://www.inazuma.jp/victory-road/competition/
試合中の画面遷移(フォーカス時・ゾーン時の見え方)に関する記述は、同ページの公開映像・スクリーンショットおよびAppMediaによる攻略記事(https://appmedia.jp/victory-road/79367033 )に基づく。判定技術にも、ゲームから現実への「逆流」と呼びうる動きがある。シカールが指摘するように、『FIFA 12』のオフサイドは、人間の審判の知覚や解釈を介さず、位置関係から機械的に判定される(注5参照)。一方、現実のFIFAワールドカップでも2018年にVAR、2022年に半自動オフサイド判定(SAOT)が導入され、判定の一部が計測システムへ委ねられるようになった。ただし、これは現実がゲームを直接「模倣した」というより、計測技術の導入によって、現実の判定モデルがゲームの機械的な処理へ部分的に接近した、と捉えるのが正確だろう。
Hiroshi Nakahara, Kazushi Tsutsui, Kazuya Takeda, and Keisuke Fujii, "Action Valuation of On- and Off-Ball Soccer Players Based on Multi-Agent Deep Reinforcement Learning," IEEE Access, 2023. DOI: 10.1109/ACCESS.2023.3336425.
https://arxiv.org/abs/2305.17886Jesper Juul, Half-Real: Video Games between Real Rules and Fictional Worlds. Cambridge, MA: MIT Press, 2005. ISBN 978-0-262-10110-3. https://mitpress.mit.edu/9780262516518/half-real/


興味深い内容でした。 是非wiiのウイイレ、プレーメーカーについての言及も欲しいです。
興味深くて面白かったです!