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貴方はアリア/こーすけの小説

貴方はアリア

11,102文字22分

もしも20歳の若浦路が匠先生に出会わずに夜鷹と出会っていたら、の師弟ifです。
ツイッターで上げていたものをまとめました。

書きたいところを書いただけなので、あいも変わらずふわっと設定です。
細かいことは気にしない、なんでも大丈夫な方のみどうぞ。

ところで番外編という名の本編に情緒乱されてます…。よだつか幸せになれ…。

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なにかありましたらこちらまで(波箱)→
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このまま進んでいいのか分からないまま、十代が終わってしまった。ただでさえ遅くに始めて、道が合っているのかも確認できないまま、二十歳を迎えた。
相変わらず誰にも見てもらえず、動画と同好会の人の助言と動作で練習をする日々。
練習をしている時は滑ることに集中しているからそれ以外のことは頭の隅に追いやれていたが、スケートから離れてしまう夜が、特に寝る前の時間が、怖かった。
今やっていることは本当に意味があるのだろうか。スケートを続けるべきか、見切りをつけて辞めるべきなのか。きっと周りは趣味に留めて、選手は諦めろと言うに違いない。それが自分の為なんて思いやりを含ませて。だけど司はそんな言葉を求めているわけではない。
才能があると。努力をしていれば選手になれると。この練習は身になっていると。なんでもいいから、何か一つでも肯定してほしかった。
だが現実はどうだろうか。司の周囲は否定の言葉ばかりを投げ掛けてくる。無理だと、時間の無駄だと、必死に積み重ねてきたこれまでを崩してくるのだ。
電気を消して暗さに慣れた目はうっすらと部屋の輪郭を映す。両手で顔を覆えば完全な暗闇が司を包んだ。不安だけが襲ってくるから何も見たくなかった。手のひらは濡れていた。


変わらず誰にも評価されず、認めもされない日を送っていた。今日も動画を教材に練習をしている。画面向こうで見惚れてしまう演技をしている男の挙動ひとつひとつを凝視する。細かい所は分かりにくいけど、そこは知識で補った。とはいえ、実際にやってみても早々に上手くいくわけはなく、何度も失敗してからようやくコツを掴む。そして安定するまで繰り返した。
さすがの司にも体力に限りがある。疲れてきたのか精度は落ちていき、さっきまで出来ていたことすら危うくなってきたので休憩を入れることにした。
リンクから上がり持ち込んだ水筒で水分を取っていると、誰かの声が耳に入ってきた。

「あんなに必死に練習してどうするんだろうな」
「もう二十でしょ? いい加減現実見た方がいいって言ってあげれば」

会話をしていた相手にとっては純粋な疑問と優しさだったのかもしれないが、司にとっては鋭利な刃物で切りつけられた気分になる。ギュッと目をつぶり持っていた水筒を握り締めて耐える。向こうは何気ない話題だったのだろう。話の内容はもう変わっていた。

今の司にはどこにいても息がしにくかった。
地上も、氷の上すらも。

この後に練習に戻る気力も無くなり、もったいないが今日は切り上げることにした。
スケート靴を脱ぎブレードカバーを付けて顔を上げると、知らぬ間に全身を黒一色で纏めている男が立っていた。次の貸切時間の人が早めに来てしまったのだろうか。室内でもサングラスを付けている男の顔は分からないが、さっさと立ち去るに限る。スケート靴を抱え直して、なんとなく軽く一礼してからリンクを出ようとした。

「君、自分の能力を理解しきれてないね」

まさか話し掛けられるとは思っていなくて、驚きのあまりに足を止める。
「えっと、俺、ですか……?」
「君以外に誰がいるの」
一応司以外にも人はいるが、どうやら相手の眼中には無いようだった。的外れな返答に少々苛立ったのか、向こうの口調が強くなった。余計に困惑してしまう。
「さっき僕のプロを滑ってたよね」
この男はいつからこの場にいたのだろう。確かに動画では分かりにくいから、流しで滑ってみたら分かるかもしれないと、一度プログラムをジャンプの部分は省略して滑ってみた。その時から見ていたのだろうか。形になっているかも分からない、見よう見まねの演技をなぜ。
「……あれ、“僕”?」
ふと男の言葉を振り返り、気付く。男は「僕の」と口にしたことを。あのプログラムの演者は誰だった?
「夜鷹純……?」
緩慢な動作でサングラスを取った男の顔は散々見ていた動画の人物であり、司を氷上の世界に引き寄せた張本人であった。混乱が加速する。なんでこんな所にいるのか、なんで声を掛けてきたのか。なんで、という言葉が頭を埋め尽くす。緊張が押し寄せて口内が一気に乾いた。
「もう一度滑ってみて」
誰も求めなかった司のスケートを、まさか憧れの人に求められるなんて夢か幻かと疑う。突然の出来事で状況を飲み込めないでいるが、二度とない機会に食いつかない理由はない。どもりながらも分かりましたと返事をして、若干震える手でまたスケート靴を履いた。


◆◆◆


この氷の世界に飛び込んでから、初めて奇跡というものを司は掴んだ気がする。
あの日の邂逅から司は夜鷹の元でスケートの練習を続けている。言葉はなくとも間近で生の見本を見れるのは、今まで独りで行ってきた練習とは比にならなかった。
言葉はなくとは言ったが、駄目な箇所はちゃんと指摘してくれるし修正もされた。教えてくれる人が、導いてくれる人がいるとこんなにも違うものなのかと司は感動する。同時に今までの自分がいかにも無駄な時間を過ごしていたのか思い知った。挽回する為にも夜鷹の教えを真綿の如く司は必死に吸収した。

もうひとつ、大いに変わったことがある。
司は今夜鷹の家に住んでいる。というのも夜鷹がコーチになってすぐの頃、司は倒れたことがあった。
医師に診断された結果は栄養失調。そこで司が普段あまり食べていないことが判明したのだ。
体調管理も出来ないの、と夜鷹の呆れた口調に司の血の気は引いた。言い訳をしようと口を開けても、知られた事実を覆せるものは何もなかった。
夜鷹が現役の頃は徹底的な食管理をしていたと記事で読んだことがある。失望されて見限られたらと考えて唇を噛む。そうなっても仕方ない。自業自得であるのだから。夜鷹のため息が聞こえて、びくりと肩を揺らした。
「食事はどうしてたの」
淡々と問いかけられるが司はすぐに答えなかった。いや、答えられなかった。正直に言えばきっと夜鷹は更に呆れるに違いない。黙っている司にもう一度夜鷹がため息をこぼした。
「答えろ」
拒否することは許さないと圧がかった一言に、司は恐る恐る口を開けた。
「……食べようとしてもあまり食べれなくて」
少量ならまだ食べれるが、ある一定の量を越すと戻してしまうのだ。身体が食べ物を必要以上に受け付けないことを白状すると、夜鷹は微かに眉間に皺を寄せた。
「栄養補給として最低限の食事は選手として必要なことだよ」
「……分かってます」
司とて食事をすることの重要さを分かっているし、なんなら原因にも心当たりかある。だが、もしそれが当たっていたなら、自分にはどうしようもない。
「今後気を付けます。今日はすみませんでした」
この場を脱したい司がひとまず話をまとめようとしたが、目付きを鋭くさせた夜鷹は逃げることを許さなかった。それでもいたたまれなさが勝ち、そそくさと立ち去ろうとする。
「どこに行くの」
声を掛けられては無視をしてまで去ることは出来ず、早く帰って休もうかと思ってと、しどろもどろに言葉を紡ぐ。嘘はついてない。休んで、体調を整えて、早く練習をしたいのは本音だ。
夜鷹が一言、何か発してくれれば止めているこの足を動かすのにと考えていると、特に何も言わずに相手の方が歩き始めた。司がぽかんと黒い後ろ姿を眺めていると夜鷹が振り返る。意図が分からず立ち尽くしていると、夜鷹は「早く」と司を呼んだ。
付いてこいということなのだろうか。それ以上は語らずにずっと立ったままだ。
渋々と司が後を付いてくるのを目視した夜鷹は前を向き直して歩みを再開した。
ついて行ったらいつ呼んだのか、タクシーが停まっており、流れのままに乗り込む。
景色がだんだんと見慣れぬ風景になっていき、自分には到底縁がない高層マンションに行き着いた。

黙ってついて行った先はなんと夜鷹純の家だった。

お邪魔します、と呟いて促されるまま中に進めば、乱雑に置かれ積み上げられた段ボールやヒビが入った液晶テレビ、埃をかぶっているグランドピアノが目に入る。テーブルも椅子もない。生活感が全く感じられない部屋だった。かろうじて床に置かれた灰皿に溜まっている吸殻と煙草のにおいだけが住人の存在を示している。
部屋の有り様に思わず夜鷹の方に顔を向ければ、早々に煙草に火をつけていた。ジッポを使う音だけが響く。そして司からの視線に気付いた夜鷹は一度だけ紫煙を吐き出すと傍にあった灰皿に煙草を押し付けた。
「荷物は適当に置いて。浴室はあっち、寝室はそこ」
もしかして体調がよろしくない自分の為に消してくれたのだろうかと考えていると、必要最低限の情報を与えられる。内容的にこのまま泊まれということなのだろうか。
「家にある物は勝手に使って」
なお、返事もせずに困惑して立ち尽くしている司にそれ以上は何も言わず、バルコニーに出ていってしまった。改めて煙草を吸い出した夜鷹を眺めながら、どうすればいいのだろうと司は考える。
ここまでついてきて帰りますとは言いにくい。黙って出ていっても何も言われないかもしれないが、きっともう教えを受けることは出来なくなる。ようやく巡ってきた、蜘蛛の糸のように細い好機を自ら不意にしてしまうのか。僅かな時間でも導いてくれる存在を知ってしまった今、あの一寸先は闇の状況にはもう戻りたくない。もっと、もっと、あの人に教えを乞いたい。
ならば素直に言われたことに従うしかないと、司は抱えていた荷物を足元に置いてかいた汗を流すべく風呂場に向かった。

服を脱いで浴室に入れば、清潔さと広さに驚く。自分の家とは違う構造に戸惑いながらシャワーを浴びた。
ふと目の前にある鏡に目が行く。映されている自分の顔色の悪さに自嘲した。
スケートの基本も独自で学んで正しいかままならないのだから、体調管理くらいはちゃんとしろよと独りごちる。
食事に割り当てる金銭すらもったいない気がして、最低限に済ませていく内にだんだん食べる量が減っていった。加えて先が見えない焦燥感と周囲からの言葉によるストレスで、食事自体を忌避するようになってしまった。
本当ならこの時に気付けば良かったものを、司は体重が軽い分ジャンプがしやすくなるに違いないと、改善を試みようとはしなかった。
フィギュアスケートをするには司の体格は良く、僅かながら身長もまだ伸びていたこともあり、無意識にこれ以上の成長を拒んでいたのも理由のひとつにあったかもしれない。
スケート以外のことは上手くやれていたのに、肝心なスケートに関しては何もかもが上手くいかない。この世界に足を踏み入れたのは間違いだったのだろうか。そう思いたくなくて首を横に振る。
だから現状に必死に食らいつくしかないのだ。見捨てられないように夜鷹の言うことには黙って従おうと心に決めて浴室から出た。

タオルは置いてある物を使ったが着替えのことを忘れていた。仕方なく着ていた服をもう一度着て最初に通された部屋に戻ると、夜鷹は誰かと通話していた。
静かな空間ではその声すら僅かに耳に届く。あまり聞かないようにしながら相槌を打っている夜鷹をぼんやりと眺めていると、司が居ることに気付いて通話を終わらせた。
「今日はもう寝なよ」
「あ、……はい」
肩身狭く寝室に向かえば当然ベッドはひとつしかない。ここで自分がベッドを使ってしまえば、夜鷹はどこで寝るのか。ソファーすらなかった家だ。床しかない。家主を、夜鷹純を、そんな所で寝かせるなんて到底出来ない。
「あの! 俺、床で寝るんで!」
「倒れたくせに床で?」
「だって、俺がベッドで寝たら……夜鷹さんはどこで寝るんですか……?」
言われたことには従うと決めたが、これは話が違うものだ。いくら体調が芳しくないといえ、夜鷹をベッド以外で寝かす方が精神的に負担が大き過ぎて寝れない。なら床で寝た方がまだ睡眠が取れる。
「僕は今から出るし、いつ戻るか分からないから使いなよ」
帰宅時間は不明とはいえ帰ってくるということで、結局は問題解決に結び付いていない。どうすればいいものかと考えていると、夜鷹は脱いでいた上着をまた着用して、そのまま何も言わずに出ていってしまった。
あまりにも自己中心的な行動に理解が及ばないし、いくらなんでも不用心ではないか。一応コーチと生徒(と呼称していいのか)の関係性があるとはいえ、まだ会って間もない人間を自宅に置き去りにするか? 普通はしない。
一人になったことにより緊張の糸が切れたのか、どっと疲れが襲ってくる。とりあえず今日はもう従おう。明日は自分の家に帰ることになるだろうし、今だけ我慢すればと思考を辞めた司は戸惑っていた寝室へ足を踏み入れた。
体格の良い司が入ってもまだ広さがあるベッドは、マットの程良い弾力とシーツの柔らかさで包み込まれるような感覚に陥る。なるほど、アスリートがよく寝具にこだわる理由も分かるかもしれない。司が使っている安い布団とは雲泥の差だ。
だからといって司が心地良く寝れるかといえば、そうでもなかった。ここ最近しっかりと睡眠を取れた記憶があまりない。
寝るのが――夢を見るのが怖かった。夢の中でも司は自分の行いを否定され続ける。足が思うように動かなくなっていき、氷の上をまともに滑られなくなる。足掻いているうちに周りは真っ暗に塗り潰され、そして背後から「もう諦めろ」と自分の声が囁いてくるのだ。
何度も、何度も見る夢は、だんだんと現実と混同していき、司の気持ちを削っていく。
睡眠も食事もろくに取れていないまま、スケートの練習をしていたら倒れるに決まっているよな。頭では理解しているが、もう司自身にはどうにも出来ない所まで進んでいた。
これ以上は何も考えないように瞼を下ろして、ただただ時間が過ぎるのを待つ。目を閉じたからか、シーツに染み付いたほのかに香る煙草の匂いを感じて、少し安心した。


いつの間にか寝ていたのか。浮上した意識は最初ここがどこなのかを認識しなかった。起きたばかりの脳で昨日を振り返ると、迷惑ばかりかけていることに自己嫌悪する。
そういえば結局夜鷹は帰ってきたのだろうか。ベッドから出て部屋を移動すると、バルコニードアを開けてそこに座りながら煙草を吸っている夜鷹がいた。
声を掛けていいものか一瞬考えて、掛けない方が失礼だろと思い直す。
「……おはようございます。えっと、ベッドもありがとうございました」
挨拶とお礼をすれば相手は返事もせずに煙を吐き出している。どういう反応なのか、そもそも聞いているのかどうか。これはもう帰っていいのだろうかと立ち尽くしていたら、夜鷹が煙草の火を消して立ち上がった。緩慢とした歩きで司の前を横切る姿を目で追う。途中で昨日はなかった、折りたたみ式のテーブルが置かれていることに気付いた。
何か扉を開けたような音が微かに聞こえたと思ったら、夜鷹が何かを持って戻ってくる。
(夜鷹純がタッパーを持ってる……)
あまりの似合わない組み合わせにまだ夢の中なのかと司は首を傾げた。夢にしては日常的な光景だ。いや、夜鷹純がタッパーを持っているなんて非日常だろ。
「これ、作ってもらったから食べなよ」
「え?」
驚きのあまり、夜鷹とタッパーを交互にまじまじと見てしまった。動こうとしない司を不思議そうに夜鷹は見ている。
視線で行動を促され、とりあえずテーブルの前に座った。司が座ったのを見て夜鷹もその場に座り、ジッと司を見ている。落ち着かないので見ないでくれませんかとは言えず、目の前に置いてあるタッパーに意識を集中させた。

タッパーの中身はたまご粥だった。

わざわざ胃に優しく消化がいいものを用意してくれたのかと思うと、胸の内がじんわりと温まる。一緒に置かれていたスプーンを手に取り、いただきますと一言、ドロっとしたお粥を口に含んだ。
咀嚼は必要ないけど、なんとなくひと噛みふた噛みしてから飲み込む。――優しい味だった。
そういえば誰かがいる状況で食事をするなんていつぶりだろうと考えて、手が止まる。
なんで忘れてしまっていたのだろうか。誰も望んでいなかった司のスケートを応援してくれてた人がいたことを。高校生の時にお世話になった、お礼を言いそびれてしまった家族のことを。援助をしてくれていたのにうっすらと気付いていたが、向こうは隠していたみたいだったので、つい甘えてしまったことを。
その頃を思い出したら眸から涙が零れた。言葉にせずとも見守ってくれた人達をなんで忘れていたのだろうか。嗚咽を漏らしながら止めていた手を再び動かす。
急に泣き出した司に何も聞かず、夜鷹はただただその姿を見ていた。出したお粥は空になっていた。


涙を拭ってご馳走様でしたと司は手を合わせる。久しぶりにお粥とはいえ、吐き気をもよおすこともなくしっかり食べれた気がした。
しかし、二十歳にもなった男がボロボロと泣きながら食事をするなんて恥ずかしい。何故か目の前にずっと座っている夜鷹はどう思っただろうかとチラッと視線だけで伺う。変わらず無表情のままだったが、司が食べ切り空になったタッパーを一瞥すると目元が若干和らいだ気がした。
「食べ終わったなら寝なよ」
「えっと、ここまでお世話をしていただいて本当に助かりましたけど、そろそろ家に帰ろうかと……」
もちろん家に帰ったら言われた通り寝ますと言えば納得してくれるだろうか。付け足した言葉は効果なく、夜鷹は眉間に皺を寄せた。
「何言ってるの? 君はここに住むんだよ」
「は?」
初耳なんですけど、と目を丸くする。
「君、体調管理もまともに出来ないでしょ」
「いやいや! 確かに今回は倒れてしまいましたが、これからは気を付けますし!」
必死に弁解する司をうらんげな眼差しが突き刺さる。明らかに信じていない。それはそうだろう。気を付けてたらそもそも栄養失調で倒れたりしない。
苛つく態度を隠さずに夜鷹は司の前では吸うのを控えていた煙草に火をつけた。くゆる紫煙により煙草のにおいが辺りに漂う。吐き出す煙は司と逆の方ではあった。
「なら、条件」
「条件……?」
「僕が君に教える為の」
条件を守れないようなら教えないと師事を盾にされ、多少良くなった顔色からサッと血の気が引く。
「簡単なことだよ。僕から教えを乞う間はここに住むこと。それと二年以内に7級に合格すること」
前者はまだしも、加えられたもうひとつの条件は全然簡単なことではありませんが!? と大声でツッコミたい気持ちでいっぱいだったがなんとか堪える。確かに今の司が大会に出るには7級以上でなくてはいけないが、僅か二年で取れるものなのか。小さい頃から始めても6級バッジが取れなくて辞めていく人達が山ほどいるこの世界で。不安や否定を口に出さないように細かに咀嚼してから飲み込み、代わりに別の言葉を口から出した。
「なんで俺なんかにそんな手厚くしてくれるんですか……?」
出会った時からの純粋な疑問だった。
この短期間に一緒にいただけでも夜鷹純はスケート以外のことを煩う節があることが分かる。ましてやこんな独学でスケートの練習していた、まともな滑りも出来てるかどうか分からない男に時間を割くような人ではない。
真意を見逃さないように司は相手を凝視する。だが、夜鷹は質問に答えない。
「条件をのむの? のまないの?」
それどころか自分の問いを被せてきた。傲慢不遜にも程がある。余計なことは聞くなということなのであれば、これ以上聞き返すことも出来ない。
仕方なしに問われた内容に思考を移す。条件をのむことでスケートへの道を諦めずにいられるのなら、そんなの考えるまでもない。目の前の人はきっと嘘などつかない。
「条件をのみます」
これが最後のチャンスだと司はしがみつくことにした。


同居することになり、ある程度の日数を共に過ごした。
余っていた部屋を司の部屋にと宛てがわれたが、その部屋にも段ボールが乱雑に置かれていたので、まず大掃除から始まった。
段ボールを開封して中身を確認して出せる物は出し、置く場所に困る物は段ボールに戻した。その際に分かりやすく分別する。仕分けの最中に金メダルが雑に詰め込まれている段ボールを見つけた時は思わず「ありえない!」と大声を出してしまった。
しかし、メダルの保持者にしまったままにしておいてと言われてしまえば、司は飾りたかったが泣く泣く箱に戻した。
その間にリビングにはちゃんとしたテーブルと二人で座ってもゆとりがある大きなソファが置かれた。ヒビが入っていたテレビも買い換えた。
キッチンに関してはコップや皿が増えた。一応調理器具も揃っているが、基本的に食事は司の栄養面を優先に考えて配達を利用している。
体調も回復してからは練習に明け暮れた。以前とは違い、導いてくれる人がいることの心強さと幸福を噛み締める。
クラブもどう話をつけたのか。鴗鳥慎一郎がヘッドコーチを務める名港ウィンドFSCに所属することになった。バッジ試験を受けるための名前だけの在籍ではあるが。
あんなに苦しんでいた六年間が嘘のようにトントン拍子に進んでいく。それが逆に怖かった。あまりにも都合が良過ぎて夢なのではないかと疑う。だとしたらもっと深みに落ちてしまう前に目覚めてくれ。すでに隣に夜鷹がいない世界は考えられないのに願ってしまう。

これが本当に夢だとしたら。
目が覚めた時に独りだとしたら。
絶望してもうスケートは出来なくなるに違いないのに。


◆◆◆


彼から感じる執念が、夜鷹の中で衝動と呼ぶものと通じるものがあった。
拙い滑りだ。スケーティングも荒削り。きっとジャンプは飛べない。それでも動画を見て、滑走している誰かを見て、何かを確認した後にまた滑り出せば、僅かに修正されている。
同じ眸を持っているのではないかと当たりをつけるが、活かしきれない才能は才能とは到底呼べない。
耳に入ってくる会話は不快なものであった。年齢を理由に淘汰されそうになっている。能力を理解すれば、あとは本人次第でもあるが、夜鷹とは違い氷上の世界に留まれるかもしれないのに。
糧になるものはなんでも食らうという気迫を感じる。鬼気迫る表情は焦りとも取れた。道を見失い、がむしゃらに進む姿を哀れだと思う。
彼も自分の何かを犠牲にして、今もなお焚べているのだろう。しかし結果には結びつかずに燃え尽きようとしている。結果を証明出来なければ無意味だと見切りをつけて踵を返そうとした瞬間、彼はポーズを取り滑り始めた。
一瞬にして変わった雰囲気に囚われる。驚くことに振り付けも表情も身に覚えがある。
当たり前だ、彼が踊っているのは自分のプログラムなのだから。

技術などない形だけの模造だったが、何故か目を引くものがあった。

滑り終えて息を整えながらリングサイドに戻り、息を整えながら水分を取っていた彼の顔が歪む。何かを堪えるように水筒を強く握っていた。
夜鷹自身、どうしてそんな考えが浮かんだのか分からない。彼が見せた氷の世界への執念に引き寄せられたのかもしれない。もう帰ろうとしている男の元に近付き、「君」と声を掛けていた。

最初は気まぐれだったかもしれない。
教えてもいいと言ったのは夜鷹だが、教え方なんて分からなかった。自分はコーチという存在を必要とせずに、アドバイスを素直に受け取ることが少なかったから。
だから、とにかく夜鷹は見せた。スケーティングを、エレメンツを、ジャンプを見せ続けた。まさかこんなことで氷の上に戻るなんて考えてもなかった。
ひやりとした空気が肺を満たす。流れる光景は線に変わる。足元に図形を描く。久しぶりに息をまともに吸えた気がした。

ある日、司の顔色が普段と比べて悪く見えた。体調でも崩したのかと観察していたら、ふらりと司の体は傾き倒れた。
呼び掛けても反応がなく、たまたま夜勤で残っていたスタッフが二人の様子に気付き、救急車を手配してくれた。
病院に運ばれて下された診断結果は栄養失調と睡眠不足。点滴を打ってしばらくしたら目が覚めると言われ、胸を撫で下ろした。と、同時に体調管理も出来ないことに呆れていれば、寝ている司が小さく呻きだした。閉じている瞼から涙も零れて、何かうわ言を言っている。
ベッドの端に腰掛けて司の目に被さっている前髪を軽く払い、流れる涙を指で拭ってみたが次々と溢れて来る為、止めることは出来なかった。

目が覚めた司から事情をきくやいなや、家に連れて帰り風呂に入れている間に、唯一の友人である慎一郎に連絡をした。
栄養失調で倒れた子がいる。食事をあまり受け付けないみたい。夜鷹はそれだけ話すと電話向こうでも相手が驚いたのが分かったが、深くは追求してこなかった。
慎一郎のクラブでも成長を厭う子が同じ症状に苛んだことがあると、経験談から夜鷹に助言をする。
『とりあえず食べれそうな物を作るから取りに来れるかい?』
柔和な物言いで提案してくれる相手に感謝をしつつ、今から向かうと答えた。

慎一郎の協力もあって、まだ食べることを疎むけれど、司の体調は練習が出来るほどまでには回復した。
少しでも遅れを取り戻すように司はがむしゃらに練習に励む。明らかに過度の練習だと思う時もあるが、夜鷹はあえて止めなかった。さすがにこれ以上は怪我をするような状態に見えた時は止めたが。
全てを犠牲にして、焚べて、燃えるような執念を宿して、氷の上で生きようと足掻いている司を眺める。

明浦路司の存在を世界に証明するために、自分すら焚べてみせろと夜鷹は柄にもなく思った。


◆◆◆


二年の月日はあっという間だった。
バッジ試験を受ける毎に司は注目を浴びた。細身ではあるが高身長の司はとにかく目立ったし、その年齢に驚かれ、極めつけがコーチがあの夜鷹純だという。
全てが異例であった司はフィギュアスケート界はもちろん、メディアからも好奇の視線を向けられた。

誰からも見向きされなかった頃が嘘のようだ。

良くも悪くも注目の的である司は無事に7級バッジを獲得し、大会に出場することが出来た。
「明浦路司」の名前がアナウンスされる。ここで勝ちを証明出来なければ、夜鷹に見限られてしまうと考えると怖かった。目をギュッとつぶって心を安定させようとする司にリングサイドから夜鷹が声を掛けた。
「司、いつものように滑ればいいだけの話だよ」
それが難しい世界だというのに、夜鷹は当たり前のように話す。さすが出場した大会で全て金メダルを獲った男だ。メンタルが強い。
普段通りの夜鷹を見たら、司の強ばりも少し取れた。
「あの、夜鷹さん。お願いがあるんですけど」
「なに?」
「手を……俺に伸ばしてくれませんか……?」
司の願いに首を傾げながら、望まれたように手を伸ばす。そう、この手だ。独りだった司を見つけてここまで導いてくれた司の希望。恐る恐ると夜鷹の手を掴むと自分の額に軽く当てる。その姿は信仰者が神に祈る姿にも見えた。
「見ていてください。俺は貴方が見てくれるなら勝てる」
ゆっくりと手を離して顔を上げる。夜鷹を見つめて、自分に言い聞かせるように宣言をした。

「司しか見てないよ」

ふっと口元を僅かに緩ませ、司が何よりも欲した言葉を夜鷹は口にした。

コメント

  • 7月18日
  • 夜猫
    2025年5月24日
  • Lilith
    2025年5月24日
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