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司少年と引退後の夜鷹純がたまたま出会うだけ/詩人に口無しの小説

司少年と引退後の夜鷹純がたまたま出会うだけ

10,326文字20分

師弟if よだ+つか

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 氷の上に初めて乗ったのは十四歳のときだった。フィギュアスケートという競技を正しくそれと認識したのが中学生のときで、そこから始めるなんぞ、馬鹿げた話であるらしい。胸中に燃ゆる希望を抱いて向かった先のクラブではにべもなく拒絶を突きつけられ、探したって探したってどこにも自身を受け入れてくれる場所は存在しなかった。そこで、彼は自身の現状をようやっと身に沁みて理解したのだった。誰も応援してくれない暗闇に立っているのである。
 全日本や世界選手権、オリンピックに出場するようなフィギュアスケート選手のほとんどは、五歳あたりから競技人生をスタートさせていることからもわかるように、フィギュアスケートにおいて幼少からの経験は基本である。小学校の低学年までには始めていなければ早くも出遅れ組となり、よほどの才覚と運でもなければ幼稚園から習っている選手たちとのあいだに聳え立つ高い壁を前には無力、どうしようもない。その差は並大抵の努力で埋められるものではないうえ、スケートでは努力以外にも結果を左右する要素がいくつもある……相応の年齢に始めることができなかった時点で、必要な運を持ち合わせていない、などとまことしやかに囁かれることだってしばしば。
 ひどく費用がかさばる競技で、経済的に恵まれた家庭でなければ金銭的な支出を賄うことは困難である。スケート靴の購入費をはじめとして練習着や衣装、大会の参加費、遠征費、日々の練習のためのリンクの利用費、数え上げればキリがなく、とにかくカネがかかるのは有名な話だった。
 しかしそれらは前提である。保護者からの支援が望めなければ、子どものうちからフィギュアスケートに打ち込むことなんてできやしない。多くの習い事に同じことが言えるが、フィギュアスケートはことさらそれが顕著である。彼の家庭はお世辞にも裕福とは言えず、スケートなんて莫大な費用のかかるうえ、怪我のリスクも大きい習い事をさせることなど、考慮にすら上らない。論外である。ただでさえ子ども全員の教育費を捻出するだけカツカツである、塾の費用は出してあげるから、どうかフィギュアスケートはやめてくれ、と彼の両親は困りきっていた。なぜ息子が突然スケートなんぞやりたいと言い出すのかわからない。そろそろ高校受験も目前だ、まだ楽器でもやりたいと言われたほうが許容も理解もできる。スケートの選手になってオリンピックに出たいわけでもあるまいに。そもそも今から始めたところで、もっと早くに始めている子らがそれこそ世に山ほどいるだろう。スケートなんて将来性のないことは思いとどまってくれ。一時の気の迷いだよ……。
 と、両親はそんな調子であるし、学校の担任もまア似たようなものだった。進路面談でフィギュアスケートをやりたいんですと口火を切った司に担任は「趣味で? いいね、明浦路くん運動神経すごくいいもんねえ。受験のいい息抜きにもなりそうだね」とニコニコフワフワ微笑んだ。優しいひとだった。頭のよろしいひとだった。責任感が強くって無責任はことは口にしない教師だったから、わかる。誰もはなから司に期待などしない。「いや、本気でやりたいんです……」担任は困惑の色を瞳に浮かべた。「それって……選手になりたいの?」「……はい」
「うーん」
 曖昧な微笑みだ。
「あんまり詳しいわけじゃないけど、フィギュアスケートって、選手になるためにはうんと小さなころから始めなきゃいけない……んだよね?」
 知っているとも。
「先生も、明浦路くんの夢を応援したいと思ってる。でも、それは厳しいと思う」
 生徒思いで、誰よりも教師たらんとする、職業倫理のしっかりした人。司のために、わざとハッキリ言っているんだろう、と頭の理性的なところで理解している。
「明浦路くん、成績だっていいし上位の高校を狙えるんだから、将来のことを考えたら、後悔のないように今は勉強に集中するほうがいいと思うの。もっといろんなことに目を向けてみるといいんじゃないかな。フィギュアスケート以外に熱中できるものが案外すぐ見つかるかもしれないよ」
 わかっているんです。
 でもダメなんです。スケートじゃなきゃダメなんです。

 どれほど氷の上に焦がれたとて、司の夢を真剣に応援してくれる大人はどこにもいなかった。
「無理だよ、無理。君、自分をいくつだと思ってるんだ」「今からはさすがに……しょうがないね……可哀想に」「金と時間が無駄になるだけだよ、やめな」「ああ……あと五年くらい早ければまだ、ねえ」
 くすくす笑い。憐憫。嘲笑。呆れ。
 うるさい。うるさい。うるさい!
「俺じゃダメなのかよ。氷の上に立つ資格すらないのかよ……なんでなんだよ……」
 否定の言葉を耳にタコができるほど聞いた。一つ一つ、全部それが義務だとでもいうように彼の心のやわっこい部分に擦り傷をつけていく。
 もう遅いよ、と大人は時に諭し、時に嘲る。現実の見えていない子どもの夢見がちな思考を矯正するのが使命だとでも言わんばかりに、彼らは司少年の夢を否定するのである。逆光になった黒いかんばせ、そこに浮かぶ三日月に歪んだ唇が、古びたラジオのようにガサガサとした音を立てる……。意味がない、無駄だ、やめなさい、愚かな……。
 司は目をつぶる。首を振る。
 聞きたくない。聞きたくなかったから、耳を塞ぐように、雑音から逃れるように彼は動画を再生する。借り物のパソコンだからすぐに返却しなければならず、彼は一秒一秒逃さまいと食い入るように画面に見入っていた。
 つま先から指先まで体の動きがうつくしい。踊るように軽やかで繊細なステップ、ピンと背筋に針金が通っていそうなくらいにまっすぐなスピン、力強くて重力なんかちっとも感じさせやしないジャンプ。
 黒い衣装に縫い付けられたスパンコールがぎらぎらと輝いていた。
 真っ黒な全身で、画面越しにこちらを射抜く一対の金がいっとう輝かしかった。
 実況が興奮抑えきらぬ声で点数速報を読み上げる。熱狂する観客の歓声。宝石のようなまなこ、王者の貫禄。
 この人のようになりたかった。雷にも似た衝撃で、足元がガラガラと崩れ、心臓は激しく波打ち、世界が一変する。
 あの強烈な光をただ追う一心で、司少年はガムシャラに自主練習に打ち込んでいる。だって誰も教えてくれないので。
 周りの制止も忠告も何もかも全部振り払って彼は一歩を踏み出した。両親には事実をひた隠しにして、参考書を買いたいからと言って小遣いをもらい、自習室に行くと言って何度かリンクに行った。
 鼻腔と皮膚とを冷たい空気が柔らかく撫でる。あちこちから響く氷を削る音、キラキラと飛沫みたいに舞い上がる氷の粒が綺麗だった。夢にも見た場所だった。彼の体温は常人よりも一度や二度高いからちっとも寒さなんか感じなかった。きっとここが自分の居場所なんだって、そう思いたかった。
 司少年はぎゅっと唇を噛み締めた。往復の交通費とリンクの利用料で千円札が三枚は飛ぶ。加えて自前のスケート靴はないため貸し出し用のものを借りなければならない。その費用だってバカにならない。一秒だって無駄にはできなかった。
 怪しまれてはいけないから、当然リンクに行ける日は制限される。月に二度や三度来れればよろしいほうだ。そう頻繁に参考書は買うものでもないし、兄だってなるべく中古のものを買ったり部活の先輩から譲り受けたりしていた。司ばかり金を浪費していると思われてもいかない。中学生は労働が法律で禁止されているので、バイトをするわけにもいかなかった。早く高校生になってバイトを始めたかった。嘘をついている罪悪感が彼の良心をチクチクと刺したが、それでも、胸に滔々と湧き起こる憧憬はどうしようもなかった。
 勉強していると嘘をついている手前、成績を下げるような真似はできぬ。学校にいるあいだは今までにないほど授業に集中せねばならず、司少年は塾に通わないことにしていたから、定期考査に手は抜けない。友だち付き合いもほどほどにしなければ疑われる。彼は自分の夢が誰からも馬鹿にされて、誰からも応援して守らないことをしかと理解していたから、もはや誰かに打ち明けようとも思わない。絶対に暴かれてはならない秘密だった。図書館で借りた本を何冊も読み込んで、DVDを借りて動画を何度も何度も再生した。あの人の演技を、瞼を閉じてなお脳裏に思い浮かべることができる。払った費用以上に得るものを、一つ残らず手繰り寄せてから帰らなければならない。
 生まれて初めて踏みしめた氷の上は、想像以上に不安定だった。滑るどころが、まっすぐ立つことも儘ならない。彼は手すりに掴まりながら、一歩一歩恐る恐る前進した。本に書いてあることは暗記するほど読み込んだ、コツはわかる、何度も何度もイメージした。それでもイメージと現実のすり合わせは、実際にリンクに来なければできなかったから、彼は目の前が真っ暗になるような心地になる。何度だって陸で練習した。しかしそれは、氷の上とじゃあワケが違うのである。
 手すりに頼らずとも滑れるようになった。氷上でひょうたんができるようになった。バックのひょうたんができるようになった。T字のストップができるようになった。
 一つずつ基本のエレメンツができるようになって、それからは見様見真似で振り付けを真似した。何度も繰り返せばなんとなく形になっている気はした。ゼエゼエハアハアと肩で息をして膝に両手をついて俯く。息を整える己の必死な顔が氷の向こうからこちらを見つめている。この後は? 何をすればいいんだ。体力がついてこない。陸上トレーニングの仕方を本で調べて手当たり次第取り組んでいるけれども、成果がイマイチわからないのだった。これは正しい努力なのか? 回り道をしているのか? コーチがいれば、アドバイスしてくれる人がいれば、アスリートになるためには栄養だて考えて食事を摂らなければならないのに、司少年の家では食事にありつけるだけで限界なのだった。誰も見てくれない。俺は誰に確認して貰えばいい。誰も俺を見てくれないのに、こんなことをして意味はあるんだろうか。
 彼の毎日には常に、そうした悩みが付き纏っていた。五歳前後あたりからフィギュアスケートを始められる子どもたちが羨ましい。裕福な家の子どもが妬ましい。なんで俺は、と思考が及ぶたんびに劣等感と自己嫌悪で死にそうになる。
 心の中に生じる焦りと不安に目を向けないふりをして、現実逃避のようにひたすらに練習に打ち込んだ。リンクに行けない日(たいていがそうだったが)は、日の落ちた河川敷や、ひと気の少ない公園で一人教本と睨めっこをする。誰にも見つからたくなかった。どうせ馬鹿にされて嘲笑われるのだと諦めていたからであった。誰にも迷惑なんか掛けてやしないのに、何故かようにひどい言葉ばかり浴びせられなければならなのか悔しくてならなかった。俺がもう十四で、家が貧しくて、運がないから、全部駄目らしい。馬鹿馬鹿しい。己を否定する大人も、それにいちいち傷ついている自分も、それでもなお未練がましく夢にしがみついている愚かな自分が何より馬鹿馬鹿しい。
 録画できるようなカメラや電子機器は司少年の家じゃそこにかける予算はないので当然持っていない。体がすべて映るような鏡だってない。自分の感覚頼りに動きを修正するしかないのである。
 汗水垂らして、時には涙を滲ませて、耳の奥がじんじんと痛くって、鼻の奥にツンとした感覚がやってくるたんび彼は唇をキツく噛んで耐えた。俺はきっと馬鹿なことをしているんだろう。やめられなかった。やめたくなかった。諦めたくなかった。彼の根っこにあるのは、あの日偶然テレビで見たあの演技への途轍もない憧憬だったが、司少年の脳はブチブチに焼かれ、修正できないトコまで魅了されてしまったのである。寝ても起きても考えることはフィギュアスケートのことだった。俺はスケートがしたい。自身にかような情熱があるとは思わなかったほどに彼はこの競技にのめり込んでいった。そうして熱中するほどに自分の境遇の恵まれなさを痛感させられるのである。
 これは合っているのか。上手くなるにはあと何をすればいいんだ。本に書いてあることを全部やったって、まだまだ全然足りないんだろう。だってコーチはきっと本に書いてあること以外もたくさん生徒に教えるんだろう。
 俺はこれから何をしたらいい。スケートがしたいのに。
 フィギュアの選手になりたいんだ。あの人みたいに滑りたいんだ。
 司少年は蹲る。「スケートがしたいんだ……」悲痛な声だった。誰も彼の声なんか聞いちゃいなかった。声はどこにも届かない。だってそこは誰もいない公園だった。喉の奥のほうがキュウッと閉まった。彼は嗚咽を必死に殺す。

 高校生になった司少年はすぐさまバイトを始めた。自分でなけなしの金を稼ぎ、リンクへ行くために全部使い切るの繰り返しだった。貯金できるほどの余裕はなく、自前の靴は買えずにいる。そもそも買ったところで置く場所もないのだが。
 リンクに通う頻度が増えるほど、実際に滑っている人たちを見る機会も時間も多くなる。一般開放されている時間じゃあほとんど一般客で混雑しているが、たまに選手らしき人たちと同じ時間に滑れることもあった。彼はそうしたチャンスを何一つ逃さなかった。選手はわかりやすい、服装も佇まいもまるで違うのである。
 どうやったら上手くステップが踏めるのか。エッジの使い方、膝の曲げる角度、体の重心はどこに置いている? 腕の曲げる方向、動きの速さ。目線はどこを向いているか。本物のジャンプの音を聞いたとき、彼の耳元で心音が大きく鳴った。息ができなかった。
 陸上ではシングルもダブルもどうにか跳べるようになっていたが、氷上で挑戦する勇気はまだ持てなかった。しかしジャンプは本来氷の上でするものである。避けては通れない関門だ。彼はじっくりと観察に徹した。教えてくれる人間がいないならば、見て技術を盗め。見たパフォーマンスを瞬時に分析し言語化することに彼はメチャクチャ長けていた。フィギュアスケートの経験者から見えば、彼の脅威的な成長スピードはきっと信じがたいものだろう。ましてや、まったくの独学なのである。
 しかし彼の心の中にはいつだって孤独と苦悩が巣食っていた。彼を褒めてくれる存在は当たり前にいない。自身の技術に関しては恐ろしいほどに冷静で客観的であるが、己の成長への客観的な視点を失したまま、ついぞそれを得ることは叶わないのである。
 何を練習したら、あの人のように滑れるようになる?
 俺がしているこの自己流の練習で大丈夫なのか?
 本当に、あんなふうになれるのか?
 俺には才能はあるのか?
 ――なあ。教えてくれ。誰でもいいから。誰か俺に教えてくれよ。
 次は何をすればいい? 彼はそれをすべて自分の頭で考えなければならなかった。左と、右と、前と、どっちへ進めばいい。いつか、行き止まりにブチ当たるのが怖い。そもそも、本当に出口なんかあるのか。ゴールの存在すらあやふやなまま、迷路のなかで一人で迷い込んでいる気分だった。ずっと。ずっとそうだった。

 その時分、彼は十七になるころだった。
 衝撃的な邂逅から三年、高校生活も半ば、今度こそ進路選択が迫ってきている。高校は、リンクへの通いやすさのみを重視して選んだ公立だった。担任からはもっと偏差値の高い県立を受験することを薦められたが、大学進学実績こそ輝かしいものの、通学には片道で一時間半かかるため、遠慮させてもらった。周りのレベルが高いなら、いくら器用にやったところで落ちこぼれるのは免れないだろう。彼は真面目に大学受験をするつもりがすでになかった。勉強をするモチベーションはただ親に怪しまれたくないのみに由来したし、高校受験に並行しての自主練習は正直なところかなりキツかったのである。高校ではバイトも加わるのだ、ハードなマルチタスクをこなせる自信が司少年にはなかった。挑戦しないなんてもったいない、と惜しまれたが、司少年にとって大学進学はさほど現実味を帯びてもいなかったし、魅力的にも映らなかった。むしろフィギュアスケートの邪魔になるだけだった。
 三年の時を経て、彼の技術は独学にしては驚くほど進化を遂げていた。しかし所詮は独学の範囲だ。正式なクラブに所属し、名だたるコーチから指導を受けている同年代の選手に比べればやはり未だ技術の面で差の開きは依然としてある。
 司少年はその日も、いつもの寂れた公園で一人練習していた。曰くつきのスポットらしく、人があんまり寄り付かないのだが、彼にとっては格好の練習場だった。生憎と幽霊といった類はエンタメとしてならまだしも、信じるタチじゃあない。周りを鬱蒼とした樹木で囲まれているわけでもなく、道路が見える程度には視界は開けていることだし、安全面はさほど心配せずともよろしかろう。それに、彼自身体格には比較的恵まれている(栄養をしっかり摂れないからか筋肉はなかなかつかないが)し、不審な人が近づいてくれば逃げられるだろう……とそんな具合である。
 リンクの貸切練習が始まっているであろう時間帯、彼はぐっぐっと体を伸ばし、準備運動をする。瞼を閉じれば脳内に一音違わずそのまま、あの音源が流れる。だって何遍も繰り返して聴いたのだった。彼は最初のポーズを取る。ざ、と靴底と地面の砂が擦れる。地上での模倣にどれほどの価値があるだろうか。現役で戦っている選手たちからしてみれば、素人の道楽にしか見えないだろう。一笑に付されて後ろ指を指されるかもしれない。コーチに師事すらできていないくせに、目標だけは一丁前だ――。鳴り響く壮大な交響曲に合わせて、司少年は体をしならせる。
 遊戯でしかなくても、意味なんてなくたって、しかしこの時だけは、あらゆるしがらみを何もかも忘れることができた。氷の上、線になる景色、頬を走る冷風、燃えるばかりに熱い指先。まざまざと想像できる。空想と現実がやがて一体になる。
 踊る。鳥みたいに踊る。羽みたいに踊る。跳べ。
 一緒に踊りたい。あの人と同じ景色が見たい。秒送りで再生できるあの人の動きをそっくりそのまま追う。その指先を追いかける。視線、表情、円を描くつま先の動き。それは彼の才能だった。彼はその才能に自覚的だったが、コップからとっくに溢れ出た劣等感は彼に才能を誇ることを許さなかった。
 全部から自由になりたい。これ以外何もいらない。
 楽しい。楽しい。楽しい!
 フィニッシュのポーズ。両手を伸ばして、最後は微笑むのだ。
 息が上がる。肺が燃えるように熱い。
「……はあ」
 ぽっかりと穴が空いたように、月が浮かんでいる。今夜は満月だった。まぶしいな、と思った。
 一気に襲ってくるのは脱力感だった。俺、何やってンだろうなあ。大学だか専門だかに行って、就職して、稼いで、そのうち結婚でもして子をこさえて……その軌道に乗れば誰からも非難されないだろう。「そうしたら幸せになれるわ」それは幸せなんだろうか? このころ彼は幸せについて考えている。
 両親は己にそうした生き方を望んでいるし、彼がそうすることをきっと疑ってもいない、だがしかし彼はそれを幸福だとは感じることができなかった。否定するつもりなのではない。ただ……ただ、この馬鹿げた夢を追っていたいだけなのだった。みっともなくしがみついていたっていい。許されてほしかった。氷の上で生きたい。誰も望まないのに。誰も望まない道を突き進んで幸せになれるだろうか? いつも苦しいのに? でもそれなら俺は、幸福になるためにフィギュアスケートをやっているのか? 違うはずだ。
「ねえ」
 上を見上げていたから、人影が近づいてくるのに気がつかなかった。ここはあまり人が来ないのに……。司少年は疑念と不審を抱いて警戒するようにそちらを見た。見て、ウワと冷や汗をかく。全身黒に包まれた長身痩躯が淡い街灯に照らされてにゅっと伸びていた。かろうじて垣間見える白いかんばせもそのほとんどがサングラスとマスクに覆われている。ご丁寧にマスクまでしっかり黒である。見るからに怪しい。司少年は一歩後退り、周囲をそれとなく確認した。ベンチに置いていた鞄の取手を持つ。ヤバそうだったらダッシュして逃げよう、と彼は心算を立てた。
「……なんですか」
 ここで返事をするあたり、生まれつきの善良さ(それとも間抜けさか?)が垣間見える。
「君、なんでこんなところで踊ってるの」
「え。なんでって……別に……」
「クラブはどこ? コーチ誰?」
 男が矢継ぎ早に質問を重ねる。司少年は狼狽え、もごもごと回答する。クラブにコーチ、まさかフィギュアスケートのことを言っているのだろうか。いや、そんなまさか……。
「や、別にどこにもクラブには入ってないんですけど……コーチもいないです」
 彼は言いながら恥ずかしくなる。自己満足でしかない踊りを見られたという実感が、羞恥心を伴ってじわじわと喉元を締めあげる。
「ふうん。じゃあちょうどいいか、面倒くさい手続きしなくていいし」ボソボソとした喋り口だが、どうしてか耳を澄ませさせられている気がしてならない。妙な圧がある男である。不審であることに変わりはないが。
「すみません、俺、もう帰るトコなんで……」
 抜けたところのある司少年といえど、この状況があんまりよろしくないことはしっかり把握していた。いくら彼に柔道の心得があると言ったって、目の前の男は彼よりずいぶん背丈も高く、正直勝算はさほど見えぬ。クラブとかコーチとか気になることを言っているけれども、なんかチョットまともな大人にも見えないなあ(まともな大人ならこんな絡み方をしてこないからである)と彼はド直球に思い、たぶんこの場を離れたいいンだろうなとひそかに思案し、さあ走るぞと鞄を持ち上げた瞬間だった。
「僕がコーチしてあげる」
 男は悠々と衝撃的な科白をのたまった。ハ? と司少年は片足を踏み出そうとした姿勢のまんま急停止することになりつんのめった。地面とキスしなくて済んだのは彼の持ち前の運動神経と、ここが陸上であるからだろう。氷上だったら鼻を骨折くらいはしてしまったかもしれない。
「いや、なんのコーチ……」
 息も絶え絶えだ。そんな都合のいいことがあるわけがない、と心中で否定する。期待したって、意味なんかないから。期待して、裏切られるのはもう嫌だったから。
「フィギュアスケートだよ。他に何があるの?」
「――え」
 息が上手く吸えない。こんなことがあっていいのか。
 期待してもいいのか?
「君、スケートやりたいんでしょ。だからそのプログラムの練習をしてた。違う?」
「なんで……」
「見ればわかるよ。スケートは陸じゃなくて氷の上でやるものだけど」
 男はコートのポケットから煙草の箱を取り出し、片手で器用に中身を一本取り出す。もう片方の手にはいつの間にかライターが握られており、煙草を咥えようとしたのだろう、しかし彼はマスクをしたままということを失念していたふうに一瞬固まった。……。……。目の前の男が不審者であることは忘れて司少年は生ぬるい気分になり、男は舌打ちを一つして煙草を流れるように地面に投げ捨て、革靴の底ですり潰したので司少年はマジかコイツと思い我に返った。ヤベエ奴じゃん、と警戒ゲージがみるみる溜まる。
「おいで」
 いや何この流れでナチュラルに誘拐しようとしてンだ。
「知らない人にはついていっちゃいけないって教わってんで……」一歩ずつ後ずさる。山で熊に遭遇した心地であった。
「……知らない人?」
 男がゆるく首を傾げた。本気で不思議がっているような声音だった。
「知ってるでしょ。そのプログラム、僕のなのに?」
「ハ? 僕の……?」
 男は人差し指でマスクを下にずらし、サングラスをとった。まっすぐな鼻梁、薄い唇、冬の空に浮かぶ月のような瞳が露わになり、司少年はギョッと目を見張る。見慣れた試合時の姿と異なって前髪は下ろされているけれども、その氷のようなかんばせを見違えることはあり得ない。何度だって観た、もう網膜に刻み込まれている。
 嘘だろ。
「夜鷹純……? 本人……?」
「本人だよ」
「本当に……?」
「そうだって言ってるでしょ。しつこいよ」
 煩わしげに彼は前髪を掻き上げ、眉根を寄せた。
「し、信じられない……」
「信じられないなら、僕が滑るとこ見ればいい」
「……エ!?」
「おいで」二度目である。
「な、なんで……」
 要は信じられなかったのである。運が決定的に欠如し、それを自覚して生きてきたから、こんな恐ろしいほどの幸運が、他の誰でもなく己の身に降ったことがまるで信じられなかった。
「そもそもあなたは、なんでこんなところにいるんですか」
 スッカリ混乱している。彼は頭の回転は人並みに速いほうだと自負しているが、脳の回路はショートしちまったらしい。長年信仰にも似た憧憬をじっくりコトコト煮込んできたワケなので、まあ致し方ないだろう。
「たまたまだよ。というか、来るの、来ないの、どっち。これ以上面倒な問答はさせないで」
「い、行く」
 偶然だと夜鷹は言う。
 君は今日、運命の女神に見初められたんだよ。

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