「社会そのものがデザインでできている」――クリエイター・佐藤可士和の整理し続ける人生
藝大を目指して2浪し、多摩美術大学に進学した。 「速攻で受かると思っていたら、全くダメで。ショックでしたが、向いていないとは思わなかったです。僕らの頃は受験生の数が多くて定員は今と変わらないので、今より少し倍率も高かったんですね。でも、クリエイティブや絵に対する思いは変わらないし、どんどん面白くなっていく。そもそも受験のシステムが間違っているんだとか、俺を採らない時点で外しているなとか、思っていました(笑)」 美大では、バンド活動に寝食を忘れるほど夢中になる。 「作曲が面白くて、クリエイティブの原点になっています。習っていないのになぜできるのだろうと思った時に、絵を描くのと同じプロセスでやっているなと。絵は理論的にも教わっているから、そのロジックを音楽に当てはめて。画面構成がこうで、ここに見せ場があって、この色を目立たせるために補色があって……というのを音でやっていたんです。『絵を描くみたいにやれば、他のクリエイションもできるかも』と気づきました」 音楽で食べていくことも頭をよぎったが、絵のほうへと戻った。 「ギターが下手で、パフォーマンスがダメだと思い知って。自分のイメージ通りに表現できないんです。でも、絵だとできる。憧れていることと向いていることって違うのかもな、と」
在学中はヨーロッパの各地やニューヨークを旅して、現代アートシーンにも刺激を受けた。 「その頃は日本にあまりギャラリーもなく、こういう表現をする場がないなと思いました。当時は80年代で、広告の黄金期。広告は、マスメディアや社会をキャンバスにできる表現活動だと思ったんです」
いち早くMac導入も「かっこつけててかっこ悪い」
そうして広告代理店の博報堂に入社したものの、実際の仕事は想像と違った。 「当たり前なんですけど、ビジネスで。『商品の売り上げを上げるためにやるんだ』と。『新しい意味を社会に提示する仕事じゃないの?』と言ったら、『いや、競合プレゼンに勝つんだよ』みたいな、もっとリアリティーのある話でした。でも、そうじゃないはずだ、とも信じていて。当時、アートディレクターの大貫卓也さんが博報堂にいて、大貫さんに憧れて入ったんです。そういう新しい意味を作っている先輩たちがいましたから」 大貫はとしまえんの「プール冷えてます」、日清食品の「hungry?」など、次々と話題作を世に送り出していた。大貫のように新しい意味を作る仕事をしたかったが、「めちゃくちゃ難しかった。全然できなかった」と振り返る。 1年目に大阪へ転勤。慣れない場所で友達も少なく、発売されてまだ数年だったMacを購入する。 「給料と冬のボーナスを注ぎ込みました。銀行口座に2000円くらいしかなくなって、同期にお金を借りたりして。夢のマシンが手に入ったと思って、毎晩一人でMacにのめり込んでいました。それまでは色やフォントを変えたことをリアルタイムで確認できなかったんです」