自説訂正:「奈良尺」は存在した―藤原京と「(本)薬師寺」のコンセプト―
自説訂正:「奈良尺」は存在した
―藤原京と「(本)薬師寺」のコンセプト―[度量衡][論理の赴くところ][妄想]
【おしらせ】
第1図 藤原京域の復元諸説(『大宰府への道』〔注4〕p.161より)は、書籍を撮影しWB(ホワイトバランス)が悪くて見づらいため 、縮小して、第1図 藤原京復元図(森郁夫「古代寺院研究上の問題点」P.125より)を追加しました。どちらもクリックで拡大できます。【おしらせ】終わり。
私は以前、このブログで まぼろしの創造古代尺 ―「奈良尺」も無かった―という記事を掲載しましたが、無知によるものでしたので、ここに訂正いたします。「奈良尺」は実在しました。
「奈良尺」は、物差しの実物が存在していました。六九四年に築造されたとされる藤原宮の推定造営尺で「一尺29.5cm」でモノサシが出土〔注1〕していました。そして、この尺度で「薬師寺」が造営されています〔注2〕。また、この尺度は七世紀中頃以降とされる難波京条坊29.49cm〔注1参照〕と同一と思われます〔注3〕。
さて、自説を訂正したところで(転んでもただでは起きない(笑))、藤原京と「(本)薬師寺」のコンセプトについて妄想してみました。
藤原京の京域には諸説があるようです。
第1図 藤原京域の復元諸説(『大宰府への道』〔注4〕p.161より)
第1図 藤原京復元図(森郁夫「古代寺院研究上の問題点」P.125より)
上図の「★京極確認地点」をご覧ください。左右(東西)の地点はともに「十坊大路」にあります。ですから、西の京極はKL、東の京極はNMのラインまでとなっているはずです(ここで「小澤毅・中村太一説」以外すべて脱落です)。
次に右(東)の地点は「北四条大路」を越えた地点にあります。つまり、条坊の大路が偶数にあるとすれば、北の大路は「北六条大路」までで、すなわちKNのラインまでが北の京極となっているはずです。
では、「★京極確認地点」がない南の京極はどこまででしょうか。東・西・北の京極までは、藤原宮の中心から全て五方眼行った所になっていますので、南も五方眼行った所(十四条大路)のはずです。
なぜそう言い切れるのか?
藤原京が計画された都市であったならば、東・西・北の京極が藤原宮の中央より五方眼行った所なのに、南だけがそうでなければ「都市計画」として「理路整然としてない」し、なにより「美しくない」からです(笑)。
ということで、藤原京の京域は「小澤毅・中村太一説」の説く領域(KLMNで囲われた領域)です(その後に拡張や縮小がされたとしても、当初の計画図はKLMNだったはず)。
さて、当然のことながら藤原宮は京域(KLMN)の中央(ど真ん中)に位置しています。これは「周礼型」(南朝様式)と呼ばれています。平城宮は平城京の北域に位置していて、「北闕型」(北朝様式)と呼ばれています。
ちょっと脱線しますが、『大宰府への道』の特論3「大宰府の都市の造営」(赤司善彦)に、平城京の京域に関して、「モデルとされた唐長安城は東西に長い方形と形状が異なり、面積も四倍である。その長さを二分の一して九〇度回転させた縮小形と井上和人氏は指摘する(井上和人二〇〇八)。ただし、なぜ回転させて唐長安城の四分の一にしたのか不明である。」(『大宰府への道』P.161)とありますが、なぜ「四分の一にしたのか不明」ですが(これは「長安城の四分の一にしたかった」ことをまず立証してから出す疑問でしょう)、「回転させて」南北に長い方形の「北闕型」に「したのか」というのは「難波京」の先例があるので、それに倣って「周礼型」(南朝様式)を否定したと言えるのでしょう。むしろ、藤原京をなぜ「周礼型」にしたのかを追求するべきです。
ここからは妄想(根拠は示せない)になりますが、隋との交流で「(前期)難波京」を北闕型に造営したが(倭年号(九州年号)白雉元年(六五ニ年)、孝徳紀白雉二年)、唐・新羅に敗北(六六三年「白江戦」)した後、倭国内は反唐(反北朝)気運が高まったと思われます。その後、大皇弟(大海人皇子)が唐のステルス支援のもとに近江朝(弘文天皇(大友皇子))を打倒した(「壬申の乱」)ものの、表立った親唐的態度は取れなかったと思われます。朱鳥元年(六八六年)正月に難波の宮室が全焼した後、新規に造営する「新益京(あらましのみやこ)」(藤原京)は、北朝様式(北闕型)を避けた南朝様式(周礼型)にしたと考えられます。こう考えると、「白村江」の敗北以降、倭国内では「反唐」的雰囲気が濃厚に立ち込めていた、としなければならないでしょう。
以上のような「妄想」に従えば、「(本)薬師寺」が「薬師寺式伽藍配置」を採った理由も明らかです。
挿図7 薬師寺伽藍配置図(森郁夫「わが国古代寺院の伽藍配置」より)
「薬師寺式伽藍配置」はほぼ正方形の内郭(回廊で囲われた領域)の「ど真ん中」(中央)に金堂を配し、内郭の中に二基の裳階付三重塔(六重塔に見える)を置く伽藍配置です。しかも、この伽藍配置は、当時に流行したものではなく、「(本)薬師寺」が最初だったのです(「薬師寺式伽藍配置をとる寺では、六八〇年代半ばに工事が始められたと思われる本藥師寺が最も早い例であることがわかる。」(森郁夫「わが国古代寺院の伽藍配置」))。しかも、「薬師寺式伽藍配置」とされる寺院の中でも、内郭が正方形でその中央(ど真ん中)に金堂を置くのは「薬師寺」のみです。また。「薬師寺」以降にこの伽藍配置様式が流行した痕跡もありません。このことは「藤原京」を「周礼型」として造営する計画から、「(本)薬師寺」は「薬師寺式伽藍配置」(謂わば「周礼型伽藍配置」)として、「藤原京」との組み合わせ(セット)で造営された寺院だと考えられるでしょう。
すなわち、妄想の結論を言えば、「(本)薬師寺」が「倭国(九州王朝)の大寺(官寺)」ならば「藤原京」は「倭国(九州王朝)の帝都」であり、また、「藤原京」が「倭国(九州王朝)の帝都」ならば「(本)薬師寺」は「倭国(九州王朝)の大寺(官寺)」である、ということになります。
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注1 モノサシが出土 …… 以下は、古賀達也「都城造営尺の論理と編年―二つの難波京造営尺―」(古田史学会報№158 2020年6月10日)より抜粋(下線・強調は山田による)。
【七~八世紀の都城造営尺】
〇前期難波京(六五二年、九州年号白雉元年)29.2cm
〇難波京条坊(七世紀中頃以降)29.49cm
〇大宰府政庁Ⅱ期(六七〇年以降)、観世音寺(六七〇年、白鳳十年)29.6~29.8cm
※政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを二千尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られる。
〇太宰府条坊都市(七世紀前半か)29.9~30.0cm
※条坊間隔は90mであり、整数として三百尺が考えられ、一尺が29.9~30.0cmの数値が得られている。
〇藤原宮(六九四年)29.5cm
※モノサシが出土
〇後期難波京(七ニ六年)29.8cm
※律令で制定された小尺(天平尺)とされる。
注2 この尺度で「薬師寺」が造営されています。 …… 厳密に書くなら、この「薬師寺」は「平城京薬師寺」を指しています。この金堂を解体修理した大岡實建築研究所のホームページに次のように記載されています(詳しくは まぼろしの創造古代尺 ―「奈良尺」も無かった―をご覧ください)。
「中央の三柱間の両脇各々二柱間は奈良尺の一〇尺で、これは一・二五尺の八倍。(南北方向の四柱間も一〇尺)」
ただ、「(本)薬師寺」(「藤原京薬師寺」)と「平城京薬師寺」は同一寸法で建てられているとされています(このため「移築説」があるほど)。「回廊が複廊の薬師寺に対して本薬師寺は単廊である」のですが、「平城京薬師寺」も「当初は単廊で造営が進められたことが明らかになっている」ようです(Wikipedia「本薬師寺」薬師寺移転の項目より)。なので、両方併せた意味で単に「薬師寺」と書いています。
なお、現在では、「藤原京薬師寺」を「本薬師寺(もとやくしじ)」、平城京薬師寺を単に「薬師寺」と呼んでいますが、本来「藤原京」に「薬師寺」が建てられ、後に「平城京」に「薬師寺」が建てられたのですから、私はいわゆる「本薬師寺」(藤原京の薬師寺)を「(本)薬師寺」または「藤原京薬師寺」と書き、奈良の薬師寺は「平城京薬師寺」と書くことにしています。単に「薬師寺」と書いた時は「(本)薬師寺」(「藤原京薬師寺」)及び「平城京薬師寺」を併せて呼んでいます。ご了承ください。
注3 同一と思われます …… 出土した「物差し」が製作当時の寸法を維持していると考えるのは科学的ではありません。①難波京条坊(七世紀中頃以降)の推定造営尺29.49cmと②藤原宮(六九四年)造営尺(※モノサシ出土)29.5cmと③「平城京薬師寺」金堂の基本寸法(奈良尺の1.25倍)に用いられたと考えられる奈良尺29.485cm(=曲尺(10/33cm)×0.973)は「同一尺度」と考えてよいでしょう(あるいは、時代による「伸び」なのかも知れない)。
注4 『大宰府への道』 …… 『大宰府史跡発掘50周年記念 大宰府への道 ――古代都市と交通――』(九州歴史資料館 編集・発行、平成三十年(二〇一八)四月二十四日発行)
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コメント
この記事へのコメントは終了しました。
山田様
ご無沙汰しております。貴稿、興味深く拝読しました。
わたしにはまだ当否は判断できませんが、論理的にはなるほどと思いました。
『古田史学会報』への投稿をお勧めします。
古賀達也
投稿: 古賀達也 | 2021年8月23日 (月) 17時03分
古賀達也さま
コメント並びに『会報』への投稿のお勧め、ありがとうございます。
この「思いつき」は以前から温めていたものですが、西村説(藤原京は九州王朝の都)に加えて新たに服部説((本)薬師寺は九州王朝の寺院)が発表されたのを契機として掲載を決断したものです。
掲載後にこの記事を何度か読み直してみましたが、論理は通っているものの、根拠の提示が足りておらず、まだ作業仮説の段階と思われました。「仮説」とするには「藤原京と(本)薬師寺の造営尺度」並びに「薬師寺式伽藍配置の寺院」についての更なる調査が必要と思われましたので、その調査結果によって改めて『会報』へ投稿できるものかどうかを判断したいと思います。
せっかくお勧め頂きましたのに、申し訳ありません。
今後ともよろしくご指導くださいますよう、お願い申し上げます。
投稿: 山田春廣 | 2021年8月24日 (火) 11時47分
山田様
山田さんは、「倭国内で反唐(反北朝)気運が高まり、藤原京では北朝様式(北闕型)を避けた南朝様式(周礼型)にした」と考えられておられるようですが、この時期の唐は天授元年(690年)則天武后が自ら帝位に就き、国号を「唐」から「周」に変えています。なぜ「周」かというと古の周に倣った政治をしようということでしょう。武后は周代に存在したとされる「明堂」(聖天子がここで政治を行った)を宮城内に建造させています。
つまり、この時期690年代の中国風とは唐風ではなくて周風ということになります。私は藤原京は武后に倣って周礼式の都となったと考えています。
投稿: 服部静尚 | 2021年9月 1日 (水) 15時27分
服部静尚さま
コメントとご教示ありがとうございます。
>690年代の中国風とは唐風ではなくて周風
ご指摘頂いた点については、①倭国と武周との交流、②藤原京の造営時期、③薬師寺の創建時期と伽藍配置様式の起源・変遷(特に新羅の感恩寺との関係)、これらについて整合的な説明ができるか、ということが要点と存じます。妄想した記事について、それらの点を調査しているところです。服部さんから頂いたご教示に充分留意しながら調査結果を検討してみたいと思います(かなり時間がかかると思っております)。
これからも、よろしくご教導くださいますよう、お願い申し上げます。
投稿: 山田春廣 | 2021年9月 2日 (木) 10時10分