異人斬り(Ijingiri)。物騒なこの言葉は江戸幕末、日本に赴任する欧米外交官を震え上がらせた。
<(攘夷=じょうい=派志士が外国人に振り下ろす)刀を左手でにぎったらしく、つかもうとして指が3本切り落とされた>
<頭と手足は肉屋の肉切り包丁で切ったように、からだから離れた>
1859(安政6)年、日本に赴任した英外交官ラザフォード・オールコックの名著『大君の都』を読むと、外国人襲撃に関する異様な記述が多く目につく。
英国の外交官や水兵も当然、襲撃対象になった。JR山手線「高輪ゲートウェイ駅」から徒歩10分。暑い夏の日、襲撃舞台となった東禅寺を訪れた。英国初の公館が置かれた場所だ。仁王像が安置された荘厳な門が特徴的なこの寺で61、62両年、志士たちは容赦なく白刃を浴びせた。
住職らしき人物に当時の話を聞こうとしたが、理由なく断られた。その反応に驚かされたが、寺のウェブサイトを読み、自らの不明を恥じた。
<幕命とはいえ攘夷の風潮のさなか、神聖な寺に異邦人を居住させたこと、襲撃を受けて血が流れたことにより穢(けが)れた寺と誹謗(ひぼう)され、7カ年に及ぶ占拠は寺の事情を一変させました。有力大名は寺を見放し離檀、経済的裏付けを失(な)くして伽藍(がらん)の修復も叶(かな)わず境内は荒涼として憂慮すべき一途を辿(たど)ります。英公使宿館にされたことは東禅寺史上、不都合極まりない事件でした>
約160年前の記憶を今も引きずっていたのである。
東禅寺脇の自宅前を箒(ほうき)で掃除していた高齢の女性は「寺は明治以降、敷地を切り売りし、小さくなっていった」と寺の悲哀を振り返った。
東禅寺の美しい三重塔の前に立ち、日英交流の歴史に思いを馳(は)せるとき、寺や多くの人々の犠牲を胸に刻む必要がある、としみじみ思った。
幕府崩壊から35年後、ともに海洋国家の日英はロシアを念頭に「日英同盟」を締結した。第二次大戦中の敵対関係を経て、今やイタリアを含む3カ国で戦闘機を開発するまでになった。昨夏には、英空母「プリンス・オブ・ウェールズ」が日本に寄港した。
毎春、見事な桜で一色に染まる東京・千鳥ケ淵付近に建つ英国大使館。初の女性大使、ジュリア・ロングボトム氏に、荊(いばら)の道も歩んだ日英関係について聞くと「安全保障や経済、先端技術といった戦略的分野で協力を推し進め、関係はかつてないほど緊密になっています」と語った。
ロングボトム氏は1990年、2等書記官として初来日し、今回は3度目の赴任だ。日本滞在は通算14年に及ぶ。
日本語ペラペラにして、難解な漢字も書ける-。日本通の彼女が、幕末からの日英関係を深化させたのは間違いない。初来日時から、日本の政治家に手書きの年賀状を送り、交流を深めてきたという。
インタビューした応接室で、当時の「政治家年賀状リスト」を見せてもらった。
麻生太郎氏、羽田孜氏…。数十人の重鎮の名がズラリと並ぶ。彼らは新年の餅を食べながら、英国の女性が書いた年賀状をどんな心境で読んだか。羽田氏は、書記官時代のロングボトム氏の帰国送別会に顔を出したという。一若手外交官の送別会に、一国の重鎮が姿を現すのはまれだ。仲間は驚いたに違いない。
ロングボトム氏は、生前の安倍晋三首相とも会ったという。「彼は、日英関係の応援者でした」
高市早苗首相とは、経済安全保障担当相時代に面会した。経済安保推進法案を作る際、英国の経験を聞かれたという。「彼女は課題に対して真面目で、ミーティングをしながら自分でメモを書いたりと、本当に詳細まで理解していらしたという感じでした」。法案成立の陰に、緊密な日英協力があったことを示すエピソードである。
ロングボトム氏は、こちらの耳に痛いことも率直に指摘した。日本女性の社会的地位は「英国の30年前」に似ている、と。日本を大事にするがゆえの苦言、と思う。
ロングボトム氏は来月中旬、5年の大使職を終え、母国に戻る。幕末、戦中と不幸な時代を経て、「準同盟国」といわれるまでになった日英関係。英国の地から、新しい時代をどう眺めるだろうか。