白黒どちらかでない、“程度”を考える
マヒト この間、明治神宮外苑の再開発による樹木伐採に反対するデモに参加したんですけど、木を切ろうとしている企業がその近くでSDGsフェアをやっていたんですね。それ自体は矛盾はしているかもしれないけどいいことではあるんですよね。でも例えば、SDGsのバッジさえつけていれば何かをしていると思えている人がもしいたとして、それには本質がないが故の危険性はあるんだけど、本当に時代を変えたいなら、そういう人たちにどうアプローチするのかを考えないといけないのかなと。たぶん原理原則や正しさだけでは、通じ合えないんだろうなと思いますね。
奥田 キリスト教的な立場から言うと、人間って生きている限りはいいこともするけれども、常に矛盾を抱えていて、存在としては限界がある。全員が罪人であって赦されていないと生きていられないというのが僕の好きなところなんです。最初から諦められているから、あんまりがんばらなくてもいい。企業もひとつの社会的な存在だとしたら、白の企業も黒の企業もなくて、SDGsフェアをやっている企業が木を切ると言っている時、利益事業を止めるわけのない企業がどれくらいまでなら切らずに譲れるのか、その利益をどこに回そうとしているのかという話を含めて、譲歩できる可能性のある量や程度をもう少し厳密に話し合うべきだと思う。
今まで平和運動も含めて、あまりにもクリアカットに物事が語られてきた。でも、白でも黒でも右でも左でも気持ち悪い。人間ってそんなにクリアな存在ではなくて、どこかで悪を内在化させている。それを自分の中に見いだせるかどうかが問題であって、人との出会いによって仕切りをずらしていくような“リアルな平和”というものを考えないと、なかなかうまくいかないのかなと考えています。例えば、対人援助の現場でも、アルコール依存症の人に、こうでないといけないと正しさを押しつけるだけでは逃げ道がなくなってしまうわけで。
マヒト 原理原則や正しさ、真実みたいなものも大事ですけど、アルコール依存症の人にお酒なんてやめたほうがいいと言い張っているだけでは難しいですよね。明確な答えはないんですけど、さっきのバッジのように、SDGsや「NO WAR」という言葉を記号にして、ファッション感覚で取り入れていくようなことが100%悪いとも思っていなくて。なぜならそれは、軽薄に見えたとしても、入り口としてそういうことに関わっていて、そこへの意識があるということだから。小さくでも扉が開いているということが、ひとつの可能性でもあるのかなと。そこに時間をかけて向き合うという、そういう対話が本当は必要なんですよね。
奥田 浅はかなことだとしても、入り口はいっぱいあったほうがいいね。世の中にはいろんなグラデーションがあっていいと思うし、それを認めないのが逆に言うと戦争状況で、優しさって僕は質的ではなく、量的な、程度の概念だと思うんですよね。このおじさんは酒をやめるのが本当はいいかもしれないけれど、断酒をした瞬間に鬱になるくらいなら、以前はお酒を飲んで年に50回倒れていたのを、誰かの助けで10回にする。それってすごい成長ですよね。
原理原則的に失敗しない社会をつくろうとしなくても、出会いの中で死なない程度に失敗できる社会をつくったほうが早い。だから僕はつながっていればなんとかなるという“伴走型支援”の考えになったんです。平和もきっと原理原則的なものではなくて、とにかくたくさんの人とつながっていくことなのかなと。そこには敵に近い人や嫌いな人もいるんだけど、そんな人もいるよねという世界観。でも一方で原理原則がまったくナシかというとそうではなくて、いくら多様性といっても、毒を入れることや人殺しは違う。これがどこからかという問題は大きい。例えば、知的障害者施設で多数の人が殺された相模原事件にしても、絶対的にどんな背景があろうとやってはいけないわけですよね。戦争もそうです。
マヒト それは多様性とは違うよね、ということはありますね。その線引きが難しい。ぜんぜん違う背景の人が集まっている、その規模が大きくなると日本人と括られたりするんだけど、それだけではないし。そこと向き合うために複雑でい続けているというのが、〈抱樸〉や知志さんの好きなところなんですよね。いわゆる一昔前のリーダーシップは、答えを知っている人に同調すれば救われるとか、現状を打破できるという力が結集力になったけれど、それはそこに関わる人を頭数で数えて、大衆という言葉で均一化していくものだった。それを解体して、みんなが1人ずつ、それぞれになる。全員が同じ雨に打たれているけれど、雨を感じているのは一人ひとり別なように、それぞれの冷たさも痛みも違うから。平和についてひと言で言えるほどシンプルではないけど、スタート地点はやっぱりそこなんだと思う。
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