冷たい恋人
原作軸数年後、突然現れた🦅が☀に「君が欲しい」と言い出すよだつかです。
大注意と朗報:そうはならんやろ特盛。☀がくすんでるし、🦅にキャーキャーしませんがハッピーになります!!!!
score61の内容を含みます
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夜鷹の恋人は、純に優しくない。
『貴方が飽きるまでなら』
それでも。
「ぉはよう……」
「おはよう純くん、いまコーヒーを淹れるから」
朝、眠さを隠しもしない顔と声で庭先へ現れた純を慎一郎は迎えた。
「こっちはカフェインレスだよ」
「ありがとう」
慎一郎はカフェインレスのコーヒーが入ったカップを純へ差し出す。
受け取って一口、口をつける。
味はあたりまえのコーヒーだった。カフェインとは味ではないのだ。
味も香りもコーヒーなのにカフェインだけがない、どこか欠けている。
「眠そうだね」
「眠い」
「それで、どう?うまくやっている?」
でも眠い時に吸う煙草の味は悪くない。煙草の煙は肺にあまり入れず、大半をそのまま慎一郎から背けて吐き出した。
「……彼は、優しくない」
「そう」
定期的に、純は恋人の愚痴を親友に言いに来る。
「夜に来て、朝に帰って――繰り返しだよ」
狼嵜光のコーチを辞め、名古屋に戻ってきた夜鷹純は頻度と時間は減らしたもののスケートを止めはしなかった。
夜鷹にはスケートしかないからである。
教え子だった光は夜鷹の手を離し、ひたむきに研鑽を続けている。
それでいい、自分だけの衝動と向き合い、才能を磨いて、そして金メダルを獲る。
それは夜鷹が示した道だった。
でも。でも、幸せになってもいい。なるんだよ。
そう言葉にすることはしなかった、言葉とは呪いだから。
光と僕は違う人間だ。
同じ道を示しておきながら、純は思う。
性別や身長、年齢が違うという意味ではない。
氷に囚われすぎてまともに生きていくことすら難しい自分と同じになってはいけない。
純は光の成功を信じている。
PCを起動すると、メールボックスにはライリー・フォックスから返事を期待しないメールが届いていた。
それは報告書の形式をとっていて、ご丁寧にロシア語で書かれている。
光のコーチを辞めてもう数年経つというのに、そのメールは夜鷹へいまも届く。
夜鷹が送って来るなと言えばもう送ってこないだろう、いや、ライリーのことだから何かしら理由を付けて送ってくるかもしれない。
メールアドレスを変えてしまえば……しかしこれは、現役時代からずっと使っているメールアドレスを変えるのは面倒だ、そんな常識的なことを考える自分をやはり夜鷹はつまらないと思う。
届いたものを断ち切るように読まずに捨てていたのは最初の数回だけで、いつからか目は通してしまうようになった。
ライリーは報告書に、光の出場する予定の試合についても記載していた。
その中に一つ見覚えのない大会がある。わざわざライリーはそこに普段ならしない、カラーマーカーを付けている。
調べてみれば去年から開催されることになった新設の大会で、まだまだ実績になるとは言いづらく、出場者も少ない。
なぜわざわざ大事な大会が続く隙間に、調整が必要になるにも関わらずこの大会を?
考えかけて、夜鷹はひとりの少女を思い浮かべた。
結束いのり。
■■
光がジュニアに上がる前の、JGPFの放映を夜鷹は見ていた。
次の年から光が戦うことになる舞台である。
コーチを辞めたとはいえ夜鷹は女子シングルだけではなく男子シングルやペア、アイスダンスに至るまでスケートの最新情報は頭に入れ続けていた。
JGPFでジュニア一年目にして初出場にも関わらず目覚ましい活躍を遂げた少女。
結束いのりの演技が始まった、始まった瞬間、夜鷹に触れる気持ちがあった。
――あのつまらないこども。
わきあがる感情はごくささやかだ。
つまらないと言い捨てていた少女は退路を断ちながら、大舞台で軽やかに跳ぶ。
体重が軽い子供がふわりと跳べてしまうジャンプではなく、跳ぶことを選んで跳ぶジャンプだ。
正確なスケーティングに振り付けがぴたりとはまっている。
上半身と下半身をばらばらにせず、一つのプログラムとしての一体感を高めていた。
ジュニア一年目の子供が持っているとは思えない、誰かの指導がわかる演技。
――持っている。
ささやかな感情に無理に名前を付けるとすれば、羨望が近かった。
あの子供は僕が欲しかったものを、手に入れた。
欲しかったもの。
それはすぐに見つかった。
少女の隣で泣き笑いをしている、太陽のような男。
やっぱり。
彼には何かあると感じていた。
彼には何かがある、最初、純はあの美しいスケートなのだと思った。
けれど違った、違わない、それだけではなかった。
僕はあれが欲しかったのだ。ずっと欲しかった――
■■
その記憶に色はついていた。
思い出すだけでこめかみがひくついた、煙草が欲しくなる。
そう、つまり、この大会に結束いのりが出場するということだろう。
夜鷹にはわかった。光は結束いのりをライバルだと言い切っていた。
調べたところまだ無名に近い新設大会のため地上波放映はないが、youtubeで配信はある。
夜鷹は光の出場する大会についてはリアルタイムで視聴することはないものの、録画などは見ることにしていた。
だがこの大会については見ることを決めた。
光の演技が始まる。
もう、夜鷹純の現身ではない、けれど夜鷹純の影響は見て取れる。
僕のことなど無かったことにすればいいのに、思いながら純は心のどこかであたたかいものを覚える。
身長の伸びは止まったが体型変化にやや苦戦しているとライリーのメールにあった。
四回転の本数をまだ制限しているようだったが、演技に翳りはない。
夜鷹はもちろん光の勝利を疑わなかった、そしてその通りになった。
表彰台の一番高いところで金メダルを掲げて見せる光は想像通りだ。
しかし隣に、光の喉元寸前まで食らいつく結束いのりを認めないわけにはいかなかった。
結束いのりのスケートは今や子供の遊びではない。
そして、彼女のコーチ、明浦路司を。
光はこの結束いのりとオリンピックの大舞台で金メダルを争うのだ。
予言などではない。事実になる。
それは光が孤独ではないということだ。
結束いのりは光を決して諦めないだろう。
何故なら、僕ならばそうするからだ。
『俺達は勝ちます、貴方に未来は決められない』
いつでも取り出せるあの声、あのまなざし。
応えて、信じて、後押しして、導いて、時に支えてくれる存在――出場する大会すべてで金メダルを得た夜鷹純がただひとつ、得られなかったもの。
結束いのりが表彰台から下り、首からメダルを外すとそれを振り回しながら小走りに彼のもとへ急ぐ。
彼は手を上げて教え子の動きを落ち着かせながら、それでも大喜びをしているのがわかった。
応えて、信じて、後押しして、導いて、時に支えてくれる存在――勝利を一緒に追いかけてくれる大人。
ああ、僕はあれが欲しかった。
40歳を超えた夜鷹はようやく、子供の頃の自分が求めていたものを知った。
明浦路司。
大会の翌日。ルクス東山FSCのホームリンクである大須スポーツセンターへ夜鷹は現れた。
夜の貸切練習が終わる、深夜に近い時間帯である。
いつも慎一郎の家を訪れるように突然にではない。
正しく電話をして、電話口に出た鴨川という男性コーチに、明浦路司との面会の希望する旨を申し出た。
名乗った直後、電話口に空白が生まれる。息を飲む無音。それは夜鷹にとって慣れたものだ。
自分の名前の呪いはまだ届くのだとどこか他人事に思いながら。
しかし個人的な面会についてはお断りしていると誠実そうな返事を寄越してきた。
だから、直接訪問することにした。
夜鷹は彼が現れるのを待つ。
クラブの生徒達がさようならとかありがとうございましたと言いながら出てくる。
親友の鴗鳥慎一郎に聞けば、すぐに個人的な連絡先はわかるだろうし、どころか約束まで取り付けてくれるに違いなかった。
これはそうしたくなかった。
そうして、彼――明浦路司は現れた。
彼は息を飲むことはしなかった。
かわりに、夜鷹の顔を見ると大きな目をみはったのがわかった。悪戯の可能性を疑ってもいたのかもしれない。
サングラスを外す。
「僕のことを覚えているよね」
「は、い」
彼は浮かない顔をして、かさかさ乾いた声で答えた。
たった一度同じリンクに立った時に見せた、目の奥の輝きが乏しい。
見えないのではなく、かき回した泥池みたいに濁っている。
「僕は君が欲しかった」
どう対処すべきか困っていただろう彼へ向かって、いきなりに思っていたことをそのまま言った。
言ってみて初めて、純は自分が何を言っているのだろうと振り返った。
いや、やりたいかやりたくないばかり、計画性とは皆無の暮らしをもう10年以上やっている純にしては、正しすぎる。
調べて、連絡して、慎一郎の手も借りず。
なんどだって振り返るタイミングはあった、あったけれどしなかったのか、それとも、振り返ってなお選んだのか。
純は疲れていた。
欲しかったものを欲しかったと言いたかった。
その衝動のために、あぶくのように浮かぶわずらわしさや厭わしさを振り払って来たのだ。
なのに脈絡を忘れてしまった。
昨日の大会を見たよ……など、言い忘れた言葉は飲み込みすらせずに破棄された。
明浦路司。
僕は君が欲しかった。
「……っなんか、はは、口説いてるみたいですね」
司は不自然に明るい口調だった。答えではなかった。
答えずに質問自体を冗談で済ませようとする、そうしてやり過ごす人間を純はたくさん見て来た。
突然現れて、欲しかったなどと言われたのだからそれはそれでおかしくはないのだが、純は憤り、そしてそれをまだ飲み込んだ。
「…………それでいいよ」
「はい、ありがとうございます、貴方にそう言ってもらえるなんて光栄です」
ことなかれのお手本のような決まり文句だった。
不自然なやり取りだが、その不自然さをあげつらわない事は更なるいびつを呼んだ。
明浦路司は笑みを崩さない、けど、その目の奥にさっきとは違う色がぽつりと灯り始めた。
それがなんなのか純はわかる。
怒りだ。
いまにも一礼して話を切り上げ、立ち去りそうな司へ純はもう一つ言い放つ。
「いまも欲しい」
すっと取り繕うような笑みが消える。掻きまわした泥池が落ち着いて、透き通ってきた。
隠しもしない怒りがちらちらと、カットの荒い宝石のように目に輝く。
純はその熱に見つめられるのは、悪い気はしなかった。少なくともさっきの顔よりは。
「……」
司は軽く首を傾げ、顔色を窺うようにしながら口を開いた。声は小さかった。
「俺はいのりさん――結束いのりさんのコーチです」
「うん」
「そこは変えられません、それでも」
それでも、の後に続く言葉は無かった。
けれど純にはわかった。
それでも、俺が欲しいですか。
司が送ってくる視線の熱は煮え立つ粘り気を帯びて、一瞬の火傷では済まないだろう。
獣の本性が挑まれたと思った、挑まれたら純は拒めない。
「それでいいよ」
明浦路司は誰も居ないリンクみたいな、つまり純のよく知る静けさの笑みを浮かべて、
「じゃあ、貴方が飽きるまでなら」
そう言った。
静電気に触れた時のような苛立ち。
「それでいいよ」
それでいいよと言うだけで、夜鷹純は明浦路司の残り物を手に入れた。
「おはよう、昨日、たぶん、恋人ができた」
「なんだって!?昨日!?たぶんってなんだい!?おはよう!」
親友の鴗鳥慎一郎は朝だというのにほとんど怒鳴るようにして、純の報告を受け取った。
青天の霹靂もいいところである。
あいにくエイヴァはもう出勤済み、理凰は学校へ。家にはまだ二階の部屋で眠っている汐恩しかいない。
純は説明が下手だった、頭の中にある言葉がうまく出てこない、だから必要に応じて手紙と言う手段を使ってきた。
だが慎一郎は親友である。彼には純はどこか返礼するような気持ちで、掻い摘んで事の次第を語る。
「見ていたら欲しくなったので、会いに行って欲しいと言ったら、いいよと言われた」
「こ、言葉が少なすぎるのに情報が多すぎる!」
頭をわっと抱えた慎一郎に申し訳ない気がして、
「僕が飽きるまでだよ」
と言い添えるも、あまり効果は無かった。
慎一郎は純ですら驚くほど早く体を起こした。
「理由を……いや、ううん、教えてくれてありがとう。応援するよ」
「ありがとう」
衝動、としか言えなかった。
「…………気を悪くしないで欲しいんだけど、君が恋をするなんて思いもしなかった」
慎一郎の言葉に純も頷く。
「僕もだよ」
「恋って落ちるものだからね、陰ながら応援させてもらうよ、教えてくれてありがとう」
「…………うん」
恋じゃない。恋かどうかわからない。恋に見える。状況証拠の恋だ。
さすがにそれは、慎一郎に言えなかった。
「僕の方がドキドキしてしまうな」
「落ち着いて」
盛り上がっている慎一郎に対して、純は徐々に後ろめたくなってきた。
純は恋人にするつもりで欲しいと言ったわけではないのだ。
TV画面越しに結束いのりの姿を見て、彼女が満ち足りているのがわかった。
純は自分が欠けていることに対して自覚的だったが、その欠けたものに対してこんなにまだ未練があったとも思わなかった。
羨望や嫉妬というものに近い、そんな生臭い感情を擦り付けられたようで、ひどく腹が立ったのだ。
腹が立って、腹が立って、それを彼本人にぶつけようと思った。
口説くつもりなんかなかった。
「……口説かされた」
「ふふっ」
ひとつ正直なことを、純は言った。しかし慎一郎はそれを純のめったにない冗談だと思ったらしく、声を立てて笑った。
本当なのだ。口説かされたのだ、あれは。
『口説いているんですか』、とまるでからかうみたいに司が言うから。
「はぁ……面倒だな」
もうひとつ正直なことを、純は言った。
「何か変わったことがしてみたくなった、それだけだよ」
吐き捨てるように純は言って、それでも手に入れた連絡先を消すことはしなかった。
じゃあ、と連絡先を交換したのだから滑稽である。
用が出来たら呼ぶと言って終わった。
飽きている、そもそも数年前、証明できなかった時点で飽きていた。
『貴方が飽きるまでなら』
だからこの条件はもう破綻している。
言ったからには恋人の正しい形をしなければいけない。ある意味で純は真面目だった。
だからこそ面倒なのだが。
純は今も夜に生きていて、司は昼に生きている。
司を手に入れたはいいものの、生活時間帯が全く合わない。
宣言した通り、司はどうやら生活リズムを純のために崩すつもりがないらしい。
ではどうする。いい年をした大人がそんなすり合わせを行った。
結果、司は仕事が終わった後で純の家にやってくるという事になった。
マンションの一階エントランスのセキュリティ解除方法は教えた。
司は夜にやってきて、朝帰る。当然のようにベッドで過ごすことが多かった。
ベッドでする事としてセックスはなんて都合がいいのだろう、純はまたひとつ知ることとなる。
セックスについてお互いそれなりに調べてきて、さしたる衝突も無かった。
いろいろ喋らなくてよいのに相手のことがわかって、けっこうな時間が潰れて、しかも気持ちがいい。
純は会話が苦手だったから、司と色々喋らなくてはならないとなると気が重かったのでセックスに大変助けられた。
しかし、そんな純の心配をよそに、司は純に色々とは聞かなかった。
まるで純になんの興味もないみたい。
でもそんなことは無いと純もわかっている。
自分がこんな俗物みたいなことを思うなんて信じられないが、世間で言うところの『体は正直』とかいう言葉は間違いではないらしい。
キスをして抱きしめてセックスをしてキスをして、溺れている。
それも空気を吸うのを面倒がって溺れているようなおかしな具合。
セックスのことを特別視するのはいかにも童貞みたいで滑稽でもある。
けれど、純も司も渇いているように求め合ってしまう。
優しくないが、司はとても邪魔にならない恋人だった。
『そうなんですね』
ほとんどそれで済ませてしまう。
純が夕方起きて朝眠るのだと言ったら、そうなんですねと言う。
純が食事のほとんどをサプリやプロテインで済ませていると言ったら、そうなんですね。
純が掃除や洗濯を外注していると言ったら、そうなんですね。
まるで純になんの興味もないみたい。
だが一方で純はその司を楽だと感じもした。
自分の生活が一般からかけ離れていることに驚かれるのに、慣れて疲れてもいたからだ。
してほしいこと、されたくないこと。
したくないことも多ければされたくないことも多い純はそれらを真っ先に開示した。
そのほとんどに、『そうなんですね』と返ってくる。
まるで純になんの興味もないみたい。そんなことはないのに。
慎一郎によれば純の大ファンらしい。
ただ、純がスタイリストに服は一式頼んでいると言った時には、
「そうなんですね」
の後、
「そのスタイリストさんが選ぶ服が、貴方の好みにはあってるってことですよね?」
「好み……」
好みと言うか、基本的にわずらわしくない服を提案されている、と言おうとしたが純は曖昧に頷いた。
司の顔が明るかったからだ。
「とても似合っていて、すっごく、すっごくカッコいいって思います!」
掛け値なしの好意を突然出されて、純は面食らった。
「……そう」
「あっ服がかっこいいってだけじゃないですからね、あの、前、は、裸で電話に出てきたことがありましたよね」
「……ああ」
純は少しかかって思い出した。いや、通話したこと自体はありありと覚えていたが、自分が裸だったことは忘れていたのだ。
ずいぶん昔のことを、よく覚えているものだ。
「貴方は裸でもすっごくかっこよくて、スーツなんか着てかっこつけてる自分が恥ずかしくなりました」
さっきむずがゆさを感じて視線を外した理由がわかった、羞恥だ。
照れている、まさか、僕が。純はこのままではいられなくなって、低い声を作った。
「……僕の裸を、格好いいと君は言うんだね」
「はい!」
「ねえ、恋人の裸を褒めるって、そういうこと」
「ア゛」
あっというまに湯気が立ちそうなほど赤面した司があどけなく見えた。素直に、かわいいと純は思った。
「……君のスーツも、悪くなかったよ」
思い出したぶんだけ純が言葉を添えてやると司は、ひゃわぁと妙な声を上げてから、
「あれは俺がとってもお世話になっている人に選んでもらったんです」
この男、どうしてくれよう。ぜんぶ計算というのなら、そうであってほしい。首筋に噛みつく。
二人でベッドでいろんな話をした。これを、他愛のない話というのだろうか。
さすがにベッドでの話を他人に言う事がマナー違反だと言うことぐらいは純もわかっている。
でも、きっと自分の方が多くしゃべっているなんて聞いたらきっと慎一郎くんは驚くだろうなとも思う。
逆にベッド以外では、うまくいっていない。
みすぼらしい身なりをしている司を見かね、純は良かれと思い自分の服のついでに、司に手袋を贈った。
しかし司は受け取らない。何故かと言えば、貰う理由がないからだと言う。
「ごめんなさい」
「恋人に物を贈って何が悪いの」
「貴方に俺は同じだけを返せないからです」
「……君が受け取らないなら、捨てる」
それでも司がためらっていたので、純はゴミ箱に包みを叩きこんだ。
ひどく苦しそうな顔で、司はゴミ箱に叩き込まれた包みを拾い上げた。
胸に抱いて、ありがとうございますと小さな声で言う。
「ごめんなさい、俺、受け取るのが下手なんです」
「……そうみたいだね」
物が残らなければいいのかと思い、夜景の見える高級店に食事へ誘っても断ってくる。
「僕に贈り返そうと思わなくていい、僕はお金に困っていない」
そう純が言った時、司はにっこりと完璧に笑った。
「そうなんですね」
その笑顔は武装であることを純は知っている。
強い悲しみとあきらめの笑顔だった。
この「そうなんですね」は拒絶だ。
持っているのに受け取ってもらえないというのは、純にとってあまり嬉しくはなかった。
君の貧乏に僕が遠慮しろと言うのか、と投げつけかけて踏みとどまる。
親友から司が金銭的な苦労をしてきたことを聞いていたからだ。
言えば傷つくだろうか、そんなことを自分におそれさせる存在として、純は司が憎かった。
純は夜鷹純だったので、唯一自分でも認めるそれを持ち出した。
「僕のスケートを見たい?」
「…………はい」
しかし約束の日、司はスケート靴を持たずにリンクへやってきた。
純ははっきりと怒りをあらわにした。
その怒りの火は視界を揺らすほど突然燃え上がる。
たしかに、司は『見たい』と言った。でも、見世物になるつもりは純に無かった。
きみと。
腹の底からせり上げた罵倒に口を開きかけて、飲み込む。
司から注がれる視線は観客のものではなく、骨のきしみまで見通してやろうというようなあの視線だったからだ。
そうだ、きみは僕と同じ目を持っている。
なのにきみはどうしてそんなところで、そんなに悔しそうに僕を見るんだ。
悔しいのなら君もここにきて、やってみればいい。君にはできるのだから。
能力を持ちながらそれを腐らせる――そういえば以前に会った時もそれで腹を立てたのを純は思い出した。
純は司に当てつけのようにジャンプを何度も跳んだ。何度も。
今は跳べる、けれど必ずいつか僕は跳べなくなる。
人はいずれ死ぬ、かならず死ぬ。生物だからだ。
当てつけ、僕は何に?僕はどうして。君はどうして。
「あの!」
白銀に切り取られた世界の外から司が叫んだ、無視をした。
「脚を傷めます!」
「君には関係ない」
うるさい。部外者の言葉なんか聞いてやらない。
部外者、そう、彼の方こそ自分をこの氷の上に一人に取り残した!そういう怒りだった。
そんな目で見ておいて、部外者なはずがない。
何故靴を持ってこなかった、どうして僕と同じスケートをしようと思わない。思っていないわけがない。
思っているくせに。僕に焦がれているだろう。何故ここへ来ない。
「恋人です!俺は!貴方を心配してもおかしくありません!」
手袋の時に純が言ったことを言い返してこられた。
「……ふうん」
脳が揺れそうなくらい呼吸が乱れている。
「本当です」
「疑ってない、けど、君は――僕を憎んでいる」
司が音もなく息を飲んだ。
『明浦路司は夜鷹純を憎んでいる』
純はようやくそれが言えた。
司が自分に対して特別な感情を抱いている事だけは、疑いようもなくわかる。
愛憎。
だがそれが、愛憎なのに納得がいかない。
何故憎まれなければいけない。
初対面であの少女の夢を否定した、それだけではないことぐらい純にだってわかる。
手すりに隔てられた恋人へ、純はシャッと氷くずを散らして迫るなり言った。
「……そんなに僕が憎いなら、あの時頷かなければよかったんだ」
司はへなへなと何故か力なく笑った。
「ほんとうに、そうですね」
否定はしなかった。それにショックを受ける純は自分の方こそ被害者だと言いたかった。
「貴方が、『それでいいよ』なんて言うから、つい」
どこかで聞いたような言い訳を司は口にした。
「俺は貴方に傷つく」
「僕は……」
約束をすっぽかしたり、癇癪を起こして物を壊したりする自覚があるだけに、ないとは言いづらい。
「はい、貴方は俺を傷つけたいわけじゃない、結果としてそうなってるだけで」
「……」
そんなつもりはなかった、というのは子供にだけ許される理屈だと純は思っている。
かわいた手ぬぐいをしぼるようにきりきりとした声で、司は本音を絞り出した。
「違うんです、俺が勝手に、貴方に傷つく」
「それは」
「ごめんなさい……俺も脚がぶっ壊れるまで練習したかった」
魂が抜けるようにつぶやく。司が掴んでいた手すりを離すと純に向けて腕を伸ばした。
考える間もなく純はその腕に自分の体をとらわせた。なのに司のたくましい腕に力はほとんどはいっていなくて、純がみじろぎ一つしたら遠ざかってしまいそうだった。
だから純のほうからもしかたなく――しかたなく腕を回して、逃がさないように捕らえた。
そういえば、こうやってコーチと抱き合う選手もいるな。
司はほとんど氷に身を乗り出すようにして、純の首筋で湿っぽい声を出した。
「ごめんなさい、好きです、でも憎い、貴方なんか嫌いだ、」
「気が合うね――僕もだよ」
はっと司が顔を上げた。またしても罪人の顔をするから、純はひょいと司の鼻をつまんでひねった。
「僕も僕のことが嫌い。……今更だよ、全部遅い」
「貴方のことが好きです、ごめんなさい、あなたのスケートは、世界で一番かっこいい」
「今更遅い、でもいいよ。――次は、」
さっきの司の表情を純は思い出した、あれは飢えて渇いている人間の顔だ。
目の前に欲しいものがあるけれどそれを手に入れられない。
確信がある。
司は氷に乗りたかった、僕から覚えた全てをその身体に反映させて、真っ白になるまで滑りたかった。
誰もそれを咎めていない。なのに。くしゃくしゃに丸めた紙みたいに癖がついている。
彼にとって覆しがたい劣等感が、それを阻んだのだ。
だからあえて判決のように言った。
「次は靴を持ってくること」
「はい」
命じられたのに、司はどこか嬉しそうに鼻を鳴らした。
「……光も、僕に、僕のスケートは世界で一番かっこいいと言ってくれたことがあったよ」
「……」
「嫉妬しないんだね」
「するわけがないでしょ、事実なんだから」
司がようやく笑ったので、純は氷の中心へ戻る。今日のところはひとりで。
喧嘩の後のセックスが一番気持ちいい、とある女はエッセイに書いた。
喧嘩というわけではないが、貸し切りを終えて夜鷹の家に戻った二人は玄関ドアが閉まるなりお互いに腕を伸ばした。
事を追え、珍しく司の方から話し出した。腫れぼったい目をしている。
「あの日あんまり、貴方が都合よすぎて」
あの日というのはもちろん、夜鷹が現れた日のことだろう。
「都合がいい?」
「すみません、失礼な言いかたでした」
「いいよ、それで――」
「いのりさんに、『先生のアイスショー、楽しみです』って言われたんです」
結束いのりはいよいよ狼嵜光と戦うため、あと一歩までたどり着いた。
彼女はこう言ったらしい。
『次は先生の番ですよ』
あのJGPFで司がいのりに言った、いつか必ずオーディションを受けると言ったことをいのりはもちろん忘れていない。
忘れていないどころか、ことあるごと(それはたいてい、大きな失敗をした時か、大きな成功をした時だ)にそれを言う。
「きみ、アイスショーに出るの」
思わず純は身を起こした。全身がだるい、純はやるとなったらセックスにも全力を出すタイプだ。
肉体の絶頂をもとめず心のつながりを深めるようなセックスもあるらしいが、まだ、そうじゃない。
そんな激しい行為を行ったのだから受け入れる側の司の負担はもっと大きいだろう。
「いえ、出ません」
「じゃあなに」
「えっと、アイスショーのショーキャストのオーディションにいつか挑戦を……」
「受けるの、」
「あれ、言いませんでしたっけ」
「言ってないよ。僕が受けろと言った時は断ったくせに――いまさら」
つい腹が立って、純は『いまさら』と口にした。
それは、純自身を傷つけることばでもある。
「覚えてくれてたんですね。はい、そうです、いまさら――そう、全部今更です」
しっかりと純の目を見て、司は言った。
「俺は貴方のようになりたくてシングルの選手を目指していました」
「そ」
それも聞いていない、純が言おうとした言葉を司は遮った。
「これは貴方に言っていません。貴方に言いたくなかった……」
穏やかに錆びた声だった。
「俺は十八歳で一度スケートをやめて、就職して――いや、どうでもいいですね」
「どうでもよくない、君が決めるな」
「匠先生が俺を見つけてくれて、アイスダンスの選手としてなら育ててくれるって言ってくれたんです」
知っている。慎一郎くんから聞いた。僕の大ファンだということも。
それにシングルの話だって、彼のスケートには僕が宿っている、それならシングルを目指していたのもおかしくはない。
「まあ、とにかくアイスダンスの選手としても貴方が見た通り大失敗して、選手としても終わりです」
「なぜ続けなかった」
わかっていながら、純は聞いた。腹が立っていたからだ。
司は怒りもせずに――そういえば、待ち合わせをすっぽかされたり、傷つくようなことを言われてもはっきりと怒ったのはさっきが初めてだった。
「お金がなかったんです」
「……」
純は口を閉じた。お金の話はとてもセンシティブだという事は知っていたし、司にとってそれが傷であることもわかった。
現役時代そのうち伸びると言われていた彼らのうち何人も、資金難でやめていったのを見たこともある。
純ですらスポンサーからの要望はある程度受け入れざるを得ない。
「君には才能があった」
それでも純は言いたかった。夜鷹純が言うのだ。届くべきだった。
だがそれをたった一つの苦笑で司は弾く。
「いまさら、ですよ」
純は司もまた、呪われているのだと思った。
呪われているから冷たい。
同じベッドで体温を分け合っているのに、ひどく、心細いほど寒く感じられた。
リンクの上でつたなく抱き合ったあの時の方がよほどあたたかかった。
「加護さん――俺のお世話になっている家の人が、オーディションを受けろって言ってくれたんです」
苦笑。
「当時は、これで諦められると思ったのに、まだ諦められないと思って苦しかった。でも、いざ氷に乗ると、やっぱりここに居たいって思って――」
司は苦笑ばかり浮かべている。
教え子の前では7割笑って、2割泣いて、1割それ以外なのだと親友から聞いていた純は少し、面白くなかった。
純に司は、教え子には見せられない顔を見せていると思って少し留飲を下げる。
「――貴方は、これで死んでもいいって思ったこと――いえ、なんでもありません」
ごまかすように大きな動作で体を起こした司はベッドサイドから水をとり、純に飲むかと向け、純が首を横に振ったのを見てから飲み始めた。
純のことにまるで興味がないみたい、なんてとんでもない。
いつだって司は純を尊重している。
ただその尊重は純だけではない、そしてそこに司だけが含まれていないのだ。
「俺の失敗や悲しさを、いのりさんに渡したくない。俺の夢は俺がちゃんと、お」
「君は、自分に才能が無いと証明するためにオーディションを受けようとしているんだね」
遮るように強い声が純から出た。またしても激しい怒りだった、それは癇癪とは全く違う怒りだった。
「……君は僕を怒らせるのと、がっかりさせるのが、上手だね」
「ごめんなさい」
「いいよ、僕が勝手に君に腹を立てて、落胆している」
リンクで司が言ったことをやり返した。
憤慨の行き場が無くて、純はしかたなく水を受け取り、二口ほど飲むとしっかりと蓋をしてから投げた。
もちろん壁に向かってだ。
べこんと大きな音をたてて、たてたけどそれだけだ。
しかし、
「――はあ、僕の力不足だ」
くしゃりと純は髪の毛をかき上げた。ひとすじの白髪が流れ星のように黒髪へ走る。
髪の毛をかき上げると司は切ない顔をして、それでもぐっと引き込まれているのを知っていた。
「はい?」
「きみの衝動は僕なんだよね」
「は、い」
「なのに、君は僕のスケートを見たのに、氷に乗らなかった」
「――靴を」
「持ってこなかった、そこまではいいよ。でも、貸し靴を探しもしなかった」
純は意識して、くちびるをにっと歪ませて笑みを作った。
現役時代氷の上で何度も作った笑みだ、圧倒し、実力と自信を誇示するための戦化粧のような笑みだ。
「僕を見て、すぐさま氷に乗りたくなるような演技をする」
純は知らなかった、それが教え子である狼嵜光がライバルの結束いのりの消えかけた情熱の火を守った時と同じことだと。
「君の思った通りにはさせない」
まるで駆け出した挑戦者の言葉を、純は口にした。
欲しかったものを今更気づかされて、
セックスなんかの味を覚えさせられて、
40歳を過ぎてまだ誰かに火を点ける程のスケートを求められて、
挑まされる。
「君は僕を無視できないからね」
「……はい、」
夜鷹の恋人は、純に優しくない。
『貴方が飽きるまでなら』
それでも。
「ねえ、夜が明けるよ」
「……」
「明けるよ」
「…………」
しがみついてきた世話の焼ける恋人は、優しくないけど「貴方はきれいで、あったかい」と顔も見せずに言った。