あげる、と渡された紙袋。ぎっしり詰まっていたうちを一つ取り出す。
まだらに生白いきつね色のそれを手に慎一郎は、
「純くん、これは、……」
「長くなるよ……」
言いながら純は煙草へ火を点けた。
ことばばかりは面倒ぶっているが、純の機嫌はいいらしい。
皮剥けひとつない薄い唇が開いた。
「商店街に行った、それで……」
「うん、うん」
夜鷹純と明浦路司は駆け出しの恋人をやっている。
紆余曲折もあったし艱難辛苦もあったし前途も多難間違いなし。
ここに来るまでに純は今までしたのとはだいぶ違った種類の苦労をした。
どれだけ苦労をして純が明浦路司を手に入れたか、世界は知らなくてもいい。
純は司を大切にしている。純のルールの範囲内で、いや、いくつも逸脱しながら。
純にとっての『大切にする』とは、『触れない』ことだけだった。
まるでケガレだ。
現役を引退した後、自分という存在がただ終わるのを待つようにして生きてきた。
光のコーチという役目を得て危ういながらも氷と世界とつながっていたが、それも終わった。
そんな司は純を求めた。そんな純は司を求めた。
どちらが先だったかについては恋人同士のささやかな論争の種だ。
求めてしまったと純は少し後ろめたいが。
ともかくどれだけ苦労して純が明浦路司を手に入れたか、世界は知らなくてもいい。
僕だけが知っていればいい。そう思っている。
司は役に立ちたいのだという。その姿勢自体は褒められこそすれ咎められるようなものではない。
明浦路司という木があるのだとすれば、それは『役に立たなければ生きている意味はない』という冷たくて重い気持ちから生えている。
弱音と本音と秘密は漏らすもの、司はこう言った。
「俺って役立たずだって思ってしまうんです。役に立たなきゃいけないのに、自分が生きてるだけで精いっぱいで」
冗談めかして言う司の顔は完璧に能天気で、頼りなさげでもあり、若者らしい未熟さもある。
「僕もそうだよ」
純が言うと、目をまんまるくするからおかしい。同調や協調はコミュニケーションの基本なのではなかったか、純はかろうじてあった知識に首をかしげる。嘘はついていない。
「そんなわけないじゃないですかっ!」
怒ったように司は純へ言った。
「……すみません」
と言った。何を謝られたのだろう、と純は思う、思って、黙った。
「貴方が自分でそう思うのなら、そうなんですよね。俺からはそう見えなかった……俺は貴方を見て、『俺もこう生きたい』って思ったから、そんな貴方が」
ごめんなさいと司は言葉を重ねた。
ああ、純が気を悪くしたと思ったのだ。
ひと一倍ひとからバカにされることに対して過敏な純だったが、そのセンサーは司に対して弱い。
司が恋人だからなのももちろんあるが、彼が純を決して傷つけたりバカにしないだろうという信頼のようなものがとっくに芽生えていたからだ。
「別にいいよ。……生きているだけで僕は精いっぱいで、生きているだけだ」
子供が言葉を見つけられなかった時のように、司はあうあうと口を開け閉めしていたが、とうとう口を閉ざす。
しゅんとしている司に、純はなにか言って、どうにかしてやりたくなった。
『役に立たなければ生きている意味はない』
そんなことはない、あってたまるか。僕はそうだけど、君はそうじゃない。
ここに居てはいけないなんて、君が思う事はない。
なぜ君はそんなことを思う、とは純は言えなかった。
生きれば生きるほどここは自分の世界ではないと思う事ばかりだからだ。
まったく自己肯定感とあまりにも簡単に言い過ぎなのだ。少なくとも純にとっても司にとってもそれは非常に難しいこと。
自分で自分の自己肯定感を上げることはできなかったが、お互いにならどうだ。
「ねえ、君は役に立ちたいんだったね」
「うぅ……はい、俺はヘンなんです。こういうの重いとかメンヘラとか」
「ヘンじゃないよ、それからメンタルヘルスを簡単に診断することを僕はしない。必要なら適切な医療機関を受診すべきだ。……それで、その役に立つ相手っていうのは僕でもいいの」
「え?」
「君は、僕の役に立ちたい?」
「そりゃ、」
「……それなら歩こう、君が見ている世界を僕に教えて、どう感じたのかを」
純はひとつ思いついた、それは素敵な思いつきだと思った。
自分を拒んでいる氷以外の世界は司からどう見えてどう感じているのか。
世界に興味なんか無かった、世界だって僕に興味がない。
だけど君が見ている世界なら知りたい、教えて。
「俺なんかでよければ、」
夜鷹純と明浦路司の散歩デートはそういうわけで始まったのだ。
「僕が飽きるまで」
「……はい!」
照れ隠しのような純の言葉に、司は感謝と愛しさを目尻ににじませて微笑む。
散歩デートは純や司の住んでいる家や、リンクの周辺等近しいところから円を拡げるようにしている。
突然グアムやモルディブに行ったりはしない。司には金がない、いや時間もない。
司と純が連れ立って街を歩き、司は見聞き感じたことなんでも純に伝える。
特に細かくスケジュールを決めたりせず、持ったとしても目的は一つ。
写真を撮っていいのは4枚だけ。なんでもかんでも写真を撮ったりはしない。
記録はときどき記憶を軽んじることがあるから。
「今日は俺が普段買い物に行く商店街行きませんか。大須のリンクの近くの」
「いいよ」
いいよ、と言いながらちょっと純は嫌そうだ。夏の名古屋は天井知らずの灼熱だ、しかもゲリラ豪雨は年々行き当たりばったりを加速させている。
「商店街はアーケードがあるから雨は避けられるし、直射日光じゃないから多少は暑くないですし、……暑くなったらお店すぐ入れますし」
「うん」
いいよ、って言ったのに司があせあせと商店街のいいところを述べてくる。それが見たくてつい、純も素っ気なくしてしまう。
「喫煙所!ありますっ!」
「ふ」
とうとう純も苦笑した。最近司は純の機嫌の取り方が上手になって来た。
喫煙所の場所に詳しくなっていく司がかわいい。
司が言った通りアーケードがあることで直射日光は避けられたが、それでもカンとして暑い夏の午後だった。
平日ではあるが人はそれなりに多い、カートをゴロゴロ言わせる観光客らしい人間の姿も多い。
「来週ぐらいからもっと多くなるでしょうね」
「どうして」
「夏休みです!」
「……ああ」
「夏休みは大会ラッシュ前の成長チャンスですからね、生徒さん達もたくさん目標を書いてくれてて……」
夏休みという単語は純にとって無縁である。
純の知る夏休みは理凰と光がもたらした。
決裂するまでは理凰だって純にそれなりに懐いてあれこれ喋っていたので。
幼稚園までは父親の呼び方を真似て、じゅんくん、などと呼んでいたのだ。小学校入学と同時に分別を付け、よだかさんと呼ぶようになった。
『よだかさん、おはよう』
『おはよう……理凰、学校は?』
『知らないのじゅんくん、夏休みだよーっ』
それは懐かしい記憶だった。
理凰に間違ったことを言ったと純は思わない、けれど理凰との仲を壊してしまったのが自分だという自覚はある。
「あっあそこ、何か入りますよ。何になるんでしょうね、」
ながらくテナント募集中だった空き店舗が内装工事中なのに司は気づいた。ほんの数秒足が停まる。
窓ガラスにビニルが貼られ、床に養生がされ、天井の照明が用意され……
「きみは何が入ると嬉しい」
純が聞いてやると、
「うーん、無難にコンビニですかね。ここら辺はセブンが多いから、ローソンになるといいなあ」
などと楽し気に言葉を続ける。
それを純は表情の乏しいまま聞いた、決して不愉快ではないのだと焦る必要はない。司は純を見逃さない。
「ふうん……」
司が首をめぐらせて振り返り、
「うーん、でもコンビニだったら何月何日オープンってポスターを貼るから、違うかもしれませんね」
「そう」
純にしてみれば商店街に――しかも普段夜鷹が使う訳ではない――に何ができるとしてもどうでもいい。
「……きみは、コンビニだと、何が好き」
いかにもな雑談を純は拡げた。
司が笑顔を深くする。笑うと頬の黒子がぐっと持ち上げられて位置を変える。
太陽に愛されすぎた男は少し声を大きくした、
「ローソンはカフェオレやカフェラテに入れる牛乳が美味しくて、量もメガがあるからお得なんですよね」
「ああ」
2リットルペットボトルの水を持ち歩く年下の男からは納得のいく答えがあった。
「セブンイレブンは最近紅茶も始めたんですけど、けっこー本格的な味がします」
「きみ、紅茶の味がわかるの」
「いいえ!でも、三種類選べて、味が違うなっていうのはわかります!ミルクティーは二種類あって……」
「そう」
「家のすぐそば、セブンですよね。いつもコーヒーでしたけど今度紅茶持っていきます」
「うん」
改装中のそこは何になるだろう。
司となぜ外を歩こうなどと思ったのか。
恋人を手に入れた純は落ち着いてきたころにひとつ思い出したからだ。
『恋をすると、世界がきれいになるんだ』
とある夜鷹純の親友ははむかし純にそう言った。
――純くん、恋をすると、世界がきれいになるんだ。
――ふうん。
恋をすると世界がきれいになるのだろうか、純は少しばかり期待をしていた。
回答は保留中だ。今のところはよくわからない。
「あそこのお肉屋さん、コロッケが美味しいんです」
しめした先にはいかにも昔ながらの商店街の肉屋というたたずまいがあった。
創業50周年の垂れ幕、結露したガラスケース、バットに並ぶ揚げ物たち、黄色い値札、重さをはかる計り。いまは見た目だけの経木の束がぶらさがっている。
「買うの」
「たまーに買います。値引きされたコロッケが俺は好きです」
「……」
「ち、違います、値引きがおいしいんじゃなくて、値引きは嬉しいんですけど、そうじゃなくて油が染みたやつの方がなんか好きで……」
「そう」
「半額になるんですよ!あと、余ってたらちょっとオマケしてもらえます」
値引きじゃないと言ったのに結局値引きで喜んでいる。
司は値引きを喜ぶ。値引きシールは何か司の脳を刺激する物質でも出しているのかというぐらい。
以前500円値引きシールが貼られた謎のソースを見つけた時はもう一も二もなくその場でカゴへ叩き込んでいたし、それが元値1,800円のソースだったことでしばらく引きずるほど。
『そ、ソースが1,800円……!?ソースが1,800!?せんはっぴゃく!?500円値引きされても1,300円……!?うわああああ』
あまりに嘆く。しかたなしに司は食パンにコロッケを袋サラダのキャベツと一緒に挟んでコロッケサンドを作った。
ソースの消費期限が近いからとチマチマ使う事もできず、ドバッと苦しそうにかける。
『超高級コロッケサンド!完成!』
純はソースが1,800円なことにも、コロッケサンドにも、消費期限にも興味はない。
でも司が一喜一憂しながら、調理器具もろくにない純の家でせっせと食べ物をこしらえているのを見るのは好きだった。
気分を上げたいのかランチョンマットまで広げている。
『おいしいといいね』
『はい、いただきます!…………ハァーッ』
『おいしくないの』
水に落ちた犬みたいな顔で司は、
『おいしいです……でも、1,800円の衝撃が味を上回っちゃって……あとおいしいけどブルドッグソースと正直そんなにわからないです、ちょっとクセのあるにおいするし……』
純はさほど減ったようにも見えないソースの瓶を手にして、ラベルにざっと目を通す。
『消費期限、今月末までだって』
『うううう~~~』
ああ、あの時のコロッケは、ここの店のものだったのかもしれない。
「……まだ、ソースが残ってるんじゃないの」
思い出して純が言うと、司はパッと顔をじわじわ曇らせた。
「はい!…………ソースって、あんまり毎日使うものじゃないんだよなあしかも賞味期限なら無視できるけど消費期限か……」
「使いに来なよ」
「……はぁい」
肉屋に後ろ髪を引かれながら、司はあっと小さな声を上げた。
「あ、すみません、不動産屋さん見てもいいですか」
「いいよ」
聞かなくていい、と純は何度か言ったことがある。
君がしたいように世界と向かい合って、僕に教えて。
1R 2LDK 事務所 店舗兼住居……
こちらも昔ながらの不動産屋で、店の窓ガラスにはびっしりと物件情報が貼ってある。
司の目当てはこの物件情報の文字通りのウィンドウショッピングだ。不動産屋を見つけると司は必ずと言っていいほど立ち寄った、中へ入ったことはない。
左上の家賃が安いものから司は見て、ああでもこうでもと言った。
独り暮らしをする時のための情報収集なのだという。
司は一緒に住みたいと言ってはくれない。
「風呂はバランス釜じゃないほうがいいんだよなあ」
「バランス釜ってなに」
「お風呂の種類です、こう、ガスコンロみたいに捻って火を点けてあっためて……って貴方の家はIHか」
「バランス釜だと、何が悪いの」
「追い炊きはできるんですけど、小さなお風呂なことが多いです」
「こっち。お風呂が広いよ」
「本当ですね、シャワーミスト、浴室乾燥機……ってこれ、売買物件ですよ、しかもななせんまん!?」
「ああ」
会話が弾んでいるのだろうか、純にはわからない。
ただ、続けようとはしている。
司は「貴方が会話をしようとしてくれているのが嬉しい」と言っていた。だからいいのだ。
「うーん、やっぱりこの辺は家賃が高めですね……ありがとうございます」
「うん」
なんだろう、と司がつぶやく。前方に人だかりが見えたからだ。
赤いエプロンの女性が声を張り上げている。
「ニューオープン記念で~す!2個ご購入の方にオマケでペンクマドーナツお配りしていま~す!」
「ドーナツだって」
「へえ!」
純が司に知らせた。純が知らせたかった、この若くてかわいい年下の男がドーナツが好きなのだと知っていることを知らせたかった。
邪魔にならないように脚を止め、司はスマートフォンを操作し店名を調べた。
「わ、東京で有名なドーナツ屋さんですって」
「そう、列ができてるよ、並びなよ」
「いいんですか」
「いいから」
二人で並び始めた。ほどなくして小さな店に入店する。
店内はピカピカで、むせかえるような甘い香りにまざって、少し塗料のツンとした匂いがした。
ショーケースに並んだドーナツをトレイに乗せ、会計するスタイルだ。
新規開店だからか今は奥のイートインコーナーは閉鎖されていて、販売のみらしい。
「えっと、何にしよう、えっと」
さっそくトングをカチカチさせている司に、純は彼のウキウキを察した。
『パン屋でトングカチカチさせるやつは素人』ギラリと司は言ったことがある。
みんな結構迷っているからか、列の並びはのろのろと遅い。
どれも砂糖のころもをまとわせていたり、フルーツをのせていたり、クリームをパンパンにつめこまれていたり、チョコレートをかけられていたりと見るからに甘そう。
純はさっと見渡して、素朴な茶色い、シンプルに見えるドーナツを指さした。
飛沫が跳ばないよう唇をほとんどひらかずに言う。
「きみ、カロリー制限しているって言っていたよね、あれ」
「ふふん!実はですねえ!ああいうタイプはじ~っくり油で揚げてるのでカロリーは一番高いんです!」
口元を抑えた司が得意げに言う。ちょうど前に居た若い女子はそれが聞こえたのか、そのドーナツにトングを伸ばしかけていたが躊躇したのがわかった、
「逆に一番カロリーが低いのは、……って、ドーナツ屋でカロリー考えるのは、つまんないからやめましょう、走ればいいんですっ」
女子はどこかあらあらしく、クリームがふんだんに使われているドーナツを二つトレイに並べた。
「俺はこれ、カスタードのやつと、それからシュガーコーティングのやつ……」
カロリーは気にしないが単価は気にするようだ、司はほとんど無意識に一番安いものを選んでトレイに乗せる。
「ペンクマちゃんまだある?ねーぇ、クマちゃんもうないの?ねーーぇ、ねーーーえ!!」
「静かにして」
耳に刺さる高い声が司の後ろから響いた。幼稚園ぐらいのポニーテールの女児と、母親の組み合わせだ。
「ペンクゥマちゃん、まだある?ねーーぇえ、クゥーマちゃん」
母親がたしなめたのが気に食わないのか、女児はからみつくような発声で繰り返し、その場で立ったりしゃがんだりをし始めた。
純が眉をひそめる。それを見てしまったのか、母親は声を潜めて𠮟りつける。叱られるとますます声を張り上げ、スカートを捲り上げたりしてみせた。
そうすると母親が無視できないとわかっているからだ。果てしないような攻防は続く。
そのうちに司がレジに到達する。50歳ほどの女性が慣れた手つきで薄い紙にドーナツを包んで会計を読み上げた、
「合計、500円でございます、ビニール袋は5円です」
「あ、はい、ください」
司は手にしていた自分の財布から千円札を出し、小銭を探し始める。
「ペェエンクゥーーーーマちゃん!!キューーーーッ!!」
少女のほとんど絶叫に近い声、司が5円玉を出そうとするより早く、レジの女性は身を乗り出して、クマちゃんドーナツの袋を母子のトレイに乗せてやった。
「ペンクゥーーマちゃん!」
「並べてえらいねえ、はい、ペンクマドーナツだよ」
レジの女性が少女と母へ柔らかい声を出す、しかし、司に向き直って、
「申し訳ありません、キャンペーンのドーナツ、今ので終わってしまいまして」
「エッ!?」
司は驚いて声を出した。
「お釣り495円お返しいたします、お品物こちらです、ありがとうございました」
「あ、え、」
とうとう5円玉を司は出しそびれ、ジャラジャラとお釣りが釣銭いれへ放り込まれる。
司は短い爪でちまちまと小銭を集めたが、100円玉4枚、10円玉9枚、1円玉5枚ともなるとそんなにすぐにはいかない。
レジの女性が咎めるような声を出した、
「申し訳ありませんが、小さいお子さまが、優先ですので」
「えっ」
店員は『が』を強調した。無料ドーナツを貰えなかった司がゴネているとでも言いたげである。
たまりかねて夜鷹が一歩、レジに向けて身体を踏み出してはっきりと言った。
「今のはおかしい、それなら、まず彼に言うべきだ」
「大変申し訳ございません、キャンペーンの商品は、数量限定となっておりまして」
「そうじゃない」
「すみません!ごめんなさい!」
司が大きな声を出した、行きましょう、と純の腕をほとんど掴むようにして促す。
母子連れの母と目があった、申し訳なさそうにオロオロと頭を下げた、少女のほうはといえばさっそく包みを開けてドーナツをべろべろと嘗め回していた。
夜鷹はきっちりと店員を睨んでから、店を出た。
直射日光を浴びたならその暑さとまぶしさを恨むことができるのだが、あいにくアーケードに遮られている。
店を出て、無言で歩いて、店が見えなくなってようやく司は立ち止まった。
ちょうど銀行の前である、土日の銀行はATMコーナーしか空いていないため商店街の中でここだけ人がぽっかりと居ない。
純はもう、よっぽど腹が立っている。司の顔がすぐには見られなかった。
司のすみませんは聞きたくなかったからだ、さっきの件で、司は純を迷惑に思っただろうか。僕を恥ずかしく思っただろうか。
「すみません」
言われて純はカッとなって顔を上げた、司は笑っていた、さらに腹が立つ、
「すみませんって言って、すみません」
「……なに」
「さっき、俺のために怒ってくれたじゃないですか」
「……」
「俺のために言ってくれたのに、あそこで俺がすみませんって言ったから、貴方が悪いみたいになってしまった。すみません、ありがとうございます」
純は司の顔を盗み見た、純のことを嫌いなんてかけらも思っていないのが表情でわかる。
そうだよ。僕は悪いことをしていない。間違ったことを言わなかった。
「さっきのは、俺が悪かったんです」
「……は?」
ようやくなだめられかかった心の、ささくれをまた引っ張られる。
「後ろで子供が騒いでるのも、クマドーナツがもう残りなさそうなのもわかってたんです、あの子が騒ぐ前に俺が店員さんに俺はオマケ要らないから後ろの子にあげてって言えばよかったのに」
うーん、と司が言った。
「でも、あそこにあるだけしかないかどうかはわからなかったもんなあ……」
アーケードによってやわらげられた日光が司の頬にさしかかる、表情は明るかったが、諦めが染みついていた。
「店はまず君に、説明をすべきだった」
「いやあ、まあそうでしょうけど、でも普通に考えたら子供が優先ですよ」
司はもう気にしていない様子だった、それがさらに純の苛立ちを誘う。
『普通』
普通、そんなもの。
「普通、それがわからない僕が普通じゃなかったと言いたいんだね」
「あ、いえ、すみません」
「きみのすみませんは聞きたくない」
いろいろなことに純は腹が立ちすぎてしまった。
軽んじられて腹が立たないのか、軽んじられすぎたのか。
明浦路司という男は、スケートに拒まれてきた男だと言うことは純にも最近少しずつわかるようになった。
本人から聞いたのではなく、周囲から聞くことが多い。
司本人は純に苦労話をしたがらないからだ。
事実なのに言えないというのは純の理屈に合わない。
それを苦労だと言いたくないんじゃないかな、と親友は純に言った。
苦労したということを恥だと思っているのか、いや、そんな簡単なことでもないのか。
それとも、純に言っても無駄だから言いたくないのか、だとしたら、僕は。
「――あの、ちょっと愚痴っていいですか、くだらないことなんですが!」
純の気持ちをつゆ知らない司は真面目な顔で言う。純はふっと思考の渦から逃れた。
「はぁ……僕の許可は必要ない、いつも言ってるよね」
「そうでした、見てください、これ」
さっきの店のドーナツが入った、茶色の小さなビニールを見せる。
「袋5円って言ってましたけど、ペラッペラですよ、何にも書いてないしコンビニのより薄い!これが5円!?しかもカスタードと生クリーム同じ包み紙に入れてて味が混ざってます!」
司はバババとまくし立てた、指こそささなかったが、顎をしゃくって見せる。その先には赤い手提げ紙袋を下げた若い女子の姿がある。
「あれさっきの店の紙袋ですよ、ビニール5円、手提げ10円、あっちの手提げにはお店の名前とか入ってるし、新規オープンならあの紙袋で渡せば宣伝にもなるのに」
「…………何に腹を立てているの」
「え?あ……俺、ビニール袋5円は高すぎると思うし、味が違うものをまとめられるのも嫌です。…………ご清聴ありがとうございました」
「ふ」
純はとうとう笑った。
あまりにもささやかな怒りを、特別みたいに見せられて。
「クーッ、こんなの流しのゴミ取りしたやつ入れるぐらいにしかならない……」
「……ビニール袋使い回すのやめなよ」
ビニール袋をクシャクシャに丸めたものが司のリュックに入っていて、コンビニでエコバッグみたいに取り出した時は思わず尻を叩いたことがあった。
もったいなくて……司はかわいい顔をしたが、エコバッグを買う様子はない。
「あの店は愚かだ」
「え?」
「……君を軽んじた、そういうことをやるんだと、他の人も見ていた」
「ありがとうございます」
何がありがとうなの。純は聞かなかった。
司は純が自分を失う事を損失だと思ってくれたことが嬉しかった。ことがわかった。
「なんか、ケチがついちゃったなあ」
ビニールを薄く開くとドーナツの包みを眺め、司はぼやいた。
「司ちゃん!つーかーさちゃんっ!」
パンッと威勢のいい声がした。振り向くと、大荷物のまるっこいどこに出しても立派な老婆がこちらへむかって歩いてくる。
薄紫色のワンピースを着て、紫色の手提げ、白髪の前髪をひとふさ、紫に染めていた。紫だらけだ。
「蝶々さんこんにちは!……あ、えっと、ご町内の」
司が純へどもりながら老婆を紹介をしかけた。
蝶々さんと呼ばれた老婆は破裂するように声を立てて笑う。年寄り特有の前のめりだ。
「町内会長のヨメだから、蝶々夫人ってね。親戚みーんなおんなじ名字ばっかりだもんでみんな蝶々さんって呼んでるわけだわ。旦那?死んだ。蝶々夫人って若い子は知らないがね、司ちゃんこないだどうもね、ありがとね」
「いーえ」
応えながら司はくすりと小さく笑って純へ目くばせした、蝶々夫人とは有名なオペラだ。スケートではシェヘラザードと並んでそりゃあもう、散々聞くったら。
「まったくさあ、あっついねえ、あんた黒なんか着てたらあっついでしょーよ、ねえ」
あんた。黒い服を着ているのは純だ、少し頭を下げる。
これは雑談だ、立ち話だ、純の世界にいままでなかったものだ。
自己紹介、立場、親戚の名字、夫の死、司への感謝、あっという間にババババと浴びせかけられた。
こんな遠慮のないコミュニケーションに純は慣れていない。
いい意味で尊重されない、ぶっつけられるような言葉の連続に純は頷いていいのかもわからず硬直した
「それでね、ね、司ちゃんいいところに来た!もう帰るとこ!?これ、これあげるからね」
老婆は手提げから、油揚げ二枚とがんもどき二つの入ったビニル袋を取り出して司へ差し出した。思わず受け取るとまだしっかりと温かい。通り越して熱い。
「あちっ」
「揚げたてだもんで。月島とうふ店で、いま揚げたてだって煽られちゃってさーぁ、ついたくさん買っちゃって、そんッな食べらんッないわよねえ、独り暮らしだってのにさ」
続けて手提げからバレーボール大のビニールを取り出してさらに押し付けてくる。生のおからはずっしりと重い、こちらも温かい。断る暇もなく司はふたつの袋を抱かされてしまった。
「おからだ」
「そ、おから、タダだよ、タダだからって言われてこれも、2袋、重ッたい、そんッな食べらんッないわよねえ、独り暮らしだってのにさ」
「あは」
「司ちゃん食べな、おから、体にいーいから、あたしなんか84歳だし、85歳だったかな、ハーゲンダッツとスタバが好きだけどね、あーッ重かった」
長生きする年寄りというのは、おしなべて食欲が旺盛なものである。
「あっあ、そしたらこれ、お返しにどうぞ。さっき買ったばっかりですけど、ドーナツ嫌じゃなかったら」
司はいいことを思いついたとばかり、さっき買ったドーナツのビニールを差し出した。
ケチがついてしまったドーナツだが、物に罪はない、すべてはひとの受け取り方しだいだ。蝶々さんは受け取って黄色い声を上げた。
「ありがとう!へーーェ、若い子がいっぱいいたから遠慮してたんだよねーーェ、嬉しいね、ありがとう!じゃあね、あぶらげね、焼いてお醤油かけるだけでいいからね」
お礼を言われるうち、司はさっぱりとした気持ちになって来た。
「司ちゃんエコバッグ持った方がいいだわ、こんなんでお金取られるの、腹が立つでしょう――」
司は生のおからをどっさりと、それからきつね色の油揚げを二枚にがんもどき2つ、おしゃれなドーナツと交換した。
「ねえ、ねえッ、あんたさ、あんたの髪ったら、あたしとあべこべじゃない?」
突然、ホラッと老婆は皺の深い汗ばんだ額から前髪をかき上げて、白の中にひとふさ染まった紫を見せつける。
「――そうかもね」
純も珍しくつられて、自分の前髪をかき上げて見せる。蝶々さんよりも先に司がキャアッと悲鳴を上げた。
「あんら、顔の景色がいいだね、寿命がのびちゃうったらね」
蝶々さんが純の顔へ手を合わせて拝んだ。
「そうなんですよぉ~~」
嬉しそうに司が言う、自分が褒められた時の何倍も喜ぶから、純も悪い気がしない。
「あぶらげ、焼いてお醤油かけるだけでいいからね」
蝶々さんは途中二回も振り返ってあれこれ言っては、帰っていく。
「嬉しそうだね」
「えへへ」
正しく対価を支払って得るべきだ――
純も司もそれは理解している。
司が買ったドーナツのほうが、油揚げよりも高いだろう。でも、全然問題ないのだ。
「僕が持つ」
「あ、ありがとうございます」
純は司からおからのビニールを取り上げると抱えて歩き出した。
「おからってどうやって食べるんだろう」
「作ったことないの」
「居酒屋で煮たりしたのは見たことあるんですけど」
「豆の、においがする」
すん、と純が鼻を鳴らした。
おからは青臭い。食べ物の匂いはだいたい好きじゃないけれど。
どれだけ苦労して純が明浦路司を手に入れたか、世界は知らなくてもいい。
僕だけが知っていればいい。そう思っていた。
あげる、と渡された紙袋。ぎっしり詰まっていたうちを一つ取り出す。
まだらに生白いきつね色のそれを手に慎一郎は、
「それが、ええと、この、」
「ドーナツだよ。貰ったおからで、ドーナツが作れると彼が言い出して――」
「ああ!」
どうやら話の筋が飲み込めて来た。おすそわけだ!
純は手元のスマートフォンを操作すると読み上げた。
「ホットケーキミックス、おから、牛乳、玉子、砂糖……」
レシピだ。
夜鷹純の口からホットケーキミックスという単語が出てくるなんて、慎一郎は深い驚く。同時に嬉しいと思う。
「……」
あげる、と渡された、まだらに生白いきつね色のそれ。紙袋にぎっしりといくつも入っていたそれら。
ふわふわとかさっくりとは程遠い、ずっしりとした重みが感じられる。
「ねえ、この形……」
ほぼ、球体である。ドーナツといえば輪っかだ。
ドーナツ化現象などにも用いられるほど、ドーナツといえば輪っかだろう。
「穴がないみたいだけど」
「必要ない」
必要ないってなんだい。
世間にはまあ、穴のないドーナツっていうのもあるけど。
「ねえ、これ、揚げてる?」
キッチンペーパーで包まれただけだが、油のシミはほとんどない。
「必要ない」
必要ないってなんだい。
世間にはまあ、焼きドーナツとかあるけど。
慎一郎は頬張った。
口の中の水分が一瞬にしてもっていかれた。
「…………甘さが、とても控えめだね。砂糖が入っていないんじゃないかな」
「必要ない」
必要ないってなんだい。
お菓子作りは現実との戦いであるとエイヴァは言った。
作っている最中「ヒッ」というぐらいバターも砂糖も覚悟を持って入れなければいけない。
覚悟と勇気が必要よ。臆病ではおいしいケーキは作れない。
とりあえず慎一郎は礼儀として、穴が空いてもいなければ、揚げられてもおらず、砂糖も入っていないおくびょうドーナツをどうにか褒めた。
「…………素材の、味がするね」
「玉子は、僕が混ぜた」
親友は薄く笑う。
ジャリッ。カルシウムは豊富なようだった。