50になったらミミチーはキツい
原作軸14巻以降謎時空よだつか、司の悪癖について
原作・単行本最新情報を含みます
🦅がngyに戻っている設定です
注意:スケートとngyの素人です
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明浦路司の悪癖について。
ドンッ、と小さくだがはっきりと鈍い音がしたので夜鷹は振り向いた。
誰かが氷の上で転倒した時の派手なものではない、中身の詰まったもの同士を至近距離にぶつけたような。
そこには夜鷹の予想通り、明浦路司が自分の腹へ拳を打ち込んだ姿があった。
司の横顔に感情はとりたてて見つからない、のがいっそ不気味である。怒りとか苛立ちとかそういうものはない。
ドンッ、ともう一度司が自分の引き締まった腹を拳で叩いた。見間違いではなかったようだ。
ふうっと息を細く吐き出し、司は氷を一蹴りした。するすると伸びて、図面を描く。
司のブレードがいくつも滑らかな氷の上に引っかき傷をつけていく、美しい。
ただ滑っているだけなのに思わず見てしまうほど美しいというのがどれほど難しいか、夜鷹が世界で一番知っている。
ツイズルから、イーグル、股関節は柔らかく足首もしなやか、びくともしない体幹。
足首を深い角度で返してもう一度、ツイズルからイーグル、今度は状態を後ろに倒してクリムキンイーグル。
シャツがまくれ上がってさっき司が殴りつけた腹が丸見えになる、夜鷹は思わず目を凝らしたその腹は平然としている。
お手本のようなと言うには魅力的過ぎるし、あまりに簡単そうにやって見えすぎる。
あれはスケーティング技術だけでなく腹筋やバランス感覚といったものも必要とするというのを忘れさせるほど。
「明浦路先生のイーグルは美しいね」
「うん」
手短に同意した夜鷹に慎一郎は驚かない。夜鷹は嘘をつかない。
その口数の少なさや周りと距離のある態度から「見下している」などと部外者からみなされがちだったが、夜鷹はたずねられれば他人の技術を褒めることをためらいはしなかった。
積極的に夜鷹と交流した慎一郎は知っている。
スケートする足を止めて二人が自分を見ていることに司は気付いた、よおし、とでも言いたげに助走に入る。
明浦路司はアイスダンスの選手だった、アイスダンスに2回転以上のジャンプはない。
だからどうしてもジャンプを跳ぶときの助走は長くなるし、さっきまでの滑らかさや優雅さはどうしても欠けてしまう。
教え子の振り付けにも用いられる難しい入りからのジャンプなどは通しでもない限りあまり選ばない。
せーのっ、とでも言いたげに、司が跳んだ。
2Lzだった。司はこの貸切ではルッツか、サルコウを跳ぶことが多い。
力みすぎ。夜鷹の脳内で着氷の前から減点が入る。
案の定着氷は乱れて手をつく、最近では尻もちをつくような転倒はずいぶんと減った。
司はもう一度助走を長く取って、慎重に2Lzを跳んだ。今度は大丈夫。夜鷹は判断する。
その通りに降りた、加点がついてもいいだろう出来栄え。司は歯を見せてうれしーっ、という顔をする。
夜鷹はたとえ1Aであっても世界一美しく跳ぶ自信がある、回転数の少ないジャンプを軽んじるようなことは決してしない。
たとえ3Aが降りられるとしても2Aをぶざまに跳んでいいわけがない。
夜鷹の見立てでは司は4Lzは無理にしたって3Lzは跳べるだろう、なのに、2Lzにこうしていまだにつまづくのが不思議で仕方がない。
かといって、跳べないわけでは決してない。スロースターターというのだろうか。
どこか彼にはブレーキ、妨げのようなものがあるように思われた。それが失敗を起こし、そのブレーキに気付いた次では挽回するというような奇妙さ。
司は2Lzが跳べて満足したのか、また教え子の振り付けを踊り始める。さっきとは逆、鏡に映したような動き。これは教え子に見せるためのものだ。
多くの選手は一つのプログラムに魂も時間も注ぎ込むようにして完成させる、これでは単純計算で二倍の手間暇だ。
司のやろうとしていることは右利きの人間が両利きになろうとしているようなものといえた。
正式な方と比べ夜鷹が見ればわずかに見劣りがある。
夜鷹の視線に気づいた慎一郎がつぶやく、
「実演して教えるコーチはたくさんいるけど、両方向演じてみせるのは明浦路先生ぐらいしか私は知らないな……」
「呆れる、効率が悪すぎるしそこまでしなければ伝わらない教え子に能力がないと判断ができないなら、彼には判断力が欠けている」
「純くん」
「……わかってる」
夜鷹は言葉をとめた。慎一郎名義の貸切において、指導について踏み込み過ぎないと決めていたからだ。
それでもときどき夜鷹はコーチとしての司を否定する言葉はぼろりとこぼすことがあった。
司がコーチとして成長していくごとに、選手としての彼は失われていく。
これは確かに犠牲だ、しかし、捧げたものに見合わない、つまり正しくない犠牲だと。
けれど司のスケートはやはり美しくて心に残り続ける、彼よりも上手な選手など自分を含めてたくさんいるはずなのに。
なぜ、わからない。わかる必要はない、もう飽きた。事実だ。
司が止まった、宙を睨んでなにかぶつぶつと唱えている、何かまた思いついたのだろう。
司は常に考えて思考を止めない。夜鷹には劣るものの秀でた空間把握能力を持つ司だが、彼の本当の武器はその思考力とそして言語化にある。教え子に対していくつもの言葉でもって説明を繰り返す。
ドンッ、司がまた腹を叩いた。やはり司は痛みどころか何も感じていないようだ。
慎一郎も見たらしく、夜鷹の方を見てくる。
珍しいことに夜鷹の方が先に口を開く。
「いまの」
「さっきもやっていた」
「集中を高めている、とかでは――」
「ないだろうね。聞いてくる」
喉がつかえてドンドンと胸を打ったことはあるが、そんな強さではない。
夜鷹が氷を蹴って司の元へ寄った。慎一郎は司の身体を案じつつも、夜鷹のその背をいい傾向だと見守った。
「ねえ」
「ワッ!はい!」
夜鷹が近づいたのも気づいていなかったらしい、目が泳ぐ。それだけ集中しているということだ。
この集中力があればきっと3Lzを――いや、そうではない。
「さっきから、それはなに」
「それって?」
ぐうう。司の腹が切なく鳴いた。
ドンッ。司はその腹に自分の拳を叩き込む。
「それだよ――自傷行為?」
自傷行為、そう自傷行為だ、これは。その単語を舌にのせた夜鷹は、苦いものを含まされたように顔をしかめる。煙草の味に似ている気がした。
「あっは、すみません」
司が笑う。
くうぅ。さっきより力なく腹が鳴る。
司がほとんど反射的に拳を握ったのが夜鷹にはわかった、だが、夜鷹の方が絶対に速い。
その手首を掴んだ。無意識の身体にありがちの、躊躇のない力がこもっているのがお互いに伝わった。
「それはなに――それはなぜ」
質問を増やす。
「えっと……」
司は目を白黒させた、身を引こうとするから夜鷹はますます距離を詰める。睫毛の本数を数えられるぐらいに近づいた。
「答えて」
「実は今日、寝坊して朝から食べそびれて、忙しくて――」
「そうじゃない」
そんなことを聞いていない、夜鷹は握った指に力をこめる。司の指が首を噛まれた子猫のように力を抜いた。
「腹が鳴ってうるさいから、それで」
「腹が鳴ってうるさいから自傷行為をしてるってこと?」
「自傷行為ってそんな大げさな、クセみたいなもので」
「はぁ……プロテインは」
「あります、――でも」
司はへなへなと太い眉尻を下げて笑った。
「せっかく思う存分滑れるしジャンプも跳べるのに、1gでも重くなるの、なんか嫌で」
夜鷹は手を離した。わかるからだ。
黙ってしまった夜鷹に対して、司は更に言い訳を並べた。強調するようにムキムキとたくましい腕に筋肉を盛り上げる。
「癖みたいなものなので気にしないでください、ほら、全然何ともないです!し!終わったらプロテインも飲みます!ほら!」
なぜか焦ったようにぺらっと司がくたびれた練習着を捲り上げた。さっきも見えたきれいに割れた腹筋。
「――君が自分を傷つけるのを僕は見たくない」
明浦路司は夜鷹純を、少なくとも夜鷹純のスケートを愛している。
止めろとは言わなかった。愛しているのなら言うことを聞くはずだと思ったがどうもこの男は夜鷹の言うことを聞かない。
「え、うーん、努力します……」
きっとこれは果たされないのだろうな。
「空腹でお腹が鳴ってうるさいから殴ってたんだって」
まるで母親に告げ口をするかのように夜鷹は慎一郎の元に戻ると言った。
慎一郎は口をきゅっと結ぶ。
「……それは」
「たまたま今日は食事をとりそびれただけで、普段は正しく食事をとっていると言って…………なに?」
「いや」
夜鷹は気づいた、食事を嫌いサプリでほぼ肉体を維持している自分がこんなことを言っているのは少し不自然で滑稽に見えたかもしれない。
「僕は、栄養は摂っているよ」
「ああ、そうじゃなくて」
慎一郎は少し遠い目をした。
「僕も昔、減量をした時に似たようなことをしたなって、そう思ったんだよ」
「――君が?」
懐かしくさみしがる顔で慎一郎が言った。
「28歳のあの時、僕は絶対に金メダルを獲りたかった。選手の中で僕はほぼ一番身長が高かった、当然体も重い」
ジャンプとは重力に逆らう行いである。筋力がどうだと言ったって軽いに越したことはない。
「……」
「甘いものを食べたくなった時、ちょっと頬をつねったりしてね。それを思い出したんだ」
「そう」
夜鷹は純の顔で、親友の言葉を聞いた。彼とは色々な話をしたはずだったのに、まだこんな話が出てくる。
外的刺激というのは確かにあるんだなと思った。
「でも、明浦路先生のあれは意識してやっているわけじゃないんだよね」
「うん、癖だって言っていた」
「それは――心配だ」
「?」
「意識してやっているなら止めようがある、でも無意識だと気づけない、やってしまったという後悔すらないなら」
「……」
ふっと慎一郎が笑った。
「純くんが携帯電話を投げて壊すのとは違うってことだよ」
むっと純が唇を結んだ。
遠くで司が危なげなく2Lzを降り、着氷後得意の連続ツイズルを決めている。
その顔に曇りは無かった、どころか晴れ渡って、喜びしか見えない。
この慎一郎と夜鷹のワリカン貸切に便乗(文字通り乗らせてもらっている)するようになって数回目、司は一つ決まりを自分に課していた。
いのりのための練習だけではなく、自分のためだけにも時間を使うこと。
氷の上で好きにしていいと言われても戸惑ってしまう、いいのかなと後ろめたい、でももったいない。
だから最初から、いのりのための時間と自分のための時間を決めることにしたのだ。
自分の時間は夜鷹のジャンプを追いかけたっていいし、慎一郎を真似てもいい。
だからルッツとサルコウが増えるというわけ。
「何か甘いものでも持ってきたらよかったな」
「今日、帰りに何か食べさせる」
夜鷹は宣言するように言った。慎一郎が少し含んだ笑い方をする。
「鶏肉?」
「…………コンビニに寄るよ。煙草を買いたいからね。はぁ」
いかにも世話が焼けると言わんばかりのたっぷりとしたため息に、慎一郎は屈託のない笑いで返した。
「冷蔵庫くらい買ったらどうだい」
「僕は必要ない」
「君には、ね」
「……慎一郎くんは、彼に甘いと思う」
光のコーチを辞めた夜鷹は狼嵜家の援助ではなく、いまは自分で貸切枠を取って氷に乗っている。
援助の継続を狼嵜家は申し出たが夜鷹が断ったのだ。
狼嵜家の当主からは彼の身を案じる手紙が夜鷹に送られたが彼はそれを見もしなかった。
とうとう慎一郎のもとへも手紙が届く、今も氷に乗っていることを伝えるべきだと慎一郎は夜鷹に言った。
夜鷹はそれをもっともだと思い、氷には乗っている、自分で手続しているから問題ないと伝える。
狼嵜家がどのようなコネやツテを使っていたかは知らないが、さすがに以前のように毎日同じ時間に貸切枠を取るのは難しくなった。
毎日同じ時間に氷に乗りたいのならリンクを変える事も検討しなければいけない、いつものリンクか、同じ時間か。
夜鷹は自宅近いリンクを選んだ、そして他のリンクの深夜枠が空いていればそれを気まぐれに取る。
気まぐれに取って、慎一郎に打診する、慎一郎がそれを司にも打診する。
第二次真夜中スケート会、これはそういう枠だった。
そして、
「今度私も泊まりに行きたいな」
「いつでもいいよ、君たちがくれた客用布団がある」
ずいぶん昔、夜鷹が新居を購入した時に祝いに慎一郎夫婦が夜鷹に贈ったふたくみの羽毛布団のことを言っている。
「お泊り会だね、……ふふっ」
慎一郎はつい、思い出し笑いをした。
かさばるものを新居に贈るのはあまり一般的ではないだろう。選んだのはエイヴァだ。
『慎一郎をジュンの家に泊まらせる時に、ソファも床もダメ、ジュンのベッド?絶対ダメ!!』
「あの布団、けっこういいものなんだ。ふだん明浦路先生が使ってくれているみたいでよかった」
「……」
夜鷹はふっと顔をそらした。
そしてこの貸切の後、夜鷹は司を家に上げて仮眠を取らせている。
居候している自宅まで以前は走って帰宅していたが、未成年の娘の居る家に深夜コソコソ出入りするものがあるというのは近所へも体面が悪い。
漫画喫茶で朝を待つと言った司を、夜鷹は自分の巣へ連れ込んだ。
光のコーチを辞めたことによる心境の変化が夜鷹にもある。
現役を引退した時のように、何もかも終わりで全て要らないというような気持ちにはもうなれない。
縁。
最初は鴗鳥慎一郎を見届けるというかろうじての糸だったそれは、少ないもののいくつもよりあつまって彼を引き留める太さを持ち得ていた。
だから意識して夜鷹は、以前ならやらなかったことをやるようにしている。
その一つが司を自分の部屋に入れる事だった。慎一郎はそれを知っているので、自分が贈った客用布団が予想していない形で活用されていることを喜んだわけだった。
「純くん?」
「……なんでもない」
結論から言えば、客用布団を司は使っていない。ぴかぴかのカバーのまま、クローゼットの奥に眠っている。
それなら司はどこで眠っているか。ソファ?司はソファを希望した。駄目だよ。
まあ要するに純のベッドで司は寝ている、じゃあ純がソファ?そんなわけはない。つまり。
慎一郎と解散し、リンクから夜鷹の家までは徒歩での移動である。だがコンビニに寄ろうとすると一度家の前を通り過ぎる必要があった。
「今日もご厄介になります、すみません」
「……家を出るつもりは?」
「一人暮らししたいんですけどね、羊さん、あ、俺がお世話になっている家のお嬢さんで……」
「それは知っている」
「そうでしたね、羊さんが大学卒業までは絶対家から出さないから!!って言っていて……」
「何年先の話をしているのかな」
「あはは、前は中学卒業って言ってた気がするんですけど……」
加護耕一、加護羊、そして亡き妻の芽衣子。その家族構成と、いつからお世話になっているか、どれだけ感謝しているか、貸切後の帰り路や家で司が語るから夜鷹も覚えている。
最近では加護家の間取りや、耕一がドラム式洗濯乾燥機を購入しようか迷っていて止めているなんてことまで覚えてしまったぐらいだ。
なのに司は毎回、俺がお世話になっている家の……と初めてのように話す。
最初夜鷹はそれを、司の記憶力の問題だと思っていた。だがそれが違うとすぐに分かった。
夜鷹が自分の話など、しかもスケートに関わらない事など覚えていないと思っているのだ。
それが間違いだと証明するのはたやすいはずだった。でもそれはしなかった。
ぐうう。
司が動くより早く、夜鷹が司の背中を叩いた。
「痛ッた!すみません」
「今叩いたのは、君が叩こうとしたからだよ」
「えっ、えー……」
君が自分を叩こうとしたから、僕は君を叩く。
理屈も文脈もめちゃくちゃだった、だがあっている。
夜鷹はポケット中の煙草の箱を握った。ソフトケースの煙草はくしゃっとした感触で、残り本数が少ない事を知らせてくる。
「……」
「……」
沈黙のままコンビニ前に差し掛かった。夜鷹の家の最寄りのコンビニはセブンイレブンである。
深夜静まり返ったこの町でコンビニだけは死んだように青ざめ息づいていた。
財布を取り出そうと司がリュックを開けると、はらりと一枚のチラシが落ちた。
夜鷹はちょっと腰をかがめ、その紙切れが地面につくよりも先に掴む。
地面に落ちたものを拾うのは汚いからしたくない、だから落ちる前に掴めばいい。
「はい」
「ありがとうございます!」
司に向かって差し出したそのチラシには、
「……ピザ?」
ピザ屋のチラシだった。
「こんなものをなぜ持ち歩いているの」
「今日の朝バタバタしてたんですけど、ポストに入ってたチラシのなかにこいつが居て、いつもは冷蔵庫にはっつけてるんですけど靴脱ぐのが惜しくて」
「ふうん」
夜鷹の疑問への回答としては、ちょっと不十分だった。
チラシがリュックに入った理由は分かった、だが、チラシを捨てない理由はわからない。
「ピザ屋のチラシは捨てられないんですよね~~」
まさに夜鷹が聞きたかったところだ。だが司は、
「煙草買ってきます、いつものでいいですか?」
「……」
さっさと一人でコンビニに入ろうとしている。肩をぶつけるようにして司を押しのけ、夜鷹が先に入店した。
2:00を過ぎている、この時間ともなればさすがにおにぎりコーナーやサンドイッチコーナーは空白の方が多い。
司は嬉しそうに値引きシールが貼られたおにぎり、ツナマヨを二つと、たまごサンドを手にした。
「袋けっこうです!」
「おはしいりますか」
「いいえ」
カフェモカ色の肌した、緑色の目の若い店員の名札には異国の神の名前。おにぎりはお箸が不要なのを知らないのか、それとも全員に聞いているだけなのか。
夜鷹は横から口を添える。
「煙草、22番をふたつ」
「はい」
青年が素早く煙草を取って戻る間に、司はサンドイッチとおにぎりをリュックに放り込んでる。
その隙に夜鷹は支払いに交通系ボタンを押した。司があっと言う間もなく、suicaで支払いを終えてしまう。
「お金」
無視して夜鷹は入口へと向かった。
雑誌コーナーには一人の女性が立ち、紐でくくられた女性向けファッション雑誌の隙間から中を覗き込んでいた。
客は夜鷹と司を除けばただひとり。
繁華街もまあ徒歩圏内だからか、ゴミ箱は店の外に無い。
コンビニで街の治安がわかるんですよ!トイレをご自由にお使いくださいのところは、治安がいいんです!
少し前に夜鷹へ向かって得意げにそんな聞きかじりを口にした男は、あたふたとついてくる。
ここは自動ドアだ、自動ドアなのだから夜鷹が道を開いて待ってやる必要はない。
勝手知ったる憧れの家、遠慮は忘れないながらも物覚えよく司は上がりこむと靴を揃え、玄関に一度リュックを下ろすとまず洗面所で手と顔を洗い、うがいをした。
「シャワー使います?」
「後でいい」
リュックから着替えを取り出すと司はいそいそシャワーへ向かった。
「じゃあ俺、お先に借りますね」
夜鷹はまずはタバコが吸いたかった、司がいない時は夜鷹は部屋の中で煙草を吸う。だが司が来ている時はベランダか、換気扇の下だ。
それを司は知っていた、なぜってクリーニングのタイミングによってはデスクの灰皿が山盛りになっていたりするし、ドアを開けた途端濃いめのタバコの臭いがするからだ。
ふと、玄関に転がった開けっ放しのリュックが目に入る。気を利かせるというよりは気がまぐれたので咥え煙草のままそのリュックを拾う、すると開けっ放しだったので口からぼろぼろとおにぎりとサンドイッチがこぼれ落ちた。
煙草を唇から外してまで打ちたい舌打ちでもないため、しかたなくそれも拾う、リュックには教え子を指導するためのタブレットやら筆記用具、それからさっき彼が取り出した着替えも入っていたからかおにぎりもサンドイッチもひしゃげていた。
食べ物をテーブルの上に転がすと、リュックはソファへ。
煙草を吸って、肺を汚して脳を締め付けていると司がびしょびしょとシャワーを終えた。
タオルでごしごしと頭を拭きながら、テーブルの上におにぎりとサンドイッチを見つけ、あっと短い声を出す。
「運んでくれたんですか、ありがとうございます」
「うん」
「TVつけてもいいですか」
「音は消して」
「はい」
夜鷹はもう煙草を吸い終えていた。シャワーに行くと思っていたのにそこにまだ立ったままでいる、司は少し不思議に思ったが、おにぎりのパッケージをぺりぺりと剥がして食べ始めた。
すると夜鷹はシャワーへ向かった。司は知らなかったが、夜鷹は司が食事を始めるのを待っていたのだ。
シャワーを浴びながら夜鷹は自分の引き締まった腹を手のひらで撫でた、この腹に固形物を入れることはほとんどない。
栄養面においてプロテインやサプリで健康は維持されているが、空腹というのは別枠である。
くうっと腹が鳴る事だって当然ある、夜鷹はそれを聞くとプロテインを飲むことにしていた。
だがそれは引退してからのことだ、現役時代は今よりも食事をとる事は多かった、徹底された管理食を決まった時間、一口20回咀嚼と義務付けられていた。
嫌で嫌で仕方なかった、物を食べると身体が重くなるのを感じた、食欲とは夜鷹のためにあるものではないと思っていた。
なのに朝起きると腹が減って、腹が鳴る、夜鷹は腹を叩いたことがあった。
怒り、いまいましさ、僕は欲しくない。欲しくもないものを欲しがらされている、意に添わぬ厚着をくらった気分で頬がぴりぴりした。
体を管理するためには食事が必要――そんな言葉でなだめられてたまるか。
貰った金メダルに頬を押し当て、これで栄養がもたらされてくれればいいのに、いや、空腹だけでもこれで満たされてくれないかと思ったこともある。
1gでジャンプの成功も失敗も切り替わるかどうかの世界に生きていた。
司の笑顔を夜鷹は思い出す。
『せっかく思う存分滑れるしジャンプも跳べるのに、1gでも重くなるの、なんか嫌で』
わかるよ、わかるとも、この世で一番僕がわかると言ってもいい。
シャワーの温度を少し下げた。本当は水でもかぶりたいぐらい。
この後あたたかい男を抱いて寝るのだからそれぐらいでちょうどいい。
近日中に慎一郎から貰った客用布団を使う必要があるだろう、いかにも新品という状態のままでは誤解を受けてしまう。
誤解ではないのだが。でも。
ベッドの上で司が何を見ているかと言えば、さっきのピザ屋のチラシである。シャワーを終え、水のボトルを手にした夜鷹の視線に気づいて、えへ、と司は笑う。
「俺、ピザ屋のチラシだけは許す主義なんです」
「……そう」
色々言いたい事を夜鷹は水とともに飲みこんだ。夜鷹はボトルの一本を司に手渡す。
「食べた?」
「え?ああ、食べました!」
一瞬ピザに気を取られたようだった、そんなに好きなのかな、好きならここに届けてもらったら食べるだろうか。
「君はピザが好きなの」
夜鷹はピザに興味はまったくない、だが、司の好きな食べ物に興味はあった。興味のある人間の好き嫌いに興味を持ちたかった。
「うーん、好きって言うか……まず絶対失敗ない感じはしますね。パンとチーズならなんとかなるというか……」
「ふうん」
司の向かい、ピザ屋のチラシを真ん中に挟むようにして夜鷹も寝転がる。ストレッチは後でいい。
「あとハーフアンドハーフ!知ってます?味を半分ずつにできるんですよ、だから組み合わせも重要で……」
楽し気な司の顔に、自分の腹を殴りつけた無表情は見つけきれない。
「そこに40%オフのクーポンとか、コーラ一本無料なんて言われたらたまらないですね」
さっきコンビニで司が選んだおにぎりとサンドイッチを思い出した、司が引かれているのはどうも『お得』のほうなのではないか。
「よく頼むの」
「うーん、あんまり……でも、ピザはわりと食べてます」
なぜだろう、どういうこと、夜鷹に向けて司はくすくすいたずらっぽく笑いながら、
「実は、もっとお得なワザがあるんですよ。……持ち帰りです!」
「デリバリーピザなのに?」
「そうっ!お店まで行くと半額なんです!半額、つまり50%オフ……ふふっ、しかもコーラもたまに貰えます、たまらない」
「ふうん……」
君が食べたいなら、ここにピザを運んでもらえばいい、結局言いそびれた。
「ピザのチラシ見てるとピザ食べたくなるなあ~、あ、おやすみなさい」
「おやすみ」
まだ、夜鷹の眠る時間ではない。夜明けとともに夜鷹は眠る。電気を消す、シーツは温かい、誰の声も届かない、司は背を向けない。
悪癖。
ひとくちに腹が鳴ると言っても原因はいろいろある。
司のは中でも一般的な、空腹期収縮という空になった胃が動き、内部に溜まった空気や消化液が混ざり合って音が鳴るものだ。
病気でも異常でもない。どこにでもある体のよびかけ。そして、司はそれを殴る。
司のこの悪癖がいつ始まったのかについては、これについてははっきりしていた。
鴗鳥慎一郎の銀メダル獲得直後からである。
司は二十歳だった、高峰匠に見出されてアイスダンスの選手になった。
名古屋から横浜へ移動したばかりの時は瞳と組むこともなくただ基礎連のみを毎日繰り返す。
匠は司をめったに褒めなかった、どころかひたすら叱る、そうじゃない、できてねえ、違うだろ、やりなおし。
白鳥珠那などは「地獄」と言ったが、それでも司はあの時代をはっきりと幸せだったと思っている。
求めていたものはこれだ、リンクで小さな子供に「じょうず」と微笑まれたり、同好会で「もう教えられることなくなっちゃった」と言われた時のむなしさに比べたら、こんなもの!
司は幸せだった、匠は問題点を指摘してくれる、ということは伸びしろがあるということだ、自分しか見ることのなかった自分を、他人が見てくれる。
なんて幸せなんだろうと思った、そして、なんて簡単なんだろうとも思ったのだ。
鏡のない国で、自分の額に描かれた文字を知るためにどうしたらいいか。
そんなもの、誰かに読んでもらえ、誰もが言う。
その誰かを司はずっと求めていた、
まだ目指せる、まだうまくなれる、俺には伸びしろがある!まだ俺は!もっと!
幸せだった。
目に見えて司は上達する、そして、周囲から褒められることが増えた。
瞳や珠那、洸平――ほかのクラブメイトからも認められ始める。
そうして司の幸せに翳りも息を吹き返す。
『もっと早く先生に会えていたら』
もしも、もしも、もしも、何度潰しても翳りにじめじめと芽生えてくる。
匠は最初から、娘である瞳のパートナーとして司を育てると言った、だとしても、こんなにうまくなった俺を他の人も見たら、シングルの選手として育ててもいいと言ってくれた人もいたんじゃないか。
まだまだ瞳とも最低限しか組ませてもらえていないのにとんでもない傲慢だ、それに、拾ってくれた恩師である匠をないがしろにするような考えでもある。
目覚めてから眠るまでスケートのことだけ考えていられる幸せを味わったらこれだ、自分はなんて欲深い。
でも、俺は。
俺は夜鷹純みたいになりたかったんだ!
いまも、いまだって。
司は同好会時代、隠れてジャンプ練習をしていたことを引け目に思っていた。人間関係がうまくいかなかった原因を、シングルへの未練を断ち切れなかった自分にあると思っていた。
じゃあどうする、ここでやっぱりシングルがいいんですと言うか?
そんなこと言えるはずがない、自分にはもうこれしかない。
司は思いつめやすいたちだった、
それでも司は匠の指導の都度できなかったことを減らしてできることを増やした、単純計算マイナスがプラスになるのだ。
あっという間に――司が自分の成長速度に過去を悔やみなおすぐらいに――司は周囲から褒められ始める。
『俺が褒められているのは、俺が未経験のわりにはやれているっていうだけだ』
たびたびそう自分に言い聞かせた。やれているなんて思うな。
一見みんなと一緒に走れているように見えるけど、これは周回遅れなのだと理解しろ。
これしかない、これしかない、これしかないんだ。
そして、鴗鳥慎一郎の銀メダル。中継を見ながら誰かが言った。
『鴗鳥慎一郎って186cmなんでしょ、怪我も多かったのに諦めなくて、すごいよねえ』
司は頭が真っ白になった。
鴗鳥慎一郎のことを応援していた、嘘偽りなくファンだった、中部ブロック大会で生の慎一郎を見た時は胸が震えた。
同好会時代に聞いた、高身長はジャンプが跳べない、だから鴗鳥慎一郎は怪我が多い――それらを跳ね返してくれる高身長の星だと思った!
なのにいざ、慎一郎が銀メダルを獲ったと聞いた瞬間に胸に一粒の嫉妬があった。
『俺も』
どうしてもそう考えてしまったのだ、傲慢どころか愚かな、鴗鳥慎一郎の何を知っているというんだ。
たまたま娘さんのパートナーを探している先生に見つけてもらえただけのくせに。
勝手にうぬぼれて勝手に嫉妬して、応援していた選手の銀メダルを心から喜ぶ事すらできないで!
あさましい、あさましい、あさましい。
『俺はアイスダンスしか教えない、シングルとアイスダンス両立はできねえ、選べ』
司はアイスダンスを選んだ。司が選んだ。アイスダンスの美しさと厳しさも徐々にではあるが知りつつある、アイスダンスを選んだことをいつかきっと誇る日が来る。
なのに、まだシングルへの夢がぐずぐずとぼやく、しかも、
うちにお金があればスケートやりたいって言えたのに、
同好会の人がジャンプ止めないでくれたらよかったのに、
リンクで誰か見つけてくれてたら、
匠先生がシングルの指導者だったら、
普段なら絶対に思ったりしない事ばかりが出てくる。
酔って出てくる言葉は全部本音と言われるように、弱った時に出てくるこれらは全部自分の本音なのだろうか。
信じられない、恩知らず、俺なんか、俺なんて。
どれも些細なものだったはずの傷だった。
たとえば同好会の件だって、言い方ちょっとひどいっすよ、とかぼやけていたらそれで終わっていたはず。
なのにいい顔をすることを司は選んだ、司は全部かさぶただらけだ。
ここにきてたまりにたまっていた何かが噴出した。
その時司の腹がぐううと鳴ったのあった。
司にはその音が愚かで間抜けな音に聞こえた、その瞬間気づいたら腹を殴っていた。
ぐっ、と腹が呻く、さらにもう一発。
うるさい。司の怒りと絶望が自分に向かった瞬間だった。
睡眠時間を減らし、休憩時間を減らし、食事を減らした。
身体が悲鳴を上げる、それが司には嬉しかった。
削った分だけスケートに対して本気なのだと証明できているとすら思えた。
愚かだった、それでも司のスケートは上達し続ける、明らかに間違ったやりかたなのにありあまる伸びしろが司を伸ばしてしまう。
リンクメイトが瞳に向かって言った、
『よかったね瞳ーちゃん、司くん、すごいやる気!』
『……』
瞳は言葉が出なかった、誰かがさらにその話題に乗った。
『本気が伝わってくるよ、やっぱり本気でやると伸びるんだなあ』
『――違う』
はっきりと言った。瞳は言わなければいけないと思った。
『司くん、ちょっといい?』
休憩室に瞳は司を引っ張り込んだ、ドアはわざわざがらんと開け放つ。
瞳は今からここで話すことを誰にも聞かせたくなかった、しかし男女が密室に二人きりになることでくだらないうわさなどたてられたくない。
『司くん、背』
瞳の厳しい声に司は背を伸ばす。
『あ、はは……すみません』
当時、司はずいぶん猫背だった。伸びてしまった背を疎ましがるように。
だがひとたび靴を履いてリンクに上がればしゃんと背を伸ばす。
誰かが漫画のキャラみたいと笑った、冴えない主人公がヒーローに3分間だけ変身するみたいに。
瞳はそれが嫌だった、たった3分間だけ輝けばいいって?ふざけるな。
『司くん、私が言いたいことわかる?』
『いえ……すみません、まだ俺全然だめで』
のろりと司が瞳の顔を申し訳なさそうに覗き込んでくる。
もう少しすれば誰よりスケートが上手になって、瞳を輝かせてくれるはずの男が!瞳はカッとなった。
『違う。司くん、全然休憩取ってないよね?それに食事も抜いてる』
『……』
『司くん』
言わなければいけなかった、この先のために。
『……いい?そんなボロッボロの状態のあなたに、私は体を預けたりしないし、私は自分のスケートを賭けたりしない』
『……』
司はぐっと喉をひきつらせた、首なんて肉がそんなにつくところではないだろうが、喉ぼとけがはっきりわかるぐらい筋肉が薄い。
おろおろと司が膝の上で手を組み替えた、一般的にこういうのを迷子の子供と言うのだろうが瞳にはそう思えなかった。
小さな子供はまさか親が迎えに来てくれないなんて思いもしないだろう。
とにかく心細そうで、瞳の一言で全てを断たれてしまいそうな顔をしていた。
自分の立場を瞳は誰より自覚している、司にとって高峰匠は恩師だ。そして瞳はその恩師の娘である。
それだけではない、高峰匠が司を導くすべては娘、瞳のためなのだ。つまり瞳がいなければ司は高峰匠の指導を受けることはできなかった。
クラブメイトの誰かは茶化した、瞳~ちゃん怒らせたら匠先生に殺されるからな~!聞いた司は四角く「ハイッ!」と叫んで直立した。笑い声が上がった。
明るい軽い冗談だった。でも司にとってはそれは冗談ではない、事実だった。
瞳は司のスケートの命を握っている。
『話して』
言われて、司はぽつりぽつりと話した、瞳の反応を幾度もうかがいながら。
ところどころいくつもいくつも、「でもそれは俺がアレで」「俺が足りなくて」「あの人たちは悪い人たちじゃなかった」というような言葉が挟まる。
瞳にはわかった、彼がここにきてどれほど指導者を求めていたかが。パートナーではなく。
誰かに導かれたかった彼は、自分に対して手を差し伸べてくれたその同好会の人達を悪く言いたくないのだ。
彼らは悪くない、だから自分が悪い、そうじゃないといけない。
瞳は何故か自宅近所にあった公園のブランコを思い出した、そのブランコは古く、赤いペンキが塗られていた。
ペンキが剥げる、赤で塗り足すのではなく、何故か青で塗り替えられた。そのうち、青も剥げて、こんどは黄色で塗り替えて、次は……。子供たちは剥げてきたペンキに面白がって爪を立てて剥がす。
瞳の知るあのブランコは赤いけれど、元々は何色だったんだろう。
『ねえ』
やっと瞳は言った。司は瞳の言葉を待っていた。
『……私はあなたの話だけでその人たちの人格を否定するつもりはないし……』
けれど、瞳は平静を装いながらも続けた。
『苦しみを打ち明けてくれたあなたの前でその人たちを弁護したりしないよ』
正しい、悪い、そんなことは瞳の立場から言えることではない。
『その人たち、司くんにスケートを教えてくれたんだ』
『はい』
返答は早かった、なのに、とでも言いたそうに眼が揺らぐ。
『優しい人たちだったんだね』
『はい』
『……優しい人に傷ついてしまうとつらいよね』
司は言葉もなく頷いた。そう、彼らは優しかった、未成年の子供に何かあったら責任問題になりかねないのを理解した上で受け入れ、お金がないと言う彼の事情へ理解を示した、
彼らはスケートをよく知っていた、ゆえに、14歳の彼が本気で選手になりたいとは思いもしなかったのだ。
優しい人だった。
嘘ではなかった、感謝している、ただ、自分が強く主張することで壊れてしまうのが嫌で、ここを追い出されたら行くところが無いと思ってしがみつくしかなかった。
自分が正しいとすると、彼らが悪くなってしまう、それは彼らから受けた恩を忘れるようで許せない。
彼らが正しいとすると、自分が悪くなってしまう、それなら彼らから受けた恩ややさしさは保持される。
優しい人に傷ついてしまうとつらい。
当たり前のことだが司が見えていなかったもの、それを言い当てられて司は顔を覆って泣いた。
その時鴗鳥慎一郎の銀メダルも、心から祝福を認められたと司は思っている。
尊敬している、憧れている、かっこいい、ファンだ、俺と同じ身長でジャンプを跳んでくれてありがとう。
俺は身長が高いと跳べないって言われたのに、うらやましい、俺もそうなりたかった。
両立させることを司は許されたようだった。
司のひびから吹き出すように涙がこぼれていく、
『いい、厳しいこと言うわよ』
すうっと瞳は息を吸った。
『私だけじゃない……クラブメイト全員があなたがどれぐらい真剣なのかもう十分理解してるわ』
司はうつむく。スンと鼻を鳴らした。
『上達は早いけど……がむしゃらにやってはあなたを傷つけるただけ。食事代を削って筋トレして……』
言いたくはない、しかし、瞳は司のパートナーだ。
『それで強くなれると思ってるなんてスケートのこと舐めてるよ』
司の顔はますます曇っていく、それだけ言葉は届いている。
彼は追い詰められている、瞳にはわからないことぐらい瞳はわかっている。
二十歳まで選手としての指導を受けられなかった、彼には時間がない、資金もない、
だから彼は正式な指導を受けず、本や動画、人から見聞きしたことで積み重ねるしかなかった。
お金もないのに強盗に銃を突きつけられているような、強盗からしたら見当違いの、手にしたパンや靴を差し出して命乞いをしている。
無様で滑稽だと笑う人もいるだろう、けど瞳は笑わない。でも正しいとも認めない。
『誰に向けてる必死さなの?』
貴方のパートナーは私、私以外を見るな。
『あなたを苦しめた人は、あなたの今を見てもきっと傷つかないよ』
あなたを見ていない人間のことなんか追うな、あなたを見ている、私は貴方を見ている。
『その人達に罪悪感を与えることが、あなたが選手になってしたいことだった?』
私は貴方が誰になりたかったか知っている、私は貴方が誰に見て欲しかったかを知っている。
『そんなやり方じゃなくて最高の選手になって後悔させなさいよ!』
届いてほしい、どうか、
『俺は……』
司の目は真っ赤で痛々しい、けれどそれは生傷の痛々しさで、これから治っていくはずの傷の痛みだ。
瞳はさっと手を伸ばして、司の練習着を捲り上げた。最近司がシャツをウエストにインしていたのがどうしても気になったのだ。
『あっ』
『……司くん』
痣がいくつも並んでいる。緑や紫のぶちもようみたいな痣だった。治りかけの痣は黄色になるんだっけ、などと思いながら瞳はシャツを戻す。
『お腹殴ってるの気づいてたよ』
司は驚いたようだった、ばかね、と瞳は笑った。貴方を見ていないわけがない、貴方は私のパートナーなんだから。
『……腹の音がうるさくて』
『食べてないんだから泣くのは当然でしょ』
『……うん』
『こんなの本気って絶対私は、認めないからね』
『……はい』
『ねえ司くん。司くんは私しかいないって思ってるけど、私だって貴方しかいないんだからね』
『!』
司がリフトを失敗して瞳は軽いけがをしたのはそれから数日後だった。もちろん故意ではない。
司は必死になって筋肉をつけることにし、そこから筋肉信仰が始まったということは周囲も知る通りだ。
瞳はアレを『まー結果オーライよね!』などと言わない。解決したなどと思うほど、瞳は楽観主義者ではい。
だが瞳はいつかアレを『まー結果オーライよね!』と言えるようになってよね、と思っている。
司が眠りに落ちて数時間、まだ朝の遠いうちに夜鷹は身を起こした。軽く司の手がぴくりとうごいたが、眠りが深いのだろう追いかける仕草が力尽きる。
眠っていても自分を求めているその仕草に、夜鷹は薄く頬をゆるめた。
夜明けは早くなってきたとはいえまだ遠く、真夜中に該当する時間帯である、夜鷹にしてみれば夕暮れといったところ。
この時間帯は夜明けについで静かだ、夜明け前が一番暗いと言うがあれはたしかにそうだった。
沈み込むような夜の中エントランスは常時照明がついている、コンビニエンスストアと同じ死せる息遣い。
その横のポストへ向かった。夜鷹の家のポストはチラシの類は少ない、だがゼロではない。
コンシェルジュに言えばエントランス横のポストから郵便物を持ってきてもらう事も可能だし、時々夜鷹はそうしていた。チラシはどうなさいますか、と聞かれる、捨てて、と言う。
だがこの日は夜鷹は自らポストを開けて中を見た。そこに目当てのものはあった、他にもチラシが入っているようだし、封書の姿も見えたがそれらは無視をしてたった一枚だけを取り出す。
用件は済ませたので部屋に戻った、寝室、すやすや眠っている司の枕元にそれを置く。夜鷹は司へ背中を向けて目をとじた。
司と眠ると輪郭がとろけるようにして眠りに落ちる、抱き合っているわけではないのにほのかな体温のせいだろうか。
アラームをかけなくても起きられると司は言っていたが、たしかにそうらしい。
司がのろりと身を起こした、夜鷹も野生動物のように目を覚ます。
「ん?なんだこれ……」
カサリと枯葉を踏んだような音、それはもちろん夜鷹が数時間前に置いたチラシが立てる音だ。
司は手元のスマートフォンのロックを解除し、そのバックライトで見た、
「あ、」
「うるさいな」
短い声とその光に、いかにも安眠を妨害されたというような声を夜鷹は作った。立てば舌打ち座れば不満歩く姿はメダリストと呼ばれる夜鷹である、簡単な事だった。
「あの」
「ああ、それ――」
少し勿体を付けた。
「君の好きなピザ屋のチラシ」
「俺のために……?」
夜鷹は寝返りを打ち、司の顔を見た。思った通りとろけている、この男は難しい、なんでもないことでとても嬉しそうにするし、良かれと思ったことを跳ね返すし。
「クーポンを使っても、持ち帰りをしたっていい、ここに」
「!」
「僕は食べないけど。君が食べるの分にはかまわない――」
どうせ、普段やらないことをしようとしなければいけないところだった。
食べ物を好んで摂取する気にはとうていならない、けれど、食べ物を楽しむ人間やその匂いには慣れておいても悪くない――そう思っただけのことだ。
「今度、お昼に来てもいいですか」
「うん」
「ピザ屋って夜中はやってないので、開いてるうちに持ち帰ってもいいけど――せっかくなら焼き立てを食べたいし、ピザって一口目が全てみたいなところがあって……」
「ああ」
胡乱に響いた。僕が寝てる間に食べてと言ったらさすがに駄目だともわかる。
「……あれ、この店って俺知らないチェーンだな……というか、チェーンじゃない?あ、」
「なに」
「営業時間、19:00~翌日9:00……夜しか開いてない」
「なにそれ」
「しかも、夜間は持ち帰りのみ?なにこれ……」
とうとう電気をつけてそのチラシを見れば、たしかにドミノやらハットやらーラやらナポリといったチェーンでないことがわかる。
店名は『vizietto(ヴィツィエット)』、英語とロシア語を理解する夜鷹も知らない単語だ。
二人して夜明けも待たずにベッドでチラシを間に向かい合った。
店の住所を見て司は納得がいったように、
「あ~わかった、ここらへんって夜のお店、クラブにスナックやバーとかも多いから、そこへ出前をしているんです。よく見るとピザ屋っていうよりはおつまみも含めたイタリアンみたいです」
注文方法のあたりの文章に目を通し、
「だからか、夜中はごく近隣のエリアにデリバリーはするけど、それ以外は持ち帰りのみですって」
「ふうん」
「ぅ、うまそ~~、見てください、飲めるマルガリータですって」
「ピザは飲み物じゃないよ」
「表現です。こう、うっす~いツルッとした生地にトマトのソースと、チーズで、ちゅるんと飲めちゃうみたいに食べられるピザって事で……しらすとマッシュルームとクレソンのピザ、う、うまそ~~」
うぉお、司が歓声を上げた。
ぐうう、司の腹も同意した。ピクンと肩が動いたが、
「ねえ、君」
夜鷹が声をかける方が先だった、
「はい」
茄子と自家製ソーセージのピザ。
「まだやってるってことだろう、この店」
アンチョビと薄切りじゃがいものピザ。
「え?あ、はい。……え、まさか」
パンチェッタとニンニクのわがままピザ。
「二枚選びなよ」
青かびチーズと岩塩とはちみつピザ。
「いや」
ウニどっさり青唐辛子オイルのピザ。ウニ!
「!そんな、朝どころか、まだ夜も明けてないのに」
ティラミス。
たけのことふきのとうとしらすの春のピザ。
ぐうう。
フルーツトマトとチーズのドルチェピザ。
「でもお」
何かあと一押しが欲しかった、夜鷹は使えるものを全部使う男だった。
「今度慎一郎くんも貸切の後、泊まりに来たいって言ってた。お泊り会だって。うちに冷蔵庫はないし、コンビニで買ったものを彼に出すのはつまらない――僕は食べないしね」
「!味見!大事ですね!も、もしかしたら誇大広告でやってないかもだし、も~~お腹と口がピザになっちゃったよ……とほほ……」
ぶつくさとほほと言いながら、すっかりその気になっていた。
チーズより先にとろけた顔で、いそいそと司は寝ぐせのついた頭で電話番号をプッシュする。
「こんばんは!あのぉ、チラシを見て、持ち帰りって……エ!?やってる!?マジか……ハイ!お願いします!」
飲めるマルゲリータと、ウニどっさり青唐辛子オイルのピザ。
「え、ミミチー無料?はい!お願いします!」
ミミチーってなんだろう、と夜鷹の顔に出ていたらしい。
「サービスでピザのミミにチーズ入れてくれるんですって!」
イエーイ。胃袋の若い男子は嬉しそうだ。
「一時間後焼き上がるそうです!!」
司はすっかり晴れ渡っている。
住所を見ればここから歩いて30分といったところだが、走れば15分だ。タクシーに乗っていけと言いたいところだが絶対に司が納得しない事がもう夜鷹にもわかる。
「ねえ、次の休みもうちに来て」
夜鷹は思い出した。
「布団が新品だから」
司はなんだそれと言う顔した。腹もなんだか戸惑いがちにクゥンと鳴いた。
明浦路司の悪癖について。
解決?知らないよ、彼の問題だ。僕には関係のないことだよ。
治ったのかについてはここでは触れない。それはこれから我々が見守る話だからだ。
かわりにせっかちな我々にふたつ、朗報がある。
ひとつ、vizietto(かわいい悪癖って意味だった)はあれからなんと、20年も続く超老舗になる。
途中店長の代替わりのゴタゴタ、支店の大失敗、店舗の老朽化による建て替えなどというドラマもあったが、今も飲めるマルゲリータは健在だ。
そして、
「ねえ、耳チーはいいの」
「俺もう50なんで……」
「私はまだいけます」
「そ、鴗鳥慎一郎先生!!カッコイイ!」
ふたつ、
鴗鳥慎一郎は58歳になってもミミまでチーズが詰まったピザを食べられるくらいの健康だ。
ととたさんのお話ってぜんぶ好きなんですけど、とりわけこのお話がぐっときます。好きです。