サブカルチャーが「サブカル」になるとき|佐々木敦『90年代論』第7回
『Quick Japan』の誕生
1994年9月、太田出版(芸能事務所太田プロダクションの子会社として設立された出版社です)から、ある雑誌が創刊されました。その名は『Quick Japan』。編集長の赤田祐一は飛鳥新社で若者雑誌『ポップティーン』の編集を手掛け、いわゆる謎本のはしりである『磯野家の謎』(1992年)で100万部を超える大ベストセラーを放った後、満を持して念願のサブカルチャー雑誌の創刊を企画しますが、会社からなかなかゴーサインが出ず、思い余って自費で『Quick Japan』創刊準備号を制作、それでも飛鳥新社からは出せなかったため、企画ごと太田出版に移籍して同誌を創刊しました。
創刊当初の略称『QJ』は赤田の志向を反映して70年代~80年代のサブカルチャー(マンガや出版文化など)の再評価を主に行っていましたが、当然ながら当時のさまざまな話題、特にインディ(ペンデント)系やストリート系のカルチャーも盛んに取り上げていきました(1992年頃から渋谷に出現し、この時期にはセンター街の風物誌と化していた「チーマー」にかんする記事もありました)。この傾向は赤田が発行人に退いて二代目編集長となった村上清、更に次の編集長を務めた北尾修一によって加速します。赤田編集長のいくぶん懐古的とも言える路線から同時代の種々雑多な周縁文化/路上文化の発信に重心を移した『QJ』は、90年代後半の「サブカル(チャー)」を牽引してゆくことになります。ちなみに私は北尾編集長時代に『QJ』に原稿をポツポツと書き始め、2003年から森山裕之(現・太田出版代表取締役社長)が編集長になってからは何度か時評的な連載もしました。それらの文章の大半は『SOFT&HARD』(太田出版、2005年)に収録されています。
サブカルチャーからサブカルへ
私は幾つかの大学で「サブカルチャー」にかんする講義を行ってきましたが、いつも次のような歴史観(?)を話すことから始めています。
文化
↓
カルチャー
↓
サブカルチャー
↓
サブカル
↓
サブカル(笑)
ちょっと自虐的かもしれませんが、日本語で「文化」と総称されていたものが英語の「カルチャー」になり、「サブ(下位)」というより「ニュー」を意味する語として「サブカルチャー」が使用されるようになり、やがて「チャー」が欠落して「サブカル」と呼ばれ、ある時期以降は、しばしば冷笑とともに語られるようになってしまった、というプロセスです。
この歴史観に沿って言うと、90年代は「サブカルチャー」が「サブカル」に圧縮されていった時期に当たります。では両者の違いはどこにあるのか? 長めの単語が口にしやすいように縮むのは日本語ではよくあることですし、実際には客観的で明確な差異や「ここで変わった」と示せるような出来事があったわけでもないのですが、ひとつ言えると思うのは「過去(への参照)」に対する態度の変化ではないか。もともとサブカルチャーは「カウンター・カルチャー」と呼ばれることもあったように、1960年代、ベトナム戦争下のアメリカで反戦運動とも連携するかたちで、旧来の規範的な文化への対抗軸として登場し、日本に「輸入」されてきた。赤田編集長の時の『QJ』はこの頃の「サブカルチャー」への憧憬に満ちていました(赤田は現在も『SPECTATOR』で同様の路線を継続しています)。
「サブカル」にもそれがないわけではないのですが、もっとサンプリング的というか、憧れやリスペクトよりも「オモシロいかどうか」「使えるかどうか」「ネタに出来るかどうか」といったドライで即物的な視線のほうが勝っていったように思います。一言で述べるなら、サブカルチャーには「歴史」があるが、サブカルにはない。まずは「今、起きていること」が最優先であり、過去のサルベージ、「かつて起こったこと」との関わりは、その目的の限りにおいて、いわば情容赦無く為される。これは「渋谷系」の音楽にも言えることだと思います。過去が現在に影響を与えるのではなく、現在が過去を(いささか強い言い方をするなら)搾取する。それが「サブカルチャー」と「サブカル」の違いではないかと私は考えています。
私見では、そんな「サブカル」に(笑)が付いてしまうのは2000年代、ゼロ年代以降のことだと思いますが、ここで話を戻します。
『危ない1号』
『QJ』に続き、広い意味で似た傾向と言えるような出版物が次々と登場していきました。中でもここで挙げておきたいのが『危ない1号』です。この「鬼畜系ムック」(Wikipediaの記述より)は赤田祐一編集の『磯野家の謎』の二番煎じと言うべき『サザエさんの秘密』(1993年)がベストセラーになった後、数々の「謎本」を出版していたデータハウスから刊行されました。
「1号」とありますが「2号」「3号」と連なっていくわけではなく、『危ない1号』が書名です。「ドラッグ」特集の第1巻が1995年7月に、以後、第2巻「特集キ印良品」(1996年4月刊)、第3巻「特集/快感」(1997年9月刊)、第4巻「特集/青山正明全仕事」(1999年9月刊)まで全4冊が刊行されました。キャッチフレーズは「妄想にタブーなし」。最終号の特集名にある青山正明とは1980年代から主に自販機本(自動販売機で売られていたエロ本のこと)やエロ雑誌の世界で活躍してきたライター/編集者で、編集プロダクション「東京公司」を率いて数多くの雑誌やムック等を手掛けていました。それらの多くは現在なら発売禁止か出版不能、悪くすると逮捕されてもおかしくないような、タブーを逸脱したアンモラルで過激な内容で、青山はアンダーグラウンドな出版業界ではよく知られた存在でした。彼は1992年に初の単著『危ない薬』をデータハウスから刊行しており、東京公司として同社の『アダルトグッズ完全使用マニュアル』(1994年)などを編集した流れで『危ない1号』に繋がったのだと思われます。彼は創刊編集長で、『危ない1号』は長年の活動と価値観が凝縮された雑誌(ムック)でした。
ところが創刊号の発売時、青山は大麻取締法違反で逮捕、拘置されていました。雑誌を地でいってしまったわけですが、「危ない」あれやこれやの取材者が実践者でもある(になってしまう)という構図は、この時代には珍しくはありませんでした。たとえば『QJ』の赤田祐一も在籍していた『ポップティーン』のライター出身で、都市伝説「人面犬」ブームの火付け役でもある石丸元章は、ドラッグ問題を取材する過程で自分も薬物中毒者(ジャンキー)となり、1995年9月に覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕されて有罪、のちに自身の体験を小説化した『スピード』(1996年)というベストセラーを放つことになります。
石丸元章は当時「ゴンゾ・ジャーナリスト」を自称していました。ゴンゾ(ゴンゾー)という姿勢は、『QJ』にも『危ない1号』にも見出すことが出来るものだと思います(『QJ』は幅広い事象を扱っていましたが『危ない1号』とテイストが共通する記事も多かった)。Gonzoとは「異常な」「狂った」「はぐれ者」「ならず者」といった意味を持つ単語ですが、アンダーグラウンド/アウトサイダー/ストリートのリアルを突撃取材や潜入取材によってドキュメントするのがゴンゾ・ジャーナリズムです。必然的にミイラ取りがミイラになってしまうことも多くなるわけですが、当時はそのこと自体もエンタメ的に享受する空気がありました。現在とは比較にならないほど、反体制・反良識・反世間といった態度が、スキャンダリズムも込みで一部の読者から支持を受けていた時代だったのです。
現時点から顧みると、この流れは、1989年8月に東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人として逮捕された宮崎勤がアニメやマンガ、フィギュアなど、いわゆる「おたく」的な趣味を持っていたことから大々的に巻き起こった「おたく」へのバッシングと、当の「おたく」自身による自己反省(宮崎勤裁判にも深くかかわった大塚英志の振る舞いなど)から数年を経た段階での一種の揺り戻し(反動)と捉えることが出来るかもしれません。ただし、その主体はここでは「おたく」ではなく「サブカル」だった。「おたく」が「オタク」となって復権(?)するのはゼロ年代に入ってからのことです。この点については『未知との遭遇』(2011年)で詳述したのでここでは繰り返しませんが、文化的な事象において、あまり一般的とは言えない何らかのマイナーな趣味嗜好を抱えた者たちのメンタリティの時代的な変遷は、呼称の上でも「おたく」→「オタク」と「サブカルチャー」→「サブカル」の交差と対立の図式によって、ある程度整理出来るのではないかと思います。
ともあれ、80年代末の時点ではかなり追い込まれていたアングラ/マイナー・カルチャーは、地下出版とは言えないまでも当時はまだ存在していた「書店の隅」や「コンビニの端」といったまさにマージナル(周縁的)な場所に伏流しながらエネルギーを蓄え続け、90年代半ばにふたたび頭をもたげてくることになったわけです。1993年には太田出版から鶴見済の『完全自殺マニュアル』が出て、物議を醸しながらもミリオンセラーになっています。『QJ』の創刊号はかなり話題になりましたし、はるかに「危ない」内容だった『危ない1号』も非常に売れて、青山正明は一躍注目されることとなりました(創刊時に彼は獄中でしたが)。
村崎百郎と鬼畜系
ここで触れておきたいのがペヨトル工房のことです。1978年に今野裕一によって設立されたペヨトルは、幻想文学、前衛文学、前衛芸術、異端思想、オカルトなどを扱う『夜想』を皮切りに、『EOS』『WAVE』『銀星倶楽部』『Ur』といった複数のシリーズムック(雑誌)や、まだ新人だった山形浩生や柳下毅一郎をいち早く翻訳に起用したウィリアム・バロウズを始めとする海外文学の単行本などで80年代の出版サブカルチャーの一翼を担った出版社です。ただ単にマニアックだったわけではなく、『WAVE』は西武百貨店系列の同名レコード店の雑誌という位置付けで、WAVEが運営していた音楽レーベルとも連動していました。これまで何度か書いてきたように私は80年代後半に六本木WAVEの地下にあったミニシアター、シネヴィヴァン六本木で働いていたので、WAVEレーベルを担当していた故・明石政紀氏や『WAVE』の西武百貨店側の編集者だった細川晋氏には随分お世話になりました。『WAVE』『銀星倶楽部』『Ur』には度々寄稿もしていました。
なぜペヨトル工房の名前を出したのかといえば、実は『危ない1号』とペヨトルには浅からぬ関係があったからです。ここでキーワードとなるのが「鬼畜系」です。鬼畜とは穏やかでないですが、青山正明は露悪的かつ価値転倒的かつ確信犯的に、このワードを打ち出しました。『危ない1号』が売れたことで「鬼畜系」は当時の出版界でちょっとした流行語になったのですが(まだインターネット時代以前であることに留意してください)、この言葉は青山が生み出したものではありませんでした。「鬼畜系」とは『危ない1号』に編集協力し執筆者としても参加していた村崎百郎が自らを「鬼畜系ライター」と定義したことに端を発する言葉です。村崎はその少し前に別媒体に突然登場し、ボロボロの衣服を身に纏い汚れたマスクで顔を覆った巨漢という怪物じみたルックスと、地獄の使者のようなドスの効いた野太い声、そして「他人の家のゴミ漁りが趣味」「脳で電波を受信している」などといった異様で異常な言動で一部で注目されていました。村崎百郎のスター性(?)が「鬼畜系」ブームの一因であったことは疑いを入れません。彼は1996年に結果的に唯一の単著となった『鬼畜のススメ 世の中を下品のどん底に叩き堕とせ!! みんなで楽しいゴミ漁り』をデータハウスから、同時期に自身のデビューのきっかけを作った根本敬との共著『電波系』を太田出版から刊行しています。
村崎百郎の正体は、ペヨトル工房でW・バロウズの翻訳本などを担当していた編集者、黒田一郎でした(黒田名義でも『危ない1号』に寄稿しています)。突然変異したホームレスのようないでたちの村崎は明治大学卒の海外文学編集者のアルターエゴだったのです。「ペヨトルの黒田一郎」が「鬼畜の村崎百郎」であることは業界内では周知のことでした。私はトークイベントを終えた後の黒田氏と電車で一緒に帰ったことがあるのですが、普段の彼は村崎とは似ても似つかない穏やかでジェントルな人物でした(内面はわかりませんが)。村崎百郎は鬼畜系ブームが去った後も活動を続けましたが、時代の変化か、本人の意識の変化なのか、次第に社会に対して倫理的でまっとうな見解を述べることも増えていきました(いや、彼の主張はある意味では最初から倫理的だったのかもしれません)。事実のみ記しておきますが、2010年の7月23日、当時新聞報道などもされた通り、村崎百郎こと黒田一郎は読者を名乗る男性(その場で自首し、精神鑑定の結果、統合失調症と診断されて不起訴)に自宅で刺殺され、48歳の短い人生を終えました。
『危ない1号』には村崎百郎=黒田一郎だけでなく、同じくペヨトル工房の編集者だった木村重樹も編集協力で参加しています(木村はのちに村崎との共著『電波兄弟の赤ちゃん泥棒 : Go!go!baby crooks』(1998年、河出書房新社)も出しています)。前述のように当時ペヨトルに出入りしていた私も青山正明や東京公司の名前はよく耳にしていました。重要なことは、80年代に芽吹いた華々しいニューアカ(デミズム)やテクノポップ/ニューウェーヴなどと接続しつつ、いわばその裏側に位置するような周縁文化(サブカルチャー)を担ってきたペヨトルが、90年代に入ると、よりリアルで反社会的(今で言う「反社」とは違います)な「サブカル」と関わっていったという事実です。ここでも「80年代」と「90年代」はねじれた形で繋がっているわけです。
「悪趣味」の大流行
『危ない1号』や『QJ』だけではありません。「鬼畜系」は村崎百郎のおかげで「電波系」とも呼ばれていましたが、「悪趣味系」という呼称も非常によく使われていました(これらはほぼ同一の文脈と人脈を意味しています)。1995年4月には『ユリイカ』が臨時増刊号として総特集「悪趣味大全」を刊行しています(この特集には私もキャロライナー・レインボウというアメリカ西海岸の奇妙奇天烈なバンドの紹介文を寄稿しています)。『QJ』創刊の半年後、『危ない1号』第1巻より三ヶ月前のことです。同誌には現在も本文の最後のページに「われ発見せり」という雑誌名にちなんだコラム欄がありますが、この号に載った「ゲスメディアとゲス人間」が村崎百郎のライターデビューとされています。『ユリイカ』は毎号さまざまな特集を掲げるワンテーマ・マガジンですが、「詩と批評」(と今も表紙にはあります)から出発した由緒あるカルチャー誌が、これほどあからさまに「サブカル」的な特集を行うのは、この頃はまだかなり稀なことでした(その後次第に増えていきますが)。
「悪趣味」は普通の日本語ではなく英語の「Bad Taste」の和訳です。「鬼畜」よりは穏便なこのワードは(それに「鬼畜系」はイコール村崎百郎のことになっていました)90年代中盤のサブカル出版界を席巻していきます。
・『悪趣味洋画劇場(キーワード事典)』1994年11月刊、洋泉社(続巻あり)
・『ユリイカ臨時増刊号総特集「悪趣味大全」』1995年4月、青土社
・『悪趣味邦画劇場』1995年7月刊、洋泉社(続巻あり)
・ジェーン&マイケル・スターン著、伴田良輔監訳『悪趣味百科』1996年2月刊、新潮社
・『別冊宝島250「トンデモ悪趣味の本」』1996年3月、宝島社
・ジョン・ウォーターズ著、柳下毅一郎訳『ジョン・ウォーターズの悪趣味映画作法』1997年10月、青土社
まだ他にもありますが、主だったものだけを挙げました。『悪趣味百科』の原題は“The encyclopedia of bad taste”、直訳ですね。原書の出版は1990年なので「悪趣味=Bad Taste」ブームのきっかけはこのあたりにありそうです。『芸術新潮』1993年6月号が「悪趣味のパワー」を特集しており(おそらくメジャーな雑誌の表紙に「悪趣味」の三文字が大きく載った最初のケースだと思います)、『悪趣味百科』監訳者の伴田良輔も参加しています(伴田は『悪趣味大全』にも寄稿しています)。
ちなみに『ジョン・ウォーターズの悪趣味映画作法』の原題は“Shock Value”なので、こちらは「悪趣味」ブームに乗った日本語題名と言えそうですが、『ピンク・フラミンゴ』で知られるジョン・ウォーターズは『悪趣味百科』でもBad Tasteの先駆的存在とされており、ウォーターズの初のメジャースタジオ製作による監督作、いわば復活作の『ヘアスプレー』が1988年にアメリカ本国で公開されたこと(日本では翌年の1989年に公開)が一連の流れの淵源にあったと考えることも出来るかもしれません。
つまり「悪趣味=Bad Taste」にも一種の輸入文化の側面があったわけですが、むしろそれ以上に当時のニッポンの空気にハマったことが大きかったと思います。80年代から連なる「センス・エリート」に対する地下/路上からの異議申し立てというか。実際、「渋谷系」の時代は「チーマー」の時代でもあったのですから。しかし、鬼畜系ライター村崎百郎の正体がペヨトル工房のエディター黒田一郎であったように、ハイセンスとバッドセンスは対立軸であるだけではなく、実のところ表裏一体の面もあったのではないかと思います。たとえばそれは「デス渋谷系」とされたミュージシャン――暴力温泉芸者(Violent Onsen Geisha aka 中原昌也)やDMBQ――が「渋谷系」の中心人物である小山田圭吾=コーネリアスによってフックアップされたことでもわかります。
『モンド・ミュージック』の両義性
1995年1月に、こうした「表裏一体」を象徴する(と私が考える)出版物が出ています。『モンド・ミュージック』です。版元は西武百貨店(セゾン)系列の出版社リブロポート(1998年5月に閉業)。編著者はGazette4(鈴木惣一朗/小柳帝/小林深雪/茂木隆行)。モンド=Mondoとはイタリアの映画監督グァルティエロ・ヤコペッティの『世界残酷物語』(1963年)の原題“Mondo Cane”にちなんだワードで、もともとの語義としては「世界」ですが、映画や音楽においてはエキゾチズムから拡大解釈されて、さまざまな意味でストレンジでマージナルなアイテムを指す便利な用語として定着していきました。『モンド・ミュージック』は、それまで大半の音楽リスナーの興味の対象からは外れていたイージーリスニングやラウンジ・ミュージック、ムード音楽、SABPM(Space Age Bachelor Pad Music)、映画のサントラ、エキゾチカ、教材レコード、エレベーターミュージック(店舗や公共空間で流れている音楽)などなどをディスクガイド形式で紹介したカタログで、発売されるやかなり話題となり、1996年と1999年(リブロポートの消滅に伴い版元がアスペクトに移動。ちなみにアスキーの子会社だった同社も現在は廃業)には続編も出版されています。
私も『モンド・ミュージック』は愛読しましたが、実を言えば微妙な違和感も抱いていました。モンドという新奇な言葉による価値づけに、表面的には当時まさに現在進行形だったローファイや「悪趣味」と同一平面上にあるようでいて、むしろ時間的にも経済的にも(つまり文化資本的に)余裕のあるセンス・エリートの趣味性のようなものを強く感じてしまったからだと思います。必然的に過去の知られざる名盤/迷盤の発掘という側面が際立つので、私が伴走していた(つもりの)、まだロクに価値づけをされていない、何がどうなるのかわからない「今起こっていること」とはまったく異なった、優雅で懐古的な、いわば貴族的な愉しみのようにさえ思えてしまいました(あくまでも当時の話であって、もちろん今はそこまで尖った意識は持っていません)。そもそも「悪趣味」というキーワードには、どこかで「良い趣味」を前提としているところがあるわけで、内心では「悪趣味」のブーム自体にも少なからず疑問を持っていました。モンドというカテゴライズには明らかに両義的なところがあって、一見こちら側(?)のようだが、むしろ同じ時期にやはり音楽ファンの間で大人気だった橋本徹によるフリーペーパー/ディスクガイド『Suburbia Suite』のお洒落さ(サバービアは「渋谷系」の参照系=ネタ元のひとつでした)と相通ずるものだと感じていました。
ある意味で、モンドはもちろん、デスもバッドもセンス・エリーティズムの一部だったのだと私は思っています。第4回で「グランジとローファイ」について述べておきましたが、90年代前半の日本のバンド・シーンでは、グランジ、オルタナ、ローファイ、そして「デス渋谷系」とも音楽的/人脈的に繋がる潮流として、スカムやジャンクと呼ばれるジャンル(?)も人気を博していました。Scumはクズ野郎、Junkはゴミクズというような意味です。ボアダムズが代表的な存在ですが、ローファイの更に下を行く(自己)破壊的なアバンギャルド・ロック(なのかどうかもわからない)が特徴でした。スカムとジャンクは日本独自の用語です。こうした嗜好/志向は明らかに「鬼畜系」や「悪趣味」と並行していたと思います。
ここには文化的事象と、そのコンテクスト/インフラである社会的状況の相関関係がうかがえます。90年代初頭のバブル崩壊後、数年を経て、ニッポンのサブカル(チャー)は、80年代のポストモダンなセンス・エリーティズムを一方ではかろうじて延命させつつも、もう一方では、青山スパイラルに代表されるようなクリーンでプラスチックな人工空間から、殺風景で殺伐とした、大量のゴミやクズが転がる渋谷センター街へと、そのメイン・ステージを移した。無菌室からストリートへ。
しかし繰り返しになりますが、この時点では両者はまだかろうじて二重写しになっていた。ハイとロウは、センス・エリートと鬼畜は、サブカルチャーとサブカルは、先端志向と地下志向は、すでにかなり歪ではあったかもしれないが、随所で重なり合っていた。そこに完全に亀裂が入ってしまうまで、あらゆる意味でセンス・エリーティズムが崩壊してしまうまで、すなわち「サブカル」が「サブカル(笑)」になるまでには、まだ少し時間があります。
そしてこの話題は、もう少し続きます。
(つづく)
佐々木敦(ささき・あつし)
1964年、名古屋市生まれ。思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。多目的スペースSCOOL運営。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。早稲田大学、立教大学などで教鞭もとる。文学、映画、音楽、演劇など、幅広いジャンルで批評活動を行っている。『ニッポンの思想 増補新版』(ちくま文庫)、『増補・決定版 ニッポンの音楽』(扶桑社文庫)、『映画よさようなら』(フィルムアート社)、『ニッポンの文学』(講談社現代新書)、『「教授」と呼ばれた男 坂本龍一とその時代』(筑摩書房)など著書多数。最新刊は『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の崩壊』(朝日新書)。




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