「大切にしてください」
スマートフォンを掴んだ手を振りあげた夜鷹の耳には、以前に司から言われた言葉が聞こえた気がした。
最近は司と喧嘩をしていなかった。それが久々の言い争いをしてしまい、僕の機嫌は最悪だ。イライラし過ぎて頭痛が止まらず、手近にあったスマートフォンを投げようとして司の視線に気付く。
数週間前に新しく変えた時に、司は笑いながら『ヒビ割れた画面で心配だったんです。大切にしてください』そう言ったことを思い出してグッと堪える。
司から癇癪で壊さないようにと言われたばかりだ。喧嘩しているいまそれを僕がしたら、壊れるのは二人の関係の気がした。
僕は何とか腕を下げ、ソファのクッションの上にスマートフォンを放る。息を詰めていたせいで頭が痛い。イライラを募らせながら呼吸を深く吸い、溜め息にして大きく吐いた。
「……いまは冷静になれない、少し距離を置く」
自室に籠ろうとして立ちあがった僕の手を、司が掴んで引いた。
「ダメです、いまは一人にしません」
「は……?」
さっきまで言い争いをしていた僕は、反射的に棘のある声が出てしまう。こんな言い方をしたくないのに。だが司だって悪い、こんな状態で一緒にいる方がもっと状況を悪化させるだろう。まだイライラが止まらず険しくなっているだろう僕の顔に、急に司が手を伸ばしてきた。思わず顔を背けようとした僕を許さずに、司の長い腕が僕を追って頬にヒタリと手を当ててくる。そのまま額にまで手を伸ばし「……やっぱり」そう言って手を引っ込めた。
「一体なんなの」
「純さんは少し座ってください。すぐに戻ります」
ソファに強引に座らされる。司はリビングを出て行き一度自室に行ったのか、またペタペタと足音を立ててすぐに戻ってきた。いつものようにまたスリッパをどこかに忘れて来たのだろう。ソファの背もたれに頭を預けながら、床を踏み締める司の足音を聞く。僕はこの音が好きなのに、それがどうして言い争いなどしてしまうのか。理由を考えるほど頭が痛い。
また目の前に来た司がピピッと音を鳴らす。
「お待たせしました、これ脇に挟んでください」
「……さっきからなに」
一向に動かない僕に痺れを切らしたらしい司が、シャツの隙間から手を突っ込んで来て棒を挟ませる。
「体温計です」
体温計とか久しく見ていないと思ったが、そう言えば半年ほど前に僕が買って来た。確かあの時は司が風邪で熱を出し、慌てた僕が慎一郎くんに電話をしたんだった。「真夜中に電話するなんて、鴗鳥先生に迷惑を掛けないでください」翌日に熱の下がった司から嗜められたっけ。そのあと風邪がうつったらしい僕が代わりに熱を出した。「俺が純さんにうつした、ごめんなさい」ペショペショと泣いた司が看病してくれた、あの時以来だ。
──ピピッピピッ
連続音で体温計が司の手で回収されていく。
「ああ、やっぱり!」
言うと同時に司は立ちあがって、僕をソファに勢いよく押し倒し自分の上着を脱いで掛けてきた。司の匂いのする襟元を鼻先で感じ、僕はやけにホッとしている。だが司は一向に落ち着かずにリビングの中をパタパタと走り回った。
「熱、多分これから上がりますね」「純さんのかかりつけ医、オンライン診療やってたはず」「とりあえず水分持ってきます」ます、の辺りでテーブルにドンッとペットボトルが置かれた。
「食べるのは、後回しだな……いま毛布持ってきます」
「ねえ、つか」
つかさ、と言い終わらないうちに司の顔が近くに寄ってきて、額からチュッと可愛らしい音がした。離れていった時には、司の顔がほんのりと微笑んでいて僕は少しだけ頭痛を忘れられた。
「すぐに戻るので、大丈夫です」
急にホッとして目を瞑った。視界が無くなると、司が家の中をペタペタと足音を立てて歩くのが良く分かる。
……そうか、大丈夫か。きっと司の言う大丈夫は、僕を安心させてくれるらしい。
†
「ねえ、どうして熱があるって気付いたの」
処方薬を受け取ってきた司が、「食べなきゃ飲めません」と言うので渡されたヨーグルトをベッドの上でチビチビと舐めながら訊ねる。普段あまりヨーグルトを好まないので、どうやら酸味の弱いものを買って来てくれたらしい。それとも熱のせいで味覚が鈍ったのか、少しはマシだった。
「以前に熱出したとき、こう……手負いの猫みたいにシャーッて感じだったので」
「……ネコ」
しかも手負いのってどんな意味だ。まあ、そのままの意味だろう。
「それと頭が痛い時の顔していたので、イライラして喧嘩っ早くなってそうだなと思ったんです」
「ふぅん……」
僕は司との生活に随分と慣れたと思ったけれど、それ以上に司の方が、僕の扱いに慣れていたらしい。
「今夜の貸し切り、鴗鳥先生に延期の連絡しておきました」
「……チッ」
「コラコラ〜〜?まさか行くつもりでしたか」
「滑った方が熱が冷める」
はぁ〜〜っと長い溜め息で、司は僕を見て苦笑いした。
「また氷の上で寝そべるつもりでした?」
「……言わないで」
一人の貸し切りでしかしない僕の行動を以前に、僕を迎えに来た司に見られてしまったことがある。あの時の司は、僕が転んで昏倒していると思ったらしい。「純さん生きてますか!?」慌ててリンクに飛び込んで来て、司は転びながら僕の元に辿り着いた。「……勝手に殺さないで」「あぁ……良かった生きてる」恐ろしいほどの涙を出して、慰める僕を司はびしょびしょにした。さすがにあれを見られたことは僕だって恥ずかしい、でも僕を思って泣く司は少し可愛らしかった。
「熱いなら冷たいシート、おでこに貼りますか?」
「……いらない」
「分かりました。じゃあ薬飲んで寝てください」
手渡された錠剤を飲み、横になりながら司の手を引く。熱があるせいだなと分かるけれど、いまはどうしても気になって仕方がない。
「ねえ」
「はい?」
「僕がスマホを投げようとした時、どう思ったの」
「え〜?また割れちゃうかなってドキドキしましたけど」
「それだけ?」
「だってドキドキしますよ。前も純さんバキバキの画面をそのまま使ってたから、指を怪我しないか気になって」
「……ケガ?」
「大切にしてくださいって言ったでしょう。指もあなたの一部なんですから」
なんだ、大切にしろってスマートフォンの事じゃないのか。司の大切にして欲しいものは物ではなくて、僕だった。
でも僕にだって大切な物がある。失うことを思うと、この僕が怯えるくらい。スケート以外には何も好きになれなかった僕が、氷の上に乗る以外は何も大切に出来なかった僕が、司との関係は壊したくないと思っている。僕の行動は生涯変えられないと思っていたけれど、それを変えてしまうくらいには大切だ。きみが僕を大切にしてくれるから、きっと僕も大切にする方法を覚えていける。
「……おでこ」
「やっぱり冷たいシート貼りますか?」
「ちがう、さっきみたいにキスして」
僕のおねだりを聞いてちょっと頬を赤らめた司が、笑いながら「いいですよ」僕の上に影を落とす。おでこから、チュッと可愛らしい音がした。
大切にされている音は、熱のさがるおまじないのようだ。
おしまい