いいと言うまで僕を離すな
原作軸13巻、再起直後のやることやっててデキてないよだつかです。最新話・SP8相当の内容を含み、やりたい放題の希望的妄想
大注意:よだつかがお互いの名前を呼ぶ
中注意:🦅が自転車に乗れない
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「先生……この不審者の人、ヨダカさんに似てませんか」
「あ、あはは……」
『不しん者に注意』
ルクス東山を含む複数のFSCがホームとする大須のリンク、目立つ部分に数枚このようなポスターが貼られた。
ポスターにはデカデカと大きな文字で書かれていた。『不しん者』子供向けの注意書きなので漢字はひらがなに開かれている。
季節に関係なく不審者というのはどこにでも居るものだ。
ポスターを持参したまだ若い男性警察官によれば、この数日広い範囲で同一人物と思われる不審者の目撃情報が寄せられているそうだ。
主な目撃場所は学習塾の近く。夜遅くに子供が居る場所である。
スケートが盛んな名古屋には複数のリンクがある、貸切練習は学習塾と同じくらい遅い時間にもなるし、大会前ともなれば夜中の三時等の枠が埋まる事もある。
近所の交番のお巡りさんである彼はそれを知っているので、塾だけではなくリンクにも注意喚起に来てくれたのだ。
ルクス東山のヘッドコーチ、高峰瞳はしっかりと頷いた。
「どんなに近所の子だとしても、生徒さんを一人で帰さないようにしています。でも、改めてお知らせを保護者さんと生徒さん向けに出して、防犯ブザー所持も徹底します」
露出狂、つきまとい、声かけ魔、抱き着き――たとえ男児であっても被害に遭わないわけではない。もちろん、女の犯人だっている。
子供が美や華やかさを扱う表現芸術競技にはどうしても、性犯罪の影がちらつく。
瞳自身、現役時代嫌な思いをしたこともある、生徒を守る気持ちは人一倍強かった。
この野郎、とっとと捕まりなさいよ――
瞳がポスターのイメージ図を睨みつける。
ポスターには目撃者からの証言をもとに特徴が文字と、イメージ図が掲載されていた。
・三十代から四十代の男性
・180センチ程度
・やせ型
・全身黒い服(マスクをしていることも)
・サングラス(昼夜問わず)
・「ねえ」などと声をかけてくる
司もポスターを睨む、いざという時、俺みたいなデッカイ男が居るだけできっと抑止になるはずだ。気を引き締めないとな。
いのりさんだけじゃなくて生徒さん皆を守るぞ、というか子供を狙うとか絶対に許さん!
レッスン終了後さっそく瞳は生徒達をポスターの前に集めて注意するように言った。
子供たちは落ち着きなく、ダッセーだの黒の組織だの言いたい放題だ。
「いいですか?お家の人がお迎えに遅れたり、来られなくなったりしたら私や司先生、洸平先生に言ってください。リンクの休憩室で待たせてもらえることになりました」
「はーい」
「防犯ブザー、皆持ってるわね?電池切れてないか、ちょっとだけ今試してみて!」
ワアッと子供たちがはしゃいだ。司は瞳の横顔へ尊敬の視線を送った。うまい、非常ベルと同じで何もないのに鳴らしちゃいけないのが防犯ブザーである。
それを鳴らしていいとなれば子供たちは盛り上がる。瞳さんって子供の扱いが本当にうまい。
しばらくの間、ビーだのブーだのビビビビだのと大騒ぎだった。
「さて、皆ブザーの確認はできたわね。もう一つ大事なのは、逃げること」
これには男の子たちが顔を見合わせる。
「ゆうと君にはるあき君は空手もやってたわよね?こんなヒョロヒョロなら倒せちゃいそうでしょ?けど、絶対に向かっていかないで」
ここぞという時に出す静かな声で瞳が続けた、
「相手が武器を持ってたら?実は一人じゃなかったら?車に引っ張り込まれちゃうかもしれない――先生も怖い思いをしたことがあります。大人になってからも。だから絶対に逃げて、まず大人の人に知らせてください」
瞳が司を指さした。
「こんなに大きい司先生だって、怖い思いをしたことあるんだからね、約束!」
子供たちが顔を見合わせて慎重に頷き合う。とりあえず、しばらくのところはこれでいいだろうという事になった。
他クラブからもこの話をしてよいかと打診され、もちろん!と瞳は請け負う。
「おつかれさまでした!解散!」
子供たちがポスターをひと睨みしてから帰っていく。
「先生さようなら~ッ」
「さよなら~」
「いのりちゃんは居残り?海外大会がんばってね」
「うん!ありがとう」
いのりはこれからもう30分陸トレの予定である。
司が呼びに行くと、いのりはまだポスターをじっと見つめている。
「いのりさん?」
「先生……この不審者の人、ヨダカさんに似てませんか」
「あ、あはは……」
夜鷹純。言わずと知れたフィギュアスケートの元オリンピック金メダリストで、司の始まりで、人生と心の大部分を今も掴んで離さない男。
誰にも言えないが体もちょっと握られたりしている。
夜のサングラスで全身黒ずくめの中年男性という記号だけ取り出したら、かなりの不審者だということに今まで司は気づきもしなかった。
なぜって司にとって夜鷹は夜鷹純で、夜鷹純以外に間違えようもない。
かっこいい~→いやいやイカンイカン、憧れるんじゃない、競い合うんだ!→かっこいい~
これなのだもの。
「でも、ヨダカさんは光ちゃんのコーチだから東京ですよね」
「うん……さあ、ストレッチやっていこうね!膝は平気?痛くない?JGPF前に怪我しないように入念にやっていこう!」
「はーい!」
いのりの背を押して促しながら、司はポスターをもう一度振り返る。
『僕は今日で君の指導をやめる』その一言で彼が狼嵜光の影のコーチから外れたのはつい先日のことだ。
コーチ陣の中ではライリー、鴗鳥、瞳、そして司はそれを知っている。
そして、彼がいま実は名古屋に何食わぬ顔で戻ってきているという事も――。
「私が先生を!世界で一番最強で幸せな選手のコーチにします!」
あの日メリーゴーランドの前で司といのりは再起を誓いあった。
いのりが司の涙を拭って立ち上がらせてくれたのだ、そう思う。一人じゃなくて、二人で行こうと。
悔いの無いように、俺にできることをぜんぶ!司はずっと己に絡みつけていた劣等感を認め、共存を始めている。
そのひとつとしての実演指導だ、スケーティングの実演は今までに何度かやったことがあったが、それを格段に増やし、回転数は少ないもののジャンプの実演も取り入れ始めている。
ここまでふたりが成長できた大きな要素に、司の言語化といのりの受け取り方がうまく噛みあったというところがある。それは間違いがない。
司はいのりに1伝えるために10の言葉を用意しようと本を読んだりwebで調べたりという努力は怠らなかった。
電車の乗換案内みたいだね、と洸平が言う。出発駅から目的駅まで、どんな乗り換えをすればいいのか、この路線はうまく乗り換えができないのなら、こっちの路線はどうだ、乗換駅を変えてみるか――など。
洸平流のたとえで言えば、これからはバスや飛行機、徒歩なども視野に入れようというのだ。
言葉の力を信じているが、言葉だけに頼らない。
べ、別に夜鷹純式コーチングに憧れたりしてるわけじゃないよ!誰に言い訳するでもなく、司は自分に言い訳をした。
言い訳を許す、だが、JGPFに向けて立ち止まる事は許さない。この実演指導、もちろんいのりの喜びGOEは+5でジュワジュワのアゲアゲである。
「司先生、私、サルコウが一番好き。だから先生がサルコウを跳んでくれると嬉しいんです、私が好きなジャンプを先生にも好きになって欲しい」
「うん!俺もいのりさんがサルコウを跳ぶときに無意識にやっていることを見つけられるように頑張るよ」
「エヘヘ~~できれば4回転サルコウがいいなぁ~~ってぇ……」
「さすがに4回転は無理かな!?」
「あ!ハーネス!ハーネスを使えば!」
「いのりさん、自分で自分をハーネスで釣る事はできないんだよ」
「あっ、あー」
理凰の迎えに来た慎一郎は、いつものようにきっちり腰を折って頭を下げる事もせず司へ単刀直入に切り出した。
「聞きましたよ、明浦路先生が結束選手に実演指導をしていると」
「あ、あはは……理凰さんか」
司は賑やかな更衣室にちらりと視線を向ける。バレるのは時間の問題だと思っていたが早すぎる!
スケーティングが課題となってきた理凰は時折ルクスの貸切練習に参加している。名古屋で一番厳しいスケーティングレッスンが受けられるクラブ、としてルクス東山の名前は高まりつつある。
あの岡崎いるかもリハビリ後、基礎のスケーティングを見直しのためレッスン参加に来るという噂もあった。
理凰の目的は嘘偽りなくスケーティング指導を受ける事だったのが、なんと司の実演を見られるというとんでもないオマケがついてきた。
理凰のやる気GOEも+5である。
「ええ、大騒ぎです。ところで、なぜ――?」
子供の着替え待ちの立ち話でするには重い問いかけだった、ここへきて慎一郎は少し調子を抑えたが、司の回答は前半明瞭だった。
「いのりさんへ『伝える』新しい切り口を探しているんです。俺に実績やシングル選手経験はありません、ただ、それを理由にするのを止めようと。いえ、そんな、大したことができるわけではないんですが……いのりさんも喜んでくれますし……」
後半、顔を赤らめる。
夜鷹を今も地上という人生に留め置く戦いを続けている鴗鳥慎一郎は、司のその実演指導への挑戦を聞いて歓迎した。
「とても素晴らしい試みだと思います。私も最近、生徒さんから跳んで見せてと言われることが増えました――どちらかと言えば指導というより好奇心なのでしょうが。でも、生徒のモチベーションが上がるのであればやりたいと思っていました」
ウワ、見たいなあ!司が浮つくと、
「……そうだ、これを利用しない手は無い」
誠実と実直が服を着ているような慎一郎の物言いとは思えなくて司が言葉を飲んでいると、
「私も明浦路先生も、生徒のために練習が必要という点が一致しています。どうでしょう、私の貸切練習に参加し、純くんに、逆に言葉でアドバイスしてもらうというのは」
「あどばいしゅ」
噛んだ。夜鷹純に、アドバイスを……してもらう……!?あの、言葉足らずの権化みたいな人に……!?
「無理に氷に乗せようとすれば臍を曲げてしまう、彼はそういう人間です。かといって、氷と決別もできない……そう思います」
「それは、そう、でしょうね……」
「明浦路先生!お疲れ様でした!ブザー持ってます!」
更衣室から飛び出してきた理凰の笑顔は眩しい、慎一郎は顔を近づけて『ご内密に』と囁いてくる。いい声過ぎてファンになってしまうところだった。もうなっていたので致命傷は免れた。
ここに夜鷹が居たら何と言っただろうか、司にはわかる「慎一郎くんは既婚者だよ」だ。既婚者にベタベタするなときっと言うだろう、実際似たようなことは何回かあった。
「では」
そういう訳で、慎一郎と司が貸切練習で氷に乗り、夜鷹はそれを見てたまに口出しをする。そんな誰にも言えない妙な夜がある。
俺に都合が良すぎませんか、と司が言えば、私にも都合がいいですよ、と返される。ねえおしゃべりに来たの、と氷水がぶっかけられて――
夜鷹に証明できなかったという負い目はちゃんとある、図には乗らない、かといって、遠慮していられない。
一番いい踏み台がそこにあるのなら、司は迷わない。もう終わったはずの夢がかなえられてしまったようで司は後ろめたくも嬉しかった。
だが氷に乗らない夜鷹は慎一郎と司が思うより、この国の常温では保てない果実のようにぬるやかに傷んでもいたのだ。
ところで、司といのりの再起からもう一つ変わったことがある。といってもスケートに直接関係は無い部分である。
司はいわゆるチャリ通、自転車通勤になった。つい最近、近所の加護の知り合いが老齢のためマンションを引き払い、バリアフリー住宅に引っ越すという話が発端である。
自転車を捨てたいが、リサイクルセンターまで運ぶのが大変なので手伝って欲しいと言う。
もちろん時給は貰えるってことらしいけど、どう?と司にお鉢が回って来たのである。
二つ返事で引き受け、マンションに向かう。亡くなった奥さんが乗り回していたという昔ながらのいわゆるママチャリで、前にカゴがつき、後ろに荷台のある、赤い自転車だ。
「残念だけど、ぼくは乗れないから……」
「あの、……これ、よかったら、俺が乗ってもいいですか?」
「え、でもこんな。もちろん貰っていただけるなら、ぜひ」
長らく放置してしまっていたのでサビが出たり、ベルが鳴らなかったり、パンクしてたり、ブレーキがゆるんでいたり……
修理するより買った方が安いだろうな、という代物である。
「俺、兄のお下がりの自転車を、一番下の弟が使うまでずっと面倒を見ていたので……無理だったら俺が責任もってリサイクルセンターに持っていきます!」
そういうわけで、赤のボロチャリが司のもとにやってきた。ご老人は大変喜び、手間賃に加え、押し入れにしまいっぱなしだった替えのチューブや工具などを気前よく司に提供した。
加護家の庭先で、埃を拭き、チェーンに絡むゴミを取り除き、サビを取り、パンクしていたチューブを交換し――歪んでいた前カゴの変わり、新しいものはなんと羊がお小遣いからプレゼントしてくれた。
カゴといえばうちだから。羊は得意げにVサインをし、ふぁんし~ないろどりのビーズを前かごにあしらった。
そのチャリで今、司は通勤している。
自転車通勤のいいところは、一人になれることである。考え事をするのに自転車は向いている。
帰りにちょっと図書館やスーパーに寄ったりするのにも便利だった。
今日も司はリンク裏手の駐輪場から愛車を引っ張り出し、帰路につく。さすがに大人はお迎え必須の対象外だ。
「さて……」
向こうから親御さんに連れられたあきらが走って戻って来た、
「どうしたの?」
「リコーダー忘れた!明日使うの!」
「はい、気を付けてね。お母さんもお疲れ様です」
「いえもう~本当にうちのこウッカリで……」
「司せんせー!黒の組織タイホされてたよ!」
「あきら!早く!」
「あ、あはは……」
……黒の組織、逮捕されてた?黒の組織とは日本で一番今有名な犯罪組織だ。もちろん、大人気漫画の名探偵コナンの話だ。組織に属した彼らはみな一様に黒ずくめで、酒のコードネームを持つ。
そういえば、あの人はお酒が飲めないって言ってたから……
ざわりと司の胸が騒いだ。嫌な予感がする。
あきらが走って来た方向へ自転車の前輪を向ける、と、ライトがチカチカと点滅していた。ライト自体は先日交換したばかりなので、おそらく接触かどこかが悪いのだろう。
と言う訳で自転車を手押してリンク駐車場の裏口に向かうと、
「あのね、お名前は!これは任意だけど、ここ最近貴方みたいな人が通報されててね!」
夜鷹純が職質されてる――
見間違えようのない司にとっての唯一無二の男が、警察官に職質をされている。誤解も陰謀も不正も無しのまっとうな職質だ。
だって夜鷹の見た目と来たらあの貼り紙通りの全身黒ずくめで、夜なのにサングラスだ。どうやら煙草は吸っていないようではあるが。
「お名前は!」
なるほど職質してくださいと言わんばかりの見た目だと、さすがの司も憧れという鱗が目からボロボロ落ちた。
警察官の声も大きく苛立っている、どうやらこの問答を何度かやっているのだとわかった。
逆に夜鷹は興味もないを通り越して聞こえていないのか心配になるレベルで心ここにあらずという態度。
SpecialMission
夜鷹純が警察に職質されています!
助けますか?
A助ける
B急いで助ける!
※ちなみに夜鷹純は助けてと言っていません※
急いで助ける一択だろ!司はチャリを押してドカスタ走りながら、
「よ、」
夜鷹さん、と声を張り上げて名前を呼ぼうとし、躊躇した。
夜鷹という苗字は珍しい。そして、夜鷹と言えば元オリンピック金メダリストの苗字だというのは半ば一般常識みたいなもの。
元オリンピック金メダリストが職質、となると話がややこしくなるおそれがある。これを隠そうとしているのではないかと司は考えた、
「っじ、純さ~ん!遅くなっちゃってすみませ~~ん!」
アイスダンスで身に着けた表情演技と覚悟の出番はここだと決めた。
親しい人間との待ち合わせに遅刻してしまった、というシチュエーションを後出しに繰り広げる。
二人の側に駆け寄り、と、夜鷹の話し相手が警察官ということにたった今、気づいた――驚き、動揺、焦り、
浮かべていた満面の笑顔を凍り付かせ、二人の顔を交互に見渡し、あわ、と口を開き、
「な、なにがあったんですか……?」
まず、この演技は夜鷹のためであった。仕事帰りの友達を待っていただけという設定を理解させるための。
「ああ!司先生!」
「あっ」
だが先に反応をしたのは警察官の方だった。何の事はない、ポスターをリンクに届けに来てくれたまだ若い男性警察官だったのだ。
「司先生のお友達だったんですね、よかったぁ」
人の良さそうな警察官に、あははと司も調子を合わせる。
「お仕事お疲れ様です。今日は見回りですか?」
「そうなんです、例の不審者の目撃情報が急増したので今日はいろんなところで夜間見回りを強化していて……。司先生こそ、遅いですね」
「大会前ですからね!生徒さん達はちゃんと保護者さんと帰っていますよ!」
「司先生も気を付けて帰ってくださいね」
「あは、俺なんか襲うやつはいな……って、ああ、これがいけないんでしたよね、すみません」
「そうです!」
ここで司は夜鷹を振り返った、
「純さん、最近真っ黒な服でサングラスかけた怪しい人がこの辺をうろうろしていて……それで念のためお巡りさんが確認に回ってくれているんです」
目に力を入れて、話を合わせろと夜鷹へ圧をかけた。あなただって面倒ごとに関わりたくないでしょ!話を合わせて!頼むから!
「……司くんを待ってた、遅かったね」
「お゛……ッ……」
引き潰れた悲鳴を上げかけ、司は空気と動揺をまとめて飲み込む。大きなものを無理に飲み込んだので喉がごぎゅっと音を立てた。
夜鷹純は状況を理解し、話を合わせてくれた。
結果、司と夜鷹はお互いの名前をここにきて初めて呼び合ったのである。少なくとも司の記憶上はそうだった。
ねえとかきみとか、もっと以前はいないかのようにふるまわれたこともある。
「いやー助かりました、この人この見た目だから声かけないわけにもいかなくて。なのに名前も教えてくれないし、身分証明書もないし、スマホも電池切れ」
「あ、あはは……」
どうやらいいタイミングで司は間に合ったらしい。
「お酒も飲んでるし」
「えぇ!?」
夜鷹を振り向くと、夜鷹の右手がすっと体の後ろに隠された。覗き込めばそこには500mlロング缶の、昨今不景気の代名詞みたいに言われるストロングでゼロとかいう、アルコール度数9%のダブルオレンジ味。
煙草はもう慣れたが、こんなに彼にふさわしくないものがあるなんて。
「ね?これじゃ職質してくださいって言ってるようなもんでしょ。タクシーでも呼べばって言ったんだけど財布が無いって言うし」
「送ってもらう」
「え」
「彼に」
司の顔を、堕落の象徴みたいな缶を持ったまま示す。夜鷹の青みがかった白目に細い血管が走りまわり充血している。
「家まで送って行ってくれるよね、……司くん」
警察官の縋り付くような顔に、司は「ハイ」と頷くしかない。わざとらしいまでに名前を呼んでくる!
「ご協力感謝します。ああ、これは独り言ですが……川沿いは巡回の範囲外ですよ」
帽子に手をやりながら、警察官はいたずらっぽく笑ってみせた。
「これは独り言ですが……って、一度言ってみたかったんです。ンン!あと、川沿いは人通りがないからって、くれぐれも二人乗りなんかしないように」
警察官に教わった通り、川沿いに出れば人の気配はいっそうなくなった。中心地から外れているのと街灯の間隔も広く暗いため夜わざわざここを選ぶのはウェアに身を包んだランナーやロードレーサー、犬の散歩の老人ぐらいのものだ。
それもこんな時間ともなればなおさら人はいない。
司が自転車を押す、チキチキと等間隔に響く音以外何も聞こえない。虫も犬も猫も、鳥すらも鳴いていない。
好奇心というほどの明るさもなく、むしろ歯切れ悪く司はたずねた。
「……なんでお酒なんか買ったんですか」
飲まないというよりは飲めないと本人も慎一郎も言っていたし、古い雑誌の記事にも「文化として理解するけど僕には必要ない」と書いてあったのも読んだ。
司自身、お酒が嫌いと言うよりはお酒で前後不覚になるやからが好きではない。
酒を水のように嗜む雉多輝也ですら、「あれは飲まない」と言う。そんなよりにもよるストロングゼロだ、なんでこんな、こんな――
「suica」
「え」
「君が設定したよね」
「――あ、」
隣をゆく夜鷹が電池の落ちたスマートフォンを見せてきた。suicaのアプリを設定し、チャージすれば財布を忘れてもタクシーに乗ったり煙草が買えると説明をしたのはたしかに以前の司と慎一郎である。
そのついでのようにしてメッセージアプリも登録させた、どちらかといえば本当の狙いはこっちだったが。
コンビニエンスストアで、安価な泥酔酒を一本きり購入する夜鷹純。司はその想像が、嫌というより悲しく思われる。
「なんでって、そうじゃなくて」
司が聞きたかったのは「どうして」であって、「どうやって」ではない。
そんなことさすがに夜鷹にだってわかっているはずだ。
気持ちと一緒に歩調が乱れ、ペダルにぶつかってしまう。ぐるんと後ろへ一回転したペダルが司の脛を勢いよく襲った。
「痛ッッタ!」
跳び上がる司の様子を気にもせず、夜鷹はタパタパとほとんど入ったままの酒の缶を揺らしている。炭酸が抜ける、とかそんなこと思いもしないのだろう。
「眠れないから」
氷のようにというよりは、どこだったかの居酒屋の飲み物で見た、プラスチックのダミー氷みたいに寂しい声で言う。
「……」
なぜ眠れないんですか、そんなこと聞けない。痛みに苦しむふりをして司はぐっと奥歯を縛った。
「あげる」
夜鷹は司に酒の缶を差し出した、考える前に手が受け取っている。思った以上に量が入っている缶に顔をしかめた。
「飲んだんですか」
「飲むために買ったよ」
「そうじゃなくて」
「……二口と少し」
司は加護親子の顔を思い出した、二人とも自分の胃袋の量を考えずに注文して残してしまうタイプである。
では夜鷹純もそうかと言えば、これは違うなと思った。
彼なりの本気でもって、いいか悪いかを抜きに酔うつもりがあり、この酔える酒を選んだのだろう。
食事全般が嫌いな人間が飲めもしない酒を買うということは、それは――
「……要らないなら捨てたら」
食べ残し・飲み残しに対して抵抗がある司はええい、と缶を煽った、とっとと飲んでしまって、空き缶というゴミに変えてしまいたかった。
が、
「ウッ」
べったりと鼻につく人工的な香り、そしてそれで隠しきれないほどの強い酒の臭いに戸惑った。結局、タプンと缶の中を揺らすだけにとどまった。
「賢明だね」
おそらく初めて、司は夜鷹に頭のデキを褒められたのだが。
「そんなもの渡さないでくださいよ」
「僕から貰うなら君はなんでも嬉しいんじゃないの」
「え」
「大ファンなんだよね、僕の」
「……この缶にサイン書いてくれたら、洗って大事に飾っておくぐらいには」
「ふ」
ゆるく夜鷹が息を漏らして笑った、ふだんきっちり閉ざされた封がやぶけて中身が零れたような笑顔だった。
夜鷹の肌は白い、だが、今日の夜鷹の顔色は白いを通り越して青ざめている。酒を飲んで赤ら顔になる人間が多いが、夜鷹は青ざめるタイプなのだろう。
「自転車」
正しく酔えているのかはわからないが、夜鷹は目につくものを拾うように口を開いた。
「ああ、貰ったんです」
「へえ。僕は乗ったことがない」
この時司はかなり驚いた、免許が無くても自転車は乗れる。多くの子供は遊び場に公園に習い事に、初めての移動手段として自転車を通るのではないだろうか。
だが、5歳から氷に人生を捧げていた夜鷹が自転車を通らなかったというのも頷ける。司はそれを大げさに驚いてみせることで彼の過去に自分の眼鏡で色を着けたくなかった。
「……あの、乗ってみませんか」
「うん」
司からハンドルを手渡された夜鷹がサドルを跨ぐ。少しばかりつま先立ちになっているのは自転車が司の身長に合わせてあるためだ。
だが身長差に比べて想像したほどの不似合いさはない、夜鷹の脚がそれだけ長い。
生まれて初めて夜鷹純がママチャリに乗るところを俺は見ました、日記に書いておこうと司は胸を誇らかに張る。
が、夜鷹が地面を蹴って2メートルも進まないうちに自転車はバランスを失ってガシャンという音と共に倒れた。
夜鷹は俊敏な獣のように自転車から跳び退って転倒を逃れるが、どこか申し訳なさそうに倒れた自転車を起こす。
自転車が司のものだからだろうか、それとも自分だけが生き残ってしまったからだろうか。
「も」
司はもういいと夜鷹が言おうとしているよりもはやく、
「倒れる前にペダルを踏むんです」
と言った。がんばって!などは言わない。夜鷹は言われるまま再び跨り、地面を蹴る。
ゆらりゆらりと蛇行し、さきほどより長く進んでから今度こそ、夜鷹を伴って自転車が転倒した。
「大丈夫ですか?」
「……」
夜鷹がゆっくりと顔を上げる、青ざめ呆然とした顔にサングラスがずれかけていて無様と滑稽を誘う。もちろん司は誘われなかった。挑戦する人を笑うことだけはしない。
「はい、乗ってください」
司は酒缶を持て余しながらさっと自転車を立て、荷台を掴んで支えた。古式ゆかしい自転車の補助並走である。
「しばらく俺が支えます、バランスが取れたなと思ったら声をかけてください、離します」
「うん」
人目があったらとてもこんなことはやれなかった。絶対に見せられないし、夜鷹だって見られたくはないだろう。もしかしたら彼は酔っているのかもしれないな、と司は酒の缶へ疑いの目を向ける。
あ、無灯火で、しかも飲酒運転だ――脳の真ん中のモラルをぶち抜かれたが、もう止まれない。
「はい!漕いでください」
夜鷹がペダルを踏んだ、力加減のわからない長い脚が雄弁な推進力を送り込む、ぐんとスピードが上がった。
「いい感じ!」
「離してない?」
「はい!貴方が言うまで絶対離しません!」
夜鷹の肩がかすかに震えたのを司は見た。
日本のそこかしこで起きるやりとりを夜鷹純とやっている。明浦路家方式で言えば、長男→次男は「離してない?」「離してないよ」で実は離されていた。裏切りの転倒に悔し涙が膝にしみた。
絶対にやるまいとして弟二人の自転車は、絶対に彼等が「いいよ」と言うまで離さなかった。その結果裏切りは起きなかったものの、乗れるようになるまでかなりの時間がかかった。
結局どちらがよかったんだろうか――司にはわからない。
だが、技術は取り返しがつくが、心は取り返しに時間がかかる、今まさに司がいのりと取り組んでいるテーマでもある。
だから司は夜鷹がいいと言うまで手を離さないつもりだった。
コツがつかめて来たのかスピードがぐんぐん上がっていく、司はああ夜鷹純だと嬉しくなった。初心者は転倒を恐れてこんな風に最初からぐんと踏み込めないだろう。転倒を恐れなかった人だ、ほら!
「はなして」
「はい!」
最後にちょっと傾きを修正して、司は自転車の荷台を手放した。まっすぐに送り出す。どこまでも望むまま行けと気もちを込めて、押すのでなく送った。ああ、これって――
今までで一番長くまっすぐに自転車は進み、そして、スピードを下げると勢いを失ったようにバタリと倒れた。夜鷹も倒れる。追いついた司は自転車を立て直しながら、
「けがはしてませんか。停まる直前がバランス崩しやすいんですよね、」
「してない」
「よかった」
夜鷹は先程よりはいのちの色を頬とこめかみに透けさせて、首を振って答えた。
「――こんなものだよ」
続いて唇から出て来たのは、高揚を拒絶する冷たい言葉。さっきの、プラスチックでできたダミーの氷のことば。
「はい、こんなもんです!」
あえて司はその言葉をそのまんまあっけらかんと引き受けた。
僕なんか、陸ではこんなものだとでも言いたかったのかもしれない。
人間初めてやることなんか、みんなこんなもんだ。特別にできない顔をするな!もう。
自転車に不調が無いか調べようと缶を抱え直すと、その缶を目掛けて蛾が跳んできた。
「ウワッ!!」
酒か香料かわからないが香りに惹かれたのだろう蛾はまっすぐに小さな飲み口に飛び込んだ。司の手のひらに、缶の内側から命がのめりこむかすかな衝撃を伝える。
その小さな衝突に、司が缶を取り落とす。なみなみと中身が残った缶は澄んだ音ではなく、ボコリというような鈍い音を立てて地面に転がった。
どくどくと血を流すようにして缶は飲み口から酒を吐き出す。オレンジ風のいびつな香りがふわっと立った、果汁をたっぷりと入れていそうなパッケージのくせに、零れる酒は透明だ。
倒れただけでは蛾は出てこなかった、仕方なく司は缶をいやいや手にした。ここまでこぼしてしまったのだからもう許して欲しいと思いながら逆さにして全ての酒を出し切る。
缶から蛾が出て来たかどうかはわからない、しかし、酒の海へ小さな羽虫が二匹もつれ合うように飛び込んできて、彼等もまたあっという間に溺れ死んだ。司と夜鷹はそれを見ていた。
司は中に死を抱えたままかもしれない缶を握りつぶす。前かごに放り込むと自転車へ跨り、夜鷹へ言った。
「乗ってください」
「もういい」
「俺が漕ぎます、貴方は後ろに乗ってください」
「二人乗りになるよ」
さっきの警察官の話をちゃんと覚えていたらしい、司はいいも悪いも言わず笑った。
「乗ってください」
「……」
夜鷹がおそるおそるといった風に自転車へ近づき、荷台に立った。国民的アニメ映画、耳をすませばのように荷台へ横座りするのではなく立つところがなんとなく、らしいなと感じる。
司は笑ってみせたものの、実は内心バギバギに心臓が大騒ぎの緊張もいいところである。
前かごに酒の空き缶、無灯火、二人乗り、後ろに不審者……
絶対に捕まるわけにいかない……!!いのりさん、危ないことしてゴメン!
「飛ばしますよ」
いま司ができる事と言えば、この暗い道を爆速で突破してこのほろ酔い(?)不審者を家に送り届けることだけだ。
「か、肩に掴まって」
「ああ」
夜鷹はどうやら荷台に棒立ちするつもりらしかったのに気づく、ひやりとした手が伸ばされて、掴まるというよりただ置かれただけ。
不安定な荷台の上であってもきっと、片足で立つことすら簡単なのだろう体幹とバランス力。こんなことでも夜鷹純を感じられて嬉しい。
司が素早く注意した。
「口をあけないでください」
「揺れたら舌を噛むこともありますし、虫が入ってくるかも」
前半は真面目に、後半はやや、冗談のような調子で言う。
夜鷹の顔にぶつかる風はぬるくはあるものの、眼球表面の涙を乾かしてしまいそうなくらいのちからはある。
切り裂くとまではいえなくても景色を後ろへ分かち押しやりながら自分たちは前へ進んでいく。
ぴしと夜鷹の頬になにかぶつかった、当然誰かが蹴り崩した氷の粒ではない、なるほどあわれな虫だろう。
夜を飛ぶ鷹の名前をもちながら鷹ではないあの鳥は苦しみ泣きながらこの命を飲んだのだ。
夜鷹は弾かれた命を振り返らない。
司は自転車をこぐ、上半身をあまり揺らさずに太腿をズドンと落とすように。ペダルを回すのではなく、踏み込む。
みるみるうちにスピードが上がる、後ろに夜鷹が立っているので空気抵抗が大きいが前に進むちからのほうがよっぽど強かった。
暗い道をびゅんびゅん風をかき分けて進む、と、かすかにひっかかるような感覚があり、瞬き一つの後にライトが灯って光が闇を切り分ける。
どうやら先程の転倒で接触が直ったようである、積み上げていた罪状から無灯火が取り下げられる。
向かい風が強くなるのは、スピードがさらに上がったからだ。
右肩に触れていた夜鷹の手が離れた。後ろを振り返らないのに、左肩に触れたままの手のひらを通じて、司は彼がサングラスを上げたか外したのだと確信した。
大きめのレンズは彼の小さな顔をしっかりと隠す、ぶつかってくる風を煩わしいと思ったのかそれとも暗闇の中の風景を見たくなったのかはわからないが。
スピードスケートの選手ほどでななくとも、フィギュアスケーターからするときっとこの世の中は重く鈍く感じられるだろう。
あの氷に運ばれる感覚を知れば知るほどそれは強いはずだ。
夜鷹にとってはきっと、世界の何もかもがのろくさくて重く、絡みついてわずらわしいのかもしれない。
ようやく夜空へ目を遣れば、ずっとそこにあっただろう星と月がちゃんとそこにある。
ねえ悪くないでしょう、真夜中の道をたった二人で走るのも。司は苦笑する、俺はこの人に、悪くないって思って欲しがってる。
「到着です!っふ~~~、お疲れさまでした」
と言っても夜鷹のマンションへ続く大通りの手前だ。人気は無いが、ここから先はまた警官の見回りが居るだろう、夜鷹に促すと音も無く地面へ降りた。やはりサングラスは外して上着のポケットにしまわれている。
ほんの10分ほどの暗夜の違反行路はあっけなく終わり。
汗をしっかりとかいた司だが、すっきりとしていた。顔に風を受け、肩に手のひらを感じ、ただペダルを踏んで進むことしか考えていなかった。
そのままマンション前まで送り届ける。優美な不夜城の前に立つ夜鷹が光に埋もれそうに見えてしまって、まばたきを繰り返す。目に撮影機能があれば連写になっただろう。
もう認めてしまった、認めてしまう事を認めた、司のこれは焦りだ。
認めてしまえばあとは早い、かわりにせき止められていた感情があふれてくる。
そんな儚く見えないで欲しい、華奢に見えたって貴方がバキバキなの知ってるんだぞ、俺はまだ貴方に焦がれていたい、ねえ、どうして靴を置いて来てしまったんですか!後先も左右も捨てて縋り付きたくなる。
「……」
夜鷹は黙って、じっと司を見つめてくる。何か司に言いたいことでもあるのだろうと思って司は待つ。
20秒ぐらい待ったが結局何も出てこない。
何も言わないのかよ!
「えっと……外を歩くときは、身分証明書を持ってくださいね……?」
「……」
「あの」
「跳ばすって言ったわりには遅かったね」
「氷の上と比べないでくださいよ……」
「肌にあたる風もぬるい」
「だから……」
氷の上以外で何も語れることがない。そして、司が奉げられるものはもうない、適切でないものは支払えない。
誰かと繋がってようやく生きている司がすべて一人で成し遂げて来た夜鷹に体以外で差し出せるものなんか――あ。
司はほぼヤケのようになって自転車の前輪からキーを抜いた。リングには安っぽい緑のプラ板と、同型のキーが2つ。
面倒くさがって渡されたままスペアキーごとまとめて使っていた。
キーの1つをリングから外して、差し出す。夜鷹は受け取りもせず、言葉を待った。自分は言葉をくれてやらないくせに、説明を求めるところがある。
「……俺、来週からいのりさんのJGPFで国外なんです。その間、この自転車貸してあげます」
「自転車を?」
「乗れると便利ですよ、免許要らないし、……はは、えっと……」
あれ、俺なんか何言ってんだろう。じわじわと司の額に汗が浮かんでくる。だって、だってさあ、さっききっと自転車転んで悔しそうに見えて……
「そっちにして、」
司が持つ、キーホルダーとプラ板のついたキーを指さした。
これですか、と司がキーホルダーを指先にぶらさげると、白い手が素早く伸びてきて、プラ板でもキーでもなく、リングに中指を入れて掻っ攫う。
夜鷹が見せつけるように中指を立てると、キーとプラ板がくるくると回転した。
ふうん、と夜鷹はキーをもてあそぶ。
司はあれよあれよと真っ赤になった。あああああぶない!薬指を輪っかに突っ込まれるかと思った……!!いや、薬指がダメとか中指が嬉しいとかそういう話じゃなくって、違って!
「壊すかもね」
「曲げてもパンクしても大丈夫、俺直せますから。ほら、貰った時こんな状態だったんです」
なんとか立て直そうと、必死になってスマホで修理前の自転車の写真を出した。
「へえ」
「はい!」
だからきっと大丈夫、司は自転車のハンドルを手渡した。受け取った夜鷹はさっそくキーを挿す。受け取ってもらえた、それがじつじつと嬉しい。
きっとこんなマンションの駐輪場には、車が買えそうなくらいの自転車が並んでるんだろう。
そんな中に肩身狭くこの赤いママチャリが並ぶのだと思うと、なんだか面白かった。
「おやすみなさい」
まだじゅうぶん終電はある時間帯だ、いい運動もしたしきっと今日はよく眠れる。願わくば、この人にも安らかな眠りがありますように。
「ねえ」
「はい」
「泊まりたいって言わないの」
会話はキャッチボールというが、この人はいつも石を投げてくるか、石の代わりに爆弾を投げてくるかだな。
「い、言いませんよ」
「なんで」
「なんでってそんな、そういうのはもっと雰囲気とか段階が必要で……」
夜鷹が司にもわかるようにゆっくりと、あからさまに唇を舌でなめずって見せた。
舌だけ濃い血の色をしていて恐ろしく、司の視線と意識を握って離さない。指一本まばたき一つ舌先のひるがえりのみであっけなく司は動けなくなってしまう。さっき酒に飛び込んで溺れた虫と変わらない。
司も見たことのある、どこにあるかはわからない夜鷹のスイッチだった。
「眠れない、飲めないのに酒を飲んだ、一人じゃ帰れないから家まで送って欲しい――これ、誘いの常套句だよね」
「エ゛ッッ!?」
そんなむちゃくちゃな、いやむちゃくちゃとかいて夜鷹純と読む国があるらしいんだけど!?明浦路司の国だ。
「さっきまで僕はそんなつもりが無かったけどね。――そういうことにする」
「なりませんよ」
「面倒だな、もういいよ、もう少し君と、司くんと身体を動かしたい気分――これでいい?」
「よくありま……せん……」
司は言うだけ言おうとした。言うだけはタダなので。よくありません、たったこれだけを言えなかった。
何故ってもちろん、わざとらしく名前を呼ばれてしまったからだ。
名前を呼ばれたくて生きてきて、叶わないまま死んでしまった司の魂にじかに触れられてしまっている。
中途半端なよくありませんはもちろん聞き届けられない。夜鷹も答えをもはや聞いていない。
自転車のハンドルと司の手首、両方を掴んで歩くワガママスタイルなのに、それがもう格好よく見えるんだから終わっている。
自分の見ていないところで彼が職質されるよりずっとよくて、それに、なんでかはわからないしよからぬことであっても、夜鷹に元気が出たなら何もかも差し置いてよかったとすら思う。
「こっち」
いつものようにエレベータへ向かうのではなく、駐輪場へ向かう。
マンションの駐輪場に足を踏み入れるのは初めてだったし、そこでキスをされるのだって当然初めてだった。
どうしよう俺も名前呼んだ方がいいのかな。触れられた魂の余韻がじくじく長くてそんなことばっかり気になってしまう。
もっと気にした方がいい事がたくさんある、まずは監視カメラの設置場所とか。
それから手短に結果から言えば司は名前を呼べなかった。この日は。