〇かれたい男の話
原作軸新i潟行き直前、ヒビ入ってるうらぴのバイト先に来る🦅のよだつかです。課題曲の鷹狩り
朗報:お互いにたくさん矢印を出しておきました!
大注意:新i潟直前時点ですが最新話までの内容を含みます
中注意:各種様々な捏造を多分に含みます
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「……絶対はあるよ」
僕があの時どれだけ嬉しかったか君はいい加減わかったほうがいい。
肋骨にヒビ。
少年漫画などではアバラを二三本気軽にいってしまうので軽くとらえがちだが、一般的な人間は一本だけそれもヒビだけでもめちゃくちゃ痛い。
ハーネスを用いた練習の最中に起きた転倒。直後は痛みよりもとにかくいのりさんの心の方が心配で笑顔を作って声をかけることしか考えられなくて痛みの事はあまり覚えていない。
でも瞳さんにどやしつけられて病院に行き、受付を済ませて待合室の椅子に座った瞬間からそれはもう痛んだ。
絶対これ折れてるって思ったし、内臓に刺さってたりしてるんじゃない?って怖くて冷や汗が止まらなかった。
あれよあれよとレントゲンを撮られ、ヒビが入っていると言われたときにはこれで折れてないのかと驚愕した。
院内の薬局にて、
「こちらは痛みがひどい時だけ飲んでください。痛みが薄くなったら飲まないでください。かなり強い痛み止めですので飲み続けると胃が荒れます」
痛み止めを飲む時の注意を繰り返されたことが記憶に残る。
「今と、今日寝る前に飲んでください。恐らく今日の夜は眠れないほど痛むと思います」
怖……!お守りのようにその痛み止めを持ち帰り加護さんに経緯を説明すると即座にさまざまな家事の免除を言い渡された。
風呂掃除、トイレ掃除、洗濯もの干し、布団干し、ゴミ出し、
免除と言うよりは厳禁に近かった。
遠慮しようにももうその時には既に、触ったりしなくてもズキズキ、それどころか呼吸一つ一つ、心臓のドキドキ一つにも激しく痛むから何も言えなかった。
痛くて眠れないという、一生忘れられない経験になった。
瞳から見て明浦路司が持つ得難い能力の数々。そのうちの一つに『割り切り力』がある。かつては『あきらめ』として何度も現役時代の司の歩みを阻害してきたそれ。
コーチとなってからそれはおおむね良いほうに働いており『ないんだからないなりに』とか『できないんだからできるようにするだけ』のようなネガティブをポジティブで包むことが多い。
だが、だが!
「司くん、ちょっと」
司は瞳の呼び声に顔をこわばらせた。この『司くん、ちょっと』は95割でお説教につながるという事を司は身体が理解している。
わかりやすくソワついているその顔、なにかしらやらかしの自覚があるようで瞳はまずは一安心した。
俺何かしました?みたいな顔をしている時が一番やっかいなのだ。
「な、なーに?」
「はい座って~、お茶淹れるね~」
平日の午後、リンク併設の休憩室は空いていて人の姿はない。ぶうんと自動販売機と給茶機だけが唸っている。
給茶機からあたたかいお茶を二杯紙コップにさっさと取り、テーブルにつかせた。
「肋骨が折れている司先生~?」
「ひ、ヒビが入ってるだけ……」
「誤差よ」
「はい」
「鴗鳥慎一郎先生からさきほどお電話がありました」
「ドキ」
「昨日深夜に出歩いてた狼嵜光ちゃんを、お家まで送ってあげたんですって?そのお礼ですって~」
「……うん」
「司くんえら~~い」
「はは……」
「それで司くん、そんな夜中に何してたのかなあ?」
「……」
「鴗鳥先生によると、お仕事中に大変申し訳ない、自分の監督不行き届きだとかなんとか」
「……」
「ねえ」
「はい」
「……お仕事ってなに?」
「……こ、交通整理のアルバイトを少々……」
とうとう司はうつむきながらハーネスの穴埋めに交通整理のアルバイトをしていることを白状した。
「だからハーネスのお金はクラブ運営費から出せるように今調整してるって言ってるじゃない!」
「うまく使えるかわからないものにお金を出してもらう訳にはいかないよ!」
「雪ちゃんは2A跳べてたでしょ!」
「いのりさんは……ッ!」
そこで思い出したように司は胸をおさえてうつむいた。ちゃんと痛いのだろう。瞳はやや勢いとするどさを収めた。
「司くん焦ってるでしょ」
「……」
「お金のこともあるだろうけど、いのりちゃんが跳べなくなった責任感じてる?」
「そんなことない!」
「でも、私からはそう見える。私の言ってる意味わかるわよね」
『がむしゃらにやっては半分はただあなたを傷つけるだけ』
かつて、瞳が司へ言った言葉だ。司は瞳の言わんとしている事を受け取った。
「……うん」
「とにかく、無茶なアルバイトはダメ。わかった?」
「……はい」
だが、司はその日の深夜23:00も交通整理のアルバイトに出勤していた。土手の法面補修工事に伴う交通整理はもともと数日間限定での契約で、今日は最終日だったのだ。
痛みも少ないし、深夜の土手の交通量もあまりない、ほぼ立っているだけみたいなもの、寝転がってるほうがちょっと苦しい、無茶なアルバイトではないから……と自分に言い訳をしつつ。
言い訳がたくさん並んだ、つまり、やましい。
ハーネス購入費用の穴埋めにしたいというのは本当だが、瞳の指摘にもあった『自傷行為』の意味合いがゼロではないとは言い切れないところがある。
じっとしていると持ち前の後ろ向きが顔を出してくるのだ。
痛みがあるうちはよかった、ちゃんと罰を受けているような気持ちになれたから。
自分の負傷のためにいのりを不調にしておきながら、のうのうとしてはいられなかった。
どうしても、何か――いけない、俺はもうそういうのは止めたんだ。止めたんだ。
川の上流から下流に向かってこの法面補修工事は移動していく。全て補修するまで続くのではなく雨が多い時期やお祭りの時期などは休止される気の長いものだ。
今回のひと区画は特に期間も長かったのと、交通整理のアルバイトは向き不向きもあるのでバイト仲間手前の顔見知りも増える。
「司くん昨日は大変だったね、ちゃんと最後までいたことにしといたから」
「すみません、助かります……!!」
「って、別にオレが払う訳じゃないしな!わかりゃしないし大丈夫だろ」
五十歳を少し超えたリーダー格の男性は太い声で笑った。たしかに事故を起こししたりすればコトだが、長期の工事の最中毎日わざわざ誰が見張りにくるわけでもない。
しかも車の通りも控えめな区画なので、休憩時間を超過したりちょっと早めに上がったりなどはよくあることだった。
「今回は今日で最後だけど、来月から募集あるからその時はまた会うかな。司くん働き者だから来てくれると助かるよ」
以前の司ならきっと、ちょっと困ったように「はい」と答えていただろう。
どのアルバイトでも司は重宝された、身働きを惜しまないしよく気が付く、急なシフトにも応じてくれる。
多くの人が司に「ぜひまた来て」と言う。心から。
氷だけが、司にそれを言ってくれなかった。
また来て、ここにいて、あなたが欲しい、氷だけが司を求めてはくれなかった。
「あーすみません、来月から俺、本業が忙しくなっちゃうんですよね」
「お~そっか、がんばれよ!司くんて本業なんだっけ?」
「フィギュアスケートのコーチなんです、まだまだ駆け出しのアシスタントですが。来月生徒さんの大会があるんです」
「へえ、全然わかんねえけど名古屋は強いんだってな、がんばれよ!」
ごく軽いやり取りだった。司は声が震えそうになるのを必死にこらえていた。
こうして『本業』として『フィギュアスケート』と口に出したのはきっと初めてだった。
横浜でアパートを借りた時も、名古屋でアパートを借りた時も、ずっと職業は『フリーター』だった。それで審査に落ちたこともあった。
フィギュアスケートの選手と職業欄に書いたことは一度もない。それを師匠である高峰匠に咎められたことを思い出す。
ああ俺言えた、こんなタイミングで。
ズキン!と肋骨が痛んだ、それは浮かれるなとくぎを刺すようなものかもしれない。
ふわっと足元の感覚が浮き上がるように軽い、言葉の力というのは確かにある。
俺は結束いのり選手のコーチだ。今それでお金を貰って食って生きているんだ。
河川敷はメインの通りでないこともあり、街灯は少ない。工事のための照明は別に用意されているため現場付近の街灯は消えている。
思い出したように通る車や自転車、それから深夜のランナー。
自分たち以外はほぼ真っ暗な中で司はただ立っていた。警備のアルバイトで教わった、腰が疲れにくい立ち方だ。
痛みも眠りについたのか静かな(もちろん工事の重機の音や照明車のエンジン音などはずっとしている)夜だった。
暗闇を恐れもしないどころか親しみ、従えていそうな彼女は俺に不思議そうに言った。
『……その格好アルバイト?』
『フィギュアスケートの先生なのに?』
さっきリーダーへ仕事の事を言えたのは、あの言葉への負けん気だったりしたらちょっと恥ずかしいな。そんなことを思いながら。
24時を過ぎたころ、リーダーが後ろから肩を叩いてきたので飛び上がる。
「司くん」
「わはい!」
「ごめん、なああれ」
リーダーが俺達を取り囲む暗闇へ最小限の動作で顎をしゃくった。先へ目を凝らしてみると、少し離れた暗闇の中にもうひとつ暗闇が――黒がある。
黒い服を着た人間だった。顔と首、手首から先だけが目に付く白さ。
彼は煙草を吸っていた、煙草なんかお線香みたいに微々たる火だからとても光源とは言えない。
でも俺が絶対に見間違えたりはしないだろう人がそこに居たのだ。
「――あ」
「知り合い?」
夜鷹純だ。
認識する寸前まで眠っていたみたいに静かだった世界や俺の身体が大騒ぎを始めた。まず心臓がバギュバギュ鳴り始めて血液を送り始める、肋骨が渋るように痛んだ。
考えるよりもまず首がコクコクと頷く。
「あ、知り合いか。さっき来たと思ったら通りもしねえで煙草フカシ始めてさ、変なのが来たなと思ったんだわ」
変なのという言い草に司は思わず笑って、力が抜けた。
あの人は伝説の元オリンピック金メダリストで……!ファン心が口をついて飛び出しそうになるのをせき止めた。
変なの、そう、変なのだ。深夜の土手法面補修工事現場に現れて、見どころの無い交通整理を煙草を吸いながら見ているって変な人で間違いがない。
司はリーダーに一礼して夜鷹へ駆け寄った。
こんばんは、と声をかけようとしたのに夜鷹は近寄って来た司に対して、
「本当に働いてるんだ」
「え?ああ、はい、今日までですが……」
「ふうん」
こんばんはの行先が無くなってしまった、
「何かご用ですか」
「僕が君に?無いよ」
「そうですか……」
じゃあなんなんだよ、やりづらい相手に司がモグモグしていると、
「骨を折ったんだって」
「……あ、ああ、ヒビです。折れてはいません。大丈夫です、ほとんど痛みもないくらいです」
「そう」
ああ昨日の事を狼嵜選手から聞いたのだなとようやく司にもわかった。
「この辺暗いので気を付けてくださいね」
「?」
サングラス越しの目がきょとりとした、俺の言っている言葉の意味が分からないとでも言うように。
「もともとこの辺暗いんですけど工事の間は街灯も消していて」
「光は送ったよね」
「え」
「……」
司はとりあえず5秒間、さっき心臓が送り出した血液を脳に集中させて考えた。
光は送ったよね
↓
光を送ったなら、僕も送るべきだ
↓
光を送ったのに、僕を送らないのか
こういうことか……!?女子小学生と成人男性を並べている!?まさかね!?
「その、俺は貴方の家を知りませんし」
「教えてないからね」
「仕事中なので」
「何時に終わるの」
「あと2時間です」
「長いね」
彼はふいと背中を向けてさらに光の届かないところまで離れた。静止する。
これはつまり……待つという事だろう。そこはかとなく不満げに見えるのは気のせいであって欲しい。
昨日狼嵜選手を送り届けた時はたしかにリーダーさんにお願いして即上がらせてもらったから、もしかして自分は待たせるのかと思ってらっしゃる!?
まさかね。
「お、お待たせしました」
「うん」
仕事を終わらせると今までで一番素早く着替え、荷物を持って彼のもとに駆け付けた。
待ちくたびれたとでも言うように彼は歩き始める。
昨日の今日という事もあったし最終日だったのでだらしのないことはしたくなかったから、きっちり働き切るつもりだった。
だがリーダーさんは俺に30分ほど早く「お疲れさん」を言いに来た。一時間半立ったままこちらを眺め続けていたこの人に気を使ったのは間違いがないだろう。
本音から言えばお待たせしましたって言いたくはなかったけど、形式上お待たせした事は間違いないのでそう言うしかない。
「あ、司くん」
リーダーさんが俺を呼び止めた。
「これ」
「あ!ありがとうございます」
封筒を差し出してくる。もちろんお金じゃないが、お金よりありがたいものでもある。
「スケート頑張ってな」
「はい!」
耳が熱くなった、夜鷹純の見ている前でスケートを励まされてしまった。昔ならきっと大慌てで「違うんです」とか言っていただろうな。
でも俺はもう違うのだ。違うんですは違うんだ。
「お疲れさまでした」
もう一度俺は深くリーダーさんの背中に頭を下げた。
「それ何」
ひょいと俺の手から封筒が取り上げられた。ためらいも悪びれもなしに開けて中身を広げる。
「あっ」
「……履歴書?」
「はい」
夜鷹純が俺の、俺なんかの履歴書を見ている、この事実に耳鳴りがするほど緊張する。
さっき俺が積み上げた自尊心みたいなものはあっという間に砕けてしまった、
「はい履歴書です、こう言う仕事でも履歴書って必要なので……会社、派遣会社さんはすっごくいい人でコピー取ったら原本は返してくれるんですありがたいなあ」
「なんでありがたいの」
「あは!日雇いとか今みたいな短期のアルバイトなのにいちいち履歴書を書くの面倒で、こうやって返してもらえたら使い回せるんですほら日付も空欄でいいって言ってくれてそれに」
それに、俺は彼の手の内にある俺の履歴書、写真を示した。にこりともしない痩せた顔の俺。
「こういう証明写真って高いんです見たことありませんか駅とかにある証明写真の機械、ああいうので撮るんですけど千円以上するんです、バイトに落ちるのはいいけど写真だけは返して~って思ってて」
バカ。
空回りする舌はどんどん俺を卑屈に追い詰めていく。でも全部本当だ。相手が優しそうなら言ったことだってあった、すみません、履歴書の返却……せめて写真だけでも返してもらえませんかって。
この派遣会社さんには名古屋に来てから何度もお世話になったけど、ずっと履歴書を返してくれる。いろんなところに差し出されては、また来てよという言葉といっしょに戻ってきつづけた俺の履歴書。
だから結構ボロボロだ。
「よくしゃべるね」
「……っはい」
鼻の奥がツンとした。何も言えなくなる俺をよそに、咥え煙草でわざわざ広げたB4の履歴書を眺めた。灰を落とさないでくださいね、真っ先に思うのがそれだったので俺は落胆する。
人間そんなに簡単にはいかないんだ。
彼の視線が俺の履歴書を見終えるまで、できれば永遠みたいに長い時間に感じていたかった。
でも本当に5秒もかからずに、
「なにもないね」
「……」
笑えよ、あははって、そうなんですよとでも言えよと俺は更に内側へ閉じていきたかった。
なにもない履歴書だ。高校卒業までで終わっている俺の人生。卒業後一度就職した会社についても書いてない。趣味の欄も読書だし、スケートのスの字もない。
てきとうでいいよと確か派遣会社の事務所で言われて、写真も横浜で撮ったものつまり二年前くらいのもの。
どこからどこまで終わっている履歴書だ。
けど、ずきんと肋骨が痛む。背中を丸めようとすると痛む、痛みに励まされようと俺は思った。
胸を張れ、いのりさんに恥ずかしくないコーチになるって決めたんだ。瞳さんにも約束した。
履歴書を手にしたまま歩く彼に声をかけた、言うべきがあった。
「狼嵜選手の深夜の外出、貴方からも注意してもらえませんか」
「なんで」
全身真っ黒の、俺には値段の想像すらつかないようなおしゃれな身なりに当然反射テープなんて貼られていないだろう。
俺はスニーカーの踵と、それからパーカーには反射テープが張られているので、横並びの車道側を歩いた。
先に立って歩きたかったが家を知らないのだから歩きようがない。
「危ないからですよ!どんなにしっかりしていても彼女は女子小学生です、交通事故や事件に巻き込まれたら」
「そうじゃない」
「え」
「君が、それを言うのは何故」
何故と聞かれて俺は言葉に詰まった。何故って聞かれると思ってもみなかったのだ。
俺の憧れの人、何度も画面越しに見つめた整った横顔、その横顔には何の情報もない。あるとすれば『疑問』くらい。
「君には関係ないことだよ」
「……俺が大人で、彼女が子供だから……じゃいけませんか」
「……」
夜鷹純は驚いたようだった。
「それで、光はなんて言ったの」
「平気です、一人で帰れますって。なので俺が送りました。要らないって言われましたけど無理やり」
「そうだろうね」
一つ頷いた。吸われないままの煙草の煙が後ろへ流れていく。
「光は君の言う事を聞かないだろうな、何故だかわかる?」
「……」
「君が弱いからだよ。光は弱い人間の言葉に耳を貸さない」
「俺はさっき言いましたよ、貴方からも注意してもらえませんかって。それは――貴方の言う事なら聞いてくれると思ったから」
いっそ誇るみたいに言われたので、俺の言い返す声が大きくなった。
「自分が弱い事を認めるんだね」
「はい、俺に力はありません。でも、危ない事をするのを見過ごすこともできません」
耳を澄ませるだけの沈黙があった。車の音も無く、自転車も人も、街灯の灯りまでも遠かった。
「――言っておく。僕も光がどうなろうと構わないと思っているわけじゃない」
「よかった」
「光は君を嫌ってる」
「ッ!!?」
この人性格悪い!
「……あの……それは何故俺に言ったんですか」
「?事実だから」
俺のじっとりした視線に痒みすら感じてくれていない。
ふと気づいた。この人は「事実」は言っていいものだと思っている。それを言われた人間がどう思うかを考えないんだ。
なぜかこの視線には彼の気に障ったようだ、
「僕を憐れんでる?」
「え、いえ」
「ならいい」
立ち止まると靴底で煙草を消す。携帯灰皿に吸い殻を入れると慣れた動作でまた新しい煙草へ火を点けた。
「なに?」
「携帯灰皿持っててえらいなって思いました。この辺の土手、工事中でまだ草が茂ってるので家事とかになったらと」
「いちいちうるさいな、何様のつもり。そういうことを気にしてるうちはスタートラインにも立てない」
睨まれた、すくみ上る。さすがに失礼な物言いだったのは確かだ。えらいってなんだよ。
「……す、すみません」
数歩歩いてから彼は振り返った。俺が固まってるのをじっと見る、歩き出した。
「ふ」
「何かおかしい?」
「昨日、狼嵜選手もそうやって振り返ってくれたなと。彼女はローラーブレードを履いてたので、俺を置いていくこともできたのに」
「……僕に走れって言ってる?」
「違いますよ!フィギュアスケーターに走れなんて言う訳がない」
膝が命のフィギュアスケーターは基本のスタミナづくりとはいえランニングは慎重に行うべきだ。
「……うん」
静かの中を本当にただ歩く。俺は気まずいと思うけれどこの人はきっとそんなことを気にしないだろうな、
「暇だな、ねえ、僕の事を話して」
思って油断してた数秒後に突然投げ込まれた。
「貴方の事を?」
「コミュニケーションだよ、慎一郎くんが大事にしてる」
夜鷹純が俺とコミュニケーションを取ろうとしている……!?バギバギ心臓が鳴った、踏まれた状態で無理やり脈動しているみたいだ。
「コミュニケーション……はあ、それなら俺の事を話すのでは?」
「君の事なんかきいてどうするの、それにここに書いてある、必要があるなら読むよ」
そうですか……と言う気にもなれなかった。俺はとりあえず脳内夜鷹純Wikipediaを呼び出した。
「ええと……名前は夜鷹純、さん。男子フィギュアスケートのオリンピック金メダリストで、過去出場した全ての大会で金メダルを獲得していて、20歳で引退し、身長176cm、年齢は36歳で……」
「つまらないな」
「そんな」
「あたりまえのことばかりだ」
そりゃ自分の情報だし、当たり前でしょうよ。さすがに俺も口と気持ちが尖ってくる。
「……性格が悪い」
「性格が悪い?」
しまった食いつかれた、そりゃそうか。
「はい、たとえばさっき狼嵜選手が俺を嫌っているって言ってしまうところとか……。あっこの間の!いのりさん、結束選手の夢は叶わないって言ったりとか、右も左も分からない子供って言ったりとか、そうだ初めて会った時!一生かけようが勝てないとかも言いましたよね!」
「……いいコーチになれるかもしれないとも言ったけど」
「それは!その、ありがとうございます……」
「……」
「……」
気まずい。こういう時、煙草を吸う人がうらやましい、煙草を吸っている間は口が塞がっている。
「とにかく、言われた人が傷つくようなことは言わない方がいいです。事実かどうかじゃなくて。少なくとも俺は狼嵜選手に嫌われてるってその……昨日態度とかでわかりましたけど、はっきりいわれると傷つきます」
「……そう」
「はい」
「君は光に嫌われると傷つくんだね」
ん?それはそうだろ。
「狼嵜選手にっていうか、だいたいそうじゃないですか?もちろん全然知らない人とかだったら気にならないですけど」
「僕は」
「はい」
「僕に嫌われても傷つく?」
横顔を見ようとした、俺は何かヒントが欲しかった。そしたら目が合った。こちらを向いていたからだ。
いきなりこっちを見ないで欲しい。
「傷、つきます」
「よかったね」
へなへなの声でやっと答えたところに畳みかけられて俺の脳はとうとうパチッと跳ねた。
「よかったねって何!?よかったねって何ですか!?」
「それで、もう終わり?」
「いやちょっと」
「僕の事を話して」
えー!?でもこの問題を考えるのは大変そうだから飛びついた。
「……えーっと、あ、犠牲を大切にしている?」
まさに昨日貰ったばかりの情報だった。
「うん。君は僕を間違ってると思ってるようだけど」
「思ってません」
「?光は――」
「俺はそうじゃなかった、と言うだけです。だって貴方は――誰より強かった。そして狼嵜選手も今、誰より強い」
今、に少し力を込めた。
「……僕は楽しみにしてる」
「なんですか」
脈絡ってご存じですか!?俺かなり勇気を出してさっきは言ったのにさあ!
鴗鳥先生よくこの人と親友やっていられる、尊敬だよ。
「僕は楽しみにしてるんだよ」
「だからいやちょっと何の…………あっ!!?証明の話か!ですね!?はい!いのりさんはただいま絶賛爆速成長中です!秘密兵器で新ジャンプも取得して!イテッ」
腕を振り上げたらズキリと肋骨が痛んだ。狼嵜選手が昨日俺にしたように、この人も俺の痛みには敏感に目を凝らしてくる。
この痛みをいのりさんのための犠牲として語られたくなくて、俺は急いで言葉を探した。
「後はそうですね、貴方は俺、明浦路司の憧れで――初恋の人だと思います」
今度こそ彼は黙った。
言ってやったぞ。苦し紛れにだけど。
「はつこい」
知らない外国語みたいに呟かれる。目がまんまるくてかわいいとすら思ってしまった。
「はい、初恋。しかも一目惚れの。テレビ見終わった後で必死に名前を調べました。中学生の時に貴方の動画を見て――氷の世界に飛び込んだんです」
「……君みたいなの、たくさんいたよ」
少し間があって、当て擦るみたいに言われた。俺の顔がしてやったりの顔をしていたのに気づいたからかもしれない。
負けず嫌いにもほどがある、負けなかった人。
「でしょうね、すみません」
突然、俺の顔に煙を進行方向に負けない強さでフッと吹きかけてきた。メダリストの肺活量で吹きかけられた煙は俺の目と鼻を襲う。
人の顔に煙草の煙を吹きかけちゃいけません!子供相手に言うならこうだ、子供は煙草を吸っちゃいけません。
彼の目は真摯だった。紳士ではないな。
「別に謝ることじゃない。そんなことわざわざ聞かなくても、君のスケートを見ればすぐにわかるよ。君はずっと僕を見てきた」
「……すみません急に恥ずかしくなってきました」
顔を隠す。肋骨が痛かった、いててて、逃げ出したいくらい恥ずかしい、痛い。痛い。顔も熱い、熱い。
「ここ」
街中に入ってしばらく歩き、あるマンションの前で突然彼は立ち止まった。そこまで無言だった。俺はもう何も言えなかったので助かった。
沈黙も心地いい関係とかいうのとは真逆の、一言でも喋ったら俺が弾け飛びそうな時間だった。どっと疲れた。
そこまで一度も赤信号にひっからなかったのはさすがに天も俺をかわいそうだと思ったのかも。
そのマンションは良かった、良かったって言うのは憧れが住むのにふさわしい家で良かったということ。
ちゃんと浮世離れに立派で豪華でマンションだった。
最寄り駅 高級マンション でググったらきっとここが上位にヒットするだろうな。
横浜や名古屋のアパートに暮らしてる時には分譲マンションのチラシすらポストに入れられることが無かった俺がおこがましいけど。
それでも1Fのエントランスに灯りがあり、受付に人の姿はさすがにないもののセキュリティはきっと万全の筈だ。
ここに……この人が……生活……うぉ……
「ウアッ……ここ、ホ゛ォ゛……!」
「何」
俺は顔を隠してフルフル首を横に振る。泣いてるように見えたのかそれとも気持ち悪いのかわからないけど、たしかに困ったような声がする。
「何?」
「俺さっき貴方に安全がどうのって言いました!えらそうに。それなのに今こうして貴方の家を見てしまったらファン心が止められなくなってしまっていてすごく気持ち悪い!」
見ないでくれー!こんな俺を!お疲れさまでした!明日こそいのりさんの不調を終わらせられるような糸口を見出したい、魚渕先生からの連絡が頼りだけどそれだけを待つことはしたくない。
「上がっていきなよ」
「なんで!?」
耳がバカになったのかと思った。上がっていけって言った?
顔を上げたらエントランスの灯りを後光に背負った、今は敵対しているはずの金メダリスト夜鷹純が居る。現実感がなさすぎる。
なんで居るんだっけ?俺も彼も。
「……なんで?……少し休んでいったら?」
「きゅッ」
口が巾着袋だったら紐をギュッと大急ぎで引っ張ってた、巾着袋じゃないので筋肉で無理やり閉じた。
急に優しい事を言わないで欲しい!
脳のキャパはとっくに終わっている、そうでなくても昼間働いて夜も暇とはいえ一日ほとんど働いていた。
昨日も遅かったから寝不足で、当たり前に身体は休息を求めている。休みたい。でも絶対にこの人の家でじゃない、どんなに動けなくたってこの人の家でだけはない。
「ありがとうございますお気持ちだけちょうだいいたします」
「面倒だな……じゃあ、家に来たらこれを返す。これでいい?」
彼は手に持ったままの履歴書を俺に見せてきた。
「これでいいってなに……?面倒って言った……?本当に何?」
わからないがつみかさなりすぎてぼろぼろ崩れて来た、俺がさっき交通整理してた土手みたいに法面補修が必要だ。
この人は何か口実をつけてなにもないねと言った履歴書を人質まがいにしてでも、俺を家にあげたいらしい。
「僕が君の話をしたくなるぐらい、僕を飽きさせないようにして」
夜鷹純が俺の話をしたくなるくらい?
真正面から見た夜鷹純の顔面は俺のとっくにボロボロだった理性をすりつぶすには過ぎるくらいだった。
位からか色の薄い虹彩に瞳孔がかっ開いている、怖い、俺は崩れるみたいに頷いている。
絶対になるべく見ないように見ないようにと薄目でマンション内を移動した、情報は得るな、部屋番号も絶対に見ないぞと決めて。
エレベーターが静かすぎるのと高層階だから移動時間が長いせいで一瞬動いてないのかなと錯覚する。きゅうっと耳閉感が増して音が全部遠くなった。
密閉された空間に放り込まれると情報が極端に制限されるから、お医者さんに怒られそうだと思いつつ、少しだけ胸を押す。
ズキッとちゃんと痛い。痛みはちゃんとある。
家の中は真っ暗だった。まだ薄目で、ドアを閉じる音がガチャンもバタンも言わず、厚みのあるものが空気を封じ込める気配。
状況を把握しようと身を固くしていたらドアにそのまま背中を押し付けられた、俺のでかい体に同じ構造のはずのからだが密着してくる。してきた。
密着?密着とは。真っ暗で密着、それはまずい。
「……ちょっと待ってください!?」
耳閉感のせいで声量の適切がわからない、気ッと大声を出して俺は胸が痛むのも構わずに両手を挙げた。電車に乗る時にとりあえず吊り輪を掴むのと同じ。
くっと耳が拾ったのは、小さな小さな笑い声だった。
「自分が初恋だとか言ってくる人間を家に招いておいて、何もしないと思ったのかな。呆れるほど危機感がないんだね君って」
「いや……!ちょっと……本っ……当に待ってください、俺今頭が回らない!疲れてて!ヒビ……肋骨にヒビが!俺肋骨にヒビ入ってるんですよ!」
「スケーターの身体の扱いなら僕が一番詳しい」
「何の話してる!?俺の身体の話なんだから俺が!一番詳しいんですよ!」
暗闇の中で白く細長いものが動いた、一瞬蛇に見えて身体がこわばる。
当然指だ、ひんやりぬるっとした指が俺の顎を掴んでくる。やっぱり蛇かも。
目が慣れるにしたがって爪の形や節のひとつまで見えてきてしまう。見ちゃ駄目だ。
「僕は浮かれてる」
顔は浮かれている顔をしてない。瞳孔は開きっぱなしだけどそれは暗いからのはずだ。
「そうですかぁ!」
「だから黙って。……僕はまだ浮かれていたい」
「黙ってたまるか!」
ふわっと俺の首の産毛に彼の息がかかった。やめてだめ俺汗臭いので!
……汗臭いので?
1秒も必要ない。俺が俺を自罰や自虐する病気みたいな悪癖は、夜鷹純については絶対の潔癖な信仰を持っていた。
許せない、もちろん俺がだ。汗臭いから何だ、風呂上りだったら構わなかったとでも言うのか。
俺が俺を許せなくなったことでようやく俺は覚醒した。
何もかも遅すぎるだろ。なんでここまでホイホイついてきた!?言われるままに。バカ。履歴書がなんだ、写真一枚惜しんだわけでもないだろうに。
『浮かれてる』
彼の言葉が答えを導き出した。
『初恋の人間の家に招かれて』
だめだその答えは。引いちゃいけない答えだ。だから流されるな、退いてたまるか、いや退却したいんだ。
「うおああああぁおやすみなさい!!」
俺はここ一番の力を出した。自分が自分で突き動ける。手のひらの下半分、掌底と呼ばれる可能な限りやわらかい部分で彼の胸を押しのけた、シャツ越しにもわかる筋肉にときめいている場合ではない。
理屈のわかるドアをなんとか開けて廊下に逃げ出す、ホラー映画みたいに追いかけてこられたらどうしようと思ったけど振り向かない。
エレベーターもちゃんと俺の言う事を聞いてあわてず騒がず一階まで逃げ出す手助けをしてくれた。
最大の難関であるエントランスだが、ようやく俺を助けてくれる気になったらしい神様が、ちょうど帰ってくる住民の人を寄越してくれる。
這う這うの体、漢字にするとまさにそれ。
本来出入りに厳しいだろう自動ドアを入ってくる人にすれ違うかっこうで突破して脱出完了だ。
彼が去る者は追わない主義だったのか、それとも明るい廊下に出たくなかったのか、それともつまらなくなったのか、わからない、だが俺は逃げることができた。
「わぁあああああ!!!!」
振り切るように俺は叫びながら走った。これは産声だ、無意識に浮かぶ言葉を否定する。生まれるな。
振り切りたいのはもちろん彼じゃなくて、自分の皮膚の下に詰まっていたドロドロへばりつく気持ちだった。
スマホのナビで帰り道を調べるよりも、沈黙する大通りの通りからおおよその位置に目星をつけてとにかく走る。
翌日、動画と写真からいのりさんの不調の原因に思い至ったと魚渕先生からの連絡が来て、俺はすっかりそっちにのめりこむことができたというわけ。ひとまずのところはそうだった。
「……あのあと、君は僕を納得させられなかった。賭けに勝てなかった」
彼の活舌はのろりとして湿っている。あの頃の俺だったらきっと不機嫌だと疑わなかっただろう、けどこれはわかる。
ウダウダしたいのだ。生えたばかりの歯が痒く感じられて何か嚙みくなったりとか、自我が強くなって反抗期が始まるような。
人に文句を言う事をしなかった、文句を言わせずに生きてきた人の遅すぎるウダウダ。
疲れたり安心すると出やすいそれ、安心してくれている証拠なのでほほえましいと言えばそうだけど、過去を引っ張り出して俺を咎めているのだから居心地は悪い。
「……またそれ言う……何年経ってもすごい根に持つじゃん……俺の力不足で証明までに時間がかかってすみませんって何度も言ってますよね」
「――僕は君に飽きた」
「また!?それもう鴗鳥先生のお礼ぐらい聞きましたよ!」
「ねえ」
彼の少し小皺の増えた瞼がぱちりと開いて、俺を見た。
さっきまで汗ばんで血色らしいものを見せていた顔はとっくに牛乳みたいに真っ白。
俺はまだ汗もひかないし呼吸も心臓も通常までほど遠いのに。
「はい」
「浮かれたい」
でも彼の目にははっきりと欲があった。欲を俺にぶつけて、同じ欲を求めている。
「……」
「アラサーのおじさんはもう完売です」
求められて嬉しくないわけではない。でも、人間には限界って言うものがある。証明はできたとしても続いているのだ勝負は。
たっぷり睡眠をとって明日も全力でいのりさんのコーチをやりたい。
「ねえ」
「履歴書返して欲しいんだよね?」
「まだ言う……?」
おそろしいことにまだ、あるのだ。ずっと返してもらえないままの何もない司の履歴書は今も夜鷹の手元にある。
彼等がどうやってここまでたどり着いたのか、それは二人だけの秘密。
などということはまったくない、紆余曲折艱難辛苦絶体絶命五里霧中七転八倒七転び八起き、ほぼ周りの人間全員知っている。全年齢版の彼等はいつでも全体公開だ。
語らせると長いわよ~~!!ルクス東山のヘッドコーチ高峰瞳先生は声を張り上げてそう言う。話すたびにちょっとずつロマンス成分が盛られているのはご愛敬。
「浮かれたいんだけど」
「…………ぃいですけど……」
浮かれたい男に抱かれたい男の話も人生も夜も終わらないし、朝もまだ来ない。