宇野重規さんの新著『政治とは何か』(講談社現代新書)と、朱喜哲さんの新著『バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』(NHK出版新書)は、ともにロールズ以後のリベラリズムの困難を見据えながら、これほどまでに個人がバラバラになってしまった世界で、私たちが今なお何を共有できるのかを問いかけています。むき出しの暴力が支配する世界で、「リベラリズム」はいまなお有効な思想なのでしょうか。
2026年6月25日にUNITÉにて行なわれた対談のイベントレポートをお届けします。
前編では、宇野さんの『政治とは何か』に込められた問題意識から、縦横無尽に話題が展開していきました。リベラリズムはもう終わってしまったのか。それでもなお守るべき「リベラルな態度」とは何なのでしょうか。
いま、もう一度「政治」について問う
朱 『政治とは何か』はすごい見通しをもった本で、キャリアの浅い者にはとても書けない本だと思っています。まず出てくる固有名詞がとても多い。宇野先生ご自身は、もともとトクヴィルの研究から始められていますよね。今回、これだけ多くの固有名詞が出てくることは意識されていたのか、どういうふうにこの本ができたのか、伺ってもいいですか。
宇野 「あとがき」にも少し書いたのですが、編集者の方々と一緒に勉強会をしたんですね。そこで出てきたものを、ほとんど連想ゲームのように書いていったということはあります。
でも、鍵となるのは、やはり僕はトクヴィルなんです。例えば本の冒頭はアレントですよね。実はアレントは、よく読んでいるとトクヴィルが好きなんですよ。『過去と未来の間』などでも、肝心なところはトクヴィルから始めている。アレントは実はトクヴィルが大好きなんじゃないかなと。
だから僕の中では、アレントはトクヴィル好き同士として共感するんです。アレントがいて、トクヴィルがいて、トクヴィルが好きなのは誰だっけというと、モンテスキューだなと思って。そこからマキアヴェリ、アリストテレスへと遡って、僕なりの学問の流れを書いてみたかった。
朱 これだけの人名の連なりがネットワークになっていて、かつ宇野先生のフィルターを通して座標が描かれている。星座のように浮かび上がってくるんですよね。通り一遍の評価史的な紹介ではない。
宇野 入り口としては結構「俺流」という感じですかね。でもまあ、それなりに正統的な理解ではあるつもりです。とはいえ、あくまで、自分なりの思想の流れ、思想の星座であるのは事実です。単なる思想のダイジェストではありません。あえてリベラリズムという言葉も多用しないようにしました。
朱 『政治とは何か』と題して、その中でのご自身なりの位置づけを語っていらっしゃるので、宇野先生の数々の著作の中でもぜひ最初の一冊に読んで、ここから入ると見通しがよくなると思います。
宇野 ありがとうございます。しかしある意味で、後退戦ですよ。
朱 後退戦、というと。
宇野 2020年10月に『民主主義とは何か』(講談社現代新書)という本を出しました。まさに自分が日本学術会議の問題で大変だったタイミングだったんですよね。あの時には、まさに「民主主義って大丈夫だろうか」と語ることに意味があった。
ただ、今となってみると、民主主義どころか、もっと遡っていって、政治すらあるのかという雰囲気にすらなっている。
この本ではやはり、政治という言葉の意味を問い直そうと思いました。社会には自分とは違う立場の人もいるけれど、そんな人と共に物事を一緒に決めていく。人間が自分で選べる未来はそんなにたくさんないんですけど、せめていくつかの選択肢のうち、自分たちなりに納得のいく未来を自分たちで選んでいく。そのぐらいの意味で「政治」という言葉を使っています。
でも、今やその政治すら怪しい。どこで誰が何を決めているのかよくわからないうちに、みんな押し流されている。民主主義どころか、政治すら怪しくて、今はむき出しの暴力が世の中を動かしている。すべてがどんどん後退していっている。
だから今、『リベラリズムとは何か』という本を書いてくれと出版社の人に言われても、「いや、書けないです」と言うかもしれません。