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同族婚が続いた古代皇室の目的──近親婚が繰り返され、独特の身体的特徴を生み、子供たちが早世したハプスブルク家との決定的違い(令和8年7月28日)

(画像は明日香村の石舞台古墳@Wikipedia。被葬者は蘇我馬子とされる)

奈良県明日香村周辺の飛鳥時代の遺跡群「飛鳥・藤原の宮都」が世界文化遺産として登録されることが、今月26日、ユネスコの世界遺産委員会で決まった

まずはめでたいのだが、明日香村といえば、「わが国で最初の、古代国家の宮都」というよりも、渡来人と関係の深い、あるいは渡来人そのものだったといわれる蘇我氏が、皇室を凌ぐほど、権勢をほしいままにし、国政を蹂躙した歴史の舞台である

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文化庁HPから
〈https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/94413401_05.pdf〉

とくに、わが祖先たちにとっては、32代崇峻天皇が蘇我馬子たちに暗殺された事件現場である。馬子への密告者が妃・小手姫とされるのだが、小手姫こそはわが故郷・小手郷の養蚕・機織り業の祖神なのであった

古代に、明日香村で、いったい何が起きたのか、といえば、皇位をめぐって、豪族たちとの熾烈な攻防が繰り広げられたのであった

◇1 最初に外戚となった葛城氏


古代の皇室(大王家)では、皇族同士の同族婚が行われていた

大王家にとって、最初に、重要な姻族となったのは、大和国葛城地方を本拠地とする有力豪族の葛城氏(かつらぎうじ/かずらきうじ)であった。外戚政治の始まりである

始祖とされる葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)の娘・磐之媛(いわのひめ)は、16代仁徳天皇の皇后となり、のちの17代履中天皇、18代反正天皇、19代允恭天皇の3大王の母となった。皇族以外から皇后を輩出したのは、この時代、葛城氏だけである

黒媛(くろひめ)は葦田宿禰(あしだのすくね)の娘で、履中天皇の妃となり、23代顕宗天皇(父は履中天皇の皇子・市辺押磐皇子) 、24代仁賢天皇(同)の祖母となった

このように5世紀のほとんどの大王は、葛城系の女性と結ばれ、葛城氏は大王家に比肩する巨大な勢力を誇った。しかしやがて21代雄略天皇と対立し、本宗家は滅ぼされることになる

きっかけは、20代安康天皇の崩御であった。安康天皇は後継者に市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ。履中天皇の皇子。母は黒媛)を予定していたが、安康天皇の弟・大泊瀬皇子(おおはつせのみこ。のちの雄略天皇)は快く思わず、安康天皇の崩御後、市辺押磐皇子を射殺し、即位した

即位後は、みずからを脅かす皇族たちを粛清し、有力豪族の葛城氏や吉備氏を武力で制圧して、権力集中を実現した。雄略天皇の崩御後、皇子の白髪皇子(しらかのみこ。母は葛城韓媛(かつらぎのからひめ)。22代清寧天皇)が継承したが、清寧天皇には子供がおらず、皇統断絶の危機に陥る。危機を救ったのが、顕宗天皇と仁賢天皇の兄弟であった

◇2 父方も母方も蘇我氏


葛城氏の衰退後、台頭したのが蘇我氏である。29代欽明天皇の治世であった。百済から仏教が公伝し、任那日本府が滅亡、蘇我氏と物部氏が対立した時代である

欽明天皇の父は26代継体天皇で、母は手白香皇女(たしらかのひめみこ)である。手白香皇女の父は24代仁賢天皇、母は春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ。21代雄略天皇の皇女)である

欽明天皇の皇后は28代宣化天皇の皇女・石姫皇女(いしひめのひめみこ)であった。石姫皇女の母は、橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ。24代仁賢天皇の皇女)である。石姫皇女はのちに30代敏達天皇を産んだ

このように「天皇は皇族としか結婚しない」という時代に、同族婚のルールを力ずくで破って割り込んだのが、蘇我稲目であった。天皇の妃たちは、出産が近づくと住み慣れた実家へ帰り、そこで皇子・皇女を産んだ。そしてそのまま成人するまで育てられた。このシステムを蘇我氏は利用し、影響力を及ぼした

しかしやがて、予期せぬ、悪しき結果をもたらすことになる。父方も、母方も、蘇我氏の血を引くという皇族同士の超近親婚を加速させたのである

稲目は欽明天皇に娘の蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)と、その妹の小姉君(おあねのきみ)を嫁がせた。堅塩媛がのちに31代用明天皇、33代推古天皇を産むことになる。この推古天皇が最初の女性天皇である。推古天皇にとって、稲目は外祖父であり、馬子は叔父に当たる。小姉君からは32代崇峻天皇が生まれた

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稲目の墓とされる都塚古墳@Wikipedia

稲目の娘たちが次々と皇子を産んだ結果、皇族の多くが「異母兄弟だが、母方はどちらも蘇我氏の姉妹」という状況となった。当時は、異母兄妹での結婚が容認されており、そのため、蘇我氏の血を引く皇族同士が次々に結婚する異常事態を招いた

たとえば聖徳太子(厩戸皇子。うまやとのおうじ/うまやどのおうじ)がその典型であった。太子は31代用明天皇(父は欽明天皇、母は蘇我堅塩媛)の第二皇子で、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ。母は蘇我稲目の娘・小姉君)である

つまり、両親の用明天皇と穴穂部間人皇女は、父は同じ欽明天皇で、母が異なる異母兄妹であり、かつ、どちらも母親が蘇我稲目の娘なのであった(下図は日本で最大規模の古代史愛好家集団「邪馬台国の会」が製作したものを拝借した。さすが、きわめてよくまとめられている)

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@古代史のホームページ
〈https://kodaishisu.site/?page_id=397〉

しかしそれでも、蘇我氏の娘たちの地位は、「妃(ひ)」や「夫人(ぶにん・おおとじ)」止まりであった。蘇我氏が外戚としての地位を確立するのは、その息子たちが皇位を継承してのちのことである。そして、稲目の娘・堅塩媛が生んだ額田部皇女(ぬかたべのひめみこ。稲目の孫。のちに炊屋姫(かしきやひめ)と呼ばれた)が敏達天皇の皇后となり、この額田部皇女が、のちに最初の女帝・推古天皇となるのである

◇3 「呪われた者」カルロス2世


同族婚といえば、世界史的には、ヨーロッパの名門ハプスブルク家が知られている。財産の維持と権力の独占のために、15世紀から18世紀まで、叔父と姪などの近親婚が繰り返された

その結果、下あごが突き出し、歯がかみ合わず、食事や会話が難しくなるという「ハプスブルクの顎」と呼ばれる身体的特徴を生み、病気で早生する子どもが増えた

スペイン・ハプスブルク朝最後の王となったカルロス2世(1661〜1700)は、近親交配の度合いを示す「近交係数」が0.254に達していた。そのため近交退化で、歩くことも話すことも遅く、体は小さく、頭だけが異様に大きかった。多くの病気を抱えており、「エル・エチサード(呪われた者)」と呼ばれたという

カルロス2世の父親はフェリペ4世、母親はマリアナ・デ・アウストリア(フェリペ4世の2度目の王妃。フェリペ4世の妹の娘で、叔父と姪の関係)である。フェリペ4世の父親はフェリペ3世、母親はマルガリータ・デ・アウストリア(2人はいとこ同士)。マリアナ・デ・アウストリアの父親は神聖ローマ皇帝フェルディナント3世(オーストリア・ハプスブルク家)、母親はマリア・アンナ・フォン・シュパーニエン(スペイン・ハプスブルク家。2人はいとこ同士)であった

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@Wikipedia

結局、カルロス2世は後継者を残せずに亡くなり、スペイン・ハプスブルク家は断絶したばかりでなく、これが引き金となって、ヨーロッパ全土を巻き込む「スペイン継承戦争」へと発展していった

現代のハプスブルク家(ハプスブルク=ロートリンゲン家)には貴賤結婚の制限はないらしい。1918年のオーストリア=ハンガリー帝国崩壊で、厳格な帝室家族法は法的効力が失われ、王族・高位貴族同士による対等結婚の義務が廃止となり、一般女性との婚姻も認められている

興味深いのは、皇室の同族婚との違いである

皇室の場合、既述したように、父親が同じで母親が違う異母兄弟姉妹の結婚は認められただけでなく、推奨された

◇4 公正かつ無私なる皇位のために


たとえば、31代用明天皇の皇后は穴穂部間人皇女だが、お二方とも父は29代欽明天皇である。母はそれぞれ、蘇我稲目の娘・蘇我堅塩媛、同じく小姉君であった。すでに書いたように、聖徳太子(厩戸皇子)はお二方の間に生まれた

30代敏達天皇の場合は、皇后の額田部皇女とも、父は同じ29代欽明天皇だが、母はそれぞれ石姫皇女(宣化天皇皇女)、蘇我堅塩媛(蘇我稲目の娘)である。額田部皇女がのちに、32代崇峻天皇暗殺事件のあと、33代推古天皇となる。暗殺事件の首謀者は馬子である

40代天武天皇の皇后は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ。41代持統天皇)である。お二方は叔父と姪の関係にある。持統天皇の父・天智天皇は天武天皇の実兄とされる。お二方の父は34代舒明天皇である

このように皇室の場合、異母兄弟姉妹の結婚が認められる一方で、異父兄弟姉妹の結婚は認められなかった。他姓の血統を排除する男系継承の鉄則が守られたのである

ハプスブルク家との最大の違いは、同家ではキリスト教信仰(カトリック)によって、一夫一婦制が守られ、かつ兄弟姉妹間の婚姻が禁じられていたことである

しかし教会法は特例として、王族や貴族に対して、3親等、4親等の近親婚を認めていた。「特免」(ラテン語でdispensatio)と呼ばれるもので、同家は莫大な特免料を教会に支払い、近親婚を何代も繰り返したのであった。特免料は教皇庁の主要な財源でもあった

同家にとって、近親婚の目的は財産と領地と家格を守るためであった。他方、皇室は男系の皇統を守ることが第一義とされている。一系なる皇統を純粋に維持することは、他姓の混入を厳しく排除することである。だからこそ母系継承は容認されないのである

古代社会は双系制だったといわれる。民の世界には双系制が認められるとして、皇位継承は男系主義が厳格に守られたのだった。天皇は、皇祖神から「ことよさし」(委任)を受けた、国と民をひとつに統合するスメラミコトとして、民の世界から超然たる、公正かつ無私なるお立場でなければならないからだ


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昭和31年、崇峻天皇の后・小手姫が養蚕と機織りを教えたと伝えられる福島県・小手郷に生まれる。弘前大学、学習院大学を卒業後、雑誌編集記者、宗教紙編集長代行などを経て、現在フリー。著書に『天皇の祭りはなぜ簡略化されたか』など。「戦後唯一の神道思想家」葦津珍彦の「没後の門人」といわれる
同族婚が続いた古代皇室の目的──近親婚が繰り返され、独特の身体的特徴を生み、子供たちが早世したハプスブルク家との決定的違い(令和8年7月28日)|斎藤吉久
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