「司先生、表現力ってどうすればいいですか?」
と、たずねるいのりの声を高峰瞳が耳に拾ったのは日本代表合宿後のリンク練習でのことだった。
貸し切り練習ではないのでクラブの生徒と保護者以外にも一般客の姿もちらほら見受けられる。
「この前、合宿の座学で勉強したんですけど全然分からなくて……」
どうやらプログラムでの表現力について悩みがあるようだ。
無理もない、と瞳は思った。
その集中力は目を見張るものがあるか、彼女は頭で考えるより実践のなかで感覚をつかみとるタイプの選手だ。
一通りの授業を受けただけでは身に付かないだろう。
手本を見てそれを参考にしながら自分の演技に落とし込んでいく、その過程が必要だ。
そして表現力という点において明浦路司は手本として最適だった。
アイスダンスはシングルのような派手な回転ジャンプも無ければ、ペアのようなスローインやデススパイラルといった大技も無い。
一見地味に見えるがその分細部にいたるまで技巧が凝らされている。
研ぎ澄まされたエッジワークにより繰り出される精緻で美しいステップとスケーティング。
ドラマチックなまでに練り上げられた密度の高い構成と振付。
目まぐるしくもアクロバティックな動きを見せる高難度リフト。
深みのある磨き上げられた表現力と演技。
それらは観客にまるで一連の映画を見ているように思わせる。
正に氷上の芸術作品と言っていい。
そういった競技の全日本四位だったのだ。
明浦路司という男は。
(パッと見そう見えない上に本人にその自覚がないのが難点よね)
瞳は思った。
「分かった。じゃあちょっと見本をやってみせようか」
その言葉が終わるやいなやシュバッと音を立て高速で滑り込んで来た者がいた。
ダンボ耳で二人の様子をうかがっていた理鳳だ。
「明浦路先生! 俺も参考のため見学していいですか?」
食い気味に言いつのる理鳳にドン引きの目になりながらいのりは言った。
「ち。ちょっと! 理鳳くん……」
「ずるいぞ! アンタだけ。俺も明浦路先生成分を浴びたいんだ!」
「人のコーチをマイナスイオンみたいに言わないでよ!」
まるで姉弟喧嘩か漫才のような掛け合いも今では慣れた年中行事だ。
「えーと。始めてもいいかな?」
司の言葉にピタリと言い合いを止め、無言でコクコクうなずく二人。
瞳を期待でキラキラさせ全力の注目体勢に入る。
事前に打ち合わせたとしてもここまではいかないだろう。完全なシンクロだ。
(案外この二人気が合うのかもしれないわね……ダンスも視野に入れて考えた方がいいかしら)
と、瞳は思った。
司が最初のポーズを取ると彼を纏う空気が変わった。
影がおぼろにかすむよような哀愁がただよい、人としての印象が彼から薄れていく。
まるで一陣の風でも消え入りそうな、あえかで儚い雪の精を思わせる姿だった。
緩やかに腕を交差させたポーズを解き、司が滑走体制に入る。
ループとツイズルを織り交ぜ優美なラインを氷上に描くステップシーケンスだ。
レベル4の高難度であるはずなのにそれを感じさせない軽快な足取りは優雅で気品に満ちている。
氷を削る音さえ立てず滑らかに進むその様はまるで空中に浮きあがっているようで……
とても現実のものとは思えない。
片足を後ろ水平に上げたまま滑るスパイラルシーケンス。
その姿勢のままスウッと彼は前に手を差し出した。
まるで愛しい人の名残を求めるかのような仕草。
手が届かないと分かっていても追い求めずにはいられない。
そんな悲哀の色を氷上に乗せ彼は滑る。
見る人から感嘆のため息を残しながら。
「え? だれ? あの人……」
「誰って、明浦路先生でしょ」
「うそ! 別人みたい」
瞳の後ろで保護者の声がさざ波のように湧きおこった。
感動的なほど美しいイーグルからのスピン。
回転を終えて司は天を振り仰ぎ片手をサッと頭上にかざした。
「え?」
「あれは……雪?」
人々はそこに風に乗ってひらひら舞う雪の幻を見た。
その一片をそっと手のひらに乗せると彼はそれを優しく握りしめた。
そのまま拳を胸に当て深く瞑目する。
それは透き通るように真摯な祈りの姿だった。
一分にも満たないジャンプ無しのスケーティングのみの演技だ。
それなのに、そこには愛する人との別離、哀惜、悲嘆、それでも相手の幸せを祈らずにはいられない一途な心が込められていた。
壮大なドラマを感じさせる滑りだ。
彼がポーズを解くとあちらこちらから拍手が起こった。
最も大きかったのは勿論二人の弟子たちだ。
「うわ、すごい、すごい!」
「司先生、カッコイイ!」
手放しで褒めちぎる二人の元へ司は戻った。
「〇〇選手の振付をアレンジしてみたんだけど、どう?」
表現力で定評のある女子選手の名を上げ司は感想をたずねた。
「すごかったです!」
「先生、雪の精みたいで、キレイ!」
「ありがとう。二人が喜んでくれて嬉しいよ」
ニパッと音が付きそうなくらい明るく開けっ広げな笑顔で司が喜んだ。
そこにはさっきまでの繊細で儚げな雪の精の面影はどこにもない。
(相変わらず演技とのギャップがひどいわ……)
瞳は苦笑した。
今の演技を見た高揚から理鳳が勢い込んで言い募った。
「明浦路先生、俺の分もお願いしていいですか!」
「いいよ。理鳳さんだったら正統派王子様系かな?」
「いえ、そういうのはこれまで結構やっているので、演技の幅を広げる意味でそれと真逆の……こう、ダークで大人っぽくセクシーな感じでお願いします」
「チョイワルかあ。そういうのに憧れる年頃だよね。うーん、どうしようかな……」
平素の司とはあまりにもかけ離れたリクエストにいのりが心配そうに声をかける。
「理鳳くん、あまり無理は……」
「別にいいだろう、これ位。こんな機会めったにないんだから。それにアンタだって見たいだろ? 大人格好いい明浦路先生の姿」
「う……そりゃあ、見たいけど……」
表現力うんぬんという当初の目的はどこへやら。
すっかり「見なよ……俺の司を……」モードになって会話する二人。
そうしているうちに司の考えがまとまったようだ。
「よし。昔、大会のショートで瞳先生とタンゴを踊った時の設定が使えるな」
それを聞いて瞳の顔色が変わった。
(アカン! それアカン奴や、司君! アッカーン!)
動揺のあまり何故か蓮華茶の某アシスタントコーチが脳裏で叫んでいる。
瞳は止めようと声をかけた。
「ちょ、ちょっと司君!」
だが、遅かった。
気だるげに司が髪をかき上げる。
その瞬間再び雰囲気が変わった。
そこにいるのは退廃的で危険な夜の香りを纏った男だ。
照明を浴びた流し目が誘うように妖しくゆらゆらと揺れる。
ふ、と甘い吐息を漏らすとその唇がくつりと孤を描いた。
心の底まで見透かすような冷たい酷薄さを感じさせるのに目が離せない。
それほど蠱惑的な笑みだった。
誘惑するような仕草でするりと手が延ばされる。
その手を取ればそこに待ち受けるのは破滅への一本道だ。
それが分かっていながら一夜の夢に酔いしれ溺れ狂いたい。
そう思わせるほどの凄艶さだった。
正に魔性としか呼びようがない。
「ヒエッ」と観客席から短い悲鳴が聞こえた。
「見るんじゃありません!」と子供の目を塞ぐ保護者もいれば口を開けたまま食い入るように凝視する者もいる。
ちょっとした恐慌状態だ。
それを背に瞳は声を張り上げた。
「司君、止めなさい! それは人前でやるなって言ったでしょ!!」
瞳の声にピタリと司の動きが止まった。
「スミマセン! スミマセン!」
その場で腰を九十度に折りペコペコ謝り続ける姿にさっきまでの色香をまき散らすような色事師の妖しさは影も形も見られない。
まるで別人だ。
(この分じゃ、何故怒られているのかも分かっていないわね……せいぜい勝手に他のクラブの子―理鳳くんに稽古をつけようとしたせい、と思ってそう)
まるで飼い主に叱られた大型犬のように縮こまる司を見、彼女は心中にため息を落とした。
その横で
「「今日も私の(俺の)明浦路先生はカッコイイ!」」
「は? 俺のだろ!」
「私のだよ!!」
あの司を間近で見ても動じることなく通常運転の言い争いを続ける強火弟子たちのメンタルが強すぎて怖い。
何しろパートナーで素の司を見慣れているはずの瞳ですら、初回は一瞬吞まれそうになったのだから。
この演技が原因で司の激重厄介ファンが多数生み出され、クラブが対応に追われることになった。
「基本ダンスの華―主役は女性側だ。男はそれを飾る花瓶や額縁みたいなものだ。額縁が絵より目立ってどうするよ」
当時コーチだった瞳の父、高峰匠のこの言葉とともにこのタンゴのプログラムは永久欠番となった。
この時から司の実力は図抜けていた、いやおうなしに人の目を引きつけるほど。
それを瞳が経験と技術でねじ伏せ、調整して型にはめていたのだ。
それを一番理解していないのが当の本人なのだから頭が痛い、と瞳はコメカミを押さえた、
その後
「教育に悪い」
「子供の性癖が歪む」
等の苦情が保護者から寄せられる一方。
何としても司をのプライベート情報を聞き出し接触しようとする部外者たちとの攻防が瞳を待っていた。
END