今、それでも『共通善』を語るために 宇野重規×朱喜哲対談「バラバラな世界で、私たちは何を共有しうるか」後編【バラバラな世界で共に生きる】

「何を守りたいのか」を言葉にすること

宇野 やはり、自分たちの間には何か共通のものがあるのではないかと思いたいんです。上から押し付けられたもの、国が決めたものではなく、自分たちの間で「これは共有しているよね」と自発的に言えるもの。

それは共通の土地や空間かもしれないし、特定の社会の仕組みかもしれない。あるいは、社会において大切にしている価値かもしれないし、思想や権利かもしれない。

私はそれは「勇気」の問題だと思っています。あるかどうかわからないけれど、我々は何かを共有しているのではないか、あるとしたら何なのか、それを一度みんなでしゃべってみたらどうか、という思いがあるんです。

私は『保守主義とは何か』という本も書いています。保守主義に何か意味があるとすれば、それは知的な「謙虚さ」にあると思うんですね。人間の理性は絶対ではない、だからこそ、伝統や慣習に学ぶべきであるという主張です。一方、保守主義のもう一つの本質は、一人ひとりが何かを大切だと思っている、「守りたい」という思いです。それを認めることから保守主義は出発すべきだと思っています。

ただ、世の中にいる保守主義者という人たちは、特に日本の保守がそうですが、リベラルを攻撃することにはやたらと熱心なのに、自らが何を守りたいのかは実は曖昧だったりする。だから私はいつも「あなたが一体何を守りしたいと思っているのか、言ってください」と言っています。そこから対話が始まるからです。

共通善というのも、それと発想が似ているところがあります。もし共通の善があるとしたら、それは何なのか言ってみてください、と。もちろん言えば「いや、それは私にとって善ではない」と言われるかもしれない。でも、あると前提してみて、語り合うことはできると思うんです。

 リベラリズムもカウンターの思想だと考えると、そこにはやはり緊張がありますね。
先ほども話しましたが、リベラリズムは宗教戦争の経験を踏まえて、信仰や善に手を突っ込みすぎると危ないから、自制しようとした思想です。だからこそ、「何を大事にするか」を語ることと、「そこに介入されないことを守る」ことを、どう両立させるのかが問題になる。

宇野 そうですね。私の考では、特定の共通善を掲げて「これが共通善だ」とみんなに従わせるようなタイプでは全くありません。

むしろ、「何がいいことなのか」をみんなで語ってみよう、ということなんです。みんな違うから、善なんて共有していないと思うかもしれない。でも、何がいいことなのかを語ることはできるのではないか。

その時に重要なのは、それを上から決めないことです。国が決めるのでも、権威が決めるのでもない。自分たちの間で考えてみて、それを試しに言葉にしてみる。

「これは共有できるのではないか」と語りかけてみる。違うなら違うと言えばいい。でも、何も共有できないという前提から始めるのではなく、何か共有できるものがあるかもしれないという前提で話してみる。そこに、私は政治の可能性を見たいんです。

それでも「共通善」を語るために

宇野 パトリック・デニーンの議論に戻ると、彼にとってリベラルとは、「自己利益の追求」なんです。人々が自己利益ばかりを追求することで、社会を支えている協力や信頼、時には自己犠牲といったものを掘り崩してしまう。だからリベラリズムは、自分たちの自由を支えている文化的基盤を掘り崩して自滅する、という議論です。

ただ、これは自由やリベラルの理解がかなり偏っていると思います。リベラルとは自己利益の追求だけではない。私は一生懸命反論しようとしました。

確かにリベラルの基盤はタダではない。放っておくと基盤はなくなってしまう。それに対する警告はわかります。けれども、それはリベラルを否定すれば回復されるものではない。リベラルはわがままでもなければ、自己利益の追求だけを行うわけでもない。個人の自由の追求を通じて、共に生きていくための基盤をつくっていくこと、自分とは違う他者と共に生きていくプラットフォームをつくっていくこともリベラルの仕事です。その意味で、共通善を語ることとリベラルであることは、必ずしも矛盾しないのではないかと思っています。

 共通点と相違点が少し見つかった感じがします。

ローティの公私論で言えば、公共の場では手続き的正義を守り、私的な場では自己理解を更新し、自己を改訂にひらいていく。そこには、公共の場では個々人の信念を開示することに対して抑制的です。でも宇野さんは、もう少し踏み出している。公共の場、つまり多様な人がいる場所でこそ、何が共通善かを語ることが大事なのではないかとおっしゃっているように思います。それは、もはや「公共の場」という理念も、実態も、成立しづらくなっている現在にこそ、大切かもしれません。

もちろん私は、その危うさも重く見つつですが、どこが重なっていて、宇野さんがどこに踏み出されているのかは、わかる気がしました。

宇野 繰り返しになりますが、共通善は危うい言葉です。乗れない人を排除する言葉になり得るし、特に日本の文脈では恐怖を伴うこともある。だからこそ、「これが共通善だ」と決めつけるのではなく、「もし共通善があるとしたら、それは何か」を語ってみることが大事なのだと思います。

善を語ることは危うい。けれども、何も共有できないと決めつけることもまた危うい。私たちはバラバラでありながら、それでも何かを共有できるかもしれない。その可能性に賭けて、言葉を交わしてみる。そこに、今あえて共通善を語る意味があるのではないかと思っています。


本記事は2026年6月25日にUNITÉで行なわれたトークイベントの一部です。対談のアーカイブはUNITÉのホームページからご購入いただけます。ご購入はこちら

宇野重規(うの しげき)

1967年、東京都生まれ。東京大学社会科学研究所教授。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。専攻は政治思想史、政治哲学。主な著書に『政治哲学へ──現代フランスとの対話』(2004年渋沢・クローデル賞LVJ特別賞受賞)『未来をはじめる──「人と一緒にいること」の政治学』(東京大学出版会)、『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社学術文庫、2007年サントリー学芸賞受賞)、『民主主義とは何か』(講談社現代新書、2021年石橋湛山賞受賞)『保守主義とは何か』(中公新書)などがある。

朱 喜哲(ちゅ・ひちょる)

1985年、大阪生まれ。哲学者、大阪大学招聘准教授。大阪大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。また研究活動と並行して、企業においてさまざまな行動データを活用したビジネス開発に従事し、ビジネスと哲学・倫理学・社会科学分野の架橋や共同研究の推進にも携わる。著書に『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』(太郎次郎社エディタス)、『人類の会話のための哲学』(よはく舎)など。共著に『増補ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(ちくま文庫)など。

前編はこちら

NHKテキストからの試し読み記事やお役立ち情報をお知らせ!NHKテキスト公式LINEの友だち追加はこちら!