先月のことですが、休日に所用でお隣の富岡市に行きました。
用事は直ぐ済んだので、久しぶりに富岡を散策しようということになり、龍光寺へお参りに行くことになりました。龍光寺には、富岡製糸場関係者のお墓があるのです。以前から気にはなりながらも、いままで伺ったことはありませんでした。
工女の墓参に訪れたいと思っている方にお薦めしたい本。
『 異郷に散った若い命 ー官営富岡製糸所工女の墓ー 』
高瀬豊二 著 オリオン舎 税別926円
富岡製糸場近くで生まれた著者が、日本の資本主義の成長を支えた存在として工女に着目し、市内の龍光寺と海源寺に残る墓碑銘や過去帳を分析。「富岡日記」や製糸場の歴史と擦り合わせて当時の様子を浮き彫りにした本です。(上毛新聞記事参照)
初版は1972年で、2014年に再版を望む富岡市民らによって復刻版が出版されました。実は、この高瀬豊二さんは夫の母の叔父です。そうしたご縁もあって読みました。製糸場の設立の話から、工女を取り巻く当時の社会についてなども考察されていて面白いです。死亡した工女さんのことは、悲しい話なのですが、悲痛な内容が書かれている本ではありません。墓参をなさるなら、当時のことを少し知ってから伺うのも良いかと思います。
さて、龍光寺は富岡製糸場の北、徒歩10分くらいの距離にあります。
道路端には、「市指定史跡 富岡製糸場工女等の墓」と記した看板があります。
山門をぬけ本堂へ。
本堂の手前には樹齢400年と推定される大いちょうがありました。見事な銀杏の大木です。
「製糸場工女等の墓」の案内板。これは、本殿を左折して北へ進むとあります。
この製糸場工女等の墓には、官営富岡製糸場時代に亡くなった工女や、三井経営時代の工女、官営富岡製糸場の設立に努力した韮塚直次郎の韮塚製糸所の工女、関係者の墓があります。
お墓の中を探します。
歩いていると、このように標柱がでてきます。
こちらは案内板のAとBにあたるお墓です。
大きな石板の墓2基に工女の名前が連名であります。名前と出身地、没した年月日、没した年齢が刻まれています。出身地は、右の1基から、埼玉、滋賀、大分、愛知、長野、香川、茨城、東京、静岡から来ています。14〜27歳、41歳の方も1名ありました。
関連のお墓には、どれも白菊がたむけられていました。
こちらは長野親蔵のお墓です。
長野親蔵については、9月のシルクサミットin前橋で知りました。熊本県の方です。長野濬平の娘婿で、明治3年には夫婦で藩営前橋製糸所に伝習にきていたそうです。優秀な人だったことを見込まれ、明治12年に速水堅曹が製糸所の所長に就任したときに副所長になりました。が、同年の9月に死亡しています。官舎で暗殺されたと、くだんの本では簡単にではありますが触れています。29歳でした。
こちらは、右から岐阜、茨城、山口、静岡、東京出身です。16〜22歳でした。
くだんの本では、死亡した人の多くは、出身が群馬から遠い人たちで、家族も簡単には迎えに来られない、本人も帰ることができなかったであろうことが書かれています。「富岡日記」では、和田英が地元の松代から富岡までの道のりを記しています。本では、そのことに触れ、どれだけ大変であったかを解いています。
「富岡日記」のなかで、和田英の同郷の女性が体調を崩し、英が看病をする話が出てくるのですが、10代の若い人が親元を離れて暮らす心細さ、患った人の辛さ、看病の様子などが描かれています。この女性は後に帰郷され、体調も回復されたと記憶しています。ですが、患って帰れず富岡の地に埋葬された人たちがあった。若い人だと想えば、余計に不憫でなりません。
工女の墓は、この龍光寺以外に、製糸場から東に行った海源寺にもあるそうです。次回は、そちらにも伺ってみたいと思います。
お参りの後、龍光寺から旧富岡製糸場にむかって路地を歩きました。
遠くに見えるのは、製糸場の西側。繭を保管していた2階建ての西置繭所です。
この西置繭所は、ただいま保存修理中です。そのため、レンガ積みを模した幕で覆われています。修理の完了はいつになるのでしょうね。ちょうど、修理工事の進行状況が富岡市のサイトに画像でたくさんアップされていたのでリンクしておきます。
世界遺産富岡製糸場ー西置繭所保存修理工事(3)