4-1 DSDとは何か? -トランスジェンダーとの違いを整理する -
2009年、ベルリンで開かれた世界陸上競技選手権。南アフリカの18歳、キャスター・セメンヤ選手が800メートルで圧勝し、金メダルを獲得した。しかしゴールテープを切るやいなや、論争が始まった。実は、当時の国際陸上競技連盟(IAAF、現・ワールドアスレティックス)はレースの約3週間前から南アフリカ陸上競技連盟に対して性別確認検査を依頼しており、その情報がメディアにリークされていたのだ。そしてレース当日には、その検査の実施が公となったのだが、本人はその検査の真の目的すら知らされていなかったとされている(※1)。セメンヤ選手はその後約11か月間、国際大会への出場を見合わせることとなった。
当時の私は、その騒動をニュースでぼんやりと眺めていた。書籍を出版して一人旅から帰国したばかりで、会社員をしていた時期で、LGBTQ+の活動にもまだ本格的には関わっていなかった。「なんか大変そうなことが起きてるな〜」と思った記憶はあるが、それが何を意味するのか、正直よくわかっておらず、自分には関係のない、遠い世界の話のように感じていた。
その後、LGBTQ+の活動に深く関わるようになって初めて、インターセックスや、現在ではDSD(Differences of Sex Development)とも呼ばれる性分化疾患という言葉に出会うことになる。
ただ、当初からこれをどう扱えばいいのか、私自身も戸惑っていた。LGBTQ+の「I」、つまりインターセックス・DSDを同じ文脈で語るべきかどうかは、当事者の間でも賛否が分かれていたからだ。
LGBTQ+は、それぞれの性的指向や性自認に関わる、主にアイデンティティにまつわる話。一方でDSDは、染色体・ホルモン・性腺など身体の性の発達に関する先天的な状態であり、その多くは疾患をともなうことから、性的指向や性自認とは本質的に異なるとされている。
例えば「私は男性(または女性)として生きているが、たまたま身体の発達が典型的なパターンと異なる」という状態であり、LGBTQ+というアイデンティティの枠組みで語られることに違和感を持つ当事者も多い。むしろ、性の多様性という文脈でDSDを都合よく引き合いに出されることへの反発——「私たちをLGBTQの議論に使わないでほしい」という声も、ネット上ではよく目にした。
しかし、公表している当事者に実際には会ったことがなかった私には、その賛否の深さをネット越しに読むだけでは、なかなか実感として掴むことができなかった。
そこでまずは勉強してみようと思い、性分化疾患の勉強会に参加して、初めて当事者の方に直接お話を聞く機会を得た。
「そんなことがあるのか!」と、知らないことばかりで驚くことも多かった。そして一番印象に残ったのは、DSDはLGBTQ+とは異なる概念でありながら、当事者であることが外見からは分からないという点では共通しているということだ。その場にいる人を見ても、誰がDSDの当事者なのか、外見からは全くわからない。自ら公表している人は少なく、現在も公表している当事者で直接お会いしたことがあるのは、数えるほどしかいない。
症状も意見も、一人ひとり全く異なるので「DSDの当事者」というひとつの言葉でくくれるほど、単純な話ではない。
正直に言えば、今でも私はDSDについて語るときには大きな不安がある。自分が人前でこの話をするとき、当事者の方はどう感じるのか。これで本当にあっているのか。自分の発信で、誰かを傷つけてしまわないか……。
でも、わからないからこそ、逃げるのではなくしっかりと向き合おうと思った。まずは、私自身が学んできた内容を整理しながら、DSDとは何かを確認していきたい。
DSDは身体の発達の多様性を示す概念であり、それは事実だ。しかしだからといって、DSDを持つ人々が『男でも女でもない存在』として扱われることを望んでいるわけではなく、また、それを意図して書いているわけではない。身体の多様性が存在することと、当事者が自分をどう認識しているかは、別の問題だ。DSDを持つ人々の多くは男性または女性として生き、そのように扱われることを望んでいる。DSDを『性のグラデーション』や『男女の境界がない』ことの証拠として都合よく使うことは、当事者の尊厳を傷つけかねず注意が必要だ。その前提を踏まえた上で、DSDとは何かを整理したい。
DSDとは、「性の発達に関する多様性(Differences of Sex Development)」の略だ。染色体、性腺(精巣・卵巣)、ホルモン、内性器、外性器など、性の発達に関わる要素のいずれか、あるいは複数が、いわゆる「典型的な男性」または「典型的な女性」のパターンとは異なる先天的な状態を指す。
一言で「DSD」と言っても、その状態は非常に多様で様々な状態が確認されている。例えば、XY染色体を持ちながら身体が女性化している人。XXYというように染色体の数が典型的なパターンと異なる人。一つの身体の中に精巣と卵巣の両方の組織を持つ人。染色体はXXでも外性器が男性的に発達している人。ホルモンへの反応のしかたが異なるために、同じ染色体構成でも身体の発達が全く違う人——。医学的に確認されているだけで数十種類以上の状態がある。
かつては「性分化疾患(Disorders of Sex Development)」と呼ばれ、また「インターセックス」「半陰陽」「両性具有」といった言葉も使われてきた。「半陰陽」は染色体・性腺・外性器などが典型的な男女どちらとも一致しない状態を指す医学の旧称で、俗に「ふたなり」とも呼ばれてきた。「両性具有」はカタツムリやミミズのような生物の雌雄同体を指す用語としても使われる言葉で、実際のDSDとはかけ離れたイメージを与えてしまう。いずれも差別的な文脈で使われてきた歴史があり、現在は医療現場でも使われなくなりつつある。ただし、「インターセックス」という言葉を自分のアイデンティティとして肯定的に使う当事者もいて、言葉をめぐる受け止め方も一様ではない(1-4参照)。
代表的なものを以下にいくつか挙げてみよう。
完全型アンドロゲン不応症(CAIS):XY染色体を持ちながら、身体がテストステロンにほとんど反応できない状態。外見は女性として生まれ、女性として育つ。自分がDSDであることを知らないまま成人するケースも少なくない。
部分型アンドロゲン不応症(PAIS):CAISよりテストステロンへの反応があり、外見や身体的特徴には個人差が大きい。
5-αリダクターゼ欠損症:テストステロンをより強力な形に変換する酵素が働かないため、思春期前は女性的な外見を持つことが多いが、思春期以降に男性化が進む場合がある。
先天性副腎過形成(CAH):副腎から過剰なアンドロゲンが産生される状態。XX染色体を持ちながら、外性器の男性化が生じることがある。
クラインフェルター症候群:男性として生まれ育つが、XXYという染色体構成を持つ。
では、DSDの人はどれくらいいるのか。定義によって推計は大きく異なるが、広義には人口の約1〜2%という推計もある。1-5で触れた「渡辺さん」の比喩を思い出してほしい。日本の苗字で約1%を占める「渡辺さん」と同じくらいの割合だ。クラスメート、職場の同僚、友人——DSDの人は、これまでの人生で出会った「渡辺さん」と同じかそれ以上の割合で、あなたの周りにいる可能性がある。
ただし、自分がDSDであることを多くの人は知らない。検査を受ける医療的な理由がなければ、染色体を調べることも、性腺の状態を確認することもない。特に完全型アンドロゲン不応症(CAIS)の場合、外見が典型的な女性と変わらないため、生理がないことを体質と思っていたり、不妊治療の検査で初めて気づくケースがある。DSDの種類によって気づきやすさは大きく異なり、一概には言えない。
今回のIOCのSRY遺伝子検査が導入されれば、これまで「知らないまま」生きてきた選手が、競技参加の条件として初めて自分の身体的特徴を知らされる可能性がある。女性として生まれ、女性として育ち、女性として競技してきたにもかかわらず。
2009年にセメンヤ選手に起きたことは、特別な一人だけの話ではない。程度の差こそあれ、同じ構造の問題が、今まさに再び動き出そうとしている。
次節では、DSDをめぐって私たちが見落としがちな、もう一つの視点を見ていきたい。
次回予告:4-2 出産した女性でも出場不可に?
(この連載については「はじめに」をご覧ください)
【出典】
※1 World Athletics, "Caster Semenya may compete," 2010年7月6日(https://worldathletics.org/news/iaaf-news/caster-semenya-may-compete)/Medium, "The War Against Caster Semenya," 2018(https://mxrian.medium.com/the-war-against-caster-semenya-the-iaafs-new-racist-sexist-and-anti-queer-policy-ecd8b46afc40)



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