第94話 背徳感を超えた先


 喫煙可能。食事類の持ち込みOK。12時間宿泊が人数割りでなんと驚異の2500円。


 そう、それはつまり郊外にある田舎のラブホテルだ。


「僕、ラブホテルなんて初めて入ったよ」


 西代が物珍しそうにして人気のない館内を見渡す。


「ウェーイ!! 私もだよぉぉー!! なんかぁ~、イケない事してるーって気分!!」 


 酒缶を片手に持った猫屋が、無人フロントで大声を騒ぎ散らした。


「猫屋、お前飲みすぎだって」

「なぁ~に言ってんのー陣内? 今日はー、まだまだ飲むよ~??」


 そう言って、猫屋は酒缶を逆さにしてグビグビとアルコールを流し込む。つぅーと、口端から酒が一筋ほど漏れ零れており、品がない。


(飲ませ過ぎたな……すっかり出来上がってやがる)


 ハイボールの濃いめ5杯、日本酒3合、梅酒ロック、芋焼酎の湯割り、とどめにデュワーズのダブルをストレートで。


 一次会の居酒屋で、猫屋はひたすらに酒を飲んだ。俺たちも暗い雰囲気を払拭したかったため、彼女に酒を勧めまくった。


 その結果、猫屋の理性は限界を突破した。


「あ゛ぁ゛ー、気持ちいいー!! 煙草とお酒がありゅだけでー、人生ってバラ色だーよねー!!」

「ちょっと猫屋、暴れないでよ。支えられない」


 へべれけで自制が効かない猫屋を、西代はその小さい体躯で何とか支えている。


 俺たちがラブホテルなんかに来た理由がまさにこれだ。


 この状態の猫屋を、あの部屋に戻らせるのは躊躇われた。安瀬に迷惑を掛けないようにすると言った手前、俺たちが作り上げた泥酔モンスターの処理はこちらが似合うべき事案であり、それを解消できるその場しのぎの休憩所が…………まぁ、ラブホテルという訳なんだけど。


「なぁ、本当にいいのか?」


 俺は女性陣2人にちゃんと確認を取った。


「ホテルとは言ってもな、ここはほら…………なぁ?」

「ん~? なぁーに、じんなーい?? 恥ずかしがっちゃってー、もしかして童貞さーん??」


 酔いで顔を真っ赤にした猫屋は、西代の介抱をほどいて千鳥足で俺に近づき、雑に体を預けてくる。


「あはははー!! 共学なのに童貞って、よっぽどモテなかったんだろーね!! やぁーい、非モテのバァカ!! 陣内のバァーカ!!」

「あぁ、はいはい。そうだな。童貞バンサイ、童貞バンザイ」

「あははあははははは!! まぁー私もー、経験なんて全くないんだけどねーー!! あははっ!! あははははは!!」

「…………」


 猫屋は情緒がぶっ壊れていた。アルコールがダメな方に作用してしまっている。


「ねぇねぇー、童貞じんなーい。煙草ちょーだい? いーや、やっぱり咥えさせてー?」

「あぁ?」

「特別にー、この可愛い猫屋様の喫煙具にしてあげる~。ねぇー、嬉しー? 嬉しいでしょー? 嬉しいって言ってみてよー、じんなーい」

(う、うっぜぇ……)


 思わず、張り倒したくなる衝動に襲われるが…………まぁ、今日だけは特別に、ほんっっっとうに、特別に許してやるか。


「っち、ほらよ」

「んぐっ」


 自分の懐から真っ黒なブラックデビルを取り出して、猫屋の口に乱雑に突っ込む。彼女がふらつかなように腰を支えながら、空いた手で手早く煙草に火を点けた。


「すぅー、はぁぁー…………あっまーい。これってー、たまに吸うとマジで美味しーよねー」

「まぁな」


 流石はヤニカス。銘柄を口にせずとも、吸い感だけでブラックデビルのオリジナルだと分かったようだ。


「すぅぅぅ……ぷはぁー…………あぁー、幸せぇー」


 ココナッツミルクの風味が強い煙は、猫屋の喫煙欲求を十二分に満たしたようだ。彼女は煙草を味わうために俺から離れ、フロントに設置されているすぐ傍のスタンド灰皿にふらふらと向かって行った。


「はぁ……。おい西代、お前はいいのかよ。こんな所に泊まって」

「え、別にいいんじゃないかな。僕、内装がどうなっているのか普通に興味があるよ」

「……そっか」


 彼女たちは俺を異性として認識していない様子。どうやら、俺が過剰に気にしすぎていたようだ。


「なら、俺もいいや。安くて、煙草も吸えるしな」

「いっえーーい!! じゃあ決まりねー!!」


 早くも煙草を吸い終わった猫屋が、ハイテンションで傍に戻って来る。


「は、早いね猫屋」

「本気出したらあれくらいなら秒だよ~」


 驚異的な喫煙速度だ。


「では早速行ってみよー!! えーい!!」


 猫屋は自動発券機の前に立ち、部屋の見取り図が描写されているボタンを乱雑にプッシュする。


 押されたボタンに遅れて目線をやると、そこには『A201号室・3』と書かれていた。


「あ、おい馬鹿!! 押すボタン間違えてるぞ!!」


 俺たちの滞在時間は、数時間から1泊程度の予定だ。連泊するつもりなんて無い。


「いいや~? 間違ってないよー?」

「はぁ?」

「だってぇー、私ぃー、安瀬ちゃんにあんな事言っちゃったからー合わせる顔が無いじゃーん? だからー、このオリエンテーションが終わるまでラブホ暮らししちゃおーかなぁって!!」

「…………」

「宿代はお昼のパチンコで余裕があるしねー!!」


 猫屋の話は躁鬱そううつが暴れ狂っており、少々反応に困る。


「へぇ、ラブホ暮らしとはまたパンクだね」


 なんと返すか迷っていると、西代の方が先に相槌を打つ。


「楽しそうだから、僕もご一緒しても? こっちの方が自由気ままで楽しそうだ」

「え、マジでー!?」


 西代がそう言うと、猫屋は本当に嬉しそうな笑顔を浮かべた。


「うん、うんうん!! 毎日一緒にラブホ女子会しよーね、西代ちゃん!!」

「ふっ、まさか僕がそんな頭の悪そうな会に参加する事になるとはね。家族が知ったら、たぶん爆笑されるよ」

「爆笑されるのか……」


***********************************************************


「くぅー……すぅー……」

「寝たか」

「寝たね」


 入室して10分も経たずに猫屋は眠りについた。大きなベッドに興奮してダイブし、そのまま電池が切れたようにぷつりと落ちたのだ。


 猫屋が眠り始めたので、室内の光源を出力を弱めた間接照明に切り替える。


 ──シュボッ


「すぅー……はぁああ」


 薄暗い室内に、また別の薄明かりを灯す。長いソファーに腰掛け、甘い吸い口に知らず知らず唇を舐めた。


 ──プシュッ


「……んっ、んっ、ぶはぁ」


 ローテーブル上の灰皿に煙草をおいて、冷蔵庫備え付けのビールを一気に流し込んだ。麦の酒精と甘いニコチンのおかげで堪らなく幸せだ。


「ねぇ、僕にも煙草を分けてくれ。宿泊部屋に置いたままなんだ」

「ん、おう」


 ベッドに腰掛けた西代に向かって、ライターと煙草を放る。それを受け取った西代は、慣れた所作でフィルターを咥え火を点けた。


「すぅ、ふぅー……ぅわ、あっっま。何だい、これ?」

「ブラックデビルだ。知らないか?」

「知らない。僕は普段、タールが7ミリのセッターしかやらないから」

「それはまたオッサンくせぇな……お前どうやって覚えたんだよ、煙草」

「もちろん、パチ屋の喫煙室だよ」

「あぁ、納得。すっげえ納得した。ギャンブル中毒にはふさわしい銘柄だな」

「ふん。君こそ、男の癖して随分と女性受けしそうな物を吸ってるじゃないか。この甘ったるい煙草を覚えた経緯は、酒の席で女性を口説くためかな?」

「アホか。スコッチウイスキーの肴にしてたら、いつ間にか定着してただけだ。癖の強い酒には、甘い煙草が最高だからな」

「……やっぱりそれ、女を引っかけるために覚えただろう?」

「だから、違うわアホ」

「ふふっ」


 こちらを馬鹿にしながら西代はクスクスと控えめに笑った。


 ひでぇ会話だ。場所がラブホテルであるせいか、妙に退廃的で終わっている。


 …………やっぱり、帰るか。昔はともかく、今はこういった場所はあまり好かない。


「じゃあ、俺はこれ吸ったら帰るから。一服付けたかっただけだしな。猫屋の介抱は任せたぞ西代」

「え、なんでだい? 君も一緒に泊まればいいじゃないか。僕はまったく気にしないよ?」

「それは、その……ほら、あれがまずいだろ?」

「あれ?」

「お前の同室の奴らだよ」


 俺は帰宅理由を即興でひねり出した。


「俺が部屋に行った時は居なかったけど、現役合格組と相部屋なんだろ? 同室の女が一晩部屋から帰ってこないと、心配されて騒ぎにされるかもしれない。安瀬のヤツは説明しなさそうだし、帰宅ついでに弁明してくるよ」

「それなら平気だよ。『今夜は遊び歩いてくる』って、もう連絡を入れてある。ついでに『朝の出席確認も誤魔化しておいて』とも頼んだから」

「え、マジ?? もうそこまで根回ししてるのか……??」

「うん」

「い、いや、そもそも、西代がその子たちと連絡先を交換してる事がまず意外なんだけど……」

「もちろん、連絡を取ったのは猫屋だよ。そういった社交的なやり取りは猫屋の領分だ」

「あぁ、なるほどな……お前は多分、社交性とかないもんな」

「そこは否定しないよ。あ、隣失礼するね」


 ベッドに腰掛けて煙草をくゆらせていた西代は、灰皿が無い事に気が付き、吸い殻の捨て場所を求め、俺の座るソファーへと腰掛けた。


「まっ、そう言うわけだからさ、これで何も問題ないだろう?」


 間隣に座る彼女が、俺から缶ビールを横取りして口をつける。


「あ、おい」

「んっ、んっ……ふぅ、美味しい。……ねぇ僕らもさ、寝ちゃった猫屋を見習って、ビールを寝酒ナイトキャップにしながらゆっくりしようよ。互いが眠くなるまで……ね?」

「…………」


 え、なにこれ? 俺、もしかして誘われてんのか?? マジで?? 


「あのなぁ、前にも言わなかったか? 俺は酒飲むとそういう気分にならないんだよ」

「……? えっと、急に何の話だい?」

「え、あ、いや…………何でもないっす」

「?」


 どうやら、純粋にご厚意だった模様。俺はなんて勘違いしてんだ。今のはマジで気色が悪いぞ……。


「すぅぅ、ぶはぁ……」


 掻いた恥を誤魔化す為に、煙を吹かす。そうしてから、俺は根ざすように深くソファーに背を預けた。


「……俺はソファーで寝るから、西代は猫屋とベッドを分けて使ってくれよ?」

「うん、了解した。……そう言えばさ、こういう所ってテレビを付けたらAVが流れるらしいね? 酒の肴に、それでも見るかい?」

「西代、テメェがリモコンに触れた瞬間、俺はダッシュで帰るから。一目散に逃げ帰るから」

「あははっ!! 君って、物凄く初心うぶだよね。からかい甲斐があって、僕、結構楽しいよ」

「…………すぅぅぅぅうう、ぶはぁぁあああああああああああ」


 笑いのツボがおかしい女男おんなおとこ・西代を無視して、俺は無心でニコチンを身体に取り込んだ。


***********************************************************


 翌日の午前11時。今日に入って、3度目の起床アラームが鳴り響く。


「う、んんぅ」


 俺は狭いソファーで、もぞもぞと身を捩った。


(流石にそろそろ起きるか……)


 寝足りずにアラームを先延ばしにする愚行はもう止めよう。そう思い、俺はソファーからゆっくりと体を起こした。


「おい、2人とも。そろそろ起きようぜ」

「「……ん、んんぅ」」


 ベッドを共有して眠る2人の女学友たちに声を掛ける。すると、彼女たちも俺と同じようにもぞもぞとベッドから起き上がった。


「んっ、んん、んーー……おはよー……」

「………………………………おはよ」


 固まった体を気怠そうに伸ばす猫屋と、宙空を虚ろに見つめたまま動かない西代。バラバラな寝起きの仕草は、2人の性格の違いを感じさせる。


「あいたたっ…………頭いたーい。ねぇー、煙草、私の煙草はどこー……?」

「ラキストならヘッドボードにあるぞ」

「あぁー、あったあった……」

「猫屋……僕にも1本分けてくれ……寝起きで頭が回らない」

「はいはーい……」


 猫屋と西代が、順々に煙草を咥えて火を点ける。


 それを見て、俺も甘い煙草のフィルターに噛みついてライターのフリントを回した。


 ──シュボッ


「「「すぅぅ……ふぅー……」」」


 各々が寝起きの一服を付ける。


 半覚醒状態の意識がじわじわと鮮明になっていった。フワフワとした心持ちに従って、俺は机上にあるプルタブの開いた酒缶に手を伸ばす。


「んっ、んっ、んっ」


 昨夜、寝落ちしてしまったせいで飲み干せなかったビールを一気に飲み干す。少量であろうが酒を残す事は信条に反する。


「あー……いいなぁー、おさけぇー。私も軽く迎え酒がしたーい……」

「ぶはぁ……。たしか、ビールならまだ冷蔵庫に何本かあったぞ」

「え、マジー? じゃあーそれ飲んじゃおー……」

「僕も飲も……喉が乾いてる」


 ──プシュ


「「んっ、んっ、んっ……ふぅ」」


 350mlのビールなんて、彼女たちにとってはお茶と同じようだ。ものの数秒で飲み干してしまう。


(……うん、この2人やっぱり女じゃないな!! ものすっげえ安心する!!)


 部屋の天井には煙草の煙が漂い、テーブルの上には酒の空き缶が追加で置かれる。


 今日はゴールデンウィーク2日目、休日だ。大学のオリエンテーション中という事を考慮しなければ、昼間から飲酒喫煙しても問題はない。ただ、女性の寝起き直後の行動とはとても思えないというだけだ。


「……それで、これからどうするよ? とりあえず飯か? もう昼前だし」

「そうだね。僕、お腹が減ったよ」

「私もお腹すいたけどさー……ごめーん、怠くて外に出る気力が湧かなーい……」


 ベッドの上で咥え煙草のまま、猫屋は膝を抱いて座り直した。


「あと2時間くらいは寝てたい。それに、なんか……なんかぁー、今日はちょっと部屋に引きこもってたい……かも」


 寝起きという事を加味しても、猫屋のテンションは低かった。口から漏れ出る白煙にも勢いがまるで無い。


(あぁー、嫌な事があって泥酔した次の日はダウナーになっちまうよなぁ)


 表情と態度から、勝手に猫屋の心情を推測する。


 そう状態から、鬱状態へ。どうやら猫屋は明るく見えて結構引きずるタイプらしい。


「そうか。なら、俺は近くのスーパーで総菜と酒でも買ってくるわ」

「………いいのー? ここからスーパーまで結構遠かったよねー?」

「いいよ別に、タクシー使うから。移動費と飯代はもちろん割り勘な」

「それはもちろん……ありがとー」


 ぺこりと、猫屋は軽く頭を下げた。


「あ、陣内君。それなら僕の煙草も買って来てくれ」


 西代におつかいを頼まれる。彼女は買い物に付いて来る気はなく、猫屋と一緒にいるつもりのようだ。


「おう、セッターの7ミリな。あと2人とも、酒の方のご要望は?」

「僕は安いワインを3本ほど。銘柄は君の裁量に任せるよ」

「……じゃあ私はジャックダニエルを2本くらいでー」

「あいよ」


 ……なんだかんだ、今日も楽しい飲み会になりそうだな。


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 その日も、俺たちは1日中酒盛りに興じた。


 ホテルの一室には、酒精と紫煙が立ち込めている。


「学の無いテメェラのために、俺が酒のうんちくを披露してやろう。いいか? ご年配の方は日本酒をさけとだけ呼ぶ事が多いが、あれは戦後の名残が由来してると言われていてな──」

「ふぅーー……なぁに、陣内またお酒のはなしー? ならさー、こういうのは知ってるー? 煙草にはー、カクテルから名前を取った銘柄がいっぱいあって──」

「ははっ、酒に煙草と、まったく、君たちの品の無さはあきれ果ててしまうね……あ、ところで猫屋。君の地元にオートレース公営ギャンブル場があるのを知ってるかな? 今度是非、地元を案内してもらいたくてだね──」


 酒に煙草とギャンブル。俺たちの趣味嗜好はそりゃあもうバッチリと合っていた。そのため、話題には事欠かない。


(…………良縁に恵まれちまったなぁ)


 こんな場所に居るにも関わらず、浮いた話の1つも出てこないこの関係が、俺にとっては最良であるように思えて仕方がなかった。


***********************************************************


 新入生オリエンテーション、3日目の朝。


 1日目に集合した時と同様、受付が存在する中央宿舎のメインロビーに、俺たち情報工学科生徒は集めれられた。


 一昨日に佐藤先生が言っていた追加課題の説明のためだ。


 猫屋と西代はサボりなのでいない。あのホテルで、まだ眠っている。俺はヤツらの不在理由を述べるためだけにわざわざ来た。


 佐藤先生ではない別の男性教員に『詳しくは知らないですが体調不良らしくて、自室で休んでいるそうです』とだけ言っておいた。男にこう言っておけば、女の欠席理由は脳内で勝手に作り上げられる。


「えぇー、企業に入ると、何もかもが予定通りに進む事などまずありえません」


 説明会は既に始まっており、よく分からない講釈が延々と垂れ流されている。


 どうせやらない課題の説明。まるで興味が湧かないので、説明が終わるのを無心で待機する。


「…………」

「ぁ」

 

 何気なく教員から視線を外した先に、薄赤い長髪が写った。


 整列を求められてはいないため、この集まりは文字通りの烏合の衆。それでも、他のチュータ班は仲の良い面子で、ある程度の群れを形成している。


 ただその中でも、やはり安瀬桜は1人きりだ。アイツは友達が欲しいとか思わないのだろうか?


(……考えても無駄だな)


 理解不能な女の事は置いて置き、俺は再び男性教員に意識を傾けた。


「プロジェクトに追加の要望が入る事なんて日常茶飯事。要件定義を再検討した結果、これまでの作業が意味をなくすなんて事もざらに──」


 説明を始めて既に10分が経過しているが、教員は未だ本題に入ってはいない。


(話なげぇな……)

「そういった訳なので、既存課題に四苦八苦しておられるであろう皆様に、追加の課題を与えさせていただきます」


 ここまでの先生の話をニュアンスだけで判断すると、社会に出てしまうと、予定という物は仕事1つ追加されると簡単に吹き飛ぶので、今のうちにその苦心を体験しておけという事らしい。


 余計なお世話だ。放って置いて欲しい。


「さて、皆様に思い出して頂きたいのですが、ゴールデンウィークが終われば、直ぐ翌週にがあります」


 ようやく長い前置きが終わり、本題らしき物に移る。


「こちらで、便箋と、コサージュの材料を用意しました。大学入学の節目を機に、日ごろ支えてくれている母親にプレゼントを贈りましょう」

(コサージュ作りか……なんだ、大学も中々良い企画を考えるな)


 勉学に対しては全くと言っていいほど湧いてこなかったやる気が沸々と溢れてくる。


 母の日のプレゼントは既に購入してあった。紅茶に目がない我が家の母親に、池袋の専門店で買った茶葉を贈る予定だ。そこに、手作りのコサージュを添えられたのなら、もっと素敵なプレゼントになるだろう。


「えぇ、簡素ではありますが机と椅子を並べた野外作業場を作ってあります。そちらに移動して貰い、本日はその作業を実地して頂きます」


 その言葉を皮切りに、先生たちが俺たち生徒の案内を始める。


 俺は移動の流れに遅れないように、先導に従って外に出た。

 

***********************************************************


 屋外に集団で移動し、平地に設置された長机の前まで案内される。机上には『佐藤チューター班様』と書かれている席札や、グルーガン、花びらの素材が並べられていた。


 俺たちの作業スペースは、どうやらここのようだ。


(……あの2人に連絡するか、しないか。どうするかな)


 俺は座席を前にして、少しだけ思い悩んでいた。


 難しい課題ではなく、プレゼント作りであるのならあの2人は俺と同じように真面目に作業するだろう。


 しかし、佐藤チューター班にはもう1人メンバーがいる。2日前、猫屋が本気で因縁をつけてしまった安瀬のヤツだ。


(猫屋は……連絡しても来ないかもな)


 猫屋が来ないなら、西代も来ないだろう。恐らく、西代は猫屋を1人にはしない。


(そうなると、連絡を入れる必要はないな…………ん?)


 2人の友人と、どうでもよい女の扱いについて悩んでいる時、ふと気が付く。


(……あのクソ真面目女は?)


 安瀬桜の姿が、どこにも見当たらなかった。


 さっきの集合説明会では見かけた。なので、彼女は俺と同じようにこの机に移動していないとおかしいはずだ。


「…………」


 俺は何となく、彼女が現れるのを待ってみた。


 3分、5分、10分と、スマホもいじらずに、ただ彼女が来るのを待った


「来ないな」


 いつまで待っても、安瀬桜は現れなかった。


 もう既にコサージュ作りに着手している生徒もいるというのに、彼女は一度もこの作業場に顔を出さない。トイレにしたって長すぎる。


(まさか……)


 アイツ、まさか────サボりか?


 一昨日、猫屋にあれだけ説教をしておいて? 俺たちの事を、怠け者だと蔑んでおいて、アイツ、サボるつもりか?


「っ……!!」


 そう思い至った瞬間、俺は座席から勢いよく立ち上がった。


***********************************************************


『なぁ、薄赤く見える髪色をした長髪の女を見なかったか?』


 俺は自分の作業スペースから離れて、誰彼構わずに安瀬桜の居場所を聞きまわった。


 女生徒の事を執拗に嗅ぎまわる男子生徒、という絵面はかなり怪しい物なのだろうが、今の俺にはそんな世間体は全く気にならなかった。


 怒りと……だけが、衝動的に俺を突き動かしていた。


「なぁ、薄赤く見える髪色をした長髪の女を見なかったか?」

「え、あ、あぁ、はい。見かけましたけど……」


 見境ない捜索の結果、開始から5分程度で有益な情報源にたどり着く。


「たしか……あっちの、林の方へ走って行きましたけど」


 その男子生徒は控えめな様子で、鬱蒼と生い茂る森林の方角を指差した。


「そうか、ありがと」


 手短にお礼を述べて、彼が指差した方向へ走り出す。


 森の中を突っ切るのは思った以上に大変だった。


 木々の間を抜け、人間1人がギリギリ通れるような隘路あいろを押し通り、比較的になだらかな斜面を降りて行き、何とか進むことが出来る方向へと自動的に駆けていく。


 そうすると、開けた原っぱにたどり着いた。


 林の中から急に現れた広い空間。日当たりが良く、周囲からは隠れており、子供の秘密基地にでもなりそうな隔離された世界。


 そこに、安瀬桜は居た。


 彼女は原っぱの端で、何の変哲もない樹木に突っ立ったまま額を押し付けている。


 俺と同じようにあの悪路を無理やり走破したせいか、彼女の服は土や木の葉で汚れており、また、手にはぐしゃぐしゃに握り潰された教本が握られていた。


 普段の冷淡で完璧なシルエットからは想像しがたいほどに、彼女は乱れていた。その様子から鑑みるに、彼女が作業場にわざと来なかった事は明白だった。


「おい安瀬!!」


 装いから感じられる心情を全て無視して、こちらに背を向けている彼女の名を叫んだ。


「テメェ、一昨日あれだけ猫屋に説教しておいて何サボってやがる!!」

「っ」


 俺が間髪入れずに大声で話しかけると、安瀬は後ろを向いたまま肩を震わせた。


「なんだぁ? この年になって母親へのプレゼントなんか、馬鹿馬鹿しくて作れないってか? それよりも勉強を優先したいってか?」


 怒りはあった。


 だがそれ以上に、この時の俺は優等生の非行が面白くて仕方なかった。


 "最低"にも自然と口角が吊り上がる。見上げていた殿上人てんじょうびとが、理由は分からないがこちらまで落ちてきたのだから。


「はっ。お前、仮面浪人してるんだろ? 親に無駄な学費を出してもらって、なんだそりゃあ? すげぇな、おい!! はははははっ!!」


 真面目に勉学に励んでいない自分を棚に上げて、安瀬の不義を盛大になじる。だが言葉とは裏腹に、やはり俺の本心は真逆そのもの。


(別にいい……それなら分かる)


 こころの奥から、甘く腐ったドロドロの感情がせり上がる。吐しゃ物よりも汚らわしい愉悦が俺のこころを侵食していった。


(それならまだ理解できるよ、安瀬あぜ)


 俺は、ろくでもない下種であるのなら、ある程度は共感が持てる。


 醜くて、自堕落で、良識ある善人とはかけ離れていても、そっちの方が俺は好きだ。きっとそういう性分。しつけとか教育ではどうにもならなかった、生まれついての異常。


「不出来に育った自分を申し訳なく思って、母親に少しでも感謝を伝えようとかしないわけか?」


 お前だって、俺と同じはずだ。


 きっと、があるんだ。


 俺には、まともな両親に対する罪悪感があり、善良ではいられない生まれつきの気質があり、過去の失敗に囚われて努力をしない惰性だせいがあって、それを自覚していてなお今の自分を好意的に受け入れている"最低"がある。


 お前だって、俺と同じだ。優秀で綺麗なお前だって、薄汚い俺と同じような"最低"を持っているはずなんだ。


 お前の腐敗はなんだ? すれ違いによる母親との深い確執かくしつか? それとも勉学に対する家族からのうざったい期待か? ……まぁ、何だっていい。


(聞かせろ)


 綺麗なお前の、醜い醜いこころの内を。


 俺だけが"最低"ではないという安心感を、俺にくれ。


「っ!!」


 俺の煽りを受け、弾かれるように安瀬は振り向いた。


「お前のようなクズに、私の……私の何が分かるっ!!」


 その瞳からは、大粒の涙が止めどなく流れていた。

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