カメラが記録する物理的現実
アニメーションが現実よりもリアルになりうるという言葉は、一見すると矛盾しているように聞こえる。実写映画には現実の人物や空間が映し出されるが、アニメーションに存在するのは、線と色によって構成された形象だけである。人体は伸びたり潰れたりし、運動の途中は省略され、衝突の瞬間には現実には存在しない閃光や残像が現れる。
それにもかかわらず、私たちはあるアニメーションの動きを見て、実写以上に重く、速く、痛そうだと感じる。現実には起こりえない誇張が、かえって現実のなかで経験した感覚を正確によみがえらせるのである。
この逆説は、現実を二つの層に分けることで理解できる。一つは、物体や身体が実際に存在する物理的現実である。もう一つは、人間がそれを見て、感じ、生きる経験的現実である。実写映画は物理的現実の痕跡から出発する。アニメーションは外形的な類似を部分的に手放す代わりに、現実が人間にどのように経験されるのかを直接構成できる。
現実の外形と、経験される現実
アンドレ・バザンは、写真と映画の特性を、現実が機械的な装置を通じて痕跡を残す点に見いだした。カメラの前に存在した対象の光がレンズを通り、イメージとして記録される。その意味で映画のイメージは、人間の手によって最初から構成される絵画やアニメーションとは異なる位置を占めている。
しかし、現実の痕跡が保存されるからといって、人間の経験までがそのまま保存されるわけではない。カメラにとって、切迫した一秒も退屈な一秒も同じ長さである。恐怖に陥った人間にとって時間が長く引き延ばされても、撮影装置の時間は変化しない。
もちろん映画は、編集、スローモーション、音響、レンズなどを通じて、記録された時間を変形できる。ただし実写映画が扱う最初の素材には、カメラが記録した物理的な時間と空間がある。
均質な時間と、意識のなかの時間
ベルクソンは、時計によって測定される時間と、人間が実際に経験する時間を区別した。時計の時間では、秒や分といった同一の単位が順番に積み重なっていく。しかし意識の時間は均質ではない。事故が起こる直前の数秒は長く引き延ばされ、同じことが繰り返された数日間は、記憶のなかで一つの曖昧な点へと圧縮される。
ベルクソンは、このような時間を「持続」と呼んだ。持続のなかで、それぞれの瞬間は独立した点として存在するわけではない。音楽を聴くとき、先ほどの音は完全に消え去ることなく、次の音のなかに残る。後から鳴る音はそれ以前の音と関係を結び、一つの旋律をつくる。過去が現在へと浸透し、現在の出来事が、すでに過ぎ去った瞬間の意味まで変化させるのである。
アニメーションのタイミングもまた、このような質的時間に近い。同じ六フレームであっても、それをどのように配置するかによって、まったく異なる運動になる。攻撃直前のポーズを長く保てば緊張が蓄積され、中間の動きを省略すれば、二つのポーズの差が速度を生み出す。衝突直後に動きを一瞬止めれば、観客は力が身体へ伝わった時間を感じる。
攻撃前の静止と攻撃後の静止は、数値上では同じ長さかもしれない。しかし前者はエネルギーを蓄積し、後者はすでに起きた衝撃の大きさを確認させる。二つの時間は、互いに置き換えることのできない性質を持っている。アニメーションにおいてタイミングをつくるとは、単に時間を速くしたり遅くしたりすることではない。それぞれの瞬間に、異なる密度と方向を与えることなのである。
現実を知覚する際にも、あらゆる情報が同じ比重で受け取られるわけではない。
アニメーションは時間の密度を設計する
ルドルフ・アルンハイムは、見ることと思考することを切り離せないものとして捉えた。知覚とは、目に入った情報を受動的に複写する過程ではない。形態、方向、中心、関係を、一つの構造として組織する過程である。
拳が顔に向かって飛んでくる瞬間にも、視野には壁や照明、床や周囲の人物が同時に入っている。しかし私たちは、それらすべてを同じ強度で経験しない。相手の肩が回転する方向、拳の軌道、接近する速度、そして衝突の予感が知覚の中心を占める。それ以外の情報は物理的には存在し続けていても、経験のなかでは背景へと退く。
ゲシュタルト心理学もまた、個々の感覚的要素が一つの全体として組織されると説明する。近接して置かれた形は一つの集団としてまとめられ、同じ方向へ動く要素は、同一の運動に属するものとして捉えられる。途切れた線であっても、一定の方向を保っていれば、一つの連続した軌道として知覚される。
したがって、私たちが経験する現実は、感覚情報すべての中立的な総和ではない。知覚は、何が中心で何が背景なのか、複数の変化のうち何が一つの運動を構成するのかを絶えず区別している。
アニメーションは、この知覚による組織化をイメージとして外在化する。アニメーターは、現実のなかで起きるすべての変化を同じ比重で写し取るわけではない。どの瞬間に重心が移動するのか、どのポーズが力の方向を示すのか、何を省略すれば速度が生まれるのかを選択する。現実を知覚するときに人間が行う強調と排除が、制作過程において線、ポーズ、タイミングとして現れるのである。
誇張と省略がリアリズムを生む
squash & stretch は、そのことをよく示している。ボールが床に衝突するとき、現実よりもはるかに平たく潰れ、跳ね上がるときには長く伸びる。外形の正確さは失われるが、衝撃と弾性、圧縮と解放の関係はより明確になる。アニメーションは、ボールが実際にどのような形をしていたのかを多少犠牲にすることで、その運動がどのような力として経験されるのかを前面に押し出す。
スメアも同じ原理から理解できる。高速で振り抜かれる腕を長く引き伸ばしたり、複数の残像として描いたりすることは、ある一瞬の身体を正確に再現する行為ではない。その代わり、腕が通過した軌道と速度を、一枚のイメージのなかに圧縮する。静止した形態の真実よりも、運動全体についての知覚的な真実を優先するのである。
インパクトフレームでは、現実の表面がさらに大胆に取り除かれる。衝突の瞬間、人物はシルエットとなり、背景は消え、画面の色が反転する。現実世界には、そのような一コマは存在しない。しかし強い衝撃を経験する意識のなかでは、周囲の情報が弱まり、特定の感覚だけが過剰に浮かび上がる。イメージは外的現実から遠ざかるほど、衝撃を受け取る人間の知覚へと近づいていく。
現実を経験するためのイメージ
だからこそ、アニメーションのリアリズムを人体の比率、背景描写、物理法則との一致だけで評価すれば、その重要な能力を見失う。人間が現実のなかで経験するのは、物体の形だけではない。私たちは重さと抵抗、速度と緊張、時間の膨張と圧縮を同時に経験している。
アニメーションは現実の情報を減らす。しかし、その単純化が必ずしも貧しさを意味するわけではない。地下鉄の路線図が実際の都市を正確に複製していなくても、移動の関係をより明確に示すように、アニメーションも不要な情報を削ぎ落とすことで、力と運動の構造を鮮明にできる。
したがって、アニメーションが現実よりもリアルだという言葉は、外部世界をより正確に複製するという意味ではない。物理的現実の表面を変形しながらも、人間がその現実を知覚し、生きる仕方を、より正確に構成できるという意味である。
バザンがカメラと物理的現実との関係を示すとすれば、ベルクソンは人間が時間を均質に経験しないことを説明する。アルンハイムは、現実の知覚もまた、均質な情報の受容ではなく、選択と組織化の過程であることを示している。
アニメーションは、この二つの不均質性を形式へと変える。時間の密度を再配分し、知覚の中心を拡大し、周辺の情報を省略する。その結果、現実の外形からは遠ざかりながら、現実の経験には近づくことができる。
アニメーションは現実をそのまま見せるのではない。現実が意識のなかで、どのように重くなり、速くなり、長くなり、鮮明になるのかを見せる。その瞬間、アニメーションは現実に似るという水準を越え、現実を経験する仕方そのものへと到達する。
yohan_
この文章を書いてから、すでにかなりの時間が経っている。どのような形で公開するかを考え続け、そのまま寝かせていた。しかしある時点から、文章が熟成しているのではなく、腐り始めているように思えた。熟成は文章の性質を変えるが、腐敗は文章を動けなくする。両者を見分ける最も確実な方法は、どこかの時点で文章を外へ出してみることなのかもしれん。