差別されているのは現実の同性愛者ではなく二次創作腐女子
「個人の逸脱」が「集団の異常性」になるとき
ある趣味集団の中から問題行動を起こす者が現れたとき、批判が「当該個人」に向かうか「集団全体」に向かうかは、趣味によって明確に異なる。
コスプレイヤーの場合
あるコスプレイヤーが「原作者とコスプレイヤーは対等である」という異常な発言をした。批判は当然起きたが、それはあくまで当該レイヤー個人への批判にとどまった。「コスプレイヤーには異常者がなりたがりがち、コスプレイヤーは頭がおかしい人間だらけ」という言説には発展しなかった。
イラストレーターの場合
あるイラストレーターが、インフルエンサーの写真をトレス(権利上問題あり)しておきながら居直り、後輩漫画家が自力でロケハンした写真のトレス(権利上問題なし)を批判するという矛盾した行動をとった。これもまた、そのイラストレーター個人への批判で完結した。「イラストレーターという人種は異常だ」とはならなかった。
腐女子の場合
日本三國のアカウント削除問題では、作者に対して「ホモフォビア」という攻撃を行った腐女子は確かにいた。しかしその数は限られていた。それにもかかわらず、起きたのは「腐女子全体が狂っている」という風潮だった。
個人の逸脱が集団全体の烙印になる。これがコスプレイヤーやイラストレーターには起きず、腐女子には起きる。撮り鉄にも、カードゲーマーにも起きる。
一枚岩ではなかった腐女子
外部からは「腐女子が作者を攻撃して潰した」という一枚岩の物語として消費されたが、実際にはまったく異なる反応を示す複数の層が存在していた。
雑食腐女子
公式設定と自分の二次創作を明確に別物として扱えるタイプ。ツネの汐莉への赤面描写が作者のインスタストーリーに投稿されても、「公式は公式、自分の萌えは自分の萌え」として矛盾なく両立させる。作者が公式の男女描写を出しても傷つかないどころか「公式も尊い」と消費することができ、「二次創作も別で楽しい」と両取りできる。
沈黙腐女子
ツネと汐莉の恋愛感情が示唆される作者インスタに心の中でショックを受けたものの、そのお気持ちを作者に直接ぶつけたり、大きく発信したりはしなかった。静かに落胆するだけで、外部への攻撃には一切加わっていない。アカウントの更新が止まるだけなので、外からはほぼ不可視の存在である。
害悪凸腐女子
ツネの赤面描写を見て「悲鳴」を上げ、それを引用・DMなどの形で作者本人に直接届けた層。作者がXからインスタへ投稿場所を移した後も追いかけて「ご意見」を送り続けた。作者が「私の投稿を目にしたくない方々への配慮から、投稿の場を別のSNSに移しておりましたが、そちらにも直接ご意見をいただくことが続き、少し余裕を失っておりました。」と述べた対象はこうした層であったと考えられる。
撤退腐女子
作者の「自分が作ったキャラクターの脳を入れ替えられ、別物にされていくようで、ただただ苦痛」という言葉を受け止め、自分の二次創作を削除した層。作者への配慮として自らの表現活動を引いた、凸腐女子とは正反対の対応である。
未読イデオロギー腐女子
『日本三國』を読んだことがないにもかかわらず、作者の声明を「BL差別」「ホモフォビア」「表現規制」「同性愛者の人権侵害」といった文脈に切り取って拡散し、作者を「差別者」として攻撃した。作者が述べたのは「性的表現を含む二次創作の直接共有を遠慮してほしい」という穏当な要望に過ぎなかったが、これを性的指向そのものへの差別発言であるかのように曲解した。
外部に認識されたのは「未読イデオロギー腐女子」だけ
様々な層が存在していたが、外部から「腐女子代表」として認識されたのは、最も過激で最も的外れだった未読イデオロギー腐女子の数人。腐女子による作者への誹謗中傷がスクリーンショットで撮られ、複数のまとめブログに載せられたが、載せられた腐女子は全員『日本三國』未読。作者のアカウントに載せられたコンテンツに腐女子がどう反応したか、作者の表明した文章はどのような内容だったか、誰も読んでいない。流れを把握していないし、作者にかけられていた圧の文脈も全く知らないまま、勢いと雰囲気で作者を誹謗中傷した。そしてその数人の言動が、腐女子全体の評価を規定した。
同性愛者を盾にしてはいけない、叩き棒にしてもいけない
ここで明確にしなければならないことがある。
本件で言動が問題視されたり差別的な言動がなされている対象は腐女子であって、同性愛者が差別されているのではない。現実の同性愛者の動向への言及は本件において誰もしていない。
未読イデオロギー腐女子が持ち出した「ホモフォビア」という言葉は、現実の同性愛者が直面する差別の文脈から借用されたものだ。しかし、作者が拒絶したのは同性愛そのものではなく、公式の異性愛カップリングがある自分のキャラクターを性的に改変した二次創作を直接送りつけられたり、作者のインスタの投稿に「悲鳴」や「ご意見」を送り付け続け、作者の自由な創作活動を妨害する行為だった。これを「ホモフォビア」と呼ぶことは、同性愛者の現実の苦しみを無関係なことと紐づけて矮小化する行為でもある。
児童性愛者と児童が別物であるように、腐女子と同性愛者は別物である。腐女子がBLを楽しむことと、現実の同性愛者が尊厳を持って生きることは、まったく別の次元の話であることを、一部の腐女子は未だに理解していない。同性愛者を自分たちの盾にしてはいけないし、批判者を黙らせるための叩き棒にしてもいけない。この区別を曖昧にすること自体が、腐女子という集団の信用をさらに毀損する。
居なくなっても困らない、なのに迷惑行為だけはあるから免罪されない
撮り鉄、カードゲーマー、腐女子。これらの趣味集団が並べて語られ、「異常な人間を惹きつける異常な趣味」と書かれているのを見た。これこそ蔑視、差別である。しかしこの三者が並べられる構造的な理由は存在する。
コスプレイヤーやイラストレーターとの違い
コスプレイヤーの写真は、コスプレをしない人々も広く消費している。イラストレーターの作品は、絵を描けない大勢の人々が日常的に消費している。これらの趣味・職業には外部に広い消費者層が存在する。つまり、彼らが居なくなれば困る外部の人が大勢いる。
一方、撮り鉄が居なくなっても鉄道は走り続ける。むしろ撮り鉄は鉄道の運行を疎外している。カードゲーマーが居なくなってもカードゲーマー以外は困らない。そして腐女子が居なくなっても、腐女子以外は誰も困らない。
BL二次創作の消費者はほぼ腐女子自身であり、外部に広い受益者層を持たない。作り手と消費者のベン図が、コスプレやイラストと比べるとかなりの被り方をしていて、活発で深い割に関係する人数が小さい。これは趣味としての正当性の問題ではなく、社会的な利害関係の問題である。
「居なくなっても困らない」ことの帰結
外部に受益者がいない趣味集団は、問題行動者が出たとき、誰からも庇われない。コスプレイヤーやイラストレーターの場合、その作品を楽しんでいる外部の消費者層が、意識的にせよ無意識的にせよ、集団全体への攻撃にブレーキをかける。「あの個人はおかしいが、コスプレイヤー全体を叩くのはやりすぎだ」と感じる非コスプレイヤーが大勢いるからだ。
腐女子にはそのバッファがない。外部にとって腐女子は、居ても居なくてもどちらでもいい存在であり、したがって一人の逸脱者が出たとき、集団全体を切り捨てるコストがゼロに等しい。だから個人の問題が集団の問題にすり替わる。だから「気が狂っていると腐女子になるから、腐女子は全員が気が狂っている」という雑な総括が外部でまかり通る。
基本は敵だらけである
これは悲観論ではなく、現実認識の問題だと思っている。
腐女子は外部に味方を持たない趣味集団であり、問題行動者が出たとき一切免罪されない構造の中にいる。未読イデオロギー腐女子のように「同性愛差別」という大きな旗を振り回せば、それは腐女子全体の旗として外部に認識される。そしてその旗が的外れであればあるほど、「やはり腐女子は異常だ」という確信を外部に与える。
雑食腐女子も、沈黙腐女子も、撤退腐女子も、その存在は外から一切見えない。存在するのに。見えるのは常に最も声が大きく最も過激な者だけであり、それが集団全体の顔になる。


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