【海に巨大な木が出現】滝が流れ落ちる、バオバブに着想を得た未来の発電所

  • 文:宮田華子
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マダガスカル

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Image courtesy of Ahmad Eghtesad

マダガスカルの海上に、巨大なバオバブを思わせる建築が姿を現す──。そんな未来を思わせるコンセプトデザイン「Baobab Waterfall(バオバブ・ウォーターフォール)」が話題を集めている。

ルーマニア・ブカレストを拠点とする建築デザイナー、アハマド・エグテサドが、海洋建築をテーマとするジャック・ルジェリー財団(Jacques Rougerie Foundation)の国際コンペティションに向けて発表した構想である。建設計画ではなくデザイン提案であるものの、再生可能エネルギーの創出と社会課題の解決を一体的に描いたアイデアとして、複数のメディアで紹介された。

 

遠景 20_O_Ahmad eghtesad_BAOBAB WATERFALL_Photo 04.jpg
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海に浮かぶ「バオバブ」がエネルギーを生み出す

計画のモチーフとなったのは、「生命の木」とも呼ばれるマダガスカル原産のバオバブである。幹に大量の水を蓄え、過酷な環境でも生き抜くその姿は、島の自然や人々の暮らしを象徴する存在でもある。エグテサドは、太い幹と大きく枝を広げる樹冠に着想を得て、その姿を巨大な海上建築として表現した。

 

リング  20_O_Ahmad eghtesad_BAOBAB WATERFALL_Photo 03.jpg
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構想では、リング状の構造体の内部へ海水を流し込み、滝のように落下させる。これにより海中に設けた発電用タービンを回し、再生可能エネルギーを生み出す。発電施設でありながらランドマークとしても機能する景観を生み出すというアイデアだ。

この大胆な発想の背景には、マダガスカルが抱える深刻な電力不足がある。豊かな自然資源に恵まれながら、多くの地域では依然として電力へのアクセスが限られ、経済発展や生活基盤の整備が大きな課題となっている。

発電だけで終わらない、社会を見据えたデザイン

「Baobab Waterfall」が特徴的なのは、発電施設だけにとどまらない点である。内部を更生支援を目的とした施設(刑務所)として利用することを想定している。

 

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中央の「幹」にあたる部分には、多層階の温室や教育用スペースを配置している。入所者が農作物を育て、生産物を販売するなど、社会復帰に必要な知識や技能を身につける場とする計画だ。

 

農作物2  20_O_Ahmad eghtesad_BAOBAB WATERFALL_Photo 13.jpgImage courtesy of Ahmad Eghtesad

海中にはドーム状の空間も設けられ、海洋環境とのつながりを感じられる構成も盛り込まれている。

 

海洋 20_O_Ahmad eghtesad_BAOBAB WATERFALL_Photo 07.jpg
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建築デザインとビジュアライゼーションを専門とし、国際的な建築コンペティションに積極的に参加しているエグテサド。このコンセプトでは、「エネルギー不足が経済的困難や犯罪率の上昇につながり、それが矯正施設の過密化を招く」という社会課題に対し、建築デザインを通して一つの解決の方向性を提案している。建築を単なる器ではなく、エネルギー、生産、教育、人々の社会復帰を支える基盤として位置づけている点が、この構想の核といえる。

建築が描く未来への提案

この構想はさらに未来も見据えている。犯罪率の低下など社会状況の改善が進んだ将来には、更生支援施設としての役割を終え、エコリゾートやグリーンエネルギー拠点へ転用する構想も盛り込まれている。用途を固定せず、社会の変化に応じて姿を変えることも考慮したデザインである。

 

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更生施設からツーリストハブへと用途を変えることが可能。Image courtesy of Ahmad Eghtesad

 

 

内側 20_O_Ahmad eghtesad_BAOBAB WATERFALL_Photo 09.jpg
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もちろん、「Baobab Waterfall」は実現を前提としたプロジェクトではなく、コンペティションに向けたコンセプトデザインである。しかし、発電施設を地域の象徴とし、さらに教育や更生、将来的な観光までを視野に入れたこの構想は、建築が社会課題に果たし得る役割を考える一つの試みとして注目される。

 

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【マーク・ボスウィック撮影、オム プリッセ イッセイ ミヤケ】心地よい光に導かれ輝く、マテリアルの輪郭と質感

  • 写真:マーク・ボスウィック、齋藤誠一(ポートレート) 文:松本雅延(インタビュー)
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スポットライトのような光を衣服に当てた際のコントラストをデザインで表現した「FADING」シリーズのコート。アシンメトリーなフォルムが特徴で、光と影の関係性を主張している。コート¥104,500(12月発売)、ニットパンツ¥55, 000、ハット¥23,100、シューズ(参考商品)/すべてオム プリッセ イッセイ ミヤケ(イッセイ ミヤケ)

「オム プリッセ イッセイ ミヤケ」の2026/27年秋冬のテーマは「In a New Light」。プリーツと光を起点に生まれたシリーズだ。光を巧みに扱う写真家マーク・ボスウィックが、特有の感性で、その衣服を捉えた。7月28日まで、銀座で開催中の展示にもぜひご注目を。

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光に導かれ、やわらかな陰影を見せる服

2013年にスタートした「オム プリッセ イッセイ ミヤケ」。“現代男性のための新しい日常着”をテーマに掲げ、軽くてしわにならず、洗濯もできる気軽さが男性はもとより、世界中の女性にも大人気のブランドだ。

同ブランドの2026/27年秋冬のテーマは「In a New Light」。光をプリーツに当てることで生まれた現象を起点に制作した各アイテムは、その光景を衣服のデザインとして捉え、切り取っている。現象を観察し、研究を重ねたものづくりは、手仕事とテクノロジーの両者を取り入れることによって、衣服の輪郭と質感に反映させている。日常着としてのプリーツの衣服が、光に導かれ新しい像を結ぶ。

マーク・ボスウィック撮影「オム プリッセ イッセイ ミヤケ」
光源のもとで、衣服の形状をさまざまな方向に屈折させるスタディから生まれた「MOTION BLUR 」シリーズのブルゾン。写真撮影に用いる多重露光のように、デザインチームが見出した新たなかたちを重ねることで、コンポジションのようなフォルムが生まれた。部分的に開いた穴に腕を通すことができるブルゾンは、さまざまな着用法を可能にしている。ブルゾン¥70,400(7月発売)/オム プリッセ イッセイ ミヤケ(イッセイ ミヤケ)
マーク・ボスウィック撮影、「オム プリッセ イッセイ ミヤケ」
プリーツ加工が施されたオム プリッセ イッセイ ミヤケのメッシュ素材の生地を、マーク・ボスウィック特有の「光漏れ、高い彩度、独特なピントのずれ」から生み出される夢幻的なイメージで捉えた。

マーク・ボスウィックは、光から生み出される自然現象や、その偶然性を慈しむ制作理念を持つ写真家だ。プリーツに光を当てることで明らかになる布の凹凸や、風に靡くことで生まれるドレープの透け感と重なり、人が着用することで浮かび上がる立体と影、対で現れる存在を彼特有の詩的な視点によって、連続性を持つ瞬間として再解釈された。

マーク・ボスウィック撮影、「オム プリッセ イッセイ ミヤケ」
強い光を瞬間的に対象物へ当てた際に生まれる現象を表現した「FRAMEWORK:CHUSEN」シリーズの各アイテム。シンプルでベーシックな衣服のかたちに対し、それを着用する身体のかたちを伝統的な染色技法「注染」によって表現している。染料で一気に染め上げる技法は、刹那的な光の投影と類似しており、その際に生じる輪郭の曖昧さも、染料のにじみによって示されている。トップス¥66,000、スカーフ¥26,400(ともに10月発売)、シャツ¥52,800(11月発売)、パンツ¥57,200(9月発売)、シューズ(参考商品)/すべてオム プリッセ イッセイ ミヤケ(イッセイ ミヤケ)

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光の中で、自ら踊り出す布

7月1日から28日、銀座の「ISSEY MIYAKE GINZA | CUBE」では、今回撮影されたマーク・ボスウィックの写真と映像を紹介する特別展が行われている。プレビューに合わせて来日したボスウィックに話を聞くことができた。

マーク・ボスウィック(ポートレート)
今回の展示に合わせ、来日したマーク・ボスウィック。会場構成を自らディレクションし、精力的に準備に励んでいた。

「生地が揺れ、うねり、回転し、変化していく。そのしなやかさ、躍動感、そしてそれらが一体となって形づくるイメージに、私は夢中になっていました。それは、この服の生地が“生まれながら持っているもの”“内側から生まれてくるもの”。だから撮影中、私自身あまり介入せず、生地が自然にあるがままになるようにしたんです。生地が、自らダンスを始めるように」

ISSEY MIYAKE GINZA | CUBEで開催中の展示『Mark Borthwick: Something Out of Nothing Into Everything』。その会場でマーク・ボスウィックは、撮影時の出来事を想起しながら、言葉をひとつひとつ選ぶように、ゆっくりとそう語ってくれた。

「オム プリッセ イッセイ ミヤケ」マーク・ボスウィック企画展示
展示会場。ボスウィックが作成した冊子と、作品をプリントした一枚の布が展示されている。

会場には、オム プリッセ イッセイ ミヤケの2026/27秋冬のコンセプトである「In a New Light」を主題に撮り下ろした写真と映像、また、写真とマークの手描きの詩をプリントした冊子が並ぶ。外から見えるウィンドウは、マークの日常の作業場をイメージしたもので、マークが愛する植物などとともに、写真が壁面にリズミカルに貼られている。

それらは瑞々しい発見に満ちている。木の葉のあいだからこぼれ落ちる光は、写真の中でプリズムのような線を描き、モデルを連続して捉えた写真群は、光が瞬間ごとに変化し、移ろっていくものであることに気づかせる。万華鏡をのぞいているように構成された映像作品では、水面に広がる波紋が、まるでプリーツのように立体的な陰影を帯び、光を受けながら絵画のような新しい風景をつくり出していた。 

「オム プリッセ イッセイ ミヤケ」マーク・ボスウィック企画展示
会場内では、横長の大きなスクリーンにボスウィックによる映像作品が流されている。

そういった幻想的な光景は、光とともに自然の中に無数に存在していて、きっと太古から人々はそこに視覚的な驚きや興奮を覚えてきたのかもしれない。そんなことをボスウィックに伝えつつ、「では、こうした光を捉えるとき、何を意識してレンズを向けるのですか? 光は複雑なものですか?」と尋ねると、「むしろ、私が意識するのは、光というものに対して、一歩身を引き、手放すことです」と答えた。

「光とは未知のものでコントロールできないものですから。重要なのは、一歩身を引き、光を感じるための空間を許容することです。そうすると、光は自然と私たちの中へ入ってきます。また、いまこの展示空間で映像を見ていると、その映像が私自身に何かを映し返してくれているように感じます。少し精神的な表現になりますが、私は、ずっとそうした繋がりのようなものを感じ続けていたいと思ってきました。自分というごく小さなものが、大きなものと接続できる歓び。そうしたときに、自身の存在というものが大きな共同体の中にあることを感じさせます。改めて考えると、今回のプロジェクトで、私が服のしなやかさを通して触れていたものは、その感覚だったと言えるかもしれません」

こうした感覚を呼び起こすためには、撮影場所も重要だった。今回の撮影は、ボスウィックが住むポルトガルの自宅周辺で行われた。当初はパリで撮影する想定だったが、ボスウィックがプロジェクトのための写真資料を見たとき、それがすべて屋外で撮影された、光や生命に満ちたイメージであることに気づき、「ならば、自然豊かな自宅近くで撮影をしたらどうか」と、デザインチームに提案したのだという。
「つまり『Come Home』しましょう、と。それをデザインチームが受け入れてくれたことも私にとって喜ばしいことでした」
なお、この「Come Home」には、「内に深く入り込む」「還るべき場所に戻る」の意味もあり、それもまたボスウィックの哲学に基づいたアイデアだった。

オム プリッセ イッセイ ミヤケをもっと知る

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三宅一生と子どものように笑い合った記憶

「オム プリッセ イッセイ ミヤケ」マーク・ボスウィック企画展示
展示会場はボスウィックがディレクション。エントランス右には彼のアトリエを模した空間が設けられている。会期は7月28日まで。

ボスウィックが自らディレクションした展示空間も、訪れるものを深い瞑想へと導くような場となった。「空間づくりについては、いつも何も考えないようにしています。人生を通して私が学んだコツのようなものはもちろんありますが、この場所から自発的に何かが生まれてくるように、空間を作りすぎないようにすることも大切なので」とボスウィック。ただその上で、今回、会場で思いを巡らし、意識したことがあるという。かつて自身が対面したデザイナー三宅一生との記憶だ。

「若いころ、一生さんの創作をとても近くで目にする機会を得ました。また、よく憶えているのは、一緒に笑い合ったことですね。子どものように。その記憶が、今回何度も思い出され、幸せな気分になりました。その頃、私が投げ込まれたヨーロッパのファッション業界は真面目で堅苦しい空気感があり、私はそこから抜け出そうとしていました。そんな時に、一枚の布のしなやかさに、身体を解放する根源的な動きを見出していた一生さんの仕事に出会い、精神的にも大きな影響を受けたのです。その記憶が、この展示を通して、再び私たちを結びつけてくれたようにも感じています」

マーク・ボスウィック  
写真家。1962年英国生まれ。官能的かつ直感的なアプローチで定型から逸脱し、ファッションとアートの境界を曖昧にした独自の表現で知られる。光漏れ、高い彩度、独特なピントのずれによって生み出される夢幻的なイメージは、ファッションフォトのあり方を大きく変えた。現在はポルトガルを拠点に活動中。

Mark Borthwick: Something Out of Nothing Into Everything
ボスウィックが独自の感性で捉えた詩的な写真群と映像作品を、自身のディレクションによる空間に展開。光を巧みに扱う彼の世界観が広がる。

会期:開催中〜7月28日 
会場:ISSEY MIYAKE GINZA | CUBE
住所:東京都中央区銀座4-4-5
TEL:03-3566-5225
営業時間:11時〜20時 無休


イッセイ ミヤケ
TEL:03-5454-1705 www.isseymiyake.com

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【日本初のスイス時計、ジラール・ペルゴの知られざる歴史】作家・松山猛が語る、幕末の日本に初めてスイス時計を輸入した時計師の生涯【フランソワ・ペルゴをめぐる冒険 第1回】

  • 写真:齋藤誠一
  • 文:柴田 充
  • 取材協力:横浜外国人墓地
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左:フランソワ・ペルゴ●1834年、スイスのル・ロックル生まれ。1856年にジラール・ペルゴを設立したマリー・ペルゴの実弟であり、幕末の日本に初めてスイス時計を輸入した人物。1877年没、その遺体は横浜外国人墓地に眠る。写真はピキヨ=ガルデ コレクション蔵。 右:ジラール・ペルゴの最新作で日本限定モデル「ロレアート ターコイズブルー」。

スイス時計は高級時計の象徴として日本でも高い人気を誇る。両者の歴史は古く、始まりは幕末に遡る。嚆矢となり当時、日本に伝えられた初のスイス時計がジラール・ペルゴだ。日本と強い絆を結ぶブランドの知られざる歴史をたどる第1回は、その道を拓いた功労者フランソワ・ペルゴの半生について、作家で時計ジャーナリストの松山猛が語る。

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横浜外国人墓地にいまも眠るフランソワ・ペルゴの墓前に立つ松山。墓地のなかでも古く、周辺には生麦事件犠牲者の碑もある。

海を渡って日本に初めてスイス時計を伝えた、フランソワ・ペルゴの苦難の旅

日本とスイスが通商条約を締結した160年以上前、数あるスイス時計ブランドのなかでもなぜジラール・ペルゴが先陣を切って日本に初上陸したのか。

ジラール・ペルゴは、時計師ジャン=フランソワ・ポットが1791年にスイスのジュネーブに創業した時計工房を源流に、1856年にラ・ショー・ド・フォンで時計師コンスタン・ジラールと妻マリー・ペルゴがふたりの名をブランドに冠して設立した。2世紀以上にわたって高級時計製造を続ける数少ないスイスの名門マニュファクチュールだ。

当時、スイス時計ブランドの多くが海外へ販路拡大を試みるなか、ジラール・ペルゴも例外ではなかった。その新天地として目指したのが極東の日本だったのである。この重責を担ったのがマリーの実弟であり、時計師のフランソワ・ペルゴだ。

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時計塔を背景に、友人とおぼしき和装の人物、半蔵と洋装のフランソワ(写真右)が並ぶ。その雰囲気はどこか松山にも似る。 photo: Girard-Perregaux

1834年、スイスのル・ロックルに生まれたフランソワ・ペルゴは、隣町のラ・ショー・ド・フォンと同じく時計産業の地として栄えた町で、時計販売業を営むアンリ=フランソワ・ペルゴの次男として育てられた。47年に父親が若くしてこの世を去ると、母親が家業を継ぐ中で、フランソワは19歳の時にアメリカ市場開拓のために渡米。ニューヨークでアンリ・ペルゴ社(支社)を設立し、53年から6年間滞在した。その期間には前述の通り、姉マリー・ペルゴとコンスタン・ジラールが結婚し、56年にジラール・ペルゴ社が設立されている。

59年にニューヨークからル・ロックルに戻ったフランソワは、長い海外赴任を終えたばかりにもかかわらず、息つく間もなくアジアに向けて出立する。フランス・マルセイユから出航し、エジプトを陸路で経由して紅海、インド洋を抜けて、シンガポールへ。12個の時計を携えて日本を目指すものの、日本とスイスはまだ国交がなかったため、フランソワの来日は叶わず、1年ほどシンガポールに滞在することになる。

日本行きをさまざまに模索するなかで、既に国交を開いていたフランスの特別保護を受けてパスポートを取得。1860年の12月に、フランソワはようやく横浜の地に降り立った。

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1859年4月20日にスイスのル・ロックルを出発したフランソワ・ペルゴは、マルセイユの港から出航。地中海から、当時はまだスエズ運河が開通していなかったためエジプトを陸路で抜け、紅海、アラビア海を通ってインドのボンベイ(現ムンバイ)、セイロン島(現スリランカ)を経由してシンガポールへ到着したのが5月31日。およそ1カ月の長旅であった。シンガポールで1年ほど過ごした後、60年10月にシンガポールを出発し、サイゴン(現ホーチミン)、香港、上海を経て12月に横浜に入港した。 photo: Girard-Perregaux

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“日本限定”の先駆として花開いた、フランソワの才覚

ここで当時の時代背景を少し整理しておこう。ペリー率いる黒船が浦賀に来航した翌年、1854年に日米和親条約が締結され、200年以上続いた日本の鎖国が終わりを告げる。開国から4年後の58年に日米修好通商条約が結ばれ(その後オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を締結)、翌59年には貿易港として横浜が開港した。

フランソワがル・ロックルを発ったのが機を同じくすることからも、スイスの時計産業が日本の開港をビジネスチャンスと捉えていたことがうかがえる。1860年に来日したフランソワはスイスとの国交樹立を見据えて準備を整えていたが、日本とスイスの修好通商条約締結は1864年まで待つこととなる。

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フランソワによって日本に輸入された懐中時計。素材に銀を用いたことと、内部を見られるようなガラスの仕様や凝った装飾など、日本人の好みを反映した製品を本国に依頼した。文字盤には「Girard Perregaux」のブランドネームが読み取れる。ともに1875年頃製造。 photo: Girard-Perregaux

フランソワの苦難はさらに続く。彼が来日した当時の日本では、1日を24時間に分割した西洋式の時法ではなく、日の出と日没を基準にして昼と夜をそれぞれ6等分して「一刻」とする“不定時法”が用いられていた。昼と夜、また季節によって一刻の長さが違ってくるため、フランソワが輸入した西洋時計は実用的な道具としては機能せず、珍重品の域を超えることはなかった。そんな逆境にも負けず、念願の日瑞修好通商条約が締結された1864年、フランソワはジラール・ペルゴの代理店としてF.ペルゴ&カンパニーを立ち上げたのだった。

開港した横浜を舞台にスイス時計の輸入も本格化していくなか、特にジラール・ペルゴの時計が日本人に受け入れられたのはフランソワの才覚からだ。日本人の好みに合わせた特別仕様を本国に依頼し、そのスタイルは他のブランドも倣ったほど。これを支えたのが、マニュファクチュールとして培ってきたジラール・ペルゴの技術と卓越したウォッチメイキングだったことはいうまでもない。いわば“日本限定”の先駆であり、この伝統が現代に受け継がれていることも感慨深い。

やがてフランソワの努力も報われる時がやってくる。1873年の定時法発布だ。明治維新後の激動の時代を迎え、加速度を上げて変わりゆく社会とともに時計は生活必需品になる。だがようやく事業が軌道に乗ったのもつかの間、フランソワは成功を目にすることはなかった。盗難や火事などの不幸が続き、その心労から脳卒中で倒れ、1877年に43歳の若さでこの世を去ったのだ。

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1877年の英字新聞にフランソワが載せた広告。ジラール・ペルゴの正規代理店であり、時計や宝石の修理調整ができることを明記している。 photo: 横浜開港資料館蔵
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1860年代半ばの横浜の地図には、スイス人が住んでいた一角が色分けされ、記された居住者にはフランソワの名も残されている。 photo: スイス連邦古文書館 ベルン、E 6 / vol.36, dossier 169

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スイスと日本との絆、そしてフランソワの志を現代に受け継ぐ

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フランソワの墓には、下部に刻まれたフランス語の「SES AMIS」の文字から、埋葬したのが友人たちであることがわかる。左横には頭部の欠けた円柱型の墓が並び、「エリザ」と記されている。近年の研究から、フランソワの娘であった可能性が高いと言われている。

日本にジラール・ペルゴをもたらしたフランソワの墓はいまも横浜の外国人墓地にあり、命日の12月18日には毎年多くの時計愛好家が花をたむける。この歴史を明らかにし、ジラール・ペルゴと日本の絆を広く一般に知らしめるために貢献したひとりが松山猛だ。

松山は、ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」や「イムジン河」、サディスティック・ミカ・バンドの代表曲「タイムマシンにおねがい」の作詞を手掛けたほか、アグネス・チャンや竹内まりやに詞を提供するなど音楽家としての活動とともに、雑誌『ポパイ』や『ブルータス』などの編集者としても活躍。1980年代からスイスでの時計取材を始めた数少ない日本人のひとりであり、日本の時計ジャーナリストの先駆けと言える存在だ。時計の歴史と文化を探求する松山がジラール・ペルゴとフランソワに興味を抱いたきっかけはなんだったのだろう。

「僕は1981年に初めてスイスに行って時計の世界に本格的に触れ、80年代末から世界的な時計見本市であるバーゼルフェアの取材を始めました。そこでジラール・ペルゴのルイジ・マカルーソ社長とも知り合い、親交を重ねていったのです」

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松山 猛(まつやま たけし)●1946年、京都市生まれ。作家、作詞家、編集者としてTVや雑誌など多くのメディアで活躍。時計ジャーナリストとして、長い経験と知識に加え、いまもスイス時計業界との強いネットワークを持つ。カメラ、茶、骨董、ファッションなど幅広い分野で造詣が深い。

松山はジラール・ペルゴへの知見を深めるなかで、同社が日本に初めて伝えられたスイス時計であり、それを伝来した創業一族のフランソワの墓が外国人墓地にあるらしいという情報を得る。当時東京から横浜に居を移していた松山も、時計と縁のある地元の埋もれた歴史に俄然、好奇心と興味が湧いた。

「世界における時計の歴史を調べると、それまでイギリスやフランスが中心だったのに対し、ヨーロッパの小国であるスイスが産業革命的に時計に注力し、国を代表するビジネスにしていく。その発展史を調べていくとなかなかダイナミックで、輸入時計の始まりが幕末の横浜を舞台に展開していたというのも面白くてね」

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フランソワの墓は、横浜外国人墓地のいちばん奥にある。初めてマカルーソと墓参に来た時には、雨上がりのぬかるみで滑り、白いパンツも泥だらけになったと笑う。それもいい思い出だ。

調べていくうち、史実の中の人物だったフランソワの人間像がリアルに浮かび上がってきたという。

「当時の日本は西洋の太陽暦とは違っていたし、慣れない異国での暮らしに加えて、参入する時計ブランドも増えてきて苦労も多かったのでしょうね。面白いのは、金の時計を売りたいんだけど、日本人は渋好みで銀時計ばかり欲しがるっていう愚痴を本国に手紙で送っているんですよ」

そう言って笑う松山だが、フランソワの人間味を知るにつれ、横浜に移り住んだ自分を重ね合わせたのではないだろうか。それを尋ねると「たまたまね。でもどこか彼に導かれるように、僕も横浜に来たのかもしれないね」

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横浜外国人墓地は、来航したペリー提督の部下の埋葬に始まり、国際親善の趣旨から1866年に外国人への無償貸与の方針が定められた。

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松山猛とルイジ・マカルーソ、ふたりの想いが生んだフランソワ・ペルゴ記念モデル

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松山が時計の虜になったきっかけは、1980年代初期、アメリカで手に入れた時計を修理に出した際、初めて見る内部の美しさに魅了されたことだという。

フランソワの功績に注目したもうひとりのキーパーソンが前述のルイジ・マカルーソだ。イタリア最大の時計代理店トラデマ・イタリアのCEOであった彼は、1992年にジラール・ペルゴのオーナーとなり、その舵を取る。機械式に注力し、クオーツ台頭から低迷していたブランドを立て直した中興の祖といっていいいだろう。自身は建築学を学び、レーシングドライバーというユニークなキャリアを持ち、趣味の世界でも深い造詣があった。同じ趣味人として松山も意気投合したのだろう。

「70年代にはラリーでチャンピオンを取り、建築家の視点やイタリア人らしい審美眼からメカニズムとデザインに精通していました。洗練されたスタイルや自社ムーブメントを手掛け、外からの影響を受けず、自分たちのつくりたいものをつくっていったところがさすがだなと思いましたね」

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時にさらされた墓碑には「フランソワ・ペルゴを追悼して。スイス国ニューシャテル州ル・ロックル市」と刻まれている。

そしてフランソワがいまも横浜に眠っていることをマカルーソに伝え、ぜひいつか訪ねてほしいと松山は話したのだった。

「2004年にマカルーソさんが横浜を訪れ、一緒に墓参しました。その後に横浜開港資料館でずいぶん長い時間を話したことを覚えています。神妙な感じで、自分のブランドが日本とこんなに深く関わっていたのかと驚いたのだと思います。そんな雰囲気が伝わりましたね。彼にとってフランソワは創業家であり、日本との絆を結んだ敬意とともにこれまでの空白を埋めたいという気持ちもあったのでしょう」

そしてフランソワを想うふたりの情熱はひとつの時計へと昇華する。

「さらにいまでも忘れられないのが、2006年にイタリアのトリノでマカルーソさんと再会した時のこと。ディナーの席で彼がこれをどうぞといって1本の時計を差し出したのです。それは、フランソワ・ペルゴにトリビュートしたワールドタイマーのWW.TCで、本来はTOKYOと表示される都市名が赤くYOKOHAMAになっていました。しかもシリアルナンバーはなんと0だったのです」

これは「宝モノ」と大切にする腕時計は、松山とマカルーソの友情の証しであると同時に、時空を超えて横浜で孤軍奮闘したフランソワを結んだ。そしてこの発表を兼ねた墓参イベントでは、ジラール・ペルゴを取り扱う地元元町の時計専門店「コモンタイム」が有志を募り、荒れていた墓を清掃整備し、以降12月の命日には同店が主催し、20年近く墓参が続けられている。その中心的存在が松山であることはいうまでもない。かくして日本とスイス時計、そしてジラール・ペルゴとの時は再び刻み始めたのだ。

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いまも大切に使っているフランソワのトリビュートモデル。YOKOHAMAの赤い文字に合わせてストラップも赤にしている。
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ケースバックには、フランソワが来航した年号やシリアルナンバー0に加え、マカルーソの愛称ジーノのサインを刻む。トリビュートモデル発表当時は、フランソワの来日は1861年とされていたが、近年の研究から1860年の12月には到着していたことがわかっている。

こうして振り返ってみると、ジラール・ペルゴを通して日本に時計の素晴らしさを伝えたフランソワと80年代初頭から機械式時計の魅力を日本に広めた松山の気概は共鳴するように感じる。その後世に伝えたい思いとはなんだろうか。

「機械式時計は人間が生んだ技術のなかでもトップクラスだと思うんですよ。それを70年代末から80年代に差し掛かる頃、人類はやすやすと捨てそうになった。この技術がなくなったらまずいなと僕は思ったんだけど、それはマカルーソさんも同じ思いだったのでしょう。それがいまではここまで普及した。でも一方で、時計に込められた物語を愛してくれる人をもっと増やさないとダメかなっていう気がします。投資の対象や一過性の流行ではなく。ジラール・ペルゴにしてもフランソワやマカルーソさんといった人たちが関わってきた、こんな素晴らしいものなんだから」

そうした人物とこれまで時計を一緒に楽しませてもらって本当によかった、と松山は嬉しそうに語った。

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横浜外国人墓地近くの「港の見える丘公園」からは横浜ベイブリッジを望み、周辺の「エリスマン邸」は建築家アントニン・レーモンドの設計で大正時代に建てられた。向かいにある「横浜山手聖公会」はJ.H.モーガンが設計し、歴史的建造物に指定されている。外国人墓地周辺の山手エリアにはいまもフランソワが暮らしていた時代の面影が残り、当時を回想しながら散策するのもいいだろう。

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横浜の港を思わせる、ターコイズブルーの日本限定モデルが登場

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ロレアート ターコイズブルー/自動巻き、SSケース&ブレスレット、ケース径42㎜、パワーリザーブ約54時間、100m防水。¥2,772,000

日本とも深い縁を持つジラール・ペルゴは、日本限定「ロレアート ターコイズブルー」を発表した。八角形とラウンドを組み合わせたケースとブレスレット一体型のデザインで人気の「ロレアート」に、ターコイズブルーのエナメル文字盤を採用する。この美しいエナメルダイヤルは、ジラール・ペルゴを傘下にもつソーウインドの一員であり、ル・ロックルに拠点を置く世界最高峰のエナメル文字盤専門工房であるドンツェ・カドランが手掛けたもの。

シルバー製の文字盤プレートにあらかじめ放射状に広がるギョーシェ彫りのモチーフを施し、表面を高温焼成によるグラン・フー エナメルで仕上げる。鮮やかなエナメルでギョーシェ彫りのモチーフがより際立つ、ブランドでも限られたコレクションにしか採用されないエクスクルーシブな装飾技法だ。

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フランケ・エナメルにより装飾された鮮やかなターコイズブルーは、ラグジュアリーな清涼感を纏う。カレンダーのディスクも同色で統一することで美しい調和を崩さない。八角形と円形を組み合わせた建築的な造形と、放射状に施されたギョーシェ装飾も好相性。
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ケースバックには日本限定30本の刻印がなされている。日本との強い結びつきを象徴する希少な1本だ。

搭載する自社ムーブメント「Cal.GP01800-」はピンクゴールド製ローターを搭載し、厚さ3.97㎜の薄さを誇る。シースルーバックからはペルラージュ装飾の地板やコートドジュネーブ装飾のブリッジなど美しい装飾が楽しめる。

この日本限定モデルがいち早く入荷するのが「ジラール・ペルゴ ブティック 大阪」だ。いまや関西随一の高級ウォッチタウンとなった心斎橋に、日本初のジラール・ペルゴのブティックとして昨春オープン。店内にはブティック限定や新作をはじめ、希少なモデルが並び、時計ばかりでなく、ブランドや日本との強い絆の歴史について紹介されているのも興味深い。ぜひ足を運んでみてほしい。

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2階にはカウンター席とソファ席を配置する。壁面にはロレアートの八角形とともに、第2世代から現在の第4世代の年号を記す。

 

 

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柴田 充(時計ジャーナリスト)


1962年、東京都生まれ。自動車メーカー広告制作会社でコピーライターを経て、フリーランスに。時計、ファッション、クルマ、デザインなどのジャンルを中心に、現在は広告制作や編集ほか、時計専門誌やメンズライフスタイル誌、デジタルマガジンなどで執筆中。

 

ジラール・ペルゴ / ソーウインド ジャパン

TEL:03-5211-1791
www.girard-perregaux.com

 

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ペンハリガン「ポートレート」10周年。物語を纏うフレグランスコレクションの魅力を紐解く Vol.1

  • 文:石川博也
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イギリスのフレグランスブランド、ペンハリガンから、2016年に登場したフレグランスコレクションが「ポートレート」だ。誕生から10周年を迎えたいま、その魅力を全3回にわたって紐解いてみたい。

ペンハリガン「ポートレート」コレクション 
ペンハリガン「ポートレート」コレクション。 

時は1870年。伝統や遺産、帝国、肖像画がもてはやされた時代に、ウィリアム・ペンハリガンによって創設された英国のフレグランスハウスが、ペンハリガンだ。その歩みは、ロンドンで最も有名な高級テーラーが集まるエリアのすぐ近くに構えた理髪店から始まった。当時は身嗜みを整えることは非常に重要であり、イギリス紳士に欠かせない嗜みとされていたのだ。その後、「英国王室御用達」の称号を与えられるほど、トータルグルーマーとしての実績と数々の素晴らしい香りは、高い評価を受けている。

このペンハリガンから、2016年に登場したフレグランスコレクションが「ポートレート」だ。保守的でありながら、ユーモアにあふれ、挑発的なイギリス人のスピリットにオマージュを捧げるコレクションとなっている。

ユニークなのが、日本で展開している11種類のコレクションは、それぞれが物語の登場人物をイメージして調香されていることだ。誕生から10周年を迎えたいま、物語やおもな登場人物を改めて紹介する。

物語の舞台は、ゆるやかな丘が広がるイギリスの田園地帯に立つ大邸宅。主人のジョージ卿とその家族が暮らすこの場所には、目に見えないなにかが隠されている。イギリスの上流階級において大切にしている礼儀作法の裏側には、どんな真実が隠されているのだろうか?

それぞれの香りから、その人物像やさまざまな物語を想像することは、思いのほか楽しい。

物語の登場人物に秘められた真実とは? 

ザ トラジェディ オブ ロード ジョージ オードパルファム

「ザ トラジェディ オブ ロード ジョージ オードパルファム」/75mL ¥48,950

たとえば、「ザ トラジェディ オブ ロード ジョージ オードパルファム」。このフレグランスの舞台は、ビジネスランチがウィスキーに浸る夜へと変貌を遂げる場所、メイフェア。

この街によく馴染んでいるジョージ卿は、ため息と、物語と、決して空になることのないグラスを手に、サロンを渡り歩く。自らの秘密は守られていると確信しているが、実際はそうではない。彼の妻、ブランシュ夫人はいつだってすべてを知っている。彼の通った跡には、ラム、シェービングソープ、そしてトンカビーンの香りがたゆたう。豊潤で洗練された、そして、ほんの少しの疑念を孕んだ香りだ。

ザ リベンジ オブ レディ ブランシュ オードパルファム
「ザ リベンジ オブ レディ ブランシュ オードパルファム」/75mL ¥48,950

「ザ リベンジ オブ レディ ブランシュ オードパルファム」の舞台は、ケンジントン。非の打ちどころのない庭園と評判。この両方をベルベットのような手つきで固く守っているのが、ブランシュ夫人だ。

ケンジントンは彼女にふさわしい場所である。洗練され、落ち着き払い、そのゲストリストと同じくらい入念に繕われた「表の顔」が並んでいる。もちろん、彼女は不在にしていることも多い。高級ホテルのほうが、より確かな「秘密」を守ってくれるからだ。彼女の香りは、まさに彼女の本質を映し出す。スイセン、パウダリーなオリス、そしてヒヤシンスによる、陶酔感のあるグリーンフローラルの香り。抗いがたく、そして、危険な香りだ。

ザ コヴェテッド デュシェス ローズ オードパルファム「 ザ コヴェテッド デュシェス ローズ オードパルファム」/75mL ¥48,950

「ザ コヴェテッド デュシェス ローズ オードパルファム」は、ジョージ卿とブランシュ夫人の愛娘、ローズ公爵夫人をイメージした香りだ。パステルカラーを纏い、囁かれる招待状を携えた彼女は、ガーデンランチとギャラリーのオープニングの間を軽やかに泳いでゆく。その舞台はプリムローズ・ヒル。

彼女は魅力の塊だと言う者もいる。だが、真実を知る者は違う。夫が(あらゆる意味で)長く不在にしている間に、彼女は自らの手で人生を築く術を学んだ。その外聞を、非の打ち所なく保ちながら。それは、秘密を抱えた一輪のバラ。そして、悪戯の味を知るバラ。彼女の香りは、マンダリン、ソフトウッド、そしてムスクとともに羽ばたく。ウィンクを添えた、無垢な誘惑なのだ。

まずは核となる3名の人物を紹介した。いずれも表の顔と裏の顔。ひとすじ縄ではいかない、想像をかきたてるキャラクター。そんな人物像を体現するさまざまな香りを試してみたいならば、10周年を記念して発売する「ポートレート セント ライブラリー」もおすすめだ。全8種類がセットになった、いわば香りの図書館で、気分によって香りを変えながら、さまざまなキャラクターになりきってみるのもいいだろう。

「セント ライブラリー」
「ポートレート セント ライブラリー/2ml×8種 ¥10,450(数量限定発売)

「ポートレート セント ライブラリー」の全ラインナップを紹介すると、「ザ トラジェディ オブ ロード ジョージ オードパルファム」、「ザ リベンジ オブ レディ ブランシュ オードパルファム」、「 ザ コヴェテッド デュシェス ローズ オードパルファム」、「ザ ビーウィッチング ヤスミン オードパルファム(現在は日本での取り扱いなし)」、「ザ ワールド アコーディング トゥー アーサー オードパルファム」、「チェンジング コンスタンス オードパルファム」、「ザ ブレイジング ミスター サム オードパルファム」、「テリブル テディ オードパルファム」の8種類。単に香りを纏うだけでなく、さまざまなキャラクターになりきる感覚で物語の世界も楽しめる。

そんな奥行きのあるフレグランスコレクションが、ペンハリガンのポートレートなのである。

今回紹介しきれなかったキャラクターは、次回のVol.2で明らかになる。どのような表の顔、裏の顔を秘めているのか? 今から楽しみにしていてほしい。

 

ブルーベル・ジャパン 香水・化粧品ブランド・マネジメント事業部

TEL:0120-005-130

www.latelierdesparfums.jp